2010年12月12日日曜日

最近、考えさせられたこと---①「大学教授は教育労働者」か? その他

最近、考えさせられたこと

 『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』のための広告を書こうとして考えているうちに、そんなことより重要と思える、いろんなことを考えさせられた一週間だった。

①「大学教授は教育労働者」か?

 首都圏の、とある私立大学の教授職の立場にある人から、いろいろ大学の現状をご教授賜る機会があった。どんな大学かというと、「私が学生の頃から実在し、名前を知っている大学」である。国公私立を問わず、昔、存在した大学が消滅したり、近年、特に私立大学は名前を初めて知る大学がヤケに多いだけに、これだけでもかなり対象を絞り込める有力な情報になるだろう。「インフォーマント」に迷惑がかからぬよう、細心の注意を払わねばならない。

 その人は、「○×大や一部大学の教授とは違って、大半の大学の教授は、「研究者」なんてモンじゃない。ただの教育労働者ですよ」と教えてくれた。
 その人とは別の、これも首都圏のとある大学の教授職にある人から、以前、時間を作り、高校への「リクルート」作戦を展開していると聞いたことがある。高校の校長や三年生を教える教員、進学担当者などに手紙を個人的に書き、その高校の生徒たちが自分の大学を受験するよう依頼するのである。時には、大学教員の間で分担し、「ローラー作戦」を展開し、高校への個別「セールス」を行うこともある。大学教授が、自分の大学の経営危機を乗り切るために、学生を囲い込むための「営業活動」を行うのだ。初めてこの話を聞いたときには、しばらく絶句したことを覚えている。

 しかし、そんなことで絶句していたら、今の大学、とりわけ圧倒的多数の私立大学の教授職にある人の「労働」実態を知った日には、気絶してしまうだろう。その人の話を聞いて、絶句しながら私は立ちくらみがしそうになった。
 一言で言えば、今日の圧倒的多数の私立大学の大学教授の仕事とは、「担当の授業で講義する」なんてものではない。それは、
①少子化のいっそうの進展の中で、大学教育サーヴィス産業が「買い手市場」となり、その結果、大学教授が大学業界の熾烈な学生囲い込み競争を勝ち抜く「営業戦士」としての役割まで担うと同時に、
②自分の大学に入ってきた学生が、中途退学や休学、さらには「不登校/引きこもり」(中退予備軍)になってしまわぬよう、「入学から卒業・就職まで」の「学生ケア・テイカー」(後見人)の役割を負っている、ということだ。
 デフレ不況で授業料が納付期限までに払えなくなった学生への「相談・カウンセリング」から、授業に出てこない学生への電話連絡、「フォロ-」まで、大学一貫「教育」というよりは、一貫「ケア」システムが職員のみならず、大学教授をも実働部隊としながら構築されているのである。

 こうした学生の「ケア」は、言うまでもなく、個々の大学教員の「研究」活動のための個人的時間を消費させ、精神的・肉体的エネルギーを消耗させる。私が驚いたことには、大学当局(理事・学部長・学科長等)は--その人が言うには--個々の大学教授に研究活動を行い、「業績」を積み上げることなど、何も期待していないらしいのだ。
 大学サバイバル戦争に勝ち残る、つまり経営危機を誤魔化し、誤魔化ししながら、とにもかくにも「自転車操業」で大学経営を「回し」てゆきながら、経営破産→「大学再生機構」の「屑箱」に文科省によって投げ捨てられてしまわぬように、しのぎきってゆくことしか頭にない、ということらしい。

 つまり、「期待される大学教授像」とは文科省が言うような「教育と研究」両方のファキュリティ(能力)をディベロプ(発展向上)させることではなく、大学=企業人として組織第一主義の観点に立ち、「事務」をひらすらこなし、経営危機乗り切りにとことん貢献できるような主体なのである。
 もちろん、このような大学教授像は、大学の経営状況如何、自己資本力如何によって、引いては大学の知名度・「集客力」如何によって、相当違いがあることは確かだろうし、同じ大学でも個人差はあるだろう。とくに国公立と私立との間の違いは大きいだろう。しかし全体としては言えば、これが実態だというのは、概ね、(私立)大学を職場とする人々の間では、そう異論のないところではないだろうか。

 おそらく、圧倒的多数の私立大学(の教授)が抱えるこうした現実は、それを聞かされれば聞かされるほど、にもかかわらず「雨後の竹の子」のように、次から次に学校法人の設立を認め、また巨大な学校法人が次から次に大学を新設することを認め、短大を四年制大学にすることを認め、四年制大学にそれまでなかった大学院(修士)の設置を認め、大学院修士課程しかなかった大学に博士課程の設置を認め、さらには大学内の新たな「研究センター」の認めてきた、これまでの文科省の「大学行政」とは何だったのか? という疑念がさらに深まってゆく。

 しかも、ほとんどの私立大学では、経営危機の深まりの中で、新規で専門講師・准教・教授職を雇用することができず、むしろ正規の大学人の合理化を進めながら、大学教育現場における「雇用調整」が安易にできる(と大学側が考えている)非常勤講師の比率を拡大させてきた。
 国公立大学法人の場合は、文科省方針が非常勤講師・職員を減らすことにあったから、逆にその分、正規の大学人・職員の労働強化という問題を生み出してきたのだが、私立大学の場合にも、非常勤講師の比率が高ければ高いほど、マンツーマンの学生「ケア」ができず、その分、正規の教職員の負担もまた過重されてきたのである。(しかし、非常勤講師の側に言わせれば、そうした正規教職員の負担増は、自分たちの労働を使い捨ての安価な労働力として利用してきた大学経営の結果であって、生活が保障されているだけ「贅沢な悩み」ということになる。)

 「研究者」としての大学教授の「学生ケア・テイカー」化は--その人が言うには--大学教員の「資格」の在りかたの、抜本的再考を強いている。つまり、大学院博士号など、ほとんどの私立大学の学部教育に携わる人間に、実際問題として必要ない、学士で十分、と言うのである。話を聞いて、「まったくその通りだ」と思わざるをえなくなった。 なぜなら、専門分野の過去から最新の「研究成果」の深い知識など、現実の教育現場ではまったく必要とされていない、とその人は言うのである。むしろ求められる「資格」とは、学生=人間とのコミュニケーションがきとんと取れ、「ケア」がちゃんとできる人、話を聞いてあげることができて、学生を「構う」ことができる人、となる。要するに、ある時は父/母となり、またある時は兄/姉、あるいは友達、ごくたまに(?)「先生」として、「肌理(きめ)の細かい」人間的関わりができる人である。

 こんなことを聞けば、現役の学生・院生諸君はきっと怒るに違いないと思えるのだが、今の大学は私たちがその昔理解していたような大学ではない、高校、いや中学のようなもの、と言うのである。だから、「金八先生」のような人が最も大学教授に適任の人、となる。そういう話を聞いて、もしも私に大学に職を求める意思が仮にあったとしても、なろうとしても、とてもなれそうにない、と納得した。

 そうした大学「教育」の現場の変容を、もっとも象徴的に示しているのが、「パフォーマンスとしての講義」現象である。学生を退屈にさせない「講義」ならぬ、「講義という名のパフォーマンス」のパフォーマーとしての自己演出能力が大学人に求められるようになったのである。
 これを「授業のデジタル/コンピューター化」とセットで考えてみると、その「パフォーマンス」は、一方ではパワーポイントを使った授業、視覚に訴える授業と、他方では学生への「語りかけ」を常に心がけ、学生の「受け」や「笑い」を取ることで、学生が「生き生きと、楽しく」学べる空間創りのための演出、ということになるだろうか。

 私は、パワーポイントは人間の「考える力」のディベロプメントを萎縮させるだけでなく、物事を一から教えるツール、ソフトとして使用すべきではないと考える、とても「古い人間」なのかも知れない。というのも、私は、パワーポイントとは、ある一つの分野・イシューに関する前提的知識/了解を持つ者同士の間で(のみ)使える、きわめてテクニカルなツールであり、ソフトだと考えているからだ。講義のメジュメのそのまたレジュメのような言葉、その羅列と、それに関する統計・映像などを、細切れでいくら「映写」し、それを学生が「観た」としても、「わかったような気になる」だけで、内容が浅薄なものになるのは避けられない。大学教育のみならず、教育現場でこれが使われることに対するそういう「差別と偏見」を私は克服しきれないでいる。知人の中には、頑固にパワーポイントの使用を拒み続けている人がいるが、そうした「昔堅気」の大学人の精神を継承し、「昔通りではない」講義を創ろうとしている人々に、私はむしろエールを送りたいと思うのだ。

 ともあれ、こうした「パフォーマンスとしての講義」現象は、学生との掛け合い漫才のような授業で学生の「心」をつかもうとする、「大学人の芸人化」を全体としてもたらしていると言えるだろうか。これでは「本の虫」「研究の虫」のような「キャラ」では、とても大学教授はつとまらないし、実際、そんな「キャラ」は私大のマネジメントサイドからも求められていない。自身の「学識」を披瀝・開陳・伝承するというよりも、パフォームできる「キャラ」が、講義外(というより、講義の内と外との区別がメルトダウンした「キャンパス・ライフ」)の学生との関係、コミュニケーションにおいても厳しく求められている、ということだろう。
 私のような「キャラ」では、到底無理である。大学人になる「素質」や「素養」そのものが法人化以降、大きく変貌/変質してきたのである。大学に職を求めている人々は、これが現実だということを肝に銘じておいた方がよさそうである。 

②「大学は文科省の植民地」か?

 助教や准教から正教授に「昇進」したとしても、同僚や「上」(学部・学科長等)からの「アカ・ハラ」(アカデミック・ハラスメント)は尽きることがない、とある人から聞いたことがある。日本だけに限らないと思うが、アカデミズムの世界には「業績」のある・なしとはまったく無関係に(当然のことだが)、私たちが想像する以上にハラスメントとは何か、差別とは何か、理解できていない/理解したつもりでいる、また他人の経験や自分の過去の経験から学習することができない、「アホ」な人が意外と多いようである。

 子どもの世界の「いじめ」は、それ自体が「パワー・ハラスメント」であるが、子ども世界からおとなの世界まで、個が個に、集団が個に、また集団が集団に行使するハラスメントは、個と個の、集団と個と、集団Aと集団Bとの関係に存在する、互いに行使し、影響を与えうる力(force)の不均衡が生み出すものだ。何が言いたいのかと言えば、ハラスメントや差別には、常に(権)力関係が介在していること、そしてそれは年齢や社会的・法的地位の「差」があるから起こるのでは、必ずしもないことである。

 自分(たち)が、他者(たち)との個別・固有の関係において、また政治的・社会的・経済的・文化的な文脈において、他者より、よりパワーを潜在的に行使できる主体が、「ハラスメントとは何か、差別とは何か」をめぐる定義の決定権を行使し、それらが起こらないように、と人間(集団)の行為を規制する法や規則を制定する決定権を持っている間は、ハラスメントや差別は、半永久的に再生産され続けるのである。それは人種、民族、ジェンダーおよびその「オリエンテーション」または「アイデンティティ」をめぐるハラスメントや差別、あるいは生物-生命学的にある機能や能力を持たない/持てない人々に対する、そうでない者(たち)によるハラスメントや差別も同様である。(機会がある折に、追記)。

 いま、アカデミズムの世界に目を転じてみると、「アカ・ハラ」とは何か、大学(研究機関)内差別とは何かを定義し、それが起こらないようにと規則や規律を制定する主体が、特定の「人種、民族、ジェンダーおよびその「オリエンテーション」または・・・・」の、上に記したカテゴリーの「正教授」職にある者たちが、もっぱら策定したものであれば、アカデミズム内のハラスメントや差別は、半永久的に再生産され続けること、また教授職にある者同士においてもそれは同様であることが理解できるはずである。そしてそれはそれ自体において、かなり深刻な事態を生み出しており、問題の根はかなり深い、ということができる。アカデミズムの世界で生起することは、現代世界、日本社会で生起することをそのまま写し出すのであり、逆もまた言えるからである。

 しかし、私がここで問題にしようとしている「アカ・ハラ」とは、そういうこととは性格を異にしている。その意味では、語の本来の定義に即したような「アカデミックなハラスメント」のことである。
 たとえば、経験上、私はこれまで様々な大学の院生と話す機会に恵まれてきたが、自分が志す特定の研究分野に関して、「そんなことをやってもメシが食えないから辞めなさい」と「指導教官」から言われた、あるいはそのようにしか解釈できない「アドバイス」を受けた経験を持つ人々が何人かいる。これは明らかに「アカ・ハラ」である。それを陰に陽に繰り返し、言われ続ける、と聞いた。

 あるいは助教や准教のときに、「政府批判」や「体制批判」(特定の政策批判ではない)を書いた論文や論考などを、どのような媒体であれ公にした際に、そのことを「上」から「諭された」経験を持つ人もいる。法人化以前、「私大改革」以前、もっと言えばかなり昔から、大学人自身による「自主規制」が進行、制度化してきた結果、いまではこうした論文・論考自体がメッキリ少なくなった観があるが、それでも自分が何をどのように書いたかを、検閲まがいの「ピア・レビュー」をされ、その「イデオロギー」性を「チェック」されることは、常態化・構造化されている。最も典型的な「恫喝」は「教授になれないよ」という一言である。そして一度「諭されて」も尚、それを「改善」しなければ、たとえば「出張」の際の金を出さない、渋る、「事務」仕事を増やす・・・等々のハラスメントを受ける。こうした性格のことが、教授になっても続くわけである。

 『大学を解体せよ』に目を通していない、多くのこのブログの読者がおそらく誤解しているのではないかと思うのだが、私は大学が「象牙の塔」であるから解体せよ、と主張しているのではない。明治維新後の現代史における日本の大学が「象牙の塔」などになったためしは一度もないから、国策や「産官学連携」路線から切り離しても尚、今日の大学経営や研究・教育が成立する領域があるのだとしたら、その領域をこそ特定し、そのための「研究」機関として大学(と呼んでも何と呼んでもよいのだが)を「象牙の塔」にせよ、そしてそれ以外の「教育」の領域をすべて「社会化」=無償化せよ、と主張しているのである。

 では、そこで言う「象牙の塔」の「カリキュラム」の「評価基準」とは何か? それは第一に、「功利主義」を排した「クソの役にも立たない研究」である。(抽象的な意味合いになるが、体制批判はその中のごくごく一分野に過ぎないが、重要な分野である。現代人にとって、体制批判は目先の実益につながらない非功利主義的な分野であるからだが、これについても後日機会があれば追記したい。)
 この「クソの役にも立たない研究」領域は「文系・理系」、その「融合」領域を問わず、すべてのフィールドに存在するだろう。大学研究・教育をめぐる問題の核心は、功利主義のお化けのような文科省・経産省および官僚機構の国家「イノベーション」戦略に翻弄され、大学人自ら「自主規制」を行いながら、大学界全体の「アカ・ハラ」を自ら制度化し、しかも大学経営・運営者=トップが、そのことに無自覚でいることにある。

 ある大学教授は、今の日本の大学は「文科省の植民地」と表現したことがある。これは、例えば私のような大学界とは無縁な人間が「大学は官僚機構の延長組織である」と言うよりも、はるかにリアルで実態を捉えた表現である。そのことを官僚の大学「天下り」問題を例に取り、考察すれば、「植民地経営」の実態がより明確になるだろう。(後日、追記)

③宇井純の遺言---「大学に行くとバカになる」

 東大で「自主講座」で行い、『大学解体論』を書いた故宇井純が残した「遺言」、と私が勝手に受け止めている言葉に、(日本の)「大学に行くとバカになる」という箴言がある。宇井純は、東大から「万年助手」待遇という典型的な「アカ・ハラ」を受けた人だったけれども、この「遺言」を私は今から30年近く前に、とある本で読むことになる。
 宇井の「遺言」を、私は当時、かなりリタラリーに捉えていたことを記憶している。日本の大学、とくに「官僚養成大学」としての東大やその他の旧帝大系、国立大学、「有名」私大の大学研究が、公害・環境汚染を撒き散らす国の産業政策を支える「研究」をし、そうした産業/企業の利潤追求のための産業技術研究と、その企業活動を擁護するために、科学的データの改ざんさえ平気で行うような人材を輩出するように制度化されている、といったような意味として。
 いわゆる「学者バカ」とか「専門(家)バカ」と言われてきたものも、そうしたものに含まれる概念なのだろうと。もっと分かり易く言えば、自分の「研究」活動の社会的意味や責任、アインシュタインの『往復書簡』ではないけれども人類史に残してしまうであろう負の効果、禍根、その「倫理」を考えようとしない人間が大学という場を通じて育成される、といったように。

 宇井の「遺言」を、あまりに極論であり、大学研究・教育のごく一部の側面しか捉えていない暴論と受け止め、反発や反感を感じる人は、大学人のみならず、学生にも多いことだろう。しかし、いつの世にも異端の言説にこそ「真理」が隠れているのもまた、歴史が証明していることである。宇井の「遺言」の真意を理解するための出発点は、やはり昔、中山茂が言ったように、ある時代の大学で行われている学部・学科編成やカリキュラムの内容に「アプリオリ性」などなく、その基本ラインは官僚機構によって構想される、という事実を事実として理解し、認めることにある。

 しかし「遺言」に触れて、私がすぐに気づいたのは、実は私たちは大学に行って「バカ」になるのではない、ということだった。その前段階、つまり高校教育の現場でその準備がすでに完了している、ということだったのである。
 とある公立高校の理数科という「特殊学級」を卒業した個人的体験から言えば、理数系の授業を週14-16時間(実験込み)、その一方で歴史・社会科系で週2時間(!)しか学ばないように組まれた「カリキュラム」によって、いったいどのような「市民」になるための人間形成が高校教育の名において行われていたか、少し考えてみれば、誰にだって明らかだと思うのである。

 人間の成長の中で、もっとも多感で実り多き季節であらねばならないこの時期に、〈私たち〉は「知識障害者」になるための「教育」を受けていたことになる。しかし、自分が「知識障害者」になっていることなど、その「教育」を受けている当事者に理解できるはずがない。高校、大学を問わず、何をどのように学ばされるか、そのカリキュラムに関する決定権を当事者が持たないからである。

 国立大学法人化と軌を一にする形で、「公立の復権」を賭けた公立高校の「先祖帰り」現象が、私立高校と偏差値上位大学への進学者数で対抗するための中高一貫校の設置も含め、全国的に見られるが、公私を問わない現在の高校教育の在りかた、そのカリキュラム、現場で起こっている事態を、いま、教育関係者が問おうとしないのは、きわめて犯罪的である。どれだけ「先祖帰り」しても、そこからは何も明るい未来など見えてこないのは、「サバイバー」の一人として私自身が証言できることであるからだ。

 大学に行って「バカ」になること(あるいは行く前にすでにそうなっていること)と、そんな大学(や高校)で「アカ・ハラ」が起こることは、実はメダルの表と裏の関係にある現象である。
 たとえばここに、大阪大学大学院工学科「システム創成プロフェッショナルプログラム」の「FD図書コーナー」がある。そこに収められた「図書」の中に、私の『大学を解体せよ』が含まれている。とても、光栄なことだ。

 しかし、この「システム創成プロフェッショナルプログラム」の目的・趣旨は、これらの「図書」の(ごく)一部が告発する、阪大大学院を含む旧帝大系大学院研究・教育の内実を問い直し、問題群の克服をかけて、新しい「システム」の「創生」をめざす「プロフェッショナル」を育成することにあるのではない。それとは正反対に、阪大大学院が「産官学連携」路線の一大拠点として、その戦略的役割を担う人材を育成すること、そしてそれを通じて阪大の自己資金力の拡大に貢献できる人材を育成することにある。

 研究拠点の問題として言えば、阪大大学院のこの「プログラム」と同様の各大学に導入された「プログラム」が、日本の産業技術の「イノベーション」の促進という現在の大学院再編が、理工系分野におけるカリキュラムの再編としても進行し、そこにおいて理工系フィールドの「クソの役にも立たない研究」の(予算)切捨て、排除、廃絶としてあることを、「ファキュリティ」自身が見過ごし/沈黙し/推進していることが問われなければならないだろう。全体として医・理工優先・優遇、人文・社会科学系フィールドへの差別・切り捨てとして現象する「産官学連携」が、(当然のことであるが)医・理工フィールドにおいても、特定フィールドへの差別・切り捨てとして現象しているからである。語の本来的な意味における「アカ・ハラ」は、この〈構造〉の下で再生産されると言ってよい。

 だから私は、「アカ・ハラ」や研究・教育現場における差別問題を、講座制時代から温存されてきた性的暴行を含むジェンダー差別を始めとした「アホ」な大学人による「セク・ハラ」・「パワ・ハラ」・差別問題に還元、解消することは、今大学で起こっていることの問題を見誤ることにつながる、と考えている。レイプ、レイプまがいの暴行、痴漢、人種・民族差別その他は、それが大学研究・教育現場で起こった場合には明らかに「アカ・ハラ」の構成要件となるが、その行為自体が刑事事案そのものとして扱われるべき性格の事柄であるからだ。言ってみれば、「アカ・ハラ」以前的な人権侵害、犯罪行為ということである。

 先に述べたような「アカ・ハラ」は、「産官学連携」路線の推進過程において、大学の機構再編、学部・学科再編、カリキュラム再編、人事(昇格・降格・異動なし・解雇・「肩叩き」・・・)、職場環境(シカト・無視・あからさまな専門外、規定外の事務・雑務・労働の強要・・・)、研究予算配分の意思決定等々がなされてゆく、そのダイナミズムの中で派生する。それは大学業界内、大学機構内において制度化=institutionalizeされ、内面化=internalizeされるのである。

④大学・研究機関の「隠れキリシタン」が炙り出される、受難の時代の幕開け 

 ある人々にとっては殺戮と排除の「暗黒の社会」が、別の人々にとっては「自由と繁栄」を謳歌する「素晴らしい社会」となる。例えばドイツ「第三帝国」、戦前の日本、スターリン体制下の旧ソ連、またその他諸々の軍事独裁体制と理解されている社会もそうである。だから、戦前の日本社会を「暗黒の社会」と、特定のイデオロギー的価値基準に基づき裁断することは、事実認定として誤っていると同時に、現実に満州-中国侵略、国連脱退を喝采し、真珠湾攻撃の「勝利」を歓喜で迎えた、当時の日本社会と日本人の実像を捉えるものにはならないのである。

 これとまったく同じことが、今の大学界全般、引いては日本社会全般についても言える。
 「産官学連携」路線が日本における「軍産学複合体」へと発展(後退)し、「軍産複合体」による「暗黒の大学支配」を招来させると、いくら言ったところで、それが「科学の堕落」論といった「あるべき科学」論や「あるべき大学研究」論に基づくイデオロギー批判として展開されるだけでは、「産官学連携」に大学研究および研究者としての己の「自由と繁栄」の活路を見出し、そこに矛盾や問題を感じることなく研究に没頭する研究者がむしろ圧倒的主流派となった今の大学界や、そういう研究の「ブレイク・スルー」に国の経済の再生と成長を託そうとする日本社会の実像を捉えることはできないだろうし、変革の論理にもなりえないだろう。「非核・非戦」の「良心的リベラリズム」、「大学の倫理」を問う「大学リベラリズム」の受難の時代の幕開けである。

 「今の日本の大学は文科省の植民地」と私に対して語る大学教授は、自らが公にする論文においてはそうは語らない。生活がかかっているからだ。私はそのことを、とりたててどうとはとは思わない。人が語れなければ、それを聞いた私が語ればよい、と考えるからだ。

 政府の大学行政と大学当局の経営方針として「産官学連携」路線が確立してしまった以上、たとえ一部の大学研究者の中に、内心では「産官学連携」路線に矛盾や問題を感じている人々がいたとしても、これに対する体系的批判を彼/彼女たちに期待することには無理がある。そのことは、「社会運動」にコミットする、数少ない国公私立の大学人が、大学外の国際・国内政治問題を論じ、そこで日本政府の政策批判を展開しても、決して自分の足元で起こってきた/起こっている問題、大学それ自体の問題には触れようとしないことにも示されている。そして、そのことに対しても、私はとりたててどうとは思わない。大学の制度的問題、その矛盾がもっと社会的に明らかにされ、大学解体をめぐる議論が深まればそれに越したことはないと思うが、ここでも人が論じなければ自分が論じればよいだけだからだ。

 「大学は文科省の植民地」と語る/語れる大学人は、常勤/非常勤を問わず、研究・教育者としての良心と倫理を持つ人である。その良心と倫理を公にしないこのタイプの人々は、自分の個人的信条、魂までを売り渡すことを拒みながら、しかしその意思を公にはしないという意味で、大学業界内の「隠れキリシタン」になる人々である。
 「産官学連携」路線の国家プロジェクトとしての第一ラウンドの総括が終了し、これまで明らかになった問題点(意外と「儲からない」、「マッチング」がうまく図れない、大学と地域によって格差がありすぎる、成果が出るまでに時間がかかりすぎる・・・)の克服と、さらなる実体化をめざす今後の過程は、「隠れキリシタン」が炙り出され、大学・研究システムから排除されてゆく過程でもある。こうした人々は、語の本来の意味における「アカ・ハラ」の受難に直面する可能性がもっとも高い人々になるだろう。
 
⑤普天間問題の「国民投票」の可能性/不可能性

⑥軍事演習への「参加」を、軍事同盟と見誤ってはならない