2010年11月2日火曜日

続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために

続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために


 三年前に『大学を解体せよ』(現代書館)を出版した。この本にも関連する、とても気になる新聞報道が昨日、今日(2010年11月1日、2日)と二つあった。いずれも朝日新聞の記事である。
 一つは、国立大学協会(会長=浜田純一・東大総長)が、11月1日、高知市内で総会を開き、2011年度の予算編成で削減のおそれがある運営費交付金などを確保するよう、政府に要望する決議をまとめたことだ。

 運営費交付金は、国立大学の予算の半分以上を占める大学がほとんどで、しかも近年金額が減少傾向にある。医学部や理工系大学院のない大学は、とくに厳しい財政状況に直面している。来年度の予算編成では、1兆円超の特別枠を各省庁が競うため、さらに減額される可能性がある、ということで国立大学の経営陣が危機感を強めたのだ。朝日新聞によれば、国大協の決議には予算削減によって「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などと書かれているという。

 もう一つは、今日付けの記事、「国立研究機関構想に蓮舫氏「焼け太り」 文科省を批判」である。
 朝日新聞によると、「研究開発の独立行政法人(独法)を統合する「国立研究開発機関」構想に、蓮舫行政刷新相が「待った」をかけている」という。

 なぜか? この「構想」が「省庁の縦割りを廃し、効率的な研究を可能にすることを理由に文部科学省などが検討している」からであるが、「独法の人員や予算などを見直す基準を策定中の行政刷新会議はこれを「文科省の焼け太り作戦だ」と反発している」のである。

 「国立研究開発機関構想」とは、「理化学研究所や宇宙航空研究開発機構など38法人を再編し、新組織へ移行させるというもの」。「関係する9府省の副大臣らでつくる「研究開発に関する検討チーム」が4月に策定した中間報告に盛り込まれた。海江田万里・科学技術政策相も設置法案を来年の通常国会に提出する考えを示している」。

 周知のように、行政刷新会議は、4月と5月に研究開発関連の独法などを対象とした「事業仕分け第2弾」を実施した。そして、「年度内に独法全体の体制を見直す基準を策定する予定」になっている。だから同会議関係者は、上の「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」と批判しているのである。
 なぜか? 「研究開発に関する検討チーム」が策定した「中間報告」が「資金の繰り越しなど予算執行を柔軟にする」としたことについて、「38法人の業務内容や人件費の総額を減らす指摘もなく、青天井の予算獲得を狙っているのではないか」と行政刷新会議は警戒しているのである。

 朝日新聞は、10月24日に首相公邸であった閣僚勉強会の席上、蓮舫氏が「科学技術予算の効率的な戦略が必要だ。文科省ではなく、総理を長とした内閣で予算編成を行うべきだ」と提案し、「文科省主導の流れを牽制」したことを伝えている。そして、2日夕に開かれた検討チームの会合に、「仕分け人でもある寺田学首相補佐官を送り込み、設置法案の提出阻止を狙っている」という。


 まず、前者の問題、国立大学の運営費交付金の増額問題について言えば、これを増額したところで今の日本の大学、もっと言えば大学を頂点とする教育制度がかかえる問題群の何らの解決にもつながらない。
 にもかかわらず、国立大学の経営陣が、増額しなければ「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などという論理をもってそれを正当化していることが、問題の本質を見えなくさせているのである。

 また、後者の問題については、「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」という分析や「構想」に対する批判は正しい。しかし、蓮舫氏の敗北は目に見えている。民主党には「総理を長とした内閣で予算編成を行う」能力も度量もないからだ。
 民主党によるこの一年間の政権運営をみてはっきりしたことは、「官僚主導から政治主導へ」をスローガンにしてきた民主党は、官僚機構のサボタージュ・巻き返しによって、再び自公政権時と変わらぬ「官僚主導」の政権運営に舞い戻ってしまったことである。
 その根拠はとても単純なことで、もしも民主党が「総理を長とした内閣で予算編成を行う」ことを本気で追求するのであれば、財務省の抜本的構造・機構改革を含む、現官僚機構に与えている法的権限を法改正を通じて解体するのでなければ不可能であり、民主党はそこまで踏み込むことを放棄してしまったからである。

 国立大学の運営費交付金問題、また日本の科学技術政策と大学制度との関係の問題は、先にも述べたように『大学を解体せよ』(現代書館)のメインテーマだったと言ってよい問題である。『大学を解体せよ』は、文部科学省の支配/統治からの自治と自律を戦略的に思考しない日本の大学経営・運営のあり方やその制度的欠陥を、大学教育「サーヴィス」に税金を払っている納税者、子どもを大学に進学させている「保護者」、つまりは「消費者」の視点から考えようとするものだった。けれども、出版から四年近くを経て、事態はさらに悪化しているようにみえる。

 ところで、拙著の中で予想した通り『大学を解体せよ』は大学研究者・教育者の中で黙殺されてきた。この書を評価していただいたのは、『週刊読書人」(2007年4月27日号)に「画期的な大学論--「自律的な社会の構築」に向けて」を書いていただいた桑田禮彰さんほか、ごく限られた人々しかいない。また最近、とある大学の法学部の教授から、拙著を評価する手紙をいただいたが、現在の日本のアカデミズムの世界では大学の「制度改革」さえ死語と化し、大学のみならずそれを支える大学人もサバイバル・ゲームにやっきになっている観がある。

 私自身、大学を職場とする友人・知人が多い。だから、「大学解体」を主張することは、決して心地よいことではない。しかし、いったいどのようにすれば、現代教育の歪みと矛盾の象徴たる既存の大学制度を解体することができるのか・・・。これを構想することは、戦後の官僚制国家日本からの「市民社会」の自律(オートノミー)を考える上でも、避けて通ることのできない重大問題である。
 未だに旧帝大七大学と旧国立「一期」大学、そして早慶をはじめとする一部私立大学を中軸に改革さえ放棄した再編成が進行する大学制度を放置して、国立大学への血税の配分を今より大きくしたところで、これまでがそうであったように、その恩恵を受けるのはごく一部の偏差値上位大学のみである。

参考サイト 
「運営費交付金から見る国立大学ランキング」(国立大学職員日記より)
国公私立大学を通じた大学教育改革の支援


自治なき大学は自壊する 

 はるか昔、私が都内のとある国立大学の学生だった頃、とても驚いたことがある。それは一言で言えば、国立大学はもとより、日本の大学にはおよそ「自治」や「学問の自由 アカデミック・フリーダム」など存在しない、ということだった。
 国立大学は、当時の文部省という行政組織の「延長」組織として位置付けられ、学部学科新設・学生定員・施設建設など、大学運営の根幹に関わるすべてのことが文部省「大学局」の「指導」を仰がなければ何も決定できなかったからである。逆に、文部省が大学運営上の「方針」として決定したことを、大学の教授会で覆すなどということは、ありえないことと考えられていた。

 このことは、国立大学の総長・学長以下、教授・助教授・講師などの教員や職員は国家公務員(公立大学は地方公務員)と事実上、同じであるということを意味し、事実、私が学生証を持っていた大学の教授たちも--今と比較すれば、「自由度」はかなりあったとは思うが--そのような意識を持っていた。日本の学者の多くから「インテリゲンチャ」と言うよりは、公務員・サラリーマンと言った印象を受けるのも、ここに原因があるのではないかと私は考えていたほどである。
 私立大学の教員・職員の場合は、学校法人という組織を媒介して政府・文部省との関係性が規定されることになるが、学校法人が文部省の管轄下に置かれ、その「指導」の下で運営されていたのであるから、間接的な形態にはなるが、自治など存在しないことは国公立大学と同様である。

 もちろんタテマエとしては、大学には「自治」があり、「学問の自由」も「保障」されている、ということになっていた。しかし、予算をはじめとする大学運営に関して文部省に最終的な「承認」を得る/文部省が最終的な「決定権」を握っている、という状況において、タテマエとしての「大学の自治」など見かけ倒しもはなはだしい。 言うまでもなく、そんな日本の大学に「学生の自治」などあろうはずもない。〈私たち〉はいったい何をやっていたのだろう?、と今更ながらに「忸怩たる思い」がする。

 ともあれ〈私たち〉は、ある研究棟の新設問題に端を発した問題を通して、こうした「国立大学」とその教授たちの意識のあり方の実態を知ることになるのだが、当時も今も、この構造は何も変わっていない。いや、大学人自身が何も変えようとしてこなかった結果が、六年前の国立大学の「法人化」以降に噴出してきた、この間の「大学問題」と言われているものとして現象しているに過ぎないのである。
 だから、国立大学の「法人化」とその前後に行われた公立大学の再編・統合・「法人化」、さらには私立大学の「制度改革」から5年、6年を経た今日、大学関係者はこの間の「法人化」とそれと平行して行われた「制度改革」とは何だったのか、その総括を学生・「保護者」・納税者の前にまず明らかにすることが先決ではないか、と私自身は考えている。


 私は、大学の財政事情がどこも「火の車」であることを知っているし、一般論としては、知人の中にもその唱道者がいる「大学教育の無償化」論に反対しない。しかし、大学とは何の関係もない市民一般、納税者の観点から言えば、現行の大学制度を温存させたまま、一握りの偏差値上位大学に血税の配当を増額させたところで、先述したように今日の日本の大学制度が抱え込んでしまった「病」が改善する展望は見えてこない。

 おそらく、その「展望」は、近視眼的に、「さしあたっての大学の財政危機をどう打開するか」といった「策」を練ることからは開けてこないだろう。「大学の危機」が、旧文部省から文科省へと継承された六〇有余年にわたる「戦後教育」と一体となった「大学行政」なるものの必然的帰結であってみれば、その「戦後教育」と「大学行政」の矛盾がどこにあったのかを解明し、今後数十年をかけてそこからの転換めぐる社会的な認識の共有をはかるという遠大な作業が不可欠であるからだ。

 その長期にわたる作業の中では、現代日本の社会的実情にマッチしない、いま私たちが「大学」と呼んでいる社会的組織体の再定義、またその機構的あり方や機能の解体的再構築をめぐる議論が欠かすことのできないアジェンダとなるはずである。国立大学協会の「提言」や「国立研究開発機関構想」がそうした「議論」を一般市民に何も提起するものになっていないことが問題なのである。

 第一の「アジェンダ」として設定されるべきは、政府-文部科学省が設定する国家戦略(国策)からの大学研究と教育と〈自律化〉である。
 私は『大学を解体せよ』の中で、橋本行政改革⇒「中央省庁改革」を通じ、旧科学技術庁と旧文部省が統合しできあがった文科省による「科学技術」偏重主義と、それと一体化した大学「研究」への「能力主義・効率主義」を導入した大学行政、さらにその「司令塔」たる内閣府に設置された総合科学技術会議がとりまとめる、5年サイクルの「科学技術基本計画」に沿った「大学再編」の実態を分析した。

 そこでのキーワードこそ、日本の経済戦略を大学教育・研究が積極的に担い、促進するための「産官学連携」と「知的財産」(の開発と蓄積)、そしてそれを可能にするための国公立大学の「法人化」と私大「改革」であった。表現をかえると、
①「科学」が「科学技術」と等値され、その「科学技術」がさらに「産業技術」に等値され、
②「大学の社会貢献」の名の下に、「産官学連携」による「産業技術」の「研究開発」と「国際競争力に打ち勝つ日本経済の再生」に貢献する「人材」の形成を通じた、
③〈大学の自己資金の拡大〉が大学(院)研究と教育の基本理念とされるにいたったのだ。

 私のようなまったくの素人の目にも、こうした政府の大学政策の一大転換がもたらす矛盾は明らかに思えた。しかし調べてみて分かったことは、大学研究者内部からこの問題を真正面に据えて分析し、批判的に論じた文献が一つとして見当たらない、ということだった。
 「国立大学協会」を始めとする大学関係者は、まずこの「路線」が、
①人文教育・研究の破壊と学部教育の空洞化、
②国家行政からの大学の自律性の一層の弱体化をもたらし、
③〈大学運営における行政に対する依存性と従属性をさらに強める〉という、最悪の結果を招いたことを真剣に総括すべきではないだろうか。


 総合科学技術会議とは、経済財政諮問会議と同様に、内閣府設置法(1999年)の第 18 条によって設置されたものだ。その「所掌事務」と組織形態を同法(第 26 条から第 36 条)が規定しているが、その役割とは「科学技術基本計画」の策定と、これに関連する「省庁間の調整」ということになっている。国立大学の「法人化」を強行した小泉(自公)政権は、この総合科学技術会議-文科省体制によって戦後大学制度の最後的解体に乗り出したのである。

 「小泉革命」によって戦後日本の大学制度は最後的に解体=死んだ。「脳死」したのにまだ身体(機構)は「生きている」と「大学」という名前をかたり、大学ボッタクリシステムを温存させ、血税と「国民」の所得を貪っている。国立大学を始めとした大学経営者たちは、そんな死んだ大学の延命と自己保身にヤッキとなり、さらに血税を貪り尽くそうというのだから、それならばいっそのこと擬制の大学システム全体を文字通り創造的かつ社会的に解体したほうが、よほど「公共の利益」になるではないか。そうして出来上がったのが、『大学を解体せよ』だったのである。

 問題の根源は、「戦略的先端科学技術」フィールド中心主義・人文フィールド解体主義の「小泉大学革命」路線が、総合科学技術会議を「司令塔」としながらも、国策としての科学技術政策の遂行においては文部科学省を筆頭に、官僚機構総体に多大の権限と役割を付与したまま、官製版大学解体策に乗り出してしまったことにある。

 『大学を解体せよ』の中でも指摘した通り、文科省設置法第4条は、「科学技術に関する基本的な政策の企画および立案並びに推進に関すること」、「科学技術に関する研究および開発に関する計画の作成および推進」、「科学技術に関する関係行政機関の事務の調整に関すること」を同省の「所掌事務」として規定している。
 また、同省内に設置された「科学技術・学術審議会」の「所掌事務」は、「科学技術の総合的な振興に関する重要事項」の調査審議となっており、これでは内閣府に設置された「司令塔」としての総合科学技術会議は、内閣府付きの文部官僚・科学技術政策部門の統括官が、同省の省益と戦略に基づいて巧みに操作できることになる。
 さらに、日本には総合科学技術会議とは別に、日本学術会議という御用「学術」組織も存在し、ここにも血税が流用されるシステムになっている。つまり、
1、総合科学技術会議、
2、日本学術会議、
3、科学技術庁時代の「所掌事務」を丸ごと抱え込み、旧文部省と合体した文部科学省、さらには、
4、独自にそれぞれの「研究開発」を行うその他省庁、最後に、
5、文科省を筆頭とする省庁の直接的な延長組織としての独立行政法人系「研究機関」といったように、
「科学技術の魑魅魍魎」が犇く「知の伏魔殿」ともいうべき構造が、日本の官僚機構とその延長組織を支配しているのである。日本の大学制度とは、まさにその「構造」の行政的延長制度なのだ。

 では、こうした「科学技術の魑魅魍魎」が犇く「知の伏魔殿」、国家行政機構からの大学の自立性/自律性を少しでも確保するためには、何をどうすればよいのか?
 その中心に据えられるべきは、総合科学技術会議の解体・改組、そして文科省の「所掌事務」の抜本的再検討⇒文科省の「聖域なき構造改革」⇒解体的行財政改革、そして「省庁縦割り」の「科学技術研究」の全面的「事業仕分け」である。大学人が、

1、そのための「戦略」を練り、「戦略」に基づく「提言」を「市民社会」=納税者に提示し、
2、「提言」を実現すべく、大学人自らが活動家となって運動を展開しつつ、その一方で、
3、官僚機構⇒大学(理事会・事務局)⇒独立行政法人系研究機構の「持続可能な循環型天下りシステム」を解体し、
4、総長・学長・理事以下の教職員が、既得権防衛主義の自己保身を排し、学生と「保護者」第一主義に則り、公務員労働者が直面している以上の給与カットと特権の廃絶に踏み込む意思があるなら、
①学費値上げをすることも、
②増税をすることもなく、
③「大学教育の無償化」さえ実現し、さらには
④今よりはるかにまっとうな大学経営と運営がまちがいなくできるはずである。
 大学人自身による、これらを実現するための「議論」とその公開こそが、今、求められている。


米国の軍産学複合体と日本の産官学連携

 最初に、『大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために』の目次を紹介しておこう。

はじめに――大学のない社会を構想する力
子どもを自立させない社会、社会を自立させない国家/浄化と隔離、セーフティネットの教育学/子どもも社会も自立させない知識偏重教育

Ⅰ 知識社会と大学

第一章 知識社会の教育社会学 
大学の不経済学/知識社会のサバイバル/大学教育の過剰投資/社会的コスト回避の思想
第二章 大学革命?
It’s a revolution, baby!/大学のサービス産業化/国家戦略を担う大学
第三章 先端産業技術と大学
小泉革命と大学革命/文部科学省って何?/総合科学技術会議って何?/総合科学技術会議の政治学

Ⅱ グローバリゼーションと大学

第四章 大学の国際戦略
進出、それとも侵略?/海外拠点・留学生・eラーニング――戦略的頭脳流入のためのグローバル戦略/大学植民地主義
第五章 世界貿易機関(WTO)と大学自由化
国境を越える大学――トランスバーシティ(transversity)の時代/IMF‐WTO体制――GATSと教育自由化交渉
第六章 大学資本論
帝国主義としての大学/『科学革命と大学』/大学の魂と資本の魂

Ⅲ 大学を社会に解体する

第七章 大学解体要綱
大学解体のためのシナリオ  
一、バベルの塔を象牙の塔に
二、研究と教育の分離、そして教育の社会化
三、カリキュラムとシラバスのオープンソース化
四、大学教育と教授の質とは何か
五、大学知を社会に還す

エピローグ――ヒューマノイドは着歌の「君が代」を斉唱するか
ロボット科学と対テロ戦争/ロボット倫理と大学倫理
おわりに
・・・・・・・・

 目次を一瞥して理解してもらえるように、要するにこの書は、例えば今夏出版された『アカデミック・キャピタリズムを超えて―アメリカの大学と科学研究の現在』(上山隆大著、エヌティティ出版)のような書の対極に位置するところから「法人化」の二年後に書かれ、三年前に出版された本である。

 東大教授、植田和男(経済学)によれば、上山の書は「自然科学分野を中心に」「強い米国経済、政治外交の源」たる「米国の大学の底力」、「強さの秘密」を解明するものであるらしい。そして、「カーネギーやロックフェラーだったり、政府の軍事研究資金、また、最近では多様な私企業からの寄付」を受け、「発見者が自らの貢献を明らかにするために特許を取ることが増えた。それにつれて、研究成果が有用なものであるほど莫大(ばくだい)な富を発見者にもたらし、公的な支援をも受けている大学のあり方として適切かどうかが問われている」、その米国の大学の現状に問題ありとするかのような振りをしながら、結局は「よし」とし、しかもその「将来に楽観的」であるらしい。

 植田はそんな書を「良書」だと批評する。そして米国の大学に比して、「政府からの資金に厚く守られてきて、急に外部資金も自己調達するようにと宣言され、あたふたしている日本の大学との差にはため息が出るばかりである」と言う。これが、日本の大学で最も「政府からの資金に厚く守られてき」た東京旧帝国大学の教授、今「あたふたしている」大学教授の「知」の現実であるらしい。「ため息」をつかねばならないのは、いったい誰なのか?

 一方、読売新聞の書評欄に掲載された科学哲学者の野家啓一の批評は、能天気な植田の批評とは一線を画している。野家の批評のタイトルが、「進む「大学の商業化」」になっていること、またその結語を「研究資金の確保のみならず、「新たな知識生産への刺激」を受けるためにも社会全体に広くパトロンを求めることを提言」する上山の書を、「大学改革のあり方に一石を投じる問題提起の書」という表現で締め括っていることにも明らかなように、その評価は抑制的である。

 『大学を解体せよ』のテーマとの関連において、上の書評からうかがえる産官学連携・知財開発-特許化推進のエージェント、上山の本の問題点を考えてみよう。

 まず、米国の大学の「産官学連携」ならぬ「軍産学複合体」の現実を知るためには、私が『大学を解体せよ』を出版した年の夏、米国で出版されたヘンリー・ジルーThe University in Chains: Confronting the Military-Industrial-Academic Complex (『鎖につながれた大学--軍産学複合体に抗して』)を読むべきである。この書のバックグラウンドを理解するために、Military-Industrial Complex や The New Military Industrial Congress Complex もお薦めである。

 ネット上で公開されている、あまたの上山の書の書評を読む限り、上山は、大学研究・教育に携わる者として、戦後米国の「自然科学分野」の大学(院)研究が、文字通り、軍産複合体増殖の「知の供給源」としてMilitary-Industrial-Academic Complexを形成し、発展してきたことの問題性を捉えきれていない、と言わざるをえない。上山の書を肯定的に評価する者たちも同様である。野家の批評が幾分抑制的であるのは、そこに関係があるのだろう。

 上山は、税金と「受益者」負担に依存する日本の大学の「資金」構造をいかに変革するか、つまり、大学と大学研究者(研究室)の「自己資金」=利益=儲けを得るルートをいかに多様化し、拡大するのかという課題意識の下で、シリコンバレーなどの米国のMilitary-Industrial-Academic Complexの「フィールドワーク」を行う。
 そして、トランスナショナル企業や巨大財団はもちろん、ペンタゴンやグローバル軍事産業からの委託研究、共同研究、寄付であったとしても、そのようにして獲得された米国の主要大学の「自己資金」構造の「多様性」の中に米国の大学の「強み」を見、そこに産官学連携路線の下での日本の「研究型大学(院)」の未来のモデルを思い描くのである。
 米国の大学や「自然科学分野」の研究者は、「自らの貢献を明らかにするために特許を取る」のではなく、「研究成果が有用なものであるほど莫大(ばくだい)な富を発見者(と大学)にもたら」すから特許を取ることを十分過ぎるほど知りながら・・・。

 しかし上のことは、大学「経営学=マネジメント」論から産官学連携路線=「大学研究の市場化」を推進する上山の専門から言えば、ごく自然な発想である。上山の課題意識の中では、例えば、軍産学複合体の下で開発された軍事技術が新兵器や大量破壊兵器の生産に「応用」され、それで武装した米軍が世界中で何をしているのか、米国の大学研究者がそのことに加担している云々などという問題は、「政治的」で「イデオロギー」的な問題であって価値判断の対象から除外されてしまうのだ。上山は、上山がいう「コントロール」=規制がきかないところで米国の軍産学複合体が成立していることに、どうも無自覚であるらしい。おそらくここに「アカデミック・キャピタリズム」を「超えて」という、聞こえの良いタイトルを冠しながら、決して「超える」ことのできないこの書の限界がある、と言ってよいだろう。


 強調しておかねばならないのは、軍産学複合体は先端科学技術分野のみではなく、人文・社会科学分野でも米国のアカデミズムを蝕んできたことだ。対テロ戦争の勃発以降、とりわけ問題になってきたのは、米軍のHuman Terrain System(HTS)に対する人文・社会科学者たちの主体的・能動的・積極的な貢献である。(その一例としては、ダートマス大のThe Laboratory for Human Terrain がある)

 説明は後回しにして、私がこの問題を初めて知った"Army Enlists Anthropology in War Zones" (「戦場に徴用される文化人類学」)と題されたNYTimesの2007年の記事を紹介しておこう。アフガニスタンの対テロ戦争に徴用され、米軍の作戦展開に奉仕する米国の文化人類学者や社会科学者たちの様子を取材したものだ。

 このHTS戦略下の軍産学複合体に対し、ZERO ANTHROPOLOGY のマキシミリアン・フォルテは、Mapping the Terrain of War Corporatism: The Human Terrain System within the Military-Industrial-Academic Complex という論文を書いている。

 国家(官僚機構)、産業(資本)、大学(知)のトライアングルの関係から言えば、資本主義体制下の大学が、官僚機構による大学行政を通じて国家戦略と産業戦略に奉仕すべく位置づけられてしまうのは必然であり、それが大学の宿命でもあるだろう。だから大学研究や教育の、ある要素/側面が国家戦略や産業戦略と一体化すること、そのことのみをもって「大学無用」論や「大学解体」論を主張しても意味がないし、虚しいだけである。
 しかし、上のトライアングルが「鉄のトライアングル」と化し、そのことに対する批判をいろんな「大学利権」に既得権、自らの職業・立場の安定と安全を考慮するあまりに、大学研究・教育者がしない/できない状況になっているとしたら、どうだろう? 

 大学(院)研究と軍産複合体の研究開発の「利益相反」は、後に述べるように、軍事に転用されるテクノロジーと産業部門の「イノベーション」に転用されるテクノロジーの境界線が「融合」しているところで派生する。
 現在の大学院の「最先端融合科学」研究が、軍事と産業の「両用技術」開発を担っている/担わされてきたところに根本的な問題があるのだ。この傾向は、いわゆる「武器輸出(禁止)三原則」の「規制緩和」⇒撤廃に向けた動きと連動し、今後さらに進展するだろう。具体例を列挙すれば、このようなことだ。

 WIRED VISIONは、米国の軍産学複合体の「最先端融合科学」研究による、さまざまな新兵器開発をスクープしてきた。今年に入ってから、しかもその中のごく一部を取りあげるだけでも、以下のようなものがある。
・ネバダ核地域を警備する自律型ロボット
・超音波で脳を制御:米軍の研究
・米軍の外骨格スーツ『HULC』
・「瞬かない目」:サッカー場大の軍用飛行船、建造中 
・ゴキブリを軍事利用:米軍の計画
・嘘を見抜く「直観」を利用するシステム:米情報機関が開発へ

 こうした「研究開発」が、・米国の「全世界即時攻撃」計画と、「核戦争の危険性」の下で行われ、実際にそれが対テロ戦争に実戦利用された場合には、・米国無人機の空爆は戦争犯罪か:議会公聴会の議論 という国際法上の問題を生み出してきた(いる)のである。

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 断言してもよいが、産官学連携路線は、必ずや日本における軍産学複合体へと「発展」する。理・工・医の「融合先端科学技術」分野に先導されるかたちで、人文・社会科学系が続くのである。戦前の日本の(旧帝国)大学制度は、戦後の米国の軍産学複合体のミニチュア版のような日本型「軍産学複合体」の「頭脳」を担っていたのであるから、それは「発展」というより退行である。その退行は、かなりの速度ですでに進行しているのである。 

 占領統治終了後の大学制度は、「戦犯」追放と「民主化」が定着する間もなく、「赤狩り」の嵐が吹き荒れ、結局は官僚機構がそうであったように戦前の旧帝大体制を実態的に支え、生き残った「中堅」どころの学者連中がそっくりそのまま古巣に戻ってくるという体制から出発する。そしてすぐに日本は、「民主化」の「逆コース」(本来のコース?)の再軍備を開始する。1951年には旧安保条約を、1954年には日米相互防衛援助協定を結び、その次には自衛隊ができ、戦前の核兵器開発研究の蓄積をベースに原子力開発を開始し、1960年に安保を「改定」する。

 東大で行った「自主講座」を基にして1970年代半ばに出版された、宇井純と生越忠による『大学解体論』(亜紀書房、1975)。この書は、1960年代までの日米安保体制の下で、慶応、東大、京大の医学部、そしてその他の大学が米軍からの資金援助を受けた研究プロジェクトを行っていたことを暴き、旧帝国大学を中軸とする大学制度の解体を主張した。
 しかし、「公害原論」を自主講座で行った宇井の主張は、「大学解体論」もろとも、アカデミズム主流からは完全に黙殺された。当時、とある公立高校の理数科の生徒だった〈私たち〉が「自主講座」に熱い視線を注いでいたことを思い出すが、このブログの読者で『大学解体論』を知らない人は、街や大学の図書館で借り出し、ぜひ読んでみてほしい。実にリベラルかつモデレートで、まっとうな正論を述べていたことがわかるはずだ。

 あるいは、中山茂の名前をここで挙げてもよい。中山の一連の科学/科学技術批判論も、戦前の天皇制国家主導の上からの「軍産学複合体」の現実とその末路を自ら体験したが故に、大学研究において「アカデミック・フリーダム」の理念を守るというパトスに立脚した仕事だったのかもしれない。その中山の「弟子」として、『テクノトピアをこえて 科学技術立国批判』(1982、社会評論社)、『科学文明の暴走過程』(1991、 海鳴社)等々を著した吉岡斉なども、中山と同じく「軍事と産業からのアカデミズムの自律/自立」というモメントは立論の前提としてあったのではなかったろうか。さらには、高木仁三郎等々の仕事を指摘することもできるだろう。

 詳しくは立ち入ることができないが、大学研究・教育(サービス)のグローバル化と自由化という「縦軸」と、「安保の再定義」の再定義⇒対テロ戦争⇒「世界の中の日米同盟」路線⇒日米共同研究の新段階への突入という「横軸」が交差する歴史過程と軌を一にして起こった「法人化」⇒産官学連携路線の下で、「学問のための学問」論の幻想を暴く「学問」ばかりでなく、今大学で行われている「学問」そのものを根本的に問う「学問」までもが大学の現場から姿を消そうとしているのかもしれない。
 
 早い話、日本版「鎖につながれた大学――軍産学複合体に抗して」が、なぜ今、日本のアカデミズムの内部から出てこないのか? このことが日本の大学研究のリアリティを何よりも物語っている、と言えるのかもしれない。
 「象牙の塔」ならぬバベル(混乱)の塔の中で起こっている事態は、普通の市民・納税者・「保護者」が想像する以上に深刻そうである。

参考サイト
イノベーション創出に向けた新たな科学技術基本計画の策定を求める ((社)日本経済団体連合会 2010年10月19日)
新たな防衛計画の大綱に向けた提言 (同上、2010年7月20日)
国家戦略としての宇宙開発利用の推進に向けた提言 (同上、2010年4月12日)
わが国の防衛産業政策の確立に向けた提言(同上、2009年7月14日)
弾道ミサイル防衛技術に関する日米技術協力 (2009年11月10日 pdf)

「批評する工房のパレット」内関連ページ
⇒「大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について」
⇒「国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由