2010年12月22日水曜日

大学の「脱植民地化」---「大学の自治」再考

大学の「脱植民地化」---「大学の自治」再考


 『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の中で、「霞が関イリュージョン」という表現を使った。ある「公共政策」の立案や、その政策に関連する立法・行政措置において、官僚機構は「霞が関文学」を駆使し、その政策に秘められている本当の目的を見えにくくし、「国民」の目を欺こうとする。そのマヤカシを「霞が関イリュージョン」と名づけたのである。

 私たちは、「霞が関イリュージョン」に簡単に騙されてしまう。なぜなら、官僚が立案する「公共政策」が、たとえ一部の社会セクターのみに利益誘導をはかる政策であったとしても、その一部のセクターも「公共」を構成することには変わりなく、実際にはどのセクター/階層が利益を得て、どのセクター/階層が不利益を蒙るかなんて、一般の私たちにはわからないからだ。それを個々の政策ごとに分析し、見極めることは困難を伴う作業になる。
 政府が「内需創出のために減税する」と聞けば、誰だって「結構なことだ」と思いがちになる。しかしよくよく調べてみると、実質減税になるのは全体の1%に過ぎない年収1500万以上の世帯のみで、それ以下の世帯は増税になる、となる。これは、「霞が関イリュージョン」の古典的事例である。たしかに、一見では「低所得層」にも減税されるかのように見えたとしても、別の租税制度の仕組みによって、結果としては納税者の大多数には増税になる、というカラクリである。
 
 こうした「霞ヶ関イリュージョン」によって、ある政策を押し通そうとするときに、官僚機構は政治家(族議員)やメディアを利用し、一大キャンペーンを張る。官僚機構は政策立案→立法集団であると同時に、そのための言説を創造する集団、〈言説創造マシーン〉でもあるのだ。
 たとえば、小泉「構造改革」路線がキャンペーンされたとき、「努力した者が報われる社会」という言説が流布された。そして、「努力しないで報われている者」バッシングが、小泉「革命」を推進するキャンペーンとして、マスコミ自らが尖兵となって行われたのである。
(小泉政権のことなど、いまの20歳前後の人々にとっては、遥か「大昔」のことであり、ほぼ5年におよんだあの時代のことは記憶もおぼろで、自分の〈歴史〉には存在しないと思うのだが、大学のことも安保のことも、そしてNGOのことも今起こっていること/これから起こってゆくであろうことの矛盾や問題は、すべて小泉政権(とブッシュ息子政権)時に打ち出された政策に起因する。なので、まだ誰も提出していない小泉「革命」の「決算報告書」を私たちは自分でまとめる以外にない。そのための参考資料は巷に溢れているが、それらはあくまで参考資料に過ぎず、結局は自分の頭で考え、自分の言葉で語るしかないのである。)

 「努力した者が報われる社会」=「努力しないで報われている者がいない社会」・・・。
 「当然の社会で、結構なことだ」と誰だって思う。しかし、ここに「霞が関イリュージョン」のイリュージョンたる所以(ゆえん)、その罠、その落とし穴がある。

 小泉「構造改革」は、橋本行政改革を継承する、①官僚機構のスリム化と、②政府の歳出削減・歳入増加の二つを内政の主目的としていた。これを小泉政権は、「自民党をぶっ潰す」という大衆受けするスローガンをぶち上げてやった。その結果、「小泉フィーバー」が起こり、小泉政権は戦後屈指の長期安定政権となったのである。(「自民党をぶっ潰す」とは、自民党内「護憲・保守」と郵政などの公共部門や公共事業部門の「族議員」排除をさす)。

 この「小泉フィーバー」をプロモートしつつ、「小泉人気」にあやかったマスコミのキャンペーンは、「努力した者が報われる社会」キャンペーンと「努力しないで報われている者」バッシングとして展開された。
 前者の「努力した者が報われる社会」キャンペーンは、官僚機構が制定した法的規制を緩和・撤廃し、「民間活力」導入を積極的に推進するという理念の下で、「ベンチャー・ビジネス」の興隆とそれを支える「起業精神」を育成する観点から行われた。いわゆる「護送船団方式」の解体、「日本型経営」から「米国型経営」への転換である。

 そこで、「努力しないで報われている者」バッシング」は、当然のこと、①「税金を貪る」特権官僚や公務員労働者叩きと、②官僚の「天下り」の温床にもなっている「無駄な公共事業」叩きとして過熱化する。これらは国家財政を圧迫する国家公務員数と給与の削減を促進するキャンペーンと一体的に展開されたわけだが、「聖域なき構造改革」=「小さな政府」路線を追求する小泉政権と小泉路線に自己調整をはかろうとした官僚機構は、「安保・防衛」部門を聖域化し、「社会保障・教育」分野を削減・切り捨てることによって「財政再建」を行おうとした。
 その結果、「努力しないで報われている者」バッシングは、③社会保障費を膨張させる、いわゆる「社会的弱者」(高齢者・母子家庭・障害者などの低所得者層)叩きとしても展開されることになる。忘れてならないのは、④「子どもの学力低下」と「ゆとり教育」批判、日本の大学の「質の低下」と「旧態依然の大学」批判も、この文脈の中で登場したことである。 
 
「肉を切らせて、骨を断つ」

 私たちは、橋本行改→中央省庁の再編・統合→小泉「構造改革」→民主党への政権交代というこの10数年の過程を経ても、なぜ「公務員制度改革」が停滞し、中央官僚機構の抜本的「構造改革」が遅々として進まないのか、流布されるいろんな言説に惑わされることなく、自分の頭で一度考えてみる必要がある。

 中央省庁の再編・統合以降のこの10年近くを、自公連立政権、民主連立政権、官僚機構、メディア、そして「国民」という「アクター」間の構図でみた場合、ひとり勝ちしたのは官僚機構である。日本の官僚機構は「肉」=「天下り」を含む官僚特権の一部を切らせて、「骨」=官僚機構の持つ権力構造の解体論を「断つ」ことに成功したのである。

 菅直人首相は「日本の官僚はバカだ」と言ったことがある。丁度、1年くらい前のことだ。菅が言わんとしたのは、官僚の「前例主義」批判だった。「官から政へ」の政策決定過程の転換をはかろうとしても、一つの政策とその政策を根拠付ける法制度をめぐる過去の積み上げ=「前例」を盾に、官僚が「抵抗」し、言うことをきかない。これに腹をすえかねた菅の焦燥感と怒りが記者会見という公の場で爆発したのだった。
 けれども、「前例主義」は「法の番人」としての官僚機構に内在する「慣性の法則」のようなものなのであって、官僚の内的論理によってこれから脱却することなど不可能である。(以下、後日追記)。  


 「大学の社会貢献」論は、小泉「大学革命」という「霞が関イリュージョン」において最大限に駆使された言説である。大学が社会に貢献する。「結構なことだ」と思う。しかし、「社会」に貢献する大学に創り変えることによって、大学が「壊れる」。一部の大学が「社会」に貢献する一方で、大多数の大学が「壊れる」・・・。そうなることを私たち(の多く)は、見抜けなかったのだ。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、「東大が世界最大の軍事産業との国際産官学連携で儲ければ、日大が壊れる」。どう考えても「風が吹く」ことと「桶屋が儲かる」ことは繋がらないように思えるが、ある力が作用し、その連鎖反応によって想定もしていなかった事態が派生するように、日本における軍産学複合体の形成が、多くの国公私立大を「壊す」ことになる。しかも私たちは、東大自体がすでに「壊れている」ことにいまだに気づかない・・・。

 「社会に大学が積極的に連携しつつ、それによって大学が社会に貢献する」という「大学の社会貢献」論は、「大学院研究が戦略的先端産業部門の技術革新に貢献する「産官学連携」という言説を正当化し、その言説を社会化する、すなわち「国民的コンセンサスを得る」ために活用された。大学の「社会貢献」という言説に、「バブル崩壊からの日本経済の脱却」「日本再生」などのキャッチコピーをつければ、マスコミはイチコロだ。簡単に官が仕組んだキャンペーンに便乗する。

 私たちは「大学の社会貢献」論を創造・流布し、それによって産官学連携と国立大学法人化・私大「改革」を構想し、仕掛けたのが、旧通産官僚や科技庁官僚であったことを忘れてはならない。
 橋本行政「改革」方針が打ち出されたときには、すでにその青写真が確定していた「産官学連携」路線の「影の立役者」には、京大出身の元新左翼の理論家で、転向し、米国の軍産学複合体の一角を占めるスタンフォード大に移った、旧通産官僚からカリスマ視された人物がいるのだが、問題は、「講壇マルクス主義者」をはじめとした人文・社会科学系フィールドの大学人が、単なる情勢/現状分析を超えた、「産官学連携」をめぐる霞が関イリュージョン、その言説の欺瞞と虚構を暴き、対抗言説を打ち出すことができなかったことにある。
 だから、「敗北」(もしも、そういう認識に立てばの話であるが)は、1990年代の半ばにすでに決まっていたのである。

 しかし、この「敗北」/「勝利」は、必然的な事態だった。それには、いくつかの理由がある。
 一つは、もともと大学教職員の「闘争」というのは、官公労労働運動と同様に、賃上げ・身分(特権)保障・労働条件及び職場環境改善を三つの柱とするものであり、法人化を始めとする大学「改革」に対しても、これらが悪化することに反対するという論理で取り組まれたことだ。
 つまり、「産官学連携」路線による大学研究・教育の変質や崩壊を論じたのは、ごく一部の「良識派」大学人であり、しかもその主張さえも論理の土台は前者にあった。「法人化」しても「身分保障」がされるかどうかが、多数派の「闘争」の主眼だったわけである。もっと分かりやすく言えば、小泉大学「革命」が、運営費交付金や私学助成金の削減を伴わず、国からの大学界全体に対する「学術研究・教育」予算の増額を伴うものであったなら、「革命」に対する反対運動など、起こりようもなかったのである。

 丸山真男は「六〇年安保」の前に、当時の社会党-総評の指導部が「安保は重い」(労働者を安保闘争に組織動員するのは困難)と言ったと生前に証言したことがあるが、「産官学連携は重い」といった状況が、法人化以前に、すでに大学業界内部でつくられていたのである。言葉を換えるなら、大学人の圧倒的多数派が、大学現場で「アカデミック・フリーダム」はもとより、「言論の自由」さえ抑圧・封殺されてゆくことに対して、自分自身のサバイバルをかけて沈黙し、「職場闘争」「現場のたたかい」を放棄したのである。総じて、大学当局ともたたかわず、「大学の危機」を見過ごし、自己保身に走ったのだ。これが、歴史が教える現実である。

 二つ目は、官製版大学解体=「大学の崩壊」を社会問題化できなかったことである。
 これには、大学問題が大学の下位にある教育現場(高専・高校)の問題と有機的に関連した問題であることを、研究・教育論に即して大学人サイドが分析し、論理化することができなかった/しようとしなかったことが、さらにその理由の一つとして指摘できる。

 日本の教育制度は、東大・京大を偏差値の頂点とする階層化された大学システムへ向けて、その合格者数を競う形でさらに初等・中等教育が公私とも序列・階層化されているにもかかわらず、
①初等・中等・高等教育全般にわたる文科省および官僚機構の統制・差別・分断構造が確立していることに加え、
②初等・中等教育に対して、地方自治体の「教育委員会」という、自治体の官僚機構の延長組織による統制・差別・分断構造という「統制と支配の二重構造」が存在する。
 この「二重構造」が、大学問題を日本の教育制度全体の問題=教育界全体の問題として取り組むことを制度的に阻害し、これが障害となって、「大学問題」を社会問題化することを困難たらしめてきた。
 しかし、その責任の大半は、「戦後」という長いタームで考えるなら、大学システムの下層に位置付けられた多数の私立大学教員を除き、擬似「象牙の塔」の安住し、俗世から隔絶された研究・教育活動に埋没してきた「有名」大学の大学人の側にあると言ってよいだろう。

 さらにこの二つ目の理由の二点目として、
①「大学問題」を子ども進学問題に解消し、それを日本の政治・経済・社会問題として捉えることをしない/できない傾向がいまだに強いメディアや、
②大学教育サービスの「受益者」としての「保護者」と学生/高校生の、大学を偏差値やブランドでしか判断しない/そのように社会的に洗脳され、仕向けられた、「大学問題」に対する無関心、この二つが指摘できる。さらに言えば、
③「受益者」や当事者の「大学問題」への無関心を助長し、消費者に「学校外教育」を受けるように扇動し、儲けることしか考えない塾・予備校などの教育産業の存在もあるだろう。

 もちろん、上にあげた二つの理由以外にも、人によって様々なことを追加することはできるだろう。「敗北」/「勝利」の理由、その総括を深めることは、「では、これから何をどうすればよいのか?」を考案するあたり、様々な方針上の選択肢を提出するものであるから、とても重要な作業である。しかしそれは、私の仕事ではない。
 以下では、上に記した私なりの分析に基づき、①「産官学連携」路線への「対抗言説」に関する個人的問題意識と、②「大学の自治」という概念の再考作業を通じて、私なりに「問題の所在」を浮き彫りにする試みをしてみたいと思う。


 私たちは、自分が「壊れかけている」と思っても、日常生活を送り、仕事ができているかぎりにおいては、そのことを自分にも他人にも隠そうとする。無理をして自分を誤魔化し、他人をも誤魔化そうとする。そして、「ヤバイ!」と思ったときには、たいていは「薬漬け人間」になっている/されている。私はそうなった人/いま、まさにそうなっている人を、たくさん知っている。
 
 大学はどうか? 日大は、なぜ「壊れた」のか?
 日大には、毎年、100億円を超える「日大助成金」が文科省から流れている。2010年度の額もすぐに調べられるので、興味のある人は自分で調べて欲しい。『大学を解体せよ』によれば、5年前でその額は126億円(!)に上る。つまり、納税者ばかりでなく、生まれたばかりの子どもから寝たきりで臨終を持つ人々まで、この国のすべての人が毎年100円を日本大学に「寄付」させられている計算になる。
 日大の次に多い大学はどこか。言わずと知れた、早稲田大学である(5年前で102億円)。たったこの二大学に、「私学補助金」総額の約15分の1の金が流れていることを知る納税者、「国民」は少ないのではないか。
 100億、さらにそれに20億、30億を加算した金、血税が、「補助/助成」という名目で毎年二つの私立大学、「学校法人」に流れてゆく。日大と早稲田の経営陣・理事会は、黙っていても毎年この金を、国を通して受け取るわけだ。これほど「おいしい、ボロイ商売」がこの世にあるだろうか?

 けれども、120億、130億程度の金なんて、日大資本にとっては、ただの「端(はした)金」に過ぎない。「リーマン・ショック」以前の日大の年間予算はざっと2500億円。さらにそれとは別に運用可能な、ざっと3000億円の資金を日大当局は保有していた。(入学金・授業料・寄付金など、要するに学生の「保護者」から吸い上げた金が元手の3000億円は「リーマン・ショック」後のいま、いったいどうなっているのだろう?)。
 2500億円という額は、静岡市レベルの(表の、つまり裏を含まない)年間予算に匹敵する。そして3000億は、北朝鮮の国民総生産の10分の1以上の額になる(例えが、わかりずらいだろうか?)。日大という「超」が付くマンモス大学は、「大学」という名前こそついてはいるが、その実態は「教育事業」でひたすら収益を上げることを目的とする、「フランチャイズ経営」形態の「株式会社」、大企業と定義した方がよい。それを「学校法人」と呼んでいるのは、官僚機構が定めた「株式会社大学」と一般「学校法人」との「設置形態」をめぐる法解釈上の違いに、ただ私たちが準じ、そう呼ばされているだけのことなのだ。

 私は、私立大学が日本の大学教育の実質的な屋台骨を形成しているだけに、現状では税金が私学の「補助/助成」に向けられるのは必要だと考えている。しかし、5500億円もの財政+資金規模を有する大学、しかも総長選になると1億、2億の金が票の買収工作に使われるような大学に、なぜ130億円近くもの血税が注ぎ込まれねばならないのか、まったくその理由が分からない。早稲田にしても、それは同じである。

 在学中の学生諸君や卒業生・教職員の反感と反発しか買わないことを覚悟の上で、私はこのような日大や早稲田が「壊れている」ことを、出版から四年近くになる『大学を解体せよ』の中でも触れている。しかし「壊れている/いない」は、そこに大学という社会的組織体の在り様に対する価値基準が介在した分析・評価であって、日大にしても早稲田にしても、大学当局・経営陣は「壊れている」なんて、当然考えていない。彼/彼女たちにしてみれば、むしろ〈私たち〉の方が「壊れている」。

 ただ、一点だけ『壊れた大学』の著者に私が感じるのは、たしかに日大が「壊れた」現場を知る者の暴露本として、実態を知らない者に対する情報価値はあるとは思うのだが、「何を今更」という印象が拭えないことだ。少なくとも章立てを見るかぎり(関心のある人は自分で調べて欲しい)、この人は定年退官年齢を遥か過ぎた年まで日大教授として日大資本の恩恵を受けてきた人であり、最後の最後にケツを巻くって「おしりペンペンをカマシタ」といった類の暴露本にしか、どうしても思えない。なぜなら、日大の学部教授会のみならず、日本の大学の学部教授会が「トップ・ダウン」方式による大学の機構改革によって形骸化し、企業化した大学の「株主総会」と化したのは、今年や去年の話ではないからだ。ここで上に述べた「敗北」の理由、〈対抗言説〉の内容が問題として浮上するのである。(2010/12/23)


 ちょっと閑話休題。クリスマス・シーズンのヨーロッパの学生運動は、先週からイタリアにフロント・ラインを移し、荒れに荒れている。
 同時多発的・波状的に展開されてきた、とくに「リーマン・ショック」後の「世界の学生運動」は、その国の財政状況、政党政治の歴史と現状、社会・労働・学生運動の歴史と現状によって、その激しさも違えば、具体的な運動の課題も違ってくる。街頭行動が「平和的パレード」で終わることもあれば、ときには武装警察との肉弾戦が展開され、火炎瓶が飛び交うこともある。国家=権力からのポポロ(ピープル)の「アウトノミア」(オートノミー=自律)を唱導してきた大学知識人アントニオ・ネグリの国、イタリアの場合は後者のケースである。

 ネグリの思想については、その解説めいたものを読んだことがあるのと、米国の「知識人」と言えるのかどうかは私には判断できない大学人とネグリとの共著とされている『〈帝国〉』を流し読みした程度の知識しか私は持たない。ネグリが「共産主義的アナキスト」なのか「アナキスト的共産主義者」なのかも知らない。しかし、「アウトノミア」は現代人がもっとも真剣に考えるに値する概念だという認識は、私も持っている。
 「だからこそ」と言うべきか、「しかし」と言うべきか、私は歴史的学説であり運動の理論でもある、未だに互いに抗争をやめない「共産主義」と「アナキズム」の思想と理論もまた、いったん解体し、その瓦礫の山からそれぞれが何をもう一度拾い、何を葬り去るのかを自分で決める必要がある、と考えている。

 アウトノミア/オートノミーを共産主義やアナキズムの思想から解放し、自分の生きる思想にすること。それが、自己に課した私のテーマである。この15年ほど、国連体制下の現代世界秩序において政治・経済・社会・文化的なアウトノミア/オートノミーを否定されてきた先住民族や「マイノリティ」の「主権/自決権」の問題を考えてきたが、それは自分の生の在りかたに「アウトノミア/オートノミー」が欠如している、という自覚があったからだ。
 そこで、「アナキズム」思想一般と、例えばこの間、世界の先住民族が主張してきた「アウトノミア/オートノミー」の何が違う/ズレるのかを、簡単に記しておきたい。先住民族の「脱植民地主義」と「アウトノミア/オートノミー」をめざすたたかいは、大学のそれをめざす、これからの長い、長いたたたかいの理論的・運動的宝庫と言えるからだ。

(つづく)