2010年11月12日金曜日

大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について

大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について

 先週のことになるが、ある国際NGOの日本支部の人間が「日本の中小のNGOは淘汰されるべきだ」とツイッターで語っていたと、ある人から聞いた。私は、この発言は見過ごすことのできない忌々(ゆゆ)しき発言だと思う。
 国連機関や政府機関の「助成」を受け、さらにはグローバル企業や巨大財団からの寄付を受け、本部常勤スタッフの年間所得が「10万ドル、20万ドルは当たり前!」の世界で生きている巨大な国際NGOが、ある国の「中小(弱小)NGOは淘汰されるべきだ」と言う。
 これは国際NGOの鼻持ちならない、そして度し難いエリート主義の本音が、ツイッターという社会的責任性が即座には問われない媒体を通して、つい口から零れ落ちたものであると同時に、そのエリート主義と不可分一体としてある「社会ダーウィニズム」の思想を表現するものである、と私は考えている。「NGOの淘汰」を主張するこの人物は、一人の人間として自分が何様であるかを、まったく見失っているのである。

 しかし、企業の世界に目を転じてみると、「資本力や経営力のない企業は淘汰されるべき」という「社会ダーウィニズム」の論理は、むしろ自明の理とされている。そして、この論理がさらに国立大学の「法人化」以降、大学業界の世界でも「自明の理」であるかのようにされてきた。こうした背景と時流から言えば、国際NGOで働く常勤スタッフが「NGOの淘汰」論を展開するようになったとしても、何ら驚くことではないということもできる。

 「大学の淘汰」論とは、「このままゆけば大学は自然淘汰される」という客観的状況分析をそのまま述べる、というものではなく、むしろ淘汰を政策的に促進することによって、大学崩壊のドミノ現象を未然に防止する、という発想からなされてきた。こうした大学淘汰論を主張する人々は、NGO淘汰論を主張する国際NGOの常勤スタッフと同様に、自分の何様たるかを見失っていると言わざるをえない。

 例えば、誰が言い出したのかは定かではないが、「少子高齢化」の加速度的進展によって統計学的に大学の経営危機が明らかになりつつあった1980年代の末期頃には「東大の私学化」や「大学院大学化」はすでに主張されていた。その発想においては、その他の旧帝大六大学や「その他雑多」な国立大学は切り捨てられるものとしてあったのである。「まともな検討対象」になっていたのは、せいぜい京大くらいのものだったろうか。
 この時期、つまり20年前に、すでに後の「法人化」の青写真は完成していた。すなわち、東大の機構改革とカリキュラム再編成に基づく一般「教養課程」の廃絶、大学教授の大学院教授化⇒大学院研究・教育中心主義⇒学部教育の解体である。1990年代を通して、東大に続き京大その他の旧帝大、さらに医学部をもつその他の国公私立の「総合大学」がこれに続いた。いわゆる、「大学院教育の実質化」というやつである。

 旧科学技術庁の下で、1990年代半ばに第一期「科学技術基本計画」が策定される。旧文部省と科技庁官僚(技官)は、シュムペンター張りの「創造的破壊」論とドラッカー張りの「組織経営」論を合体させ、バブル崩壊後の長期経済低迷期に突入した日本経済の活路を戦後日本の「イノベーション」⇒「上からの構造改革」に見出そうとした旧通産官僚の戦略構想に便乗するかたちで、「科学技術基本計画」を実現する「上からの大学構造改革」構想をまとめることになる。それが橋本行政改革とセットで打ち出された前世紀末期の国立大学の独立行政法人化だったのである。
 
 けれども、この「法人化」構想とは、あくまでも旧帝大を中心とし、しかも医・理・工の大学院博士課程を持つ「総合大学」の「改革」を戦略目標に据えたものであったから、その煽りや皺寄せをそれ以外の「中小(弱小)」の大学(昔の「駅弁大学」や学生の入学金と授業料に大学経営を依存する私立大学)がモロに受け、国からの税配分と私学助成金が大幅に縮小傾向を辿る中で経営破綻状況に陥るのは--「続・大学を解体せよ」の前半部で述べたように--必然的事態だったのである。忘れてならないのは、官僚や大学経営者にとってみれば、こうなるのは実は20年以上前から目に見えていた、ということだ。彼(彼女)らは、星の数ほどある(900校弱?)短大を含む日本の国公私立大学を上から淘汰するために、大学の「自立化」(=大学予算・補助金・助成カット)を主張してきたのだから。

 現在、こうした全国的な大学の経営危機を反映して、さまざまな論理を駆使して展開されている「大学の淘汰」論は、それが特に大学人から発せられる場合には、自己をも含めて現在の事態を招いたその責任主体がどこにあるのか、そのことを明確にせずに主張されているものが多いという意味で、悪質な議論だと私は思う。それは、国の大学行政と大学当局による大学運営の犠牲になっている者たちの当事者性と、その責任の一端を自ら担ってきた(いる)自らの当事者性を、ともに忘れた自己保身丸出しの議論だと言うべきではないだろうか。

 話は元に戻るが、冒頭の「NGOの淘汰」論も、なぜ日本には「中小のNGO」が圧倒的に多いのか(というより、それが国際的にも主流であるが)、常勤スタップの一人さえまともに雇えない現実をもたらしてきた政府・官僚機構の「対NGO政策」の歴史性とその問題点を踏まえない議論である。そこには、「中小のNGO」から自分たちが「足を引っ張られる」ことを忌避したり、批判されることを恐れる意識が見え隠れする。さらに、「淘汰の対象」と自分が考えるNGOの活動を蔑視・軽視する差別的観念の表出であることの自覚もない。
 本音を公的な場では決して語らない、そんなエリート主義剥き出しのNGOがいくら増えたところで、世界も日本も何も良くなることはないだろう。

 ではなぜ、大学と国際NGOの世界で「社会ダーウィニズム」が台頭しているのか? 
 一言でその経済的要因を述べるなら、〈市場の狭隘化〉である。NGOで言えば、NGOという組織の存立に関わる会員という「市場」とその会員から期待できる会費と寄付の「市場」がデフレスパイラルの中で狭隘化し、官僚機構によるNGOに対する規制と相まってその開拓が非常に厳しくなっていること、大学で言えば、少子化に伴う学生の国内「市場」の狭隘化、そして留学生争奪戦が国内大学間のみならず、日本の大学と欧米・オーストラリアなど大学との間でもいっそう熾烈になってきていることが指摘できる(拙著『大学を解体せよ』の「第四章 大学の国際戦略」を参照のこと)。しかし、こうした「経済的要因」が本質的な問題でないことは、追々明らかになるだろう。

 一見、大学と国際NGOの動向は、それぞれ違う世界(業界)の、相互に無関係な現象であるかのように思いがちになる。しかし、いずれもポスト冷戦時代の国際政治経済の変化に対応を迫られ、自己調節をはかりながら、それによって国家からの自律性をより喪失する、という点では見事な共通点を持っている。
 つまり、大学業界における「産官学連携」⇒軍産学複合体形成に向けた軌跡も、NGOの世界における「産官NGO連携」⇒「軍民一体化」に向けた軌跡も、その規模の大きさの違いを別にすれば、前世紀末期から今世紀の対テロ戦争への突入という同じ時期に起こり、しかも同じ論理によって正当化されてきたのである。この過程において、大学とNGO、二つの業界を支配してきたものこそ「オール・ジャパン」の形成という言説だったのである。

⇒国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
 
「批評する工房のパレット」内参考ページ
⇒「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」