2011年1月18日火曜日

こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問い詰める・・・

こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問い詰める・・・


 The Blue Heartsの「青空」。『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の「テーマソング」である。歌詞の一節を、「まえがき」の後、本文の冒頭に引用させていただいた。もちろん、著作権料を払ってのことだ。自分の脳の小さなキャパシティではとても処理できない巨大なテーマを追いながら、ときおり激しい頭痛に襲われたときに、この唄を聴くことで精神の均衡を保っていたことを思い出す。

 「こんなはずじゃなかった」ことが、この世界には多すぎる。
 拙著を批評してくださった天木直人氏は、これを一昨年の政権交代に引き付けて理解されたようだ。それも確かにある。確かにあるが、しかし私は「1945年8月15日以後」という、もっと広いスパンでこれを使った。
 私の「戦後」認識は、60年前の1951年9月8日を節目としている。日本が「個別的または集団的自衛の権利」を保有することを認めたサンフランシスコ「平和」条約と旧安保条約を同時に署名したこの日を、憲法九条が死文化した日として理解しているからだ。

 なぜ、憲法九条が1951年9月8日に死文化したか。その憲法解釈上の根拠については拙著を読んでいただくしかない。しかしこの認識にいったん立つなら、「憲法九条を守れ/憲法九条を世界に」という「護憲」派の思想と論理のみならず、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈を変更せよ/憲法九条を改廃えよ」と主張してきた「改憲」派の思想と論理のいずれとも与(くみ)し得ないことは明白になる。
 と同時に、「戦後・以後」を20年前の湾岸戦争・以後とするような加藤典洋流の「敗戦後論」、その歴史認識とも袂を分かつことになる。当然のなりゆきとして、日本の言論空間においてそのような「戦後」認識はoutcastになり、私はoutcasteになる。本が売れるはずもない。自分がoutcast/outcasteであることを、どこまで引き受けながらモノが言えるか? 前田朗氏が言う「非国民」になる/ならないというより、これが私個人の人生のテーマである。

 「非国民」と言えば、前田氏と並ぶ「非国民」(?)たる鹿児島大学の木村朗さんから、遅ればせの献本への礼状と年賀の挨拶を兼ねたメールを先週いただいた。木村さんにも「共感をもって読ませていただきました。新しい知見をいただき、感謝しています」と言っていただいたことに大変感謝し、恐縮もしているが、私より年配の木村さんは、次のようなことを書かれていた。

 「今の気持ちは、「暗転する時代状況のなかで自分を見失わずに、戦争犯罪と人権侵害を許さないために、いま出来ること、やるべきことを一つずつやっていくつもりである」ということに尽きます」・・・。私も自分を見失わないようにしたい。
 

 2011年の「世界の学生運動、日本の大学の今」
 因みに、『大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために』の「テーマソング」は加川良の「教訓Ⅰ」だった。

 命はひとつ人生は1回 だから 命を捨てないようにね
 あわてると ついフラフラと「御国のためなの」と言われるとね
 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい

 7年前の国(公)立大学の法人化、その後の私大の「制度改革」が、「御国のためなの」と言われながら行われ、「壊れる大学」を続出させてきたからだが、今年に入っても「世界の学生運動」のうねりは衰えることがなさそうだ。 (今日(1月18日)、ドイツのフライブルグでは300人の学生が学内集会を開き、その内40人が学生センターを占拠した、と伝えられている。)

 世界各地でこれから予定されている運動を紹介している上のサイト。その右上のビデオの中にも出てくるピンクフロイドのAnother Brick in the Wall. 『学校のない社会への招待---〈教育〉という〈制度〉から自由になるために』のテーマソングである。

We don't need no education  教育なんていらない
We dont need no thought control  思想統制なんていらない
No dark sarcasm in the classroom  気分が落ち込む皮肉を授業で聞かされるのはもうまっぴらだ
Teachers leave them kids alone  教師どもよ、子どもたちを解放せよ
Hey! Teachers! Leave them kids alone!  そこの教師どもよ、子どもたちを解放せよ
All in all it's just another brick in the wall.  何もかも
All in all you're just another brick in the wall. 誰も彼も単なる〈壁〉の一塊に過ぎない

 1979年にリリースされたThe Wallでは、Another Brick in the WallはPartⅠからⅢまである。そのⅢには、こんな詩がある。
I don't need no arms around me 武器なんていらない
And I dont need no drugs to calm me. 気を静める/正気を保つために(麻)薬なんていらない
 教育と武器と(麻)薬で〈壁〉はつくられる。教育・軍事・医療-薬剤の三つの産業が世界と人間を支配し、〈壁〉をつくる。世界は教育、兵器、(麻)薬に溢れ、人類は教育、兵器、薬漬け人間にされる。
 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい・・・。

 そのピンクフロイドのギタリスト、デビッド・ギルモアの息子がイギリスの戦没者記念碑の壁によじ登り、国旗を引きちぎって逮捕されたのは先月のことだったが、それにしても気になるのは、相変わらず日本の大学人や学生たちがこの世界的な教育‐大学闘争のうねりのネットワークに参加していないのはなぜか、ということだ。学生や大学人自身によって、情報がもっと伝えられるべきだと思う。

 壊れゆく日本の大学事情の中で、目にとまった記事がある。長周新聞の「独法化で崩壊する下関市大」という昨年11月の記事だ。この新聞の「党派性」が何であれ、下関市大の現状に興味が引かれた。
 記事の執筆者は言う。

①「下関市立大学の場合、市立だからといって下関市から運営交付金をもらっているわけではなかった。2000人に及ぶ学生の授業料・受験料で大学運営のすべてをまかなうという、全国的にも異例な経営事情が以前から問題になっていた。下関に公立大学があり、2000人の学生が学んでいることに対して、下関市には国から毎年約五億円の地方交付税交付金が配分される。30年間で換算すれば150億円にもなる。ところがそのお金は大学運営のために回った試しがなく、市の箱物事業などに消えていった。むしろ2000万円の黒字(授業料・受験料)が出た年には市財源に巻き上げられたことすらあった」・・・。

②「この数年間で下関市立大学への志願者は激減し、国公立で最低水準にまで転落した。2010年度の入試実施状況を見ると、国際商学科でとくに激しく、志願者は141人で前年度(442人)の3分の1まで減った。そのうち実際の受験者は126人。定員は60人だが、80~90人程度を合格させることから実質倍率は1・5を切っており、ほぼ全入に近い。
 その要因として語られるのが学費の大幅な値上げだった。来年度の初年度納入分は91万8000円。授業料は年年値上げされ来年度は53万5800円で、4年前と比べて6万円以上もアップする。全国平均よりも約2万5000円程度安かった魅力が薄れたことで「庶民の大学」とは縁遠い存在と映り、優秀な苦学生たちが敬遠し始めたと指摘されている。

 利潤を得るためにてっとり早く学費を上げた結果、学生が集まらない。そこで受験者の数を増やすために基礎学力がなくても入学できるよう、入試では推薦枠を拡大して面接だけで通す「固定客」を確保したり、受験生の苦手な科目は選択しなくても合格できるような制度を取り入れてきた。
 このため、英語や数学が中学生程度の学力がなくても、また高校で日本史や世界史を学んでこなくても入学でき、大学の語学、経営学や東アジア史の授業をきょとんとした表情で受ける学生が多く存在するようになっているという。「学生がまったく本を読まない」「漢字が読めない」「琵琶湖の位置を岡山県とこたえる学生がいた」など学力の問題が危惧されてきた。低学力の学生の補習を制度として確立することが真剣に論じられ、通常の試験でも合格できるように、ノートなどの「持ち込み方式」をとり入れるようになった」・・・。

③「独法化と同時に報酬1600万円の「理事長」ポストが新設され、そこに江島前市長のブレーンだった松藤水道局長が退職後スライドして天下り。さらに植田市大事務局長が退職して事務局長(兼理事)にも就いた。かれらが学長をしのぐ権力者となって采配を振るうようになったことが、大学の空気を様変わりさせた。教授会との鋭い対立の激化となって、処分や反駁、訴訟沙汰の応酬が始まった。

「理事長」と「学長」が分離され、学長は銀行関係者など外部も交えた理事会の一理事となった。国公立大学において大学トップの「理事長」と「学長」は同一人物が兼務するのがほとんどで、わざわざ1600万円を与えて「理事長」を据える大学も稀である。理事長になると1年ごとに100万円の退職金が加算されていく仕組みにもなった。

 独法化直前、学長選挙で教授会が投票で選出した候補者が理事によって拒否されたのを皮切りに、安倍(元首相)代理の江島市政側すなわち政治が手を突っ込むのとセットで、つぎつぎと教授会の権限がなくなる過程をたどった。経営審議会と教育研究審議会という2つの組織でことが決まり、トップダウン方式で押しつけられるようになったのも特徴だ。現場での予算配分を一手に請け負う事務局長の権限が絶大となり、教授会は事務局が提起する方針を単に受諾する機関に成り下がったこと、反発する教授への処罰や事務職員の降格、丸坊主にさせたりといったことが日常茶飯事でまるで田舎ヤクザが人を脅すような手法が持ち込まれたと指摘されている」・・・。

 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい・・・。 
 下関市の行政が、公的サーヴィスを次から次に切り捨ててきた行政、市長以下の職員の給与アップと「箱物」‐公共事業を第一に考える「市民不在」の代物であることは、以前から指摘されてきたことであるし、私自身も知っていた。そうした地方自治体主体の「公立大学」経営が抱える問題とその矛盾を下関市大が最も集約的に表現している、ということだろう。
 ではその他の「公立大学」は今どうなっていて、教職員や学生たちはいったい何をしているのだろう。

 世界の国々は「超」がつく緊縮財政の中、公教育と大学教育の「受益者負担」を高騰させ、これに対して「世界の学生運動」は怒っている。ところが、「超」がつく「就職氷河期」の中で、日本の受験生や学生たちは、怒ることをせず「内向」し、自己防衛に走っている。就職先が決まらない学生たちは、ある者たちは「保護者」の金を目当てに、またある者たちは借金をしてまで専門学校に通い、来年のセカンド・チャンスに未来を託そうとしている。また、受験生たちは文系よりは理系に、首都圏や京阪神よりは地元に、資格取得と就職を第一に考え大学を選択する傾向を強めているという。そしてそういう学生や受験生たちを、大学と行政が一体となり「ケア」する態勢が構築されるようになっているという。

 けれども、そういう学生や受験生、「保護者」に納税者が決して自問しようとしないのは、「そこまでして大学に行くことに本当に価値があるのかどうか」という問いである。いや、多くの人々は実は自問し始めているにもかかわらず、エリート主義の牙城であるこの国のメディアがそれを取りあげず、「大学ボッタクリシステム」を温存させる役割を担っているだけなのかもしれないが、いずれにせよ確実に言えることは、日本の学生・受験生のサバイバルをかけた営みが既存の教育・大学制度の在り方を問うものには、いまだなっていないことである。

 『大学を解体せよ』の「知識社会の教育社会学」の中で、私は「教育の社会的資本の過剰」を論じているが、階層化された社会的資格を取得し、それをもって就職するために大学なんていう制度はいらないのだ。人間が自分の人生の進路をじっくり考え、そのために準備することができる「モラトリアム」の時代を人生の間に数回、数年単位で持たねばならないと私は考えているが、その「場」が今の「大学」「大学院」「専門学校」であらねばならない必然性は何もない。大学をはじめとする教育産業という〈壁〉こそが、私たちを生き急ぐ、病んだ動物にしているのである。 


 で、改造菅内閣は「普天間問題」をどうするのか?
 人気が凋落し、倒壊寸前の政府にとって「最良」の政策は、「何もしない」という最悪の選択である。時間を潰し、問題を先送りしている間に、ある政策をめぐる「民意」の関心が薄れたり、意見が変わるのを待つ、という「戦略」である。
 菅内閣は、すでに「普天間問題」を当面(最長3年程度?)棚上げにする合意を米国と交わし、3月の日米首脳会談における「日米同盟の深化」のための日米共同宣言の内容をめぐる調整に入っている。その一方で、日米両政府は、在沖米軍基地の新たな「負担軽減策」として、嘉手納基地のF15戦闘機訓練の県外移転先を、グアムまで含めることで基本合意した。

 これに対し、「パッケージ論 実効性のない空論やめよ」と題された1月16日付けの琉球新報の論説は、とてもまっとうな事を述べている。曰く、

①「普天間飛行場を県内移設しなければグアムへの訓練移転はない、という論法は典型的なアメとムチではないか」
②「これまで日米合意は(1)普天間飛行場の移設(2)海兵隊のグアム移転(3)嘉手納より南の基地返還―がパッケージと説明されてきた。F15訓練のグアム移転をその対象に追加することは、ゲームのルールを変えることに等しい。一方の当事者である日本政府は、ルール変更に異議を挟む場面ではないか」
③「米国の言いなりになってゲームを続けるのなら、最初から勝負はついているようなものだ。そもそもグアムへのF15訓練移転が負担軽減につながるというのは、現状を見れば空論にすぎない」
④「県や名護市が反対する名護市辺野古崎への移設は現実的ではない。海兵隊の「抑止力」と同様に、パッケージ論は破綻している。無効にすべき代物だ。
⑤「非現実的な日米合意を盾に、県内移設を押し付ける民主党政権は滑稽(こっけい)ですらある。日米両政府こそ現実を直視すべきだ」。

 「まったく、その通り」と言うほかない。
 また、沖縄タイムスの15日付の「日米合意推進を懸念 名護市長 方針変更望めず」という記事では、稲嶺進名護市長が、改造内閣において内閣官房長官と沖縄担当相が兼務されることなどについて、「首相が日米合意を踏襲すると言っているなかでは方針は変わらないし、表だけ沖縄を大切にすると言っても中身が変わらなければ前には進まない」と述べたことが報じられている。

 「日米合意の見直し」が「世論」の多数派の意思であるというのに、「普天間問題」解決のなし崩し的な引き延ばしと、沖縄との合意なき「パッケージ」が米国主導で行われていることに対し、「本土」のジャーナリズムはこれらを正面から取り上げず、沈黙を決め込んでいる。「本土」の私たちが、「無情報」という情報操作によってまた騙されてしまうことがあったとしても、沖縄の人々は二度とそうなることはないだろう。

 朝日新聞が行った先月の世論調査。全国3000人の有権者を対象に4、5日に行われ、回答率は67%だったという。結果は以下のようなものだった。
・昨年5月の日米合意について。
 「見直して米国と再交渉する」が59%、「そのまま進める」は30%。
・支持政党別の結果。
 民主支持層の61%、無党派層の62%が「見直し」、自民支持層では「見直し」が47%だったが、「そのまま進める」の41%を上回った。
・「日米合意を見直す」と答えた人への「どうしたらよいと思うか」という質問。三つの選択肢から選らばれた。
 「国外に移設する」が51%、「沖縄県以外の国内」が32%、「沖縄県内の別の場所」が12%。
・沖縄に米軍の基地や施設が集中している現状について。
 「おかしい」48%、「やむを得ない」45%。
・「おかしい」という人のなかでは、日米合意を「見直して米国と再交渉する」と答えた人が76%、「やむを得ない」という人のなかでも、「そのまま進める」と「見直し」がそれぞれ45%と46%。
・沖縄の米軍基地などを整理縮小するため、一部を国内の他の地域に移すことについて。
 「賛成」57%、「反対」28%。

 民主党支持者の6割以上が「見直して再交渉すべし」と回答しているのに、菅政権はその民意に応えようとしない。また自民支持層にも半数近くが「見直し」派であるのに、自民はその民意を汲み取ろうとしない。既存の政党政治の枠組では日米合意の見直し、米国との再交渉さえできない、ということになる。
 問題はめぐりめぐって、「民意を反映しない「議会制民主主義」を、私たちがいつまで容認し続けるのか?」、ここに行き着くことになる。