2010年12月29日水曜日

2010年の終わりに---こんな世界、日本に誰がした

2010年の終わりに---こんな世界、日本に誰がした


 大田昌秀元沖縄県知事から、『こんな沖縄に誰がした』(同時代社、2010)を贈っていただいた。サブタイトルは、「普天間移設問題--最善・最短の解決策」。先週、遅ればせながら『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』を贈呈させていただいたのだが、わざわざ手紙まで添えて、その「お返し」をして下さったのである。深謝。
 『こんな沖縄に誰がした』の帯にはこう書かれている。「日米両政府合作によってつくられた現実を、無視しつづける鉄面皮はもう許されない。海外移設への具体的道を提示する!」 続けて、大田さんは言う。「私は泣き言をいうのではない。事態が何に起因するかを明かし、解決への道を提起したいのだ。」

 沖縄・核密約の真実を暴き、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(新装版、文藝春秋、2009)を著した若泉敬は、核付き・基地付きのまま「返還」された沖縄の現実を変えることのできない/その意思さえ持たない日本政府、そして日本社会を「愚者の楽園 Fool’s Paradise」 と呼んだ。であるなら、愚者=fool=バカの楽園とは、大田さんの言う鉄面皮の楽園、ということになる。私たちは、気が滅入るような「楽園」に住んでいるらしい。

 私たちの多くは、さしあたり、菅首相、民主党、この国の現内閣を「愚者の楽園」に生きる鉄面皮集団、と定義することに異論はないだろう。しかし、こと沖縄・普天間問題に関して言えば、私たちもまた愚者であり、鉄面皮の人間であることを認めざるをえない。その上でこれから、「で、私たちは沖縄・普天間問題をどうするのか?」をそれぞれがそれぞれの場で考える以外に道はなさそうだ。「こんな沖縄」にしたのは私たち自身でもあるからである。
 

 『出版ニュース』という出版業界の業界誌がある。その「2011年1月上中合併号」の「ブックガイド」に拙著が紹介されている。昨日、新評論よりコピーを送っていただいた。日本の新刊出版数は、年間ざっと8万冊程度。毎日200冊以上が出版される計算だ。その内、『出版ニュース』に掲載される本はごくごくわずかになるはずだから、とても名誉なことだ。
 「ブックガイド」には拙著を含め14冊の新刊が紹介されている。長倉洋海氏の『私のフォト・ジャーナリズム』(平凡社)、山田朗氏の『これだけは知っておきたい 日露戦争の真実』(高文研)、阪口修平編著『歴史と軍隊』(創元社)などが並んでいる。なかでも目がとまったのは、『中世の知識と権力』(マルティン・キンツィガー著、井本 晌二・鈴木麻衣子訳、法政大学出版局)だった。

 『中世の知識と権力』の目次にある、「13 大学における古いものと新しいもの」「14 知識を巡る争い」「15 王の知識と貴族の教養」、そして「あとがき 知識社会における教養、知識、権力」が関心をひいた。これらはそっくりそのまま、いまの日本社会と大学の問題にひきつけて、大学人のみならず私たち自身が問わねばならないテーマだからである。もっとも、「王の知識と貴族の教養」は「官僚(や官僚出身の政治家)の知識と市井の人間の教養」に書き換えなければならないが、文科省が「知識基盤社会」と言う現代日本における「教養、知識、権力」の関係に、私ももっと自覚的であらねばならないと思った。

 「大学における古いものと新しいもの」「知識を巡る争い」。この表現に触れて、思い出したことがある。一昨日、首都圏のとある国立大学法人に助手として勤める友人と行った忘年会での話である。
 
12/31/2010

 生々しい話を抽象的に語るのは難しい。
 要するに、国立大学法人の助手になったところで、それで大学人としての将来が保障されるわけでは決してない、という話が一つである。そして、助手にも常勤と非常勤があって、非常勤講師というのは授業のコマを担当するだけだが、助手の方は常勤も非常勤も、院生の論文アドバイスをはじめとした「ティーチング・アシスタント」の仕事もする。事実上、院生の「ケア」をしているのは教授や助教よりも、助手の方だということになる。院生や助手を教授の「奴隷」とする、いわゆる昔の講座制の悪い因習というのが今でも厳として生きていて、その皺寄せを大学人位階制の最下層の助手が蒙り、犠牲になっている、というのが二点目である。

 もちろん、大学人として生きてゆこうとする人の多くは、自ら率先して「奴隷」になったし、今でもそうだろう。そういう人々も私は知っている。しかし今では「奴隷」になったとしても、未来が保障されるわけではない。そこが決定的に変わってきているのだ。
 その一方で、論文を書かず、およそ「業績」と呼べるものを持たない人間が国立大学法人の教授職にのさばっている現実がある。私立大学の場合には、その数はもっと増えるに違いない。私は論文を一本しか書いていない人間が東京大学法人の教授職に就いていることを知っているので、そういうことを聞いても、とりたたて驚きはしない。アカデミズムの世界も、それ固有の「ポリティクス」というものがあり、その世界でうまく立ち回れる人間が権勢を振るうようになるのは、一般企業や現実政治の世界と何ら変わらない。それを「アンフェアー」と言う方が、むしろナイーブ過ぎるという謗りを受けることになる。
 しかしそうだとしても、常勤はともかく非常勤の助手までが院生の論文アドバイザーとしての仕事を負わされている現実は、どう考えても腑に落ちなかった。そこまでさせるなら常勤として雇用すべきであるし、そういう不安定な立場にある者の指導を受けている院生の立場から言ってもそうだろう。実際、それは国立大学法人への運営費交付金の減少云々の問題に解消されてよい問題ではない。現行の国立大学法人の給与体系を少し改善するだけで処理できる問題なのだ。

 たとえば、ここに「国立大学法人東京大学の役職員の報酬・給与等について」がある。他の国立大学法人の総長/学長以下の「役職員の報酬・給与等」も各大学ごとの規程がある。その額は、東大を頂点とするピラミッドを形成しているのだが、東大の「役員」にも文科省の天下り官僚がいて、年収2000万近くの報酬を得ていることがわかる。これと同様の現象が日本全国の国公私立大学にみられるのである。

 大学の正規の「役職員」は、キャリア官僚および公務員と同様の、さまざまな「手当」によって厚遇されている。 東大総長であれば「教育研究連携手当」だけで232万円、ある理事は「副学長手当」と「教育研究連携手当」で300万円の報酬を得ている。「非常勤」の役員は、それだけで年間300万から400万円の所得を保障されている。だから、
①大学天下り官僚を廃絶し、
②役員や教授以下の正規の教員のみならず、職員の「手当」の在りかた、その額の妥当性如何をめぐる全学的な「事業仕分け」をして「無駄」をカットし、
③「ワークシェアリング」と「サラリーシェアリング」を進めるだけで、
「不当労働」を強制されている非常勤助手・講師・職員の常勤化はかなり程度保障できるのだ。東大や各大学の当局は「財政の窮状」を一般学生や「保護者」/納税者に訴える前に、やるべきことが山程あると言わねばならないだろう。

 私は『大学を解体せよ』の中で「大学の経済学」を経済学すること、「大学の経営学」を経営学することが、大学で学ばされている経済学や経営学を学んだり、今年ブームとなったドラッカーなんかを読むことより、はるかに世界経済と日本経済の現実を学ぶことになると書いたが、そのことを改めて学部生・院生や非常勤助手・講師・職員、このブログの読者に問題提起をしておきたいと思う。


 私のごく身近に、現役の大学生が二人いる。一人は都内のとある私大文系の三年生で、すでに「就活」に入っているが、何の展望もない。もう一人は、中部地方のとある国立大学法人で「臨床看護師」をめざす二回生だが、大学院に進学するかどうか/そのための態勢に入るかどうかで悩んでいる。
 この二人の同世代には、昨春、とある関西の国立大学法人・文系を卒業しつつも就職できず、家庭教師と予備校でのバイトで食いつなぎながら、未だ就職先がみつからず、来年以降も「フリーター」確定の者や、都内の私大文系卒業後、一旦就職し、専門学校に通いながら、とある官僚機構にもぐりこんだ者、さらには高校時代から不登校となり、「職業としての引きこもり」人生を送っている者たちがいる。
 
 大学に進学した者たち全員に共通しているのは、学生時代の無利子・有利子の「奨学金」を自分の「負債」として抱え込んでいることだ。知人の中には800万円近い「負債」を抱えたまま、とある国立大学法人の契約研究員になった人もいるが、上に述べた子ども、いや成人になった者たちは、無事に就職できたとしてもできなかったとしても、これからの人生で多額の借金を抱え込み、社会人としての出発点が借金返済人生の始まりとなる。何かがどこかで、決定的に間違っている、とは思わないだろうか? 

 何かがどこかで、決定的に間違っていると思っても思わなくても、私たちすべてが直面している現実は、米国経済は2014年まで回復の兆しはみられないということ、そしてこれに引きずられる形で、ギリシャ・アイルランドに続くEU圏のデフォルト危機がさらに進行し、世界経済のみならず日本経済も波乱含みのこれからの数年を迎えることである。

 ちょうど一年前、政権交代後の民主党のブレや迷走ぶりを訝り、「こんなはずじゃなかっただろ?」と感じていた〈私たち〉の思いは、今では「やっぱりこうなってしまった」に変わってしまった。
 けれども、政権交代への支持/不支持/無関心を超えて、ここでも私たちすべてが直面している現実は、世界や日本がどうなろうと、そのことに誰も責任を取ろうとしないこと、そして現政権が違う政権に変わったところで、既成の政党政治の枠組みでは、何も変わらないであろうことも完全に予測可能になっていることである。

 そんな中で、日本の官僚機構とキャリア官僚は、巻き返し戦略が功を奏し、着実にその権力構造と特権構造の保持に勝利しつつある。
 たとえば、毎日新聞は一昨日、仙谷由人官房長官が、各府省事務次官に年末訓示を首相官邸で行い、「(政務三役会議から)事務方を排除して意思疎通が図られないのはいけない。決定事項が円滑に連絡され速やかに実行されるよう、次官、官房長が出席、陪席するように」と述べ、政務三役会議に出席するよう指示した」と報じた。「政治主導」を掲げ、事務次官会議を廃止し、政務三役会議を各府省の最高意思決定機関としてきたことを翻しての決定である。しかも仙谷自身、去年の12月には、民間企業で社長や労務担当重役以外に、事務トップがいる組織は見たことがない。組織をちゃんと営むには、常識的な格好がある」と次官ポストの廃止を表明していたにもかかわらず、である。

 毎日新聞によれば、訓示で仙谷は、「政治主導とは決して事務方が萎縮したり、汗をかかず政治に丸投げすることではない。適切に役割分担し緊密な情報共有、意思疎通を図り、国家国民のために一丸で取り組むことだ」と強調し、「官邸にも速やかに必要な情報が伝わるよう、事務方間の連絡体制を整える必要がある」と求めたということだ。

 一方、読売新聞の昨日付け電子版は、「キャリア優位変わらず、室長以上昇進の過半数に」と題された記事の中で、「2009年度に各府省で室長以上に昇進した国家公務員のうち、1種採用のいわゆるキャリア職員が全体の半分以上を占めていることが、総務省のまとめでわかった。政府は09年3月に国家公務員の能力・実績主義を徹底するとする基本方針を閣議決定したが、キャリア優位の傾向が依然強いことを裏付けた」と書いている。

 この「基本方針」なるものは、「職員の採用年次や採用試験の種類にとらわれない人事管理」を行うとし、能力次第で慣行にとらわれない早期昇任や2段階以上上位の官職へ昇任する「飛び級」も可能とするものだった。しかし実態は、「09年度に室長以上になった450人の職員のうち、キャリアは249人で、昇進までにかかる時間も、キャリアが10年程度短かった。課長以上では、8割以上をキャリアが占めていた」のである。

 政治家や政党と同様に、日本の官僚機構は政策展開(「法の運用」)において失敗しても、いっさい責任を取ることはない。日本国憲法には、そもそも「政党」に関する条項など存在しない。また、官僚がつくった日本の法体系は、政策の失敗ごときで責任を取るなどということからキャリア官僚を頂点とする国家・地方公務員を徹底的に防衛しているのである。

 もしも私たちが、「こんな日本に誰がした」と問うのであれば、たとえ世界や日本がどうなろうと、誰も、何も責任を取らずして涼しい顔をして権力を濫用し、特権を貪る日本の政党政治と官僚制度を成り立たせている、その「法源」を突き止める必要がある。自民党にしろ民主党にしろ、なぜその改正や廃止をしようとしない/できないのかを考えてみることである。そしてそれら法体系の「構造改革」を未来における政治のアジェンダとするムーブメントを起こす以外に道はないのである。
 昨日私は、とある出版社の編集者と今年最後の忘年会をしたが、そういう書を世に問うことで意見の一致をみた。その書の内容と構成を考えることと構想中の新本の原稿着手が、新年からの私の仕事になるはずである。

 最後に、このブログを訪問し、書きなぐりの文章に目を通して下っているみなさんに感謝したい。
 良い新年を迎えられんことを。

2010年12月22日水曜日

大学の「脱植民地化」---「大学の自治」再考

大学の「脱植民地化」---「大学の自治」再考


 『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の中で、「霞が関イリュージョン」という表現を使った。ある「公共政策」の立案や、その政策に関連する立法・行政措置において、官僚機構は「霞が関文学」を駆使し、その政策に秘められている本当の目的を見えにくくし、「国民」の目を欺こうとする。そのマヤカシを「霞が関イリュージョン」と名づけたのである。

 私たちは、「霞が関イリュージョン」に簡単に騙されてしまう。なぜなら、官僚が立案する「公共政策」が、たとえ一部の社会セクターのみに利益誘導をはかる政策であったとしても、その一部のセクターも「公共」を構成することには変わりなく、実際にはどのセクター/階層が利益を得て、どのセクター/階層が不利益を蒙るかなんて、一般の私たちにはわからないからだ。それを個々の政策ごとに分析し、見極めることは困難を伴う作業になる。
 政府が「内需創出のために減税する」と聞けば、誰だって「結構なことだ」と思いがちになる。しかしよくよく調べてみると、実質減税になるのは全体の1%に過ぎない年収1500万以上の世帯のみで、それ以下の世帯は増税になる、となる。これは、「霞が関イリュージョン」の古典的事例である。たしかに、一見では「低所得層」にも減税されるかのように見えたとしても、別の租税制度の仕組みによって、結果としては納税者の大多数には増税になる、というカラクリである。
 
 こうした「霞ヶ関イリュージョン」によって、ある政策を押し通そうとするときに、官僚機構は政治家(族議員)やメディアを利用し、一大キャンペーンを張る。官僚機構は政策立案→立法集団であると同時に、そのための言説を創造する集団、〈言説創造マシーン〉でもあるのだ。
 たとえば、小泉「構造改革」路線がキャンペーンされたとき、「努力した者が報われる社会」という言説が流布された。そして、「努力しないで報われている者」バッシングが、小泉「革命」を推進するキャンペーンとして、マスコミ自らが尖兵となって行われたのである。
(小泉政権のことなど、いまの20歳前後の人々にとっては、遥か「大昔」のことであり、ほぼ5年におよんだあの時代のことは記憶もおぼろで、自分の〈歴史〉には存在しないと思うのだが、大学のことも安保のことも、そしてNGOのことも今起こっていること/これから起こってゆくであろうことの矛盾や問題は、すべて小泉政権(とブッシュ息子政権)時に打ち出された政策に起因する。なので、まだ誰も提出していない小泉「革命」の「決算報告書」を私たちは自分でまとめる以外にない。そのための参考資料は巷に溢れているが、それらはあくまで参考資料に過ぎず、結局は自分の頭で考え、自分の言葉で語るしかないのである。)

 「努力した者が報われる社会」=「努力しないで報われている者がいない社会」・・・。
 「当然の社会で、結構なことだ」と誰だって思う。しかし、ここに「霞が関イリュージョン」のイリュージョンたる所以(ゆえん)、その罠、その落とし穴がある。

 小泉「構造改革」は、橋本行政改革を継承する、①官僚機構のスリム化と、②政府の歳出削減・歳入増加の二つを内政の主目的としていた。これを小泉政権は、「自民党をぶっ潰す」という大衆受けするスローガンをぶち上げてやった。その結果、「小泉フィーバー」が起こり、小泉政権は戦後屈指の長期安定政権となったのである。(「自民党をぶっ潰す」とは、自民党内「護憲・保守」と郵政などの公共部門や公共事業部門の「族議員」排除をさす)。

 この「小泉フィーバー」をプロモートしつつ、「小泉人気」にあやかったマスコミのキャンペーンは、「努力した者が報われる社会」キャンペーンと「努力しないで報われている者」バッシングとして展開された。
 前者の「努力した者が報われる社会」キャンペーンは、官僚機構が制定した法的規制を緩和・撤廃し、「民間活力」導入を積極的に推進するという理念の下で、「ベンチャー・ビジネス」の興隆とそれを支える「起業精神」を育成する観点から行われた。いわゆる「護送船団方式」の解体、「日本型経営」から「米国型経営」への転換である。

 そこで、「努力しないで報われている者」バッシング」は、当然のこと、①「税金を貪る」特権官僚や公務員労働者叩きと、②官僚の「天下り」の温床にもなっている「無駄な公共事業」叩きとして過熱化する。これらは国家財政を圧迫する国家公務員数と給与の削減を促進するキャンペーンと一体的に展開されたわけだが、「聖域なき構造改革」=「小さな政府」路線を追求する小泉政権と小泉路線に自己調整をはかろうとした官僚機構は、「安保・防衛」部門を聖域化し、「社会保障・教育」分野を削減・切り捨てることによって「財政再建」を行おうとした。
 その結果、「努力しないで報われている者」バッシングは、③社会保障費を膨張させる、いわゆる「社会的弱者」(高齢者・母子家庭・障害者などの低所得者層)叩きとしても展開されることになる。忘れてならないのは、④「子どもの学力低下」と「ゆとり教育」批判、日本の大学の「質の低下」と「旧態依然の大学」批判も、この文脈の中で登場したことである。 
 
「肉を切らせて、骨を断つ」

 私たちは、橋本行改→中央省庁の再編・統合→小泉「構造改革」→民主党への政権交代というこの10数年の過程を経ても、なぜ「公務員制度改革」が停滞し、中央官僚機構の抜本的「構造改革」が遅々として進まないのか、流布されるいろんな言説に惑わされることなく、自分の頭で一度考えてみる必要がある。

 中央省庁の再編・統合以降のこの10年近くを、自公連立政権、民主連立政権、官僚機構、メディア、そして「国民」という「アクター」間の構図でみた場合、ひとり勝ちしたのは官僚機構である。日本の官僚機構は「肉」=「天下り」を含む官僚特権の一部を切らせて、「骨」=官僚機構の持つ権力構造の解体論を「断つ」ことに成功したのである。

 菅直人首相は「日本の官僚はバカだ」と言ったことがある。丁度、1年くらい前のことだ。菅が言わんとしたのは、官僚の「前例主義」批判だった。「官から政へ」の政策決定過程の転換をはかろうとしても、一つの政策とその政策を根拠付ける法制度をめぐる過去の積み上げ=「前例」を盾に、官僚が「抵抗」し、言うことをきかない。これに腹をすえかねた菅の焦燥感と怒りが記者会見という公の場で爆発したのだった。
 けれども、「前例主義」は「法の番人」としての官僚機構に内在する「慣性の法則」のようなものなのであって、官僚の内的論理によってこれから脱却することなど不可能である。(以下、後日追記)。  


 「大学の社会貢献」論は、小泉「大学革命」という「霞が関イリュージョン」において最大限に駆使された言説である。大学が社会に貢献する。「結構なことだ」と思う。しかし、「社会」に貢献する大学に創り変えることによって、大学が「壊れる」。一部の大学が「社会」に貢献する一方で、大多数の大学が「壊れる」・・・。そうなることを私たち(の多く)は、見抜けなかったのだ。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、「東大が世界最大の軍事産業との国際産官学連携で儲ければ、日大が壊れる」。どう考えても「風が吹く」ことと「桶屋が儲かる」ことは繋がらないように思えるが、ある力が作用し、その連鎖反応によって想定もしていなかった事態が派生するように、日本における軍産学複合体の形成が、多くの国公私立大を「壊す」ことになる。しかも私たちは、東大自体がすでに「壊れている」ことにいまだに気づかない・・・。

 「社会に大学が積極的に連携しつつ、それによって大学が社会に貢献する」という「大学の社会貢献」論は、「大学院研究が戦略的先端産業部門の技術革新に貢献する「産官学連携」という言説を正当化し、その言説を社会化する、すなわち「国民的コンセンサスを得る」ために活用された。大学の「社会貢献」という言説に、「バブル崩壊からの日本経済の脱却」「日本再生」などのキャッチコピーをつければ、マスコミはイチコロだ。簡単に官が仕組んだキャンペーンに便乗する。

 私たちは「大学の社会貢献」論を創造・流布し、それによって産官学連携と国立大学法人化・私大「改革」を構想し、仕掛けたのが、旧通産官僚や科技庁官僚であったことを忘れてはならない。
 橋本行政「改革」方針が打ち出されたときには、すでにその青写真が確定していた「産官学連携」路線の「影の立役者」には、京大出身の元新左翼の理論家で、転向し、米国の軍産学複合体の一角を占めるスタンフォード大に移った、旧通産官僚からカリスマ視された人物がいるのだが、問題は、「講壇マルクス主義者」をはじめとした人文・社会科学系フィールドの大学人が、単なる情勢/現状分析を超えた、「産官学連携」をめぐる霞が関イリュージョン、その言説の欺瞞と虚構を暴き、対抗言説を打ち出すことができなかったことにある。
 だから、「敗北」(もしも、そういう認識に立てばの話であるが)は、1990年代の半ばにすでに決まっていたのである。

 しかし、この「敗北」/「勝利」は、必然的な事態だった。それには、いくつかの理由がある。
 一つは、もともと大学教職員の「闘争」というのは、官公労労働運動と同様に、賃上げ・身分(特権)保障・労働条件及び職場環境改善を三つの柱とするものであり、法人化を始めとする大学「改革」に対しても、これらが悪化することに反対するという論理で取り組まれたことだ。
 つまり、「産官学連携」路線による大学研究・教育の変質や崩壊を論じたのは、ごく一部の「良識派」大学人であり、しかもその主張さえも論理の土台は前者にあった。「法人化」しても「身分保障」がされるかどうかが、多数派の「闘争」の主眼だったわけである。もっと分かりやすく言えば、小泉大学「革命」が、運営費交付金や私学助成金の削減を伴わず、国からの大学界全体に対する「学術研究・教育」予算の増額を伴うものであったなら、「革命」に対する反対運動など、起こりようもなかったのである。

 丸山真男は「六〇年安保」の前に、当時の社会党-総評の指導部が「安保は重い」(労働者を安保闘争に組織動員するのは困難)と言ったと生前に証言したことがあるが、「産官学連携は重い」といった状況が、法人化以前に、すでに大学業界内部でつくられていたのである。言葉を換えるなら、大学人の圧倒的多数派が、大学現場で「アカデミック・フリーダム」はもとより、「言論の自由」さえ抑圧・封殺されてゆくことに対して、自分自身のサバイバルをかけて沈黙し、「職場闘争」「現場のたたかい」を放棄したのである。総じて、大学当局ともたたかわず、「大学の危機」を見過ごし、自己保身に走ったのだ。これが、歴史が教える現実である。

 二つ目は、官製版大学解体=「大学の崩壊」を社会問題化できなかったことである。
 これには、大学問題が大学の下位にある教育現場(高専・高校)の問題と有機的に関連した問題であることを、研究・教育論に即して大学人サイドが分析し、論理化することができなかった/しようとしなかったことが、さらにその理由の一つとして指摘できる。

 日本の教育制度は、東大・京大を偏差値の頂点とする階層化された大学システムへ向けて、その合格者数を競う形でさらに初等・中等教育が公私とも序列・階層化されているにもかかわらず、
①初等・中等・高等教育全般にわたる文科省および官僚機構の統制・差別・分断構造が確立していることに加え、
②初等・中等教育に対して、地方自治体の「教育委員会」という、自治体の官僚機構の延長組織による統制・差別・分断構造という「統制と支配の二重構造」が存在する。
 この「二重構造」が、大学問題を日本の教育制度全体の問題=教育界全体の問題として取り組むことを制度的に阻害し、これが障害となって、「大学問題」を社会問題化することを困難たらしめてきた。
 しかし、その責任の大半は、「戦後」という長いタームで考えるなら、大学システムの下層に位置付けられた多数の私立大学教員を除き、擬似「象牙の塔」の安住し、俗世から隔絶された研究・教育活動に埋没してきた「有名」大学の大学人の側にあると言ってよいだろう。

 さらにこの二つ目の理由の二点目として、
①「大学問題」を子ども進学問題に解消し、それを日本の政治・経済・社会問題として捉えることをしない/できない傾向がいまだに強いメディアや、
②大学教育サービスの「受益者」としての「保護者」と学生/高校生の、大学を偏差値やブランドでしか判断しない/そのように社会的に洗脳され、仕向けられた、「大学問題」に対する無関心、この二つが指摘できる。さらに言えば、
③「受益者」や当事者の「大学問題」への無関心を助長し、消費者に「学校外教育」を受けるように扇動し、儲けることしか考えない塾・予備校などの教育産業の存在もあるだろう。

 もちろん、上にあげた二つの理由以外にも、人によって様々なことを追加することはできるだろう。「敗北」/「勝利」の理由、その総括を深めることは、「では、これから何をどうすればよいのか?」を考案するあたり、様々な方針上の選択肢を提出するものであるから、とても重要な作業である。しかしそれは、私の仕事ではない。
 以下では、上に記した私なりの分析に基づき、①「産官学連携」路線への「対抗言説」に関する個人的問題意識と、②「大学の自治」という概念の再考作業を通じて、私なりに「問題の所在」を浮き彫りにする試みをしてみたいと思う。


 私たちは、自分が「壊れかけている」と思っても、日常生活を送り、仕事ができているかぎりにおいては、そのことを自分にも他人にも隠そうとする。無理をして自分を誤魔化し、他人をも誤魔化そうとする。そして、「ヤバイ!」と思ったときには、たいていは「薬漬け人間」になっている/されている。私はそうなった人/いま、まさにそうなっている人を、たくさん知っている。
 
 大学はどうか? 日大は、なぜ「壊れた」のか?
 日大には、毎年、100億円を超える「日大助成金」が文科省から流れている。2010年度の額もすぐに調べられるので、興味のある人は自分で調べて欲しい。『大学を解体せよ』によれば、5年前でその額は126億円(!)に上る。つまり、納税者ばかりでなく、生まれたばかりの子どもから寝たきりで臨終を持つ人々まで、この国のすべての人が毎年100円を日本大学に「寄付」させられている計算になる。
 日大の次に多い大学はどこか。言わずと知れた、早稲田大学である(5年前で102億円)。たったこの二大学に、「私学補助金」総額の約15分の1の金が流れていることを知る納税者、「国民」は少ないのではないか。
 100億、さらにそれに20億、30億を加算した金、血税が、「補助/助成」という名目で毎年二つの私立大学、「学校法人」に流れてゆく。日大と早稲田の経営陣・理事会は、黙っていても毎年この金を、国を通して受け取るわけだ。これほど「おいしい、ボロイ商売」がこの世にあるだろうか?

 けれども、120億、130億程度の金なんて、日大資本にとっては、ただの「端(はした)金」に過ぎない。「リーマン・ショック」以前の日大の年間予算はざっと2500億円。さらにそれとは別に運用可能な、ざっと3000億円の資金を日大当局は保有していた。(入学金・授業料・寄付金など、要するに学生の「保護者」から吸い上げた金が元手の3000億円は「リーマン・ショック」後のいま、いったいどうなっているのだろう?)。
 2500億円という額は、静岡市レベルの(表の、つまり裏を含まない)年間予算に匹敵する。そして3000億は、北朝鮮の国民総生産の10分の1以上の額になる(例えが、わかりずらいだろうか?)。日大という「超」が付くマンモス大学は、「大学」という名前こそついてはいるが、その実態は「教育事業」でひたすら収益を上げることを目的とする、「フランチャイズ経営」形態の「株式会社」、大企業と定義した方がよい。それを「学校法人」と呼んでいるのは、官僚機構が定めた「株式会社大学」と一般「学校法人」との「設置形態」をめぐる法解釈上の違いに、ただ私たちが準じ、そう呼ばされているだけのことなのだ。

 私は、私立大学が日本の大学教育の実質的な屋台骨を形成しているだけに、現状では税金が私学の「補助/助成」に向けられるのは必要だと考えている。しかし、5500億円もの財政+資金規模を有する大学、しかも総長選になると1億、2億の金が票の買収工作に使われるような大学に、なぜ130億円近くもの血税が注ぎ込まれねばならないのか、まったくその理由が分からない。早稲田にしても、それは同じである。

 在学中の学生諸君や卒業生・教職員の反感と反発しか買わないことを覚悟の上で、私はこのような日大や早稲田が「壊れている」ことを、出版から四年近くになる『大学を解体せよ』の中でも触れている。しかし「壊れている/いない」は、そこに大学という社会的組織体の在り様に対する価値基準が介在した分析・評価であって、日大にしても早稲田にしても、大学当局・経営陣は「壊れている」なんて、当然考えていない。彼/彼女たちにしてみれば、むしろ〈私たち〉の方が「壊れている」。

 ただ、一点だけ『壊れた大学』の著者に私が感じるのは、たしかに日大が「壊れた」現場を知る者の暴露本として、実態を知らない者に対する情報価値はあるとは思うのだが、「何を今更」という印象が拭えないことだ。少なくとも章立てを見るかぎり(関心のある人は自分で調べて欲しい)、この人は定年退官年齢を遥か過ぎた年まで日大教授として日大資本の恩恵を受けてきた人であり、最後の最後にケツを巻くって「おしりペンペンをカマシタ」といった類の暴露本にしか、どうしても思えない。なぜなら、日大の学部教授会のみならず、日本の大学の学部教授会が「トップ・ダウン」方式による大学の機構改革によって形骸化し、企業化した大学の「株主総会」と化したのは、今年や去年の話ではないからだ。ここで上に述べた「敗北」の理由、〈対抗言説〉の内容が問題として浮上するのである。(2010/12/23)


 ちょっと閑話休題。クリスマス・シーズンのヨーロッパの学生運動は、先週からイタリアにフロント・ラインを移し、荒れに荒れている。
 同時多発的・波状的に展開されてきた、とくに「リーマン・ショック」後の「世界の学生運動」は、その国の財政状況、政党政治の歴史と現状、社会・労働・学生運動の歴史と現状によって、その激しさも違えば、具体的な運動の課題も違ってくる。街頭行動が「平和的パレード」で終わることもあれば、ときには武装警察との肉弾戦が展開され、火炎瓶が飛び交うこともある。国家=権力からのポポロ(ピープル)の「アウトノミア」(オートノミー=自律)を唱導してきた大学知識人アントニオ・ネグリの国、イタリアの場合は後者のケースである。

 ネグリの思想については、その解説めいたものを読んだことがあるのと、米国の「知識人」と言えるのかどうかは私には判断できない大学人とネグリとの共著とされている『〈帝国〉』を流し読みした程度の知識しか私は持たない。ネグリが「共産主義的アナキスト」なのか「アナキスト的共産主義者」なのかも知らない。しかし、「アウトノミア」は現代人がもっとも真剣に考えるに値する概念だという認識は、私も持っている。
 「だからこそ」と言うべきか、「しかし」と言うべきか、私は歴史的学説であり運動の理論でもある、未だに互いに抗争をやめない「共産主義」と「アナキズム」の思想と理論もまた、いったん解体し、その瓦礫の山からそれぞれが何をもう一度拾い、何を葬り去るのかを自分で決める必要がある、と考えている。

 アウトノミア/オートノミーを共産主義やアナキズムの思想から解放し、自分の生きる思想にすること。それが、自己に課した私のテーマである。この15年ほど、国連体制下の現代世界秩序において政治・経済・社会・文化的なアウトノミア/オートノミーを否定されてきた先住民族や「マイノリティ」の「主権/自決権」の問題を考えてきたが、それは自分の生の在りかたに「アウトノミア/オートノミー」が欠如している、という自覚があったからだ。
 そこで、「アナキズム」思想一般と、例えばこの間、世界の先住民族が主張してきた「アウトノミア/オートノミー」の何が違う/ズレるのかを、簡単に記しておきたい。先住民族の「脱植民地主義」と「アウトノミア/オートノミー」をめざすたたかいは、大学のそれをめざす、これからの長い、長いたたたかいの理論的・運動的宝庫と言えるからだ。

(つづく) 

2010年12月17日金曜日

民主党政権による新たな「琉球処分」を許さないために---あるいは、〈歴史〉を消去されないために

民主党政権による新たな「琉球処分」を許さないために---あるいは、〈歴史〉を消去されないために

 1990年代の最後の数年間、つまり第二期クリントン(民主党)政権の途中から、ブッシュとゴアの大統領選の予備選が本格化しようとしていた頃まで、理由があって私はワシントンD.C.南の「黒人居留区」に引きこもっていたことがある。
 その時に知った、二人とも外科医、女性の方は脳外科医のあるカップルの話である。
 二人は、「売れっ子」の超多忙な医者である。だからまず、食事はすべて外食、テレビは観ない/観る時間がない。新聞は読まない/読めない、メールもしない/できない。移動の車内では、好きな音楽を聴くか、車内に設置した携帯でのオペや会議の打ち合わせをするかになる。時間があるときには専門雑誌に目を通しておかねばならないし、原稿も書かねばならない・・・。

 私がびっくり仰天したのは、その二人が当時の米大統領、自分の国の大統領、クリントンの名前を知らなかった/言えなかったことである。当然、「コソボ紛争」に対する米国の介入、NATOの空爆のことも知らない。自分の国が戦争状態にあること、いや世界で何が問題になっているのかはもとより、共和党と民主党との間で何が次の大統領選に向けた攻防のアジェンダとなり、米国社会の主なイシューとなっているのかなど、何も知らなかったのである。

 さらに、彼と彼女は、選挙登録はしていても、30代の頃から大統領選や中間選挙はもちろん、およそ選挙に行って投票したことがない。こうしたことを、二人は笑いながら話していた。「こういう人たちがいるんだ!」と、呆れるというより私は深く感嘆し、二人の超過労状況を逆に気の毒に思ったことを覚えている。

 専門の仕事や研究に忙殺され、労働以外の自分の「余暇」もその専門に関わることに追われ、しかも日常生活で会話をする相手も同じ専門同士の、同じような労働・生活環境に置かれた者たちであるなら、程度の差こそあれ、私たちも実はこの二人と同じような存在であることは、自覚しておく必要がある。「ポリティクス」にヤタラ「詳しい」人間が、「ポリティクス」以外のことは、何も知らない、何も語れない、のも同じことなのであるから。
(「どの国がどうしたこうした、どの党、どの政治家がどうしたこうした」という分刻みの「下世話な話」は、「芸能やスポーツ業界の誰それがどうしたこうした」という「下世話な話」と同一のレベルでリーク・流布される「情報」に過ぎない。そういう「下世話な話」のリーク・流布を私たちが「ジャーナリズム」と呼んでいる/呼ぶことにしているだけの話である。)

 自分の国の大統領の名前を知らない超多忙の米国人外科医の話をしたのは、それを思い出させた人(たち)と、一昨日、私が忘年会をしたからである。
 その人は、首都圏のとある大学の薬学部を卒業し、とある企業で働く「アラフォー」の人である。
 もちろん、その人は、今現在の日本の内閣総理大臣が誰であるかは知っている。しかし、その人は「サンフランシスコ平和条約」が何年に締結されたか、今の安保条約が「改定」される前に「旧い安保条約」があり、それが「平和条約」と一緒に結ばれたこと、また日本が国連にいつ加盟したのか、さらに昔、中華民国(台湾)が安保理常任理事国であったこと、それがいつ中華人民共和国(中国)に代わったのか、自分が生まれた頃に「日中国交回復」がなされたこと、等々等々を知らなかったのである。

 つまり、「戦後」日本(「戦前」は言わずもがな)の「正史」、自分が生まれた時の時代状況、自分が生きてきた歴史について、知らないことがあまりに多いのだ。まして、現行の安保条約が、日本政府にその意思さえあれば、いつでも米国に対し、一方的に「終了」通告ができる国際条約であることなど、知るよしもない。岸内閣や佐藤内閣の時代に、いったいどんな「核密約」「沖縄密約」が交わされていたかなど、自分が生き、働くにあたって、関心の領域外である。「そんなこと」より、自分には知っておかねばならないこと、フォロー・アップしておかねばならない、山のような専門領域の知識・情報がゴマンとあるからだ。自分の「精神衛生」を保つための「趣味」の時間も取っておかねばならない。とてもこうした事柄をフォローする、そのためにその筋の「専門」の本を読む時間なんて実際問題としてない、ということだろう。

 私は、先日更新した「最近、考えさせられたこと」の中で、「知識障害者」という表現をした。私たちは、ある分野の知識はものすごくあるが、別の分野のことは何も知らない/知ろうとしない/知らなくて何の不自由もないし、そのことを何とも思わない人間として私たちが在ること、これがどの専門分野であれ避けられないような働くマシーンになっていることを自覚する必要がある。脳から〈歴史〉や何かを消去された働くマシーン、「ヒューマノイド」のような存在に。
 脳から〈歴史〉が消去されると、私たちは自分が何者であるかを同定できず、他者に対するエンパシーという、人間が人間であるために最も重要と思える能力が欠如した「人間もどき」の存在になる。私自身、そのことを『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の構想、下調べ、執筆過程において痛感させられた。
 私は、「戦後」日本(「戦前」は言わずもがな)の「正史」、自分が生まれた時の時代状況、自分が生きてきた歴史について知らないことがあまりに多い。つくづくそのことを思い知らされたのである。

 問題は、「義務教育」以降の今の教育制度のサバイバーとして、私たちが「知識障害者」であることの自覚症状がどの程度あるか、そして「いったい誰が、私たちの脳から〈歴史〉を消去しているのか?」というところにある。

「戦後」の「琉球処分」と「普天間問題」

 「日中国交回復」が自分が生まれた頃になされたことを知らなかったその人は、「沖縄返還」のことは知っていた。しかし、「沖縄返還」の「正史」には「外史」があり、その「外史」には日本への「復帰」に反対し、「琉球独立」を主張していた人々の存在が含まれることは知らなかった。
 しかしこれは、何もその人に限ったことではない。むしろ問題は、「復帰」後の38年間を通じ、さらには民主連立政権への政権交代を通じ、「日本=ヤマトへの「復帰」は、本当に正しい選択だったのだろうか?」と公言するようになった人々、公言はしないがそう考えるようになった人々が増えていることを、私たちの多くが知らない/知ろうとしないところにあるように思う。そして私たちは、その事実や「沖縄密約」の史実を知りながら、しかし38年前に遡って「どうすべきだったのか/これからどうすべきなのか」を考え、それを視聴者や読者に問題提起しようとしない巨大メディアの沖縄「報道」もまた、私たちから〈歴史〉を消去するエージェントとなっていることを知っておくべきだと思うのである。

 今日、県知事と会談し、「移設」への「理解」を要請した菅首相、民主党、日本政府に対する沖縄の多くの人々の怒り、怒りを通り越した白けきった反応を理解するためには、前々世紀に遡る「琉球処分」以後の琉球の歴史、せめてその大まかな流れくらいは押さえておかねばならないだろう。「普天間」がどうしたこうした、そういう問題だけで済まされることではないからだ。

 このような「琉球の今」を知る手がかりとして、読者に「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」のサイトに掲載されている記事や文章を、まず読んでみることを推奨したい。
 もちろん、基地問題をはじめ沖縄/琉球に関する専門・参考文献は限りない。しかし、この「問う会」の「呼びかけ人」に名を連ねている人々(そこには拙著をブログで紹介していただいた松島泰勝さんもいる)を見れば、いかに広範な人々がヤマトによる「琉球支配」の歴史を、いま問うているか、そしてそれが政権交代後のこの一年余りを経て、沖縄の若い世代、一般の人々の間にも広がってきていることは、容易に想像できることだと思う。

 この「問う会」の運動を報じたメディア、また報じなかったメディアが、「普天間問題」の今後を行方をどのように「報道」し、どのような内容を発信してゆくか。そのことをも含めて私たちは注目し、金をばら撒くことしか知らない菅政権の「琉球政策」「基地対策」が、二一世紀の第一次「琉球処分」としてあることを見抜いておかねばならないと思う。消去して/されてしまった〈歴史〉を、自分の脳に埋め込む作業を怠らないなら、それを見抜くことも決して困難ではないはずである。

2010年12月16日木曜日

天木直人さんの『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評

天木直人さんの『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評

 天木直人さんがご自身のメルマガで、四回にわたり『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評を連載されていたようだ。感謝。

 有料のメルマガということだけれど、関心がある人はこちらからどうぞ。2010年12月9日(第1回)から同12日(第4回)まで。

2010年12月14日火曜日

NGOのシンポジウムに自衛隊員が参加した日

NGOのシンポジウムに自衛隊員が参加した日

 「平和構築」とNGOの役割を問う、先日開催したシンポジウムに自衛隊員が参加した。そしてその人は、「国連PKOをめぐって、いったいどういう問題が起きているのか」と質問した。
 出席者名簿に「所属」を書かない人は割と多いから、断定的なことは言えないが、私たちが開催したシンポジウムに自衛隊の人が参加したのは、今回が初めてだと思う。そして、私はそのことに「時代は変わっている」という感慨を強くした。

 私たちのシンポジウムに自衛隊が参加したことを、私以外の主催者側関係者や、その他の参加者がどのように捉えたかはわからない。誰がどのように考えたのであれ、確実に言えるのは、参加した自衛隊員は、とても真面目な隊員だったということである。自分の職務に関連する「平和構築」というテーマをめぐり、公開のシンポジウムが開催される、これに参加し「平和構築」に関する理解を深めねばならない、とその自衛隊員は考えたはずだからだ。私は、すべての自衛隊員が、参加した彼のような問題意識を持つことを期待したい、と強く考えている。

 今回のシンポジウムの報告は、次号の「NGOと社会」のニューズレターで特集し、新評論のサイトやこのブログで公開する予定になっているので、詳細は少し待っていただきたい。ここでは、私個人が考えたことを書き綴ってみたい。

何も教えられていない自衛隊員---事実を隠蔽する外務・防衛官僚と自衛隊統合幕僚本部 
 なぜ、一自衛隊員が私たちのシンポジウムに参加し、「国連PKOをめぐって、いったいどういう問題が起きているのか」と質問しなければならないのか? 
 自衛隊が「国際平和協力」活動を「本体任務」とするように法の改定を行い、「国連PKO等」への「参加」を常態化してきたというのに、1990年代からこの20年近くの過程において「国連PKOが抱える問題」を日本政府・外務省、防衛省、そして自衛隊という一個の官僚機構の上層部そのものが、「派遣」されることになる当の自衛隊員に何も教育してこなかったからである。自衛隊内部、そして日本語のインターネットサイトでは十分に情報を得ることができないから、自衛隊員は私たちのシンポジウムに参加してきたのである。

 非常に小さな事例ではあるけれども、今回のシンポジウムへの自衛隊員の参加に、前線で起きている事態を何も兵士たちに明らかにせず、ただ「玉砕」を命じ、兵士たちを見殺しにし、自分たちは戦後も、のほほんと生きながらえて行った、戦前の「大本営」官僚の縮図を見たような思いがした。

 「大袈裟なことを言うヤツだ」、と読者は言うかもしれない。しかしそれがこの間、イラクやアフガン戦争に狩り出されてきた米軍兵士やその他各国の兵士たちに起こってきたことであり、今、現に起きていることなのである。戦争を前線で戦っている各国の兵士たちの現実は、実は自衛隊員の現実でもある。もちろん、日本社会全体もそうである。

 「国連PKO等」が引き起こしてきた問題は、実は『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の主要には第五章において、また第六章の中でも述べている。だから、詳しくは是非、そちらを参照していただきたいのだが、一言で言えば、それは「平和維持作戦の泥沼化」であり「内戦化」である。そして、「中立・公正」であるべき国連PKOや「平和維持」作戦を展開する多国籍軍が、イラク・アフガン対テロ戦争において明白になったように、政府側を軍事的・政治的にバックアップする形で、反政府武装勢力(「テロリスト」?)との戦闘行為を、非戦闘員(一般市民・農民)の虐殺をくり返しながら、行ってきたことである。

 つまり、「紛争当事者間の和平合意の成立」を大前提にした国連機関、国連PKO、「国際治安維持部隊」の「紛争」への「介入」の大原則が、旧ユーゴスラビアからコソボ、そしてソマリア、ルワンダなどの事態などを経て、一挙に崩れ去り、内戦のプロセスに国連機関や第三国が直接的に軍事的・政治的に介入する事態へと、変質してしまったのである。
 これにより、「停戦合意後の平和構築」から、「停戦合意を前提としない、合意以前段階からの平和構築」論が登場するようになる。いわゆる「ブラヒミ・レポート」と呼ばれる文書が、この転換を決定付けることになる。(「ブラヒミ・レポート」の説明は後日、追記。)

 このような「平和維持」作戦や「平和構築」の変貌をめぐる歴史的経緯、そしてそこにおける現場で発生してきた様々な問題や矛盾を、この国の官僚機構は自衛隊員にその任務を担うことを強制しながら、何も具体的な情報を明らかにせず、「教育」もしてこなかった、ということになる。
 いつの時代、どこの国でもそうだが、権力者や官僚機構は戦争に狩り出そうとするその国の兵士、つまりは一般市民を、ただの捨石、駒としか考えていないのである。

2010年12月12日日曜日

最近、考えさせられたこと---①「大学教授は教育労働者」か? その他

最近、考えさせられたこと

 『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』のための広告を書こうとして考えているうちに、そんなことより重要と思える、いろんなことを考えさせられた一週間だった。

①「大学教授は教育労働者」か?

 首都圏の、とある私立大学の教授職の立場にある人から、いろいろ大学の現状をご教授賜る機会があった。どんな大学かというと、「私が学生の頃から実在し、名前を知っている大学」である。国公私立を問わず、昔、存在した大学が消滅したり、近年、特に私立大学は名前を初めて知る大学がヤケに多いだけに、これだけでもかなり対象を絞り込める有力な情報になるだろう。「インフォーマント」に迷惑がかからぬよう、細心の注意を払わねばならない。

 その人は、「○×大や一部大学の教授とは違って、大半の大学の教授は、「研究者」なんてモンじゃない。ただの教育労働者ですよ」と教えてくれた。
 その人とは別の、これも首都圏のとある大学の教授職にある人から、以前、時間を作り、高校への「リクルート」作戦を展開していると聞いたことがある。高校の校長や三年生を教える教員、進学担当者などに手紙を個人的に書き、その高校の生徒たちが自分の大学を受験するよう依頼するのである。時には、大学教員の間で分担し、「ローラー作戦」を展開し、高校への個別「セールス」を行うこともある。大学教授が、自分の大学の経営危機を乗り切るために、学生を囲い込むための「営業活動」を行うのだ。初めてこの話を聞いたときには、しばらく絶句したことを覚えている。

 しかし、そんなことで絶句していたら、今の大学、とりわけ圧倒的多数の私立大学の教授職にある人の「労働」実態を知った日には、気絶してしまうだろう。その人の話を聞いて、絶句しながら私は立ちくらみがしそうになった。
 一言で言えば、今日の圧倒的多数の私立大学の大学教授の仕事とは、「担当の授業で講義する」なんてものではない。それは、
①少子化のいっそうの進展の中で、大学教育サーヴィス産業が「買い手市場」となり、その結果、大学教授が大学業界の熾烈な学生囲い込み競争を勝ち抜く「営業戦士」としての役割まで担うと同時に、
②自分の大学に入ってきた学生が、中途退学や休学、さらには「不登校/引きこもり」(中退予備軍)になってしまわぬよう、「入学から卒業・就職まで」の「学生ケア・テイカー」(後見人)の役割を負っている、ということだ。
 デフレ不況で授業料が納付期限までに払えなくなった学生への「相談・カウンセリング」から、授業に出てこない学生への電話連絡、「フォロ-」まで、大学一貫「教育」というよりは、一貫「ケア」システムが職員のみならず、大学教授をも実働部隊としながら構築されているのである。

 こうした学生の「ケア」は、言うまでもなく、個々の大学教員の「研究」活動のための個人的時間を消費させ、精神的・肉体的エネルギーを消耗させる。私が驚いたことには、大学当局(理事・学部長・学科長等)は--その人が言うには--個々の大学教授に研究活動を行い、「業績」を積み上げることなど、何も期待していないらしいのだ。
 大学サバイバル戦争に勝ち残る、つまり経営危機を誤魔化し、誤魔化ししながら、とにもかくにも「自転車操業」で大学経営を「回し」てゆきながら、経営破産→「大学再生機構」の「屑箱」に文科省によって投げ捨てられてしまわぬように、しのぎきってゆくことしか頭にない、ということらしい。

 つまり、「期待される大学教授像」とは文科省が言うような「教育と研究」両方のファキュリティ(能力)をディベロプ(発展向上)させることではなく、大学=企業人として組織第一主義の観点に立ち、「事務」をひらすらこなし、経営危機乗り切りにとことん貢献できるような主体なのである。
 もちろん、このような大学教授像は、大学の経営状況如何、自己資本力如何によって、引いては大学の知名度・「集客力」如何によって、相当違いがあることは確かだろうし、同じ大学でも個人差はあるだろう。とくに国公立と私立との間の違いは大きいだろう。しかし全体としては言えば、これが実態だというのは、概ね、(私立)大学を職場とする人々の間では、そう異論のないところではないだろうか。

 おそらく、圧倒的多数の私立大学(の教授)が抱えるこうした現実は、それを聞かされれば聞かされるほど、にもかかわらず「雨後の竹の子」のように、次から次に学校法人の設立を認め、また巨大な学校法人が次から次に大学を新設することを認め、短大を四年制大学にすることを認め、四年制大学にそれまでなかった大学院(修士)の設置を認め、大学院修士課程しかなかった大学に博士課程の設置を認め、さらには大学内の新たな「研究センター」の認めてきた、これまでの文科省の「大学行政」とは何だったのか? という疑念がさらに深まってゆく。

 しかも、ほとんどの私立大学では、経営危機の深まりの中で、新規で専門講師・准教・教授職を雇用することができず、むしろ正規の大学人の合理化を進めながら、大学教育現場における「雇用調整」が安易にできる(と大学側が考えている)非常勤講師の比率を拡大させてきた。
 国公立大学法人の場合は、文科省方針が非常勤講師・職員を減らすことにあったから、逆にその分、正規の大学人・職員の労働強化という問題を生み出してきたのだが、私立大学の場合にも、非常勤講師の比率が高ければ高いほど、マンツーマンの学生「ケア」ができず、その分、正規の教職員の負担もまた過重されてきたのである。(しかし、非常勤講師の側に言わせれば、そうした正規教職員の負担増は、自分たちの労働を使い捨ての安価な労働力として利用してきた大学経営の結果であって、生活が保障されているだけ「贅沢な悩み」ということになる。)

 「研究者」としての大学教授の「学生ケア・テイカー」化は--その人が言うには--大学教員の「資格」の在りかたの、抜本的再考を強いている。つまり、大学院博士号など、ほとんどの私立大学の学部教育に携わる人間に、実際問題として必要ない、学士で十分、と言うのである。話を聞いて、「まったくその通りだ」と思わざるをえなくなった。 なぜなら、専門分野の過去から最新の「研究成果」の深い知識など、現実の教育現場ではまったく必要とされていない、とその人は言うのである。むしろ求められる「資格」とは、学生=人間とのコミュニケーションがきとんと取れ、「ケア」がちゃんとできる人、話を聞いてあげることができて、学生を「構う」ことができる人、となる。要するに、ある時は父/母となり、またある時は兄/姉、あるいは友達、ごくたまに(?)「先生」として、「肌理(きめ)の細かい」人間的関わりができる人である。

 こんなことを聞けば、現役の学生・院生諸君はきっと怒るに違いないと思えるのだが、今の大学は私たちがその昔理解していたような大学ではない、高校、いや中学のようなもの、と言うのである。だから、「金八先生」のような人が最も大学教授に適任の人、となる。そういう話を聞いて、もしも私に大学に職を求める意思が仮にあったとしても、なろうとしても、とてもなれそうにない、と納得した。

 そうした大学「教育」の現場の変容を、もっとも象徴的に示しているのが、「パフォーマンスとしての講義」現象である。学生を退屈にさせない「講義」ならぬ、「講義という名のパフォーマンス」のパフォーマーとしての自己演出能力が大学人に求められるようになったのである。
 これを「授業のデジタル/コンピューター化」とセットで考えてみると、その「パフォーマンス」は、一方ではパワーポイントを使った授業、視覚に訴える授業と、他方では学生への「語りかけ」を常に心がけ、学生の「受け」や「笑い」を取ることで、学生が「生き生きと、楽しく」学べる空間創りのための演出、ということになるだろうか。

 私は、パワーポイントは人間の「考える力」のディベロプメントを萎縮させるだけでなく、物事を一から教えるツール、ソフトとして使用すべきではないと考える、とても「古い人間」なのかも知れない。というのも、私は、パワーポイントとは、ある一つの分野・イシューに関する前提的知識/了解を持つ者同士の間で(のみ)使える、きわめてテクニカルなツールであり、ソフトだと考えているからだ。講義のメジュメのそのまたレジュメのような言葉、その羅列と、それに関する統計・映像などを、細切れでいくら「映写」し、それを学生が「観た」としても、「わかったような気になる」だけで、内容が浅薄なものになるのは避けられない。大学教育のみならず、教育現場でこれが使われることに対するそういう「差別と偏見」を私は克服しきれないでいる。知人の中には、頑固にパワーポイントの使用を拒み続けている人がいるが、そうした「昔堅気」の大学人の精神を継承し、「昔通りではない」講義を創ろうとしている人々に、私はむしろエールを送りたいと思うのだ。

 ともあれ、こうした「パフォーマンスとしての講義」現象は、学生との掛け合い漫才のような授業で学生の「心」をつかもうとする、「大学人の芸人化」を全体としてもたらしていると言えるだろうか。これでは「本の虫」「研究の虫」のような「キャラ」では、とても大学教授はつとまらないし、実際、そんな「キャラ」は私大のマネジメントサイドからも求められていない。自身の「学識」を披瀝・開陳・伝承するというよりも、パフォームできる「キャラ」が、講義外(というより、講義の内と外との区別がメルトダウンした「キャンパス・ライフ」)の学生との関係、コミュニケーションにおいても厳しく求められている、ということだろう。
 私のような「キャラ」では、到底無理である。大学人になる「素質」や「素養」そのものが法人化以降、大きく変貌/変質してきたのである。大学に職を求めている人々は、これが現実だということを肝に銘じておいた方がよさそうである。 

②「大学は文科省の植民地」か?

 助教や准教から正教授に「昇進」したとしても、同僚や「上」(学部・学科長等)からの「アカ・ハラ」(アカデミック・ハラスメント)は尽きることがない、とある人から聞いたことがある。日本だけに限らないと思うが、アカデミズムの世界には「業績」のある・なしとはまったく無関係に(当然のことだが)、私たちが想像する以上にハラスメントとは何か、差別とは何か、理解できていない/理解したつもりでいる、また他人の経験や自分の過去の経験から学習することができない、「アホ」な人が意外と多いようである。

 子どもの世界の「いじめ」は、それ自体が「パワー・ハラスメント」であるが、子ども世界からおとなの世界まで、個が個に、集団が個に、また集団が集団に行使するハラスメントは、個と個の、集団と個と、集団Aと集団Bとの関係に存在する、互いに行使し、影響を与えうる力(force)の不均衡が生み出すものだ。何が言いたいのかと言えば、ハラスメントや差別には、常に(権)力関係が介在していること、そしてそれは年齢や社会的・法的地位の「差」があるから起こるのでは、必ずしもないことである。

 自分(たち)が、他者(たち)との個別・固有の関係において、また政治的・社会的・経済的・文化的な文脈において、他者より、よりパワーを潜在的に行使できる主体が、「ハラスメントとは何か、差別とは何か」をめぐる定義の決定権を行使し、それらが起こらないように、と人間(集団)の行為を規制する法や規則を制定する決定権を持っている間は、ハラスメントや差別は、半永久的に再生産され続けるのである。それは人種、民族、ジェンダーおよびその「オリエンテーション」または「アイデンティティ」をめぐるハラスメントや差別、あるいは生物-生命学的にある機能や能力を持たない/持てない人々に対する、そうでない者(たち)によるハラスメントや差別も同様である。(機会がある折に、追記)。

 いま、アカデミズムの世界に目を転じてみると、「アカ・ハラ」とは何か、大学(研究機関)内差別とは何かを定義し、それが起こらないようにと規則や規律を制定する主体が、特定の「人種、民族、ジェンダーおよびその「オリエンテーション」または・・・・」の、上に記したカテゴリーの「正教授」職にある者たちが、もっぱら策定したものであれば、アカデミズム内のハラスメントや差別は、半永久的に再生産され続けること、また教授職にある者同士においてもそれは同様であることが理解できるはずである。そしてそれはそれ自体において、かなり深刻な事態を生み出しており、問題の根はかなり深い、ということができる。アカデミズムの世界で生起することは、現代世界、日本社会で生起することをそのまま写し出すのであり、逆もまた言えるからである。

 しかし、私がここで問題にしようとしている「アカ・ハラ」とは、そういうこととは性格を異にしている。その意味では、語の本来の定義に即したような「アカデミックなハラスメント」のことである。
 たとえば、経験上、私はこれまで様々な大学の院生と話す機会に恵まれてきたが、自分が志す特定の研究分野に関して、「そんなことをやってもメシが食えないから辞めなさい」と「指導教官」から言われた、あるいはそのようにしか解釈できない「アドバイス」を受けた経験を持つ人々が何人かいる。これは明らかに「アカ・ハラ」である。それを陰に陽に繰り返し、言われ続ける、と聞いた。

 あるいは助教や准教のときに、「政府批判」や「体制批判」(特定の政策批判ではない)を書いた論文や論考などを、どのような媒体であれ公にした際に、そのことを「上」から「諭された」経験を持つ人もいる。法人化以前、「私大改革」以前、もっと言えばかなり昔から、大学人自身による「自主規制」が進行、制度化してきた結果、いまではこうした論文・論考自体がメッキリ少なくなった観があるが、それでも自分が何をどのように書いたかを、検閲まがいの「ピア・レビュー」をされ、その「イデオロギー」性を「チェック」されることは、常態化・構造化されている。最も典型的な「恫喝」は「教授になれないよ」という一言である。そして一度「諭されて」も尚、それを「改善」しなければ、たとえば「出張」の際の金を出さない、渋る、「事務」仕事を増やす・・・等々のハラスメントを受ける。こうした性格のことが、教授になっても続くわけである。

 『大学を解体せよ』に目を通していない、多くのこのブログの読者がおそらく誤解しているのではないかと思うのだが、私は大学が「象牙の塔」であるから解体せよ、と主張しているのではない。明治維新後の現代史における日本の大学が「象牙の塔」などになったためしは一度もないから、国策や「産官学連携」路線から切り離しても尚、今日の大学経営や研究・教育が成立する領域があるのだとしたら、その領域をこそ特定し、そのための「研究」機関として大学(と呼んでも何と呼んでもよいのだが)を「象牙の塔」にせよ、そしてそれ以外の「教育」の領域をすべて「社会化」=無償化せよ、と主張しているのである。

 では、そこで言う「象牙の塔」の「カリキュラム」の「評価基準」とは何か? それは第一に、「功利主義」を排した「クソの役にも立たない研究」である。(抽象的な意味合いになるが、体制批判はその中のごくごく一分野に過ぎないが、重要な分野である。現代人にとって、体制批判は目先の実益につながらない非功利主義的な分野であるからだが、これについても後日機会があれば追記したい。)
 この「クソの役にも立たない研究」領域は「文系・理系」、その「融合」領域を問わず、すべてのフィールドに存在するだろう。大学研究・教育をめぐる問題の核心は、功利主義のお化けのような文科省・経産省および官僚機構の国家「イノベーション」戦略に翻弄され、大学人自ら「自主規制」を行いながら、大学界全体の「アカ・ハラ」を自ら制度化し、しかも大学経営・運営者=トップが、そのことに無自覚でいることにある。

 ある大学教授は、今の日本の大学は「文科省の植民地」と表現したことがある。これは、例えば私のような大学界とは無縁な人間が「大学は官僚機構の延長組織である」と言うよりも、はるかにリアルで実態を捉えた表現である。そのことを官僚の大学「天下り」問題を例に取り、考察すれば、「植民地経営」の実態がより明確になるだろう。(後日、追記)

③宇井純の遺言---「大学に行くとバカになる」

 東大で「自主講座」で行い、『大学解体論』を書いた故宇井純が残した「遺言」、と私が勝手に受け止めている言葉に、(日本の)「大学に行くとバカになる」という箴言がある。宇井純は、東大から「万年助手」待遇という典型的な「アカ・ハラ」を受けた人だったけれども、この「遺言」を私は今から30年近く前に、とある本で読むことになる。
 宇井の「遺言」を、私は当時、かなりリタラリーに捉えていたことを記憶している。日本の大学、とくに「官僚養成大学」としての東大やその他の旧帝大系、国立大学、「有名」私大の大学研究が、公害・環境汚染を撒き散らす国の産業政策を支える「研究」をし、そうした産業/企業の利潤追求のための産業技術研究と、その企業活動を擁護するために、科学的データの改ざんさえ平気で行うような人材を輩出するように制度化されている、といったような意味として。
 いわゆる「学者バカ」とか「専門(家)バカ」と言われてきたものも、そうしたものに含まれる概念なのだろうと。もっと分かり易く言えば、自分の「研究」活動の社会的意味や責任、アインシュタインの『往復書簡』ではないけれども人類史に残してしまうであろう負の効果、禍根、その「倫理」を考えようとしない人間が大学という場を通じて育成される、といったように。

 宇井の「遺言」を、あまりに極論であり、大学研究・教育のごく一部の側面しか捉えていない暴論と受け止め、反発や反感を感じる人は、大学人のみならず、学生にも多いことだろう。しかし、いつの世にも異端の言説にこそ「真理」が隠れているのもまた、歴史が証明していることである。宇井の「遺言」の真意を理解するための出発点は、やはり昔、中山茂が言ったように、ある時代の大学で行われている学部・学科編成やカリキュラムの内容に「アプリオリ性」などなく、その基本ラインは官僚機構によって構想される、という事実を事実として理解し、認めることにある。

 しかし「遺言」に触れて、私がすぐに気づいたのは、実は私たちは大学に行って「バカ」になるのではない、ということだった。その前段階、つまり高校教育の現場でその準備がすでに完了している、ということだったのである。
 とある公立高校の理数科という「特殊学級」を卒業した個人的体験から言えば、理数系の授業を週14-16時間(実験込み)、その一方で歴史・社会科系で週2時間(!)しか学ばないように組まれた「カリキュラム」によって、いったいどのような「市民」になるための人間形成が高校教育の名において行われていたか、少し考えてみれば、誰にだって明らかだと思うのである。

 人間の成長の中で、もっとも多感で実り多き季節であらねばならないこの時期に、〈私たち〉は「知識障害者」になるための「教育」を受けていたことになる。しかし、自分が「知識障害者」になっていることなど、その「教育」を受けている当事者に理解できるはずがない。高校、大学を問わず、何をどのように学ばされるか、そのカリキュラムに関する決定権を当事者が持たないからである。

 国立大学法人化と軌を一にする形で、「公立の復権」を賭けた公立高校の「先祖帰り」現象が、私立高校と偏差値上位大学への進学者数で対抗するための中高一貫校の設置も含め、全国的に見られるが、公私を問わない現在の高校教育の在りかた、そのカリキュラム、現場で起こっている事態を、いま、教育関係者が問おうとしないのは、きわめて犯罪的である。どれだけ「先祖帰り」しても、そこからは何も明るい未来など見えてこないのは、「サバイバー」の一人として私自身が証言できることであるからだ。

 大学に行って「バカ」になること(あるいは行く前にすでにそうなっていること)と、そんな大学(や高校)で「アカ・ハラ」が起こることは、実はメダルの表と裏の関係にある現象である。
 たとえばここに、大阪大学大学院工学科「システム創成プロフェッショナルプログラム」の「FD図書コーナー」がある。そこに収められた「図書」の中に、私の『大学を解体せよ』が含まれている。とても、光栄なことだ。

 しかし、この「システム創成プロフェッショナルプログラム」の目的・趣旨は、これらの「図書」の(ごく)一部が告発する、阪大大学院を含む旧帝大系大学院研究・教育の内実を問い直し、問題群の克服をかけて、新しい「システム」の「創生」をめざす「プロフェッショナル」を育成することにあるのではない。それとは正反対に、阪大大学院が「産官学連携」路線の一大拠点として、その戦略的役割を担う人材を育成すること、そしてそれを通じて阪大の自己資金力の拡大に貢献できる人材を育成することにある。

 研究拠点の問題として言えば、阪大大学院のこの「プログラム」と同様の各大学に導入された「プログラム」が、日本の産業技術の「イノベーション」の促進という現在の大学院再編が、理工系分野におけるカリキュラムの再編としても進行し、そこにおいて理工系フィールドの「クソの役にも立たない研究」の(予算)切捨て、排除、廃絶としてあることを、「ファキュリティ」自身が見過ごし/沈黙し/推進していることが問われなければならないだろう。全体として医・理工優先・優遇、人文・社会科学系フィールドへの差別・切り捨てとして現象する「産官学連携」が、(当然のことであるが)医・理工フィールドにおいても、特定フィールドへの差別・切り捨てとして現象しているからである。語の本来的な意味における「アカ・ハラ」は、この〈構造〉の下で再生産されると言ってよい。

 だから私は、「アカ・ハラ」や研究・教育現場における差別問題を、講座制時代から温存されてきた性的暴行を含むジェンダー差別を始めとした「アホ」な大学人による「セク・ハラ」・「パワ・ハラ」・差別問題に還元、解消することは、今大学で起こっていることの問題を見誤ることにつながる、と考えている。レイプ、レイプまがいの暴行、痴漢、人種・民族差別その他は、それが大学研究・教育現場で起こった場合には明らかに「アカ・ハラ」の構成要件となるが、その行為自体が刑事事案そのものとして扱われるべき性格の事柄であるからだ。言ってみれば、「アカ・ハラ」以前的な人権侵害、犯罪行為ということである。

 先に述べたような「アカ・ハラ」は、「産官学連携」路線の推進過程において、大学の機構再編、学部・学科再編、カリキュラム再編、人事(昇格・降格・異動なし・解雇・「肩叩き」・・・)、職場環境(シカト・無視・あからさまな専門外、規定外の事務・雑務・労働の強要・・・)、研究予算配分の意思決定等々がなされてゆく、そのダイナミズムの中で派生する。それは大学業界内、大学機構内において制度化=institutionalizeされ、内面化=internalizeされるのである。

④大学・研究機関の「隠れキリシタン」が炙り出される、受難の時代の幕開け 

 ある人々にとっては殺戮と排除の「暗黒の社会」が、別の人々にとっては「自由と繁栄」を謳歌する「素晴らしい社会」となる。例えばドイツ「第三帝国」、戦前の日本、スターリン体制下の旧ソ連、またその他諸々の軍事独裁体制と理解されている社会もそうである。だから、戦前の日本社会を「暗黒の社会」と、特定のイデオロギー的価値基準に基づき裁断することは、事実認定として誤っていると同時に、現実に満州-中国侵略、国連脱退を喝采し、真珠湾攻撃の「勝利」を歓喜で迎えた、当時の日本社会と日本人の実像を捉えるものにはならないのである。

 これとまったく同じことが、今の大学界全般、引いては日本社会全般についても言える。
 「産官学連携」路線が日本における「軍産学複合体」へと発展(後退)し、「軍産複合体」による「暗黒の大学支配」を招来させると、いくら言ったところで、それが「科学の堕落」論といった「あるべき科学」論や「あるべき大学研究」論に基づくイデオロギー批判として展開されるだけでは、「産官学連携」に大学研究および研究者としての己の「自由と繁栄」の活路を見出し、そこに矛盾や問題を感じることなく研究に没頭する研究者がむしろ圧倒的主流派となった今の大学界や、そういう研究の「ブレイク・スルー」に国の経済の再生と成長を託そうとする日本社会の実像を捉えることはできないだろうし、変革の論理にもなりえないだろう。「非核・非戦」の「良心的リベラリズム」、「大学の倫理」を問う「大学リベラリズム」の受難の時代の幕開けである。

 「今の日本の大学は文科省の植民地」と私に対して語る大学教授は、自らが公にする論文においてはそうは語らない。生活がかかっているからだ。私はそのことを、とりたててどうとはとは思わない。人が語れなければ、それを聞いた私が語ればよい、と考えるからだ。

 政府の大学行政と大学当局の経営方針として「産官学連携」路線が確立してしまった以上、たとえ一部の大学研究者の中に、内心では「産官学連携」路線に矛盾や問題を感じている人々がいたとしても、これに対する体系的批判を彼/彼女たちに期待することには無理がある。そのことは、「社会運動」にコミットする、数少ない国公私立の大学人が、大学外の国際・国内政治問題を論じ、そこで日本政府の政策批判を展開しても、決して自分の足元で起こってきた/起こっている問題、大学それ自体の問題には触れようとしないことにも示されている。そして、そのことに対しても、私はとりたててどうとは思わない。大学の制度的問題、その矛盾がもっと社会的に明らかにされ、大学解体をめぐる議論が深まればそれに越したことはないと思うが、ここでも人が論じなければ自分が論じればよいだけだからだ。

 「大学は文科省の植民地」と語る/語れる大学人は、常勤/非常勤を問わず、研究・教育者としての良心と倫理を持つ人である。その良心と倫理を公にしないこのタイプの人々は、自分の個人的信条、魂までを売り渡すことを拒みながら、しかしその意思を公にはしないという意味で、大学業界内の「隠れキリシタン」になる人々である。
 「産官学連携」路線の国家プロジェクトとしての第一ラウンドの総括が終了し、これまで明らかになった問題点(意外と「儲からない」、「マッチング」がうまく図れない、大学と地域によって格差がありすぎる、成果が出るまでに時間がかかりすぎる・・・)の克服と、さらなる実体化をめざす今後の過程は、「隠れキリシタン」が炙り出され、大学・研究システムから排除されてゆく過程でもある。こうした人々は、語の本来の意味における「アカ・ハラ」の受難に直面する可能性がもっとも高い人々になるだろう。
 
⑤普天間問題の「国民投票」の可能性/不可能性

⑥軍事演習への「参加」を、軍事同盟と見誤ってはならない

2010年12月5日日曜日

『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』のための、著者自身による広告

『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』のための、著者自身による広告

 天木直人さんが、『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』を読んだそうだ、と教えてくれた人がいる。
 昨日(12/4)付の氏の「メルマガ」で、今日の「テレ朝サンデーフロントライン」に出演の後、
「なおついでにご報告させていただきますと、新幹線が遅れたおかげで車中で『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』(中野憲志著 新評論)という本を読了しました。今までにめぐり会った事のないほど共感を覚えた本でした。その読後感は機会を改めて私のメールマガジンでお伝えします」と書かれていたそうである。

 私は評論家でも作家でもないが、どのような人であれ、自分が書いた本を「今までにめぐり会った事のないほど共感を覚えた本」と評されることほど、嬉しい言葉はないのではないだろうか。それを自分より一世代上の、外交・安保問題を専門とする人から言われたことを、私は素直に喜びたいと思う。私は天木氏のメールマガジンの読者ではないが、氏が拙著の批評を公表されるのを心待ちにしたいと思う。

 天木氏から、これ以上にないと思える賛辞をいただいたと知って、はたと気づいたのは、10月にほぼ一年ぶりでこのブログを再開してから、『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』に関する自分自身の文章をひとつも書いていないことだった。

 そう思ってこのページを立ち上げることにしたのだが、昨日「百年を歌う」に参加し、中山千夏さんの八丈島の民謡、アイヌの昔話と絵本『となりのイカン』の朗読やパギやん(趙博)との掛け合い、大熊ワタルとジンタらムータ板橋文夫トリオ、朴根鐘とユッケジャン・バンド、寿[kotobuki]の歌と演奏を聴いた興奮、そしてその後に考えさせられたことから、未だ自分の思考が自由になっていない。頭の風通しがよくなるのを、もう少し待ってみたい。

 それともう一人、『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の広報をしていただいた人がいる。前田朗さんだ。しかも前田さんには、一昨日、『平和力養成講座 非国民が贈る希望のインタビュー』を贈呈していただいた。ここに紹介し、氏への謝辞に代えたい。

 一冊の本が本として、とりわけ私のような者のそれが社会的に成立する、つまり本が売れない時代の、ネット消費社会の中で、売れそうもない作者による売れそうもないテーマの本が世に出て生き延びてゆくためには、出版を勧めていただいた新評論の人々はもとより、さまざまな人々の力添えぬきにはありえない、と今更のように思う。このブログの読者の中にも、力添えをしてくださっている人々がいることを私は知っている。改めて感謝を申し上げる次第である。
12/5/2010

2010年12月2日木曜日

世界の学生運動、日本の大学の今

世界の学生運動、日本の大学の今

 公教育と大学の「民営化」に抵抗する学生運動が2008年以降、世界的な高揚をみせている。
 右の写真は、大学における歴史教育と社会科学系カリキュラムの廃止に反対するチリの学生運動。
⇒International Student Movement
⇒学費値上げに反対するフィリピンの学生運動(24oras: Students storm Senate over SUC budget cuts/GMAnews)
⇒ブラジルの学生運動(Congresso da ANEL)

 一方、この11月、二派に及ぶ全国街頭行動を展開したイギリスの学生運動は、12月4,5日の週末から、さらにクリスマスに向けた行動を計画している。
 写真はオックスフォード大学のラッドクリフ・カメラ図書館を占拠した学生たち。
⇒Oxford Free School 30.11.10
⇒Action map for Saturday 4th December
⇒Student Protest Against Education Cuts Manchester 30-11-2010 Compilation (下に書いたNational Walkout Against Fees and Cutsのマンチェスターにおける行動)
⇒大学を占拠したノッチンガム大学の学生たちの運動

 2008年の、いわゆる「リーマン・ショック」以降の世界的な学生運動の高揚は、欧米のみならず、中南米やロシア、ウクライナ、バングラデシュ、フィリピンetc.,などにも広がってきた、まさにグローバルな現象である。日本だけが「鎖国」状態になっている観がある。そのせいかどうかは分からないが、日本ではほとんど論じられていないイシューである。「批評する工房のパレット」の読者に、ぜひこの情報を広めていただくよう呼びかけたい。

 とりわけ注目に値するのは、イギリスにおける今回の行動において、1960年代以来の学生による大学の占拠→「自主管理」→「自由大学」が、例え萌芽的形態においてであれ、登場したことである。1960年代の世界的な学生運動が、ベトナム反戦運動の高揚と一体のものとしてあった「知の叛乱」であったとすれば、それから40年後の今回のそれは、まさに学生たちの「生存(サバイバル)をかけた闘い」として総括できるような運動である。その「生存をかけた闘い」において、学生たち自身のイニシアティブによって「自由大学」の模索が生まれていることに意義がある、と私は考えている。

 ところで、日本の状況に目を転じてみると、今日付けの毎日新聞、「大学関係9団体 「予算確保を」」によると、国公立大や私大教職員の全国組織など9団体が1日、「「大学予算は危機的状態にある」として、衆参両院の与野党議員に一斉に要請書を提出した」という。「非常勤講師の組合や学生・大学院生の全国組織も参加しており、「大学の全階層が垣根を越えて結集した、歴史上おそらく初の行動。危機感の表れだ」」と関係者が言ったとのことだ。

 要請書では、「来年度予算で文部科学省が特別枠で概算要求し、政策コンテストにかけられた国立大学法人運営費交付金や私大特別補助の「満額実現」を求めたほか、学費減免や無利子奨学金の拡充、高等教育への歳出を他の先進国並みに引き上げることを求めた。」

 「続・大学を解体せよ」の冒頭でも述べた通り、この「要請書」を仮に民主党政権が丸呑みしたとしても、日本の大学制度が抱える構造的問題とその危機は何も解決することはない。ただいたずらに問題の解決を先送りし、その間、現行の大学システムの温存のために血税が無駄に使われるだけである。

 ①「文部科学省が特別枠で概算要求」するということは、一般会計ではなく特別会計から予算を捻出するということであり、それはただ864兆円になろうとする赤字国債を膨張させ、来年度以降の国債乱発にさらなる拍車をかけるだけのことである。しかも、②「政策コンテストにかけられた国立大学法人運営費交付金や私大特別補助の「満額実現」」が仮に実現したとしても、「政策コンテスト」や「産官学連携」関連プロジェクトに何の関係もない地方の国立大学法人や圧倒的多数の私立大学が構造的に抱える経営危機を打開する展望など何も見えてこない。

 問題は、③「高等教育への歳出を他の先進国並みに引き上げる」ことにあるのではなく、これまでの日本における「高等教育への歳出」のあり方、そのものにメスを入れることにある。そして、個々の独立法人系研究開発機関の存在理由と、偏差値上位大学本位・優遇でしかない「政策コンテスト=産官学連携路線を大前提にした科学技術のイノベーションをめぐる国策」のあり方を抜本的に問うことだ。

 東大・京大の博士課程を出ても大学に職を求めることができず、非常勤講師を一〇年、二〇年、三〇年(!)続けても常勤講師になることもできず、学士・修士の資格を持っていても就職できない者たちが構造的に輩出され、社会的層を形成するようになった状況にあって、「保護者」も本人も借金地獄に苛まれることなく、どの分野であれ修士課程修了程度の「学識」を身に付けることができるような新たな社会的システムの導入を真剣に議論することが求められている。そしてそれこそが、学歴と学校歴、階層化された社会的資格の有無によって人の生が決まるのではないフェアな社会、知の特権的身分制を廃絶した社会を実現する現代の「イノベーション」になるはずだ。『大学を解体せよ』とは、まさにそのためのビジョンを示すものとしてあったのだが、継続して訴えてゆきたいと思う。

12/2/2010
⇒http://nakano-kenji.blogspot.com/2010/12/blog-post_02.html

平和<PEACE>=グローバル・ランゲージ東京2010
2010年12月4、5日@国際基督教大学(ICU)

平和<PEACE>について真剣に考えているみなさん!産学軍(産業-学術機関-軍事)複合体の支配から世界を解放するために、研究者やアクティビストの力で何ができるか、「ピース・グローバル・ランゲージ東京2010」でぜひ発表してください。企業による大学の乗っ取りが進み、教養課程や人文科学、社会科学が攻撃され続ける中、重要なのはこうした事態がどのように始まったのか、なぜそれが勢いを増しているのか、そしていかに抵抗していくのかを知ることです。

イギリスの大学問題と学生運動に関するちょっとした情報
 イギリスでは、11月24日、National Walkout Against Fees and Cuts(授業料値上げと政府の大学予算削減に反対する全国一斉街頭行動)が予定されている。政府が①最高で現水準の3倍に上る授業料の値上げと、大学に対して②30%の予算カット、③予算配分における「優先順位化」を義務付けようとする新大学「改革」構想に対する全国抗議闘争である。

⇒Students Take to London Streets on Day of Protest Nov. 12, 2010, The Real News
⇒The Death of the University, English Style(大学の死、イギリス方式)
Parliament Square Occupied - Free University open(パーラメント・スクウェア占拠 自由大学開校)

 特に「優先順位化」が、日本と同様に、大学の学部学科とカリキュラムの再編成として現象し、その中でミドルセックス大学(Middlesex University)の哲学科廃止問題が今年になって浮上した。官製版大学解体策が、ネオリベ化する大学に「利潤」を生み出さない人文フィールドの解体策となることは、まさにグローバルな現象であるようだ。詳しくは、「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」の中で紹介したZero Anthropologyに新たに加わったエリザ・ジェーン・ダーリングのDeepwater Uni(深海のウニ)を参照してほしい。

掲載記事の内容(2010年10月より)

12/11シンポ 「平和構築」は平和を創造するか? --「平和構築」とNGOの役割--
国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由(11月18日)
「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」(11月12日)

対テロ戦争と自衛隊のアフガニスタン「派遣」--民主党のアフガン政策を批判する(11月21日)
武器輸出三原則緩和と軍産学複合体・資料(1)(11月21日)

大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について(11月15日)
続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために(11月12日)


掲載記事の内容(2010年10月より)

グローバル軍産学複合体の中の東京大学、そして日本の大学(2) 

 先端「融合」科学技術の軍事利用、と言うよりも、ポスト冷戦時代の米国の軍事技術開発が先端「融合」科学技術の研究開発の軍事化をもたらしてきたことは、米国で出版された関連著作の翻訳を通じて、日本においても少しずつ理解が広まってきた。
 例えば、そうした書物の中に、この夏『ロボット兵士の戦争』というタイトルで翻訳されたP.W.シンガーのWired for War: The Robotics Revolution and Conflict in the 21st Centuryがある。(シンガー自身によるこの書の解説については、昨年Democracy Now!で紹介された「ロボット革命と21世紀の戦争」を見ていただきたい。)

 あるいは、2008年に翻訳されたジョナサン.D.モレノの『マインド・ウォーズ 操作される脳』、 Mind Wars: Brain Research and National Defense 、さらには、直接に軍事問題を扱ったものではないが、先月(2010年10月)翻訳出版されたマイケル.J.サンデルの『完全な人間を目指さなくてもよい理由--遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』、The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering などをあげることもできるだろう。

 問題は、これらに対して日本のロボット工学、脳科学、遺伝子工学分野の大学/独法系研究機関の研究者が、ほぼ完璧と言ってよいほどの沈黙を守り/決め込み、何かしら日本で行われている研究は米国とは違う、あるいはそれとは無関係であるかのような振る舞いをしていることである。

⇒ジョナサン.D.モレノのレクチャー(英語)
University,Inc: The Corporate Corruption of Higher Education の著者、ジェニファー・ウォッシュバーンの論文(英語)。 彼女の紹介はこちら。
(11/28/2010)
 
参考サイト
⇒不整地走行ロボット用経路プラナーの開発(防衛省+日立)
⇒ロボットに対する地形評価基準「不整地度」の提案(早稲田・理工、一例として)
⇒防衛省・技術研究本部 先進技術推進センター
⇒防衛技術シンポジウム2010
⇒Robotics in Japan 日本のロボット研究室
⇒日米科学技術協力事業/「脳研究」分野
⇒テラヘルツテクノロジーフォーラム
⇒戦略的イノベーション創出推進事業(テラヘルツ波イノベーション)
⇒産業競争力懇談会(COCN(Council on Competitiveness-Nippon))
「基礎研究についての産業界の期待と責務プロジェクト--プレイクスルーに向けてのアプローチ」(PDF)
「基幹産業創出のためのナノエレクトロニクス研究拠点設置の提案」(PDF)
「世界トップレベルの研究拠点について_第一次報告書」(PDF)
「世界トップレベルの研究拠点について_第二次報告書」(PDF)
⇒Microsystems Technology Office/Programs(DARPA)


人文・社会科学系フィールド
⇒米国NPO「日米研究インスティテュート」(東大、京大、慶應、早稲田、立命5大学共同)
「研究活動」⇒「多極化する競争環境と日米企業のグローバル連携」「東洋と西洋の新たな文化的融合に向けた日米企業のイニシアティブ」「世界の安全保障と日米の役割」「医薬分野における知的所有権の移転支援」etc.,...

(つづく)


グローバル軍産学複合体の中の東京大学、そして日本の大学(1)

 東京大学のホームページに「東京大学憲章」が掲載されている。その前文には、

 「東京大学は、この新しい世紀に際して、世界の公共性に奉仕する大学として、文字どおり「世界の東京大学」となることが、日本国民からの付託に応えて日本社会に寄与する道であるとの確信に立ち、国籍、民族、言語等のあらゆる境を超えた人類普遍の真理と真実を追究し、世界の平和と人類の福祉、人類と自然の共存、安全な環境の創造、諸地域の均衡のとれた持続的な発展、科学・技術の進歩、および文化の批判的継承と創造に、その教育・研究を通じて貢献することを、あらためて決意する」、

 「第二次世界大戦後の1949年、日本国憲法の下での教育改革に際し、それまでの歴史から学び、負の遺産を清算して平和的、民主的な国家社会の形成に寄与する新制大学として再出発を期し」、

 「その自治と自律を希求するとともに、世界に向かって自らを開き、その研究成果を積極的に社会に還元しつつ、同時に社会の要請に応える研究活動を創造して、大学と社会の双方向的な連携を推進する」とある。

 その東京大学が、今年2月24日、世界最大の軍事産業、ボーイング社と「航空宇宙に関する最新テクノロジー」、具体的には「ロボット工学、モデリング・シミュレーション関連のテクノロジー」分野の共同研究を行う「覚書」を取り交わした。東大の理解によれば、世界最大の軍事産業との共同研究が「人類普遍の真理と真実を追究」し、「世界の平和と人類の福祉」に「貢献」し、「その研究成果を積極的に社会に還元」することになるそうだ。それが、東大が言う大学(研究)の「自治と自律」の定義、ということになるのだろうか。

(⇒つづきを読む)

1960年代の日本の大学の軍事研究 

 1967年5月23日、衆院本会議における、旧社会党の松本七郎の発言である。

「私は、日本社会党を代表して、日米安保条約に関連する最近の緊急事態等について質問を行なわんとするものであります。(中略)。まず第一に指摘したいのは、日本の大学、研究所、学会などが、米国陸軍極東開発局から広範な財政援助を受け委託研究に従事している事実であります。

 政府提出の資料によりますると、東京大学の宇宙航空研究所や科学技術庁の航空宇宙研究所を含めまして、その大部分が国立や公立の機関で、これが外国軍のひもつき研究をやっているのであります。これは日本の教育のあり方、学問の自由という基本的な観点から申しましても、きわめてゆゆしい問題であります。佐藤総理は、外国からの援助はあり得るなどと言って、ユネスコや一般の国際機関からの財政援助と同じように見ておられるようです。しかし、この委託研究には、米国陸軍から一つ一つ研究テーマや条件をつけているのでありまして、この一事をもってしても、決して純粋にして自由な科学研究のための援助ではなく、米国陸軍の特殊の意図と利用価値から出たものであることは明々白々であります。

 この財政援助と委託研究問題できわめて特徴的なことは、総計九十六件、三億八千七百万円のうち、生物・医学関係が圧倒的に多く、金額において全体の八四・三%を占め、また、援助の大部分がベトナム戦争の拡大と歩調を合わせて、一九六五年、六六年、六七年に集中していることであります。このことは、今日、アメリカがベトナム戦争で生物・化学兵器を使用している実情と考え合わせてみますると、決して偶然の一致ではないのであります。

(⇒つづきを読む)

武器輸出三原則緩和と軍産学複合体・資料(1)

 毎日新聞(11月17日)によると、民主党の外交・安全保障調査会(中川正春会長)は、17日の役員会で、政府が12月に改定する「防衛計画の大綱」(防衛大綱)に向けた提言案の「たたき台」を示した。その中で、
①すべての国への武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」を緩和し、輸出禁止対象国を拡大し、国際共同開発に道を開くこと
②自衛隊の全国均衡配備の根拠となってきた「基盤的防衛力構想」から「脱却」し、「南西諸島防衛」を想定した機動的な運用をはかること、を提言するという。

 武器輸出(禁止)三原則については、すでに「米国との武器技術供与や共同開発」が例外になっているが、民主党の見直し案では、
(1)平和構築・人道目的に関する「武器」、
(2)「殺傷能力の低い武器」、
(3)共同開発・生産の対象を、米国からさらに北大西洋条約機構(NATO)加盟国、韓国、オーストラリアなどに拡大するというものだ。
 また、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊が参加する場合の「武器使用基準の緩和」なども求めている。

 私が大学とNGOの問題を、軍産学(NGO)複合体の問題として、また「理系」と「文系」、さらには大学と「市民社会」を超えた問題として論じてきたのは、このような動きが民主党政権になって一段と加速化しているからである。
 日本の大学(院)研究に関して言えば、例えばロボット工学、脳科学分野を始めとして、米国の軍産学複合体を形成する大学群と、旧帝大系七大学を中心とする大学群との「共同研究」が拡大している現実、またその「共同研究」の実態があまりにも社会的に知られていない、という問題がある。
 つまり、私が三年前の『大学を解体せよ』の中で触れたように、米国の「全世界即時攻撃」計画と「核戦争の危険性」をはらんだ「日米共同研究」に、知ってか知らずか、独法系研究機関と直結した旧帝大系を中軸とする理工系大学院研究が「貢献」するシステムが、すでに構築されているのである。

(⇒つづきを読む)

国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由

⇒「大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について」より

「オール・ジャパン」という虚構の言説

 「9.11」(2001年)後の米国の「自衛権」の発動と、NATOの「集団的自衛権」の発動によるアフガニスタン空爆に始まる対テロ戦争勃発とタリバーン政権の転覆に伴って、その後の対テロ戦争の遂行と平行した日本の「人道復興支援」のために「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」が結成された。 コソボにおいて1999年4月に始まったNATOの空爆をきっかけにその設立が構想されたJPFは、アフガニスタンにおける対テロ戦争の開始によって誕生したのである。

 JPFとは何か? JPFによれば、それは、
①「NGO、経済界、政府(注・外務省のこと)が対等なパートナーシップの下、三者一体となり、それぞれの特性・資源を生かし協力・連携して、難民発生時・自然災害時の緊急援助をより効率的かつ迅速におこなうためのシステム」であり、
②「メディア、民間財団、学識経験者らの参加・協力も呼びかけ、関係アクターが一体となり国際緊急援助に取り組むシステム」であり、
③「21世紀にむけて日本の「シビル・ソサエティ(市民社会)」の発展を促進する具体的な試み」であるという。
 実際、「経済界も日本経団連1%クラブが中心となり、「ジャパン・プラットフォーム」を支援することを表明」した。この「プラットフォーム」はこのような人々によって運営され、このようなNGOが参加している。

 上のことから確認できるのは、第一にJPFとは、「産官学連携」と同じく、日本の国家(外交)戦略を担い、「国益」を体現する「NGO」(「市民社会」)を育成するために、官(=外務省)主導でその「プラットフォーム」が形成されたことである。そして第二に、これも「産官学連携」と同様に、その資金フローの「恩恵」を受けるのは、日本のNGOの中のごくごく一部、極めて少数の政官財によって承認されたNGOに過ぎないことである。

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大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について

 先週のことになるが、ある国際NGOの日本支部の人間が「日本の中小のNGOは淘汰されるべきだ」とツイッターで語っていたと、ある人から聞いた。私は、この発言は見過ごすことのできない忌々(ゆゆ)しき発言だと思う。
 国連機関や政府機関の「助成」を受け、さらにはグローバル企業や巨大財団からの寄付を受け、本部常勤スタッフの年間所得が「10万ドル、20万ドルは当たり前!」の世界で生きている巨大な国際NGOが、ある国の「中小(弱小)NGOは淘汰されるべきだ」と言う。
 これは国際NGOの鼻持ちならない、そして度し難いエリート主義の本音が、ツイッターという社会的責任性が即座には問われない媒体を通して、つい口から零れ落ちたものであると同時に、そのエリート主義と不可分一体としてある「社会ダーウィニズム」の思想を表現するものである、と私は考えている。「NGOの淘汰」を主張するこの人物は、一人の人間として自分が何様であるかを、まったく見失っているのである。

 しかし、企業の世界に目を転じてみると、「資本力や経営力のない企業は淘汰されるべき」という「社会ダーウィニズム」の論理は、むしろ自明の理とされている。そして、この論理がさらに国立大学の「法人化」以降、大学業界の世界でも「自明の理」であるかのようにされてきた。こうした背景と時流から言えば、国際NGOで働く常勤スタッフが「NGOの淘汰」論を展開するようになったとしても、何ら驚くことではないということもできる。

 「大学の淘汰」論とは、「このままゆけば大学は自然淘汰される」という客観的状況分析をそのまま述べる、というものではなく、むしろ淘汰を政策的に促進することによって、大学崩壊のドミノ現象を未然に防止する、という発想からなされてきた。こうした大学淘汰論を主張する人々は、NGO淘汰論を主張する国際NGOの常勤スタッフと同様に、自分の何様たるかを見失っていると言わざるをえない。

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12/11シンポジウム
「平和構築」は平和を創造するか?~「平和構築」とNGOの役割~


日本政府や国連が推進する「平和構築」。
総理大臣の諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」*も、今年8月発表の報告書の中で「平和創造国家」日本を目指すべきだとし、「国際平和協力活動の現場でも、NGOとの民軍協力を具体的に積み上げ、オール・ジャパンの平和構築能力を高めていくべき」と提言しています(提言は「新防衛計画大綱」に盛り込まれる予定)。

さらに報告書はPKO参加5原則についても、停戦合意、受け入れ同意、中立性の三つの原則は「平和創造国家として日本が応分の貢献を行う上での障碍となる」と述べ、「PKO活動に参加している他国の活動に対する後方支援もまた、「武力の行使との一体化」とは無関係であり、自衛隊の任務として当然認められるべきである」と提言しています。

しかし、アフガニスタンでは「平和構築」を掲げた人道支援、「復興」・開発活動の一方で、対テロ戦争を継続するという根本的に矛盾した状況が続いています。「平和構築」の名の下、実際には何が起きているのでしょうか?

シンポジウムでは、国家と国際機関による「平和構築」の問題点、そしてその中でNGOが直面している課題と果たしている/負わされている役割について、アフガニスタンやパレスチナの例を取り上げて考えます。また、バングラデシュで軍隊による弾圧の下、権利と尊厳を求め続けている先住民族の視点を通じて、平和維持の任務を負ったPKO派遣兵士による人権侵害を取り上げながら、「平和構築」と軍隊の関係についても考えます。

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対テロ戦争と自衛隊のアフガニスタン「派遣」--民主党のアフガン政策を批判する

11/21/2010 更新

 11月18日、リスボン(ポルトガル)で行われたNATOサミットに対し、アフガニスタンからのNATO軍の即時撤退を求めて「ダイ・イン」を行う人々(PressTVのPeace activists stage anti-NATO protestより)。 ポルトガル政府は総計42名を逮捕。ロイターのAlertNetは、厳戒態勢の中、約1万人が抗議行動に参加したと報道。。なお、抗議行動のビデオ・クリップはindymedia.portugalで観ることができる。

リスボンでの行動に呼応する形で、各地でオバマ政権のアフガン政策を批判し、米軍・NATO軍の即時撤退を要求する抗議行動が波状的に展開された。一例を挙げると、イギリスのロンドンでは、11月29日、リスボンと同じく1万人にのぼる人々がハイド・パークに集い、トラファルガー・スクウェアまでデモ行進をした。
 一方、オバマ政権はアフガニスタンにおける無人爆撃機による空爆を激化させ(空爆は今年、すでに1000回を超えている)、初の戦車部隊の投入を決定した。 

・・・・・・・

 読売新聞(11/5付)によると、菅政権は11月5日、「自衛隊の医官と看護官ら約10人を年内にもアフガニスタンに派遣する検討を始めた」という。「米国の要請に応えたアフガン復興の人的支援策の一環として、現地の医療機関で教育訓練の講師として活動させる方針だ。自衛官のアフガン派遣は、駐在武官を除けば初めてとなる」。  

 自衛隊のアフガン「派遣」問題は、7月の参院選挙後、にわかにその具体化に向けた動きが活発化した。読売新聞は、「今回の派遣は急ぐ必要があるため、法改正や新法制定は行わず、防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する方向だ。憲法違反とされる「武力行使との一体化」という批判を避けるため、アフガンに展開している国際治安支援部隊(ISAF)とは別個に活動する」と報じているが(2010年11月6日付)、「駐在武官を除けば初めてとなる」自衛隊のアフガン「派遣」をめぐる、こうした政策決定に向けたやり方のどこに問題があるのかについては何も報道しない。

 読売新聞の記事を読むだけでも、菅政権、というよりは外務・防衛官僚による今回の自衛隊のアフガン「派遣」の方針決定が、いかに問題が多い決定であるかがうかがえる。

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続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために

 三年前に『大学を解体せよ』(現代書館)を出版した。この本にも関連する、とても気になる新聞報道が昨日、今日(2010年11月1日、2日)と二つあった。いずれも朝日新聞の記事である。
 一つは、国立大学協会(会長=浜田純一・東大総長)が、11月1日、高知市内で総会を開き、2011年度の予算編成で削減のおそれがある運営費交付金などを確保するよう、政府に要望する決議をまとめたことだ。

 運営費交付金は、国立大学の予算の半分以上を占める大学がほとんどで、しかも近年金額が減少傾向にある。医学部や理工系大学院のない大学は、とくに厳しい財政状況に直面している。来年度の予算編成では、1兆円超の特別枠を各省庁が競うため、さらに減額される可能性がある、ということで国立大学の経営陣が危機感を強めたのだ。朝日新聞によれば、国大協の決議には予算削減によって「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などと書かれているという。

 もう一つは、今日付けの記事、「国立研究機関構想に蓮舫氏「焼け太り」 文科省を批判」である。
 朝日新聞によると、「研究開発の独立行政法人(独法)を統合する「国立研究開発機関」構想に、蓮舫行政刷新相が「待った」をかけている」という。

 なぜか? この「構想」が「省庁の縦割りを廃し、効率的な研究を可能にすることを理由に文部科学省などが検討している」からだが、「独法の人員や予算などを見直す基準を策定中の行政刷新会議は「文科省の焼け太り作戦だ」と反発している」のである。

 「国立研究開発機関構想」とは、「理化学研究所や宇宙航空研究開発機構など38法人を再編し、新組織へ移行させるというもの」。「関係する9府省の副大臣らでつくる「研究開発に関する検討チーム」が4月に策定した中間報告に盛り込まれた。海江田万里・科学技術政策相も設置法案を来年の通常国会に提出する考えを示している」。

 周知のように、行政刷新会議は、4月と5月に研究開発関連の独法などを対象とした「事業仕分け第2弾」を実施した。そして、「年度内に独法全体の体制を見直す基準を策定する予定」になっている。だから同会議関係者は、上の「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」と批判しているのである。
 なぜか? 「研究開発に関する検討チーム」が策定した「中間報告」が「資金の繰り越しなど予算執行を柔軟にする」としたことについて、「38法人の業務内容や人件費の総額を減らす指摘もなく、青天井の予算獲得を狙っているのではないか」と行政刷新会議は警戒しているのである。

 朝日新聞は、10月24日に首相公邸であった閣僚勉強会の席上、蓮舫氏が「科学技術予算の効率的な戦略が必要だ。文科省ではなく、総理を長とした内閣で予算編成を行うべきだ」と提案し、「文科省主導の流れを牽制」したことを伝えている。そして、2日夕に開かれた検討チームの会合に、「仕分け人でもある寺田学首相補佐官を送り込み、設置法案の提出阻止を狙っている」という。

 まず、前者の問題、国立大学の運営費交付金の増額問題について言えば、これを増額したところで今の日本の大学、もっと言えば大学を頂点とする教育制度がかかえる問題群の何らの解決にもつながらない。にもかかわらず、国立大学の経営陣が、増額しなければ「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などという論理をもってそれを正当化していることが、問題の本質を見えなくさせているのである。

 また、後者の問題については、「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」という分析や「構想」に対する批判は正しい。しかし、蓮舫氏の敗北は目に見えている。民主党には「総理を長とした内閣で予算編成を行う」能力も度量もないからである。民主党によるこの一年間の政権運営をみてはっきりしたことは、「官僚主導から政治主導へ」をスローガンにしてきた民主党は、官僚機構のサボタージュ・巻き返しによって、再び自公政権時と変わらぬ「官僚主導」の政権運営に舞い戻ってしまったことである。
 その根拠はとても単純なことで、もしも民主党が「総理を長とした内閣で予算編成を行う」ことを民主党が本気で追求するのであれば、財務省の抜本的構造・機構改革を含む、現官僚機構に与えている法的権限を法改正を通じて解体するのでなければ不可能であり、民主党はそこまで踏み込むことを放棄してしまったからである。

 国立大学の運営費交付金問題、また日本の科学技術政策と大学制度との関係の問題は、先にも述べたように『大学を解体せよ』(現代書館)のメインテーマだったと言ってよい問題である。『大学を解体せよ』は、文部科学省の支配/統治からの自治と自律を戦略的に思考しない日本の大学経営・運営のあり方やその制度的欠陥を、大学教育「サーヴィス」に税金を払っている納税者、子どもを大学に進学させている「保護者」、つまりは「消費者」の視点から考えようとするものだった。けれども、出版から四年近くを経て、事態はさらに悪化しているようにみえる。

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日米安保と琉球の自治

 「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」を主宰する松島泰勝(まつしま・やすかつ)さんに、ブログで拙著を紹介していただいた。

 松島さんには、私が編集に携わった『グローバル時代の先住民族--「先住民族の10年」とは何だったか」(2004、法律文化社)に「太平洋諸島・先住民族の自決・自治・自律の試み」という論文を寄せていただいたことがある。そして現在構想中の本にも、エッセイを寄せていただく計画がある。

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「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」

 「「保護する責任」(Responsibility to Protect)にNO!という責任」について考えてみたい。
 『日米同盟と欺瞞、日米安保という虚構』を上梓したばかりで、一見、日米安保とは何の関係もなさそうに思えるこれをなぜ問題にするかに関しても、追々明らかにするつもりだ。国際政治や国際法、国連学や平和学に関心のある人もそうでない人も、ぜひ一緒に考えてもらいたい。
 まず、「保護する責任」とは何かを簡単に説明しておこう。

Ⅰ 「保護する責任」とは何か

「保護する責任」とは、
1、「個別の国家が、ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪からその国の人々を保護する責任を負う」
2、国際社会は、個別の国家の「この責任の実行と、保護する能力の構築において、国家を支援する」責任を負う、
3、「国家が、これら具体的に記された四つの犯罪および違反から人々を保護することに、「あきらかに失敗している」場合には、国際社会が、安全保障理事会を通じて、また国際連合憲章に従って、「適切な時期に断固とした方法」によって、集団的な行動を取る」責任を負う、という三つの「責任」によって構成される概念である。(詳しくは「保護する責任の履行 国連事務総長報告書」の内容を参照。)

この「報告書」に沿って言えば、「保護する責任」は、

・第一の柱  国家による保護の責任
・第二の柱  国際的な援助と能力構築
・第三の柱  適切な時期と断固とした対応(注・武力行使のこと)

を三つの「柱」とする、いわば国連体制の下で「国際の平和と安全」を「維持」するための新しい国際(法)的規範としてある。現在、国連においてはこの規範を現実の政策に移すための議論が行われている。つまり、「保護する責任」は、その理念をめぐる審議の段階は基本的に終了し、「履行」=実行段階に入ったものとして理解されているわけである。

 では、なぜ武力行使を最終的手段とする「保護する責任」が重要なのか。「報告書」によれば、それは、

「20世紀はホロコースト、カンボジアのキリング・フィールド、ルワンダのジェノサイド、スレブレニッツァの大量殺戮などが汚点となった。これらのうち、ルワンダとスレブレニッツァについては、安全保障理会と国際連合の平和維持軍が監視する中で行われた。

 ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪―20世紀の残酷な遺産は最も基本的かつ実行すべき責任に従って行動しなかった個別国家の重大な失敗と、国際的な制度の集団としての不十分さを、辛辣にまた鮮明に語る」からである。

 私は、「ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪」が「20世紀の残酷な遺産」であることに異論はない。またそれが、これらを引き起こした「個別国家の重大な失敗」に起因することもその通りだと考えている。

 問題は、「報告書」が「国際的な制度の集団としての不十分さ」と言うときの「不十分さ」に関する認識にある。国際社会が国連安保理の決議の下で、集団的な武力行使に踏み切らなかったことが「残虐な遺産」を残してしまった原因なのだろうか。そうだとは思えない。また、最終的な手段としての武力行使が担保されれば、問題解決の道が開けるのだろうか。これもそうとは考えない。

 「保護する責任」は、「ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪」を国家が犯さず、これらから人々を「保護」する「責任」のみならず、それが守られない(と安保理が判断する)場合に、最後の手段としての〈武力行使を容認するパッケージとしての政策概念〉であるが故に重大な問題をはらんでいるのである。

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『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』のご案内



 「安保は軍事同盟ではない」。これが日本政府の公式見解だ。だとしたら、「日米同盟」の法的根拠とは何か。あるいはその逆に、安保が軍事同盟であるなら安保条約のどこにその根拠を見出しうるのか。また、かつて吉田茂は旧安保条約を米軍の「駐兵条約」と言ったが、ではそれを改定した現安保条約は在日米軍の無期限駐留を米国に保障した条約という以上の、何か具体的な軍事的意味を持つものなのか。

 岸信介は条約改定によって米国が「対日防衛義務」を負い、それによって安保は日本の「平和と安全」を「保障」する条約になったと語った。しかし、吉田茂もまたそれと同じことを語り、旧条約の国会「承認」を強行したのである。

 安保条約第五条一項。この条項はこれまで日米の「共同作戦」を規定した条項だと解釈されてきた。本書はそのような解釈に真っ向から挑戦する。北大西洋条約を始めとした軍事同盟条約と安保条約の条文の一字一句をつぶさに対照しながら、本書は安保条約が結局のところ「改定された駐兵条約」であり、1970年代末期に登場した日米同盟論が、「在日米軍の無期限駐留のための安保条約の無期限延長」を正当化するために捏造された、条約上の根拠なき政治宣言に過ぎないことを明らかにする。

 その意味で本書は、安保を「冷戦の産物」と捉え、軍事同盟規定した旧社会党や共産党の安保=対米従属論、さらには「60年安保」後の護憲運動が「九条を守る」ことを第一義に置き、安保問題を後景化させてきたことなどをも批判的検討の俎上にのせている。「日米同盟という欺瞞」を暴き、「日米安保という虚構」の物語を解体し、在日米軍の無期限駐留を阻むためには避けて通ることができない課題としてそれはある。
 読者の忌憚無き批判を仰ぎたい。

1、[本書の構成]

第一章 日米同盟という欺瞞
第二章 日米安保という虚構(Ⅰ)――日米「共同防衛」の幻影
第三章 日米安保という虚構(Ⅱ)――安保=日米軍事同盟論をめぐって
第四章 憲法九条の死文化と日米安保――国家の自衛権をめぐって
第五章 憲法九条の死文化のメカニズム――「普通の国家」と霞ヶ関イリュージョン
第六章 国連憲章第五一条と「戦争と平和の同在性」
終章 日米同盟を再考し、日米安保に期限をつけるために

目次の詳細はhttp://nakano-kenji.net/book/2010.mokujiを、
「まえがき」はhttp://nakano-kenji.net/book/2010.maegakiを、
「あとがき」はhttp://nakano-kenji.net/book/2010.atogakiをご覧ください。

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