〈リビア以後〉の「保護する責任」にNO!と言う責任~「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」をめぐって
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「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」(ICNK)なる団体が9月に結成された。そして先週(11月25日)には、ICNKとしての国会ロビーイング活動の第一弾として、ICNK主催の「院内集会」が開催された。
拉致と核、「人権問題」を含めた、いわゆる「北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)問題」と一般に呼ばれているものの問題の在り処とその解決の方向性に関する私見については、4年前の2007年夏に出版された『制裁論を超えて-朝鮮半島と日本の〈平和〉を紡ぐ-』にまとめているので、関心のある人はこの書を参照して頂きたい。
「北朝鮮問題」に関する私の基本的考え方は、4年前と何ら変わっていない。なぜなら、『制裁論を超えて』の中でも指摘した、「対話なき圧力」、国際的対北朝鮮包囲網の形成=制裁の強化を「北朝鮮問題」の解決をはかる「外交」とはき違えている日本政府・外務省の〈政策なき力の政治〉、しかも「他人の褌で相撲を取る」ような米国への全面依存のそれ、が当時も今も何も変わっていないからだ。議論をさらに深めようにも、私には外務省の〈トラの威を借り、他人の褌で相撲を取る、政策なき力の政治〉に関するこの4年間の経緯をなぞるようなことくらいしかできない。
しかし、状況的に言えば、この4年間で変わったことが二つある。それは、
①国連による「保護する責任」の「地球規範」化(2005年)に基づき、武力によるその「実行」がコートジボワールとリビアにおいて今年行われたこと、そして、
②「保護する責任」を「市民社会」レベルから推進し、「人道に対する罪」や「戦争犯罪」国家と国連安保理が規定する国家(国連総会による決議を経たそれでないことに注意)に対する軍事・非軍事両面にわたる制裁の強化と実行を各国政府にロビーイングする勢力が国際的に台頭するようになったこと、この二つである。
②の日本的現象、それが「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」(ICNK)なのである。
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私が「「保護する責任」にNO!と言う責任」のスケッチを描き始めた去年の10月末段階では、「保護する責任」(R2P)の実行としてのリビアに対する武力攻撃→反乱軍への軍事支援を通じた政権転覆が、まさかこんなに早くやってくるとは予想だにしていなかった。
米英仏=安保理常任理事国の軍隊にその他のNATO軍とカナダ軍が加わり実行された、R2Pの現実政治(パワー・ポリティクス)への適用。これがもたらした事態をどう総括するか。このことが今、国際政治・国際法の海外の研究者の「ホット・トピック」になっている。 (一例だけ挙げると、ケンブリッジ大の「Ethics & International Affairs」の最新号のテーマも、まさにリビアに対するR2Pの適用問題に関してである)
国際人権・人道・開発NGOとしてR2Pを推進する勢力が「リビア(とコートジボワール)以後の問い」として設定しているのは、以下の諸点である。
1,How decisive was the Libyan crisis in the evolution of R2P? →誰がカダフィ政権を育て、武器を与え、長年におよぶその強権的人権侵害を黙過してきたのか? 「リビアの危機」に責任を負うのは、カダフィ政権だけだったのか? その意味では、R2P連合軍と反乱軍による戦争、殺戮と人権侵害の犠牲者から見れば、リビアはR2Pの実験場とされただけではなかったか?
2,To what extent did values or interests dictate the response to Libya? →誰の「価値観と利害」のことか? リビア民衆の「価値観と利害」でなかったことだけは明白である。
3,Was there an alternative to resolution 1973? →この問いは、上の1の問いに戻る。
4,Does the resort to the use of force mean a return to “humanitarian intervention?” →「保護する責任」を「第三の柱」=武力行使を切り離し、「人道的介入を目的としたものではなく予防のためにある」という、これまでの推進派による議論の無効性がリビアとコートジボワールに対する武力攻撃の現実性によって明らかになった、と見るべきである。
5,Did NATO overstep their Protection of Civilians mandate in Libya?
→上の4と下の6に同じ。
6,What were the main challenges facing the military strategy to protect civilians in Libya? →核軍事大国(リビアのケースにおいては米英仏)による、徹底的で集中的な空爆、これと連動したその後の地上戦の展開(=「軍事戦略」の実態)によって一般市民が「保護」できるという考え方自体が、根本的に誤っている。
7,What factors explain why the Security Council took action on Libya but not Syria? →いわゆる、「保護する責任」適用のターゲット国選定における恣意性と二重基準の問題。現実政治においてはこの重大問題を免れることはできない。
8,What do Côte d’Ivoire and Libya tell us about the relationship between R2P and regime change? →国家に対する武力攻撃は、その国家の政権転覆とその後の国内「紛争」(内戦的事態)の長期化をもたらさずにはいない。アフガニスタンとイラクにおいて、私たちは何を学んだのか?
9,What more could have been done to prevent atrocities in Côte d’Ivoire? →武力攻撃を回避するために安保理常任国が、国連事務局がやれたであろうとことは無限に存在する。
10,What do recent experiences in Libya and Côte d’Ivoire suggest about the R2P responsibilities of regional organizations? →武力攻撃を最後まで避けるべき安保理常任理事国および安保理構成国の責任を問わず、地域機構の責任を論じるのは本末転倒である。
11,Has implementation in Côte d’Ivoire and Libya undermined the credibility of R2P? →これまでR2Pに、いったいどのような国際的credibility(信頼性)が存在したというのか? 国際的に見ても、R2Pは「総論」=一般的理念に賛成したとしても、その現実的適用の在り方についての一致は見られなかった。政治的・国際法的概念としてのR2Pは、きわめて論争的な「地球規範」であり続けている。
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アムネスティ・インターナショナル(日本)よ、どこへゆく
以下、上の諸点に対する私見を述べながら、R2PおよびICNKの問題点を指摘しておきたい。先日法政で行ったシンポジウムには、アムネスティ・インターナショナル(日本)の人も参加していただいたが、以下に書く内容をアムネスティに対する個人的メ―セージとして贈りたい。私自身の友人・知人の中にも会員になっている人々が存在するアムネスティ内部で、今後R2PおよびICNKについて議論を深める素材の一つになれば、と考えている。
① 〈リビア・コートジボワール以後〉におけるR2Pがはらむ根源的問題
『脱「国際協力」 ~開発と平和構築を超えて~』に収録された拙論、「第六章 「保護する責任」にNO!という責任――21世紀の新世界秩序と国際人権・開発NGOの役割の再考」において、私がR2Pをめぐる議論の最大の論点としたのは、R2Pが「問題設定の在り方」と「問題の解決に向けた課題設定の在り方」の両方において根本的に誤っている、ということである。
詳しくは拙論を参照して頂くしかないが、一言で言えば、「保護する責任の履行」と題された現国連事務総長名による「報告書」の中に、「ジェノサイド」「人道に対する罪」「戦争犯罪」「民族浄化」の解決策を見出すことはできない、ということである。「原発の安全神話」から私たちが根源的に目覚めなければ日本における脱原発などありえないように、〈「保護する責任」が一般市民を守るという神話〉から人権をかたるNGOが根源的に目覚めない限り、その組織や個人は「人権」や「人道」を語りながら他国や地域に永遠に介入し続け、自国の「価値観」と「利害」を追求し続ける大国の「トロイの木馬」となるだけだ、と私自身は考えている。
これまでR2Pを推進してきたヒューマン・ライツ・ウォッチを含む国際人権・開発NGOは、この真理を自ら掴み、R2Pの抜本的再検証を、国連事務局・安保理、各国政府に「提言」すべきである。これらの国際NGOには、今後の国連および安保理改革の重要なアジェンダの一つとして、国連総会における「保護する責任の履行」の再討議に向けたキャンペーン活動を展開する責任がある、と思うのである。
その理由については日を改めて、上に述べた諸点をさらに敷衍するものとして、問題提起することにしたい。
最後に。この問題を考え、議論を広げる重要性を読者に理解して頂くために、9月7日に行われ、ヒューマン・ライツ・ウォッチが主催した「北朝鮮人権国際会議」にボランティアスタッフとして参加した、都内のとある国立大学の女子学生の感想を引いておこう(個人情報保護の観点から、大学名・実名等は伏せておきたい)。
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このシンポジウムでは、脱北された方々や拉致被害者家族、NGOや政府関係者が結集した。
私は北朝鮮で行われている人権侵害について恥ずかしいほど無知であったため、証言の数々に絶句した。
北朝鮮の独裁政権は、国民の大多数を収容所に送り、人権を剥奪することで成り立っていた。
この狂気の独裁政権を倒し、民主化を推し進めるべきというのが、会議の概括的意見に挙げられた。
今回参加して個人的に分かったことを3つ整理しておく。
①拉致問題は、とくに強制収容所における人権問題であるということ。
北朝鮮の強制収容所で行われていることは、フランクル著作の『夜と霧』に描かれたアウシュビッツよりも残虐であり、1万人規模の収容所が狭い国土に大量にひしめいているという・・・。
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「狂気の独裁政権を倒し、民主化を推し進めるべき」というのが、「会議の概括的意見」であったらしい。
女子学生は、「わかったこと」の三点目として、
「やっぱり法律の勉強がんばらなければいけないということ。国際弁護士の方やHRW日本局長とお話しする機会があり、食べれる仕事もやりながら自由にボランティアやNGOに携わる生き方がとても素敵だと思った。なにより、専門分野はしっかり持つことがたいせつであると実感した」と語っている。
読書家であり、おそらくはとても優秀であるに違いないこの学生が、北朝鮮の「人権侵害」を「フランクル著作の『夜と霧』に描かれたアウシュビッツよりも残虐」 「1万人規模の収容所が狭い国土に大量にひしめいている」と語るパネリストたちのスピーチを批判的に咀嚼することなく鵜呑みにするという、その事実の中に、「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」が流布する「価値観と利害」の危うさが潜んでいるのではないだろうか?
非常に重たい問題ではあるのだが、新事務局体制に移行したアムネスティ・インターナショナル(日本)の地域グループの会員の皆さんを始め、読者も事実を事実として客観的かつ理性的に判断するなら、きっとそう考えるに違いない、と私は確信している。
⇒「自衛隊の「国際平和協力」と「保護する責任(R2P)」」
⇒「〈リビア以後〉の「保護する責任」にNO!と言う責任(2)---「人権と人道の政治性」について」につづく
⇒「「保護する責任」(R2P)に関するヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)への質問状と回答」
「批評する工房のパレット」内の関連ページ
⇒「リビアへの武力攻撃開始」(3/20)
このページに、ヒューマン・ライツ・ウォッチ等の「保護する責任」を推進する国際NGOの問題点に関する私見を書いたページへのリンクがさらにあるので、関心のある人は参照して頂きたい。
時代は、「保護する責任」をめぐってとんでもない方向へと、さらに向かいそうだ。「こんなはずじゃ、なかった」のではないのか? なぜ、こんなはずじゃなかったことが、こんなことになってしまうのか? 「文科系」ばかりでなく、「理科系」の人たちも、ぜひ一緒に考えてほしい。