2010年10月28日木曜日

「保護する責任」にNO!という責任---人道的介入と「人道的帝国主義」

「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」

 「「保護する責任」(Responsibility to Protect)にNO!という責任」について考えてみたい。
 『日米同盟と欺瞞、日米安保という虚構』を上梓したばかりで、一見、日米安保とは何の関係もなさそうに思えるこれをなぜ問題にするかに関しても、追々明らかにするつもりだ。国際政治や国際法、国連学や平和学に関心のある人もそうでない人も、ぜひ一緒に考えてもらいたい。
 まず、「保護する責任」とは何かを簡単に説明しておこう。

Ⅰ 「保護する責任」とは何か

「保護する責任」とは、
1、「個別の国家が、ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪からその国の人々を保護する責任を負う」
2、国際社会は、個別の国家の「この責任の実行と、保護する能力の構築において、国家を支援する」責任を負う、
3、「国家が、これら具体的に記された四つの犯罪および違反から人々を保護することに、「あきらかに失敗している」場合には、国際社会が、安全保障理事会を通じて、また国際連合憲章に従って、「適切な時期に断固とした方法」によって、集団的な行動を取る」責任を負う、という三つの「責任」によって構成される概念である。(詳しくは「保護する責任の履行 国連事務総長報告書」の内容を参照。)

この「報告書」に沿って言えば、「保護する責任」は、

・第一の柱  国家による保護の責任
・第二の柱  国際的な援助と能力構築
・第三の柱  適切な時期と断固とした対応(注・武力行使のこと)

を三つの「柱」とする、いわば国連体制の下で「国際の平和と安全」を「維持」するための新しい国際(法)的規範としてある。現在、国連においてはこの規範を現実の政策に移すための議論が行われている。つまり、「保護する責任」は、その理念をめぐる審議の段階は基本的に終了し、「履行」=実行段階に入ったものとして理解されているわけである。

 では、なぜ武力行使を最終的手段とする「保護する責任」が重要なのか。「報告書」によれば、それは、

「20世紀はホロコースト、カンボジアのキリング・フィールド、ルワンダのジェノサイド、スレブレニッツァの大量殺戮などが汚点となった。これらのうち、ルワンダとスレブレニッツァについては、安全保障理会と国際連合の平和維持軍が監視する中で行われた。

 ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪―20世紀の残酷な遺産は最も基本的かつ実行すべき責任に従って行動しなかった個別国家の重大な失敗と、国際的な制度の集団としての不十分さを、辛辣にまた鮮明に語る」からである。

 私は、「ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪」が「20世紀の残酷な遺産」であることに異論はない。またそれが、これらを引き起こした「個別国家の重大な失敗」に起因することもその通りだと考えている。

 問題は、「報告書」が「国際的な制度の集団としての不十分さ」と言うときの「不十分さ」に関する認識にある。国際社会が国連安保理の決議の下で、集団的な武力行使に踏み切らなかったことが「残虐な遺産」を残してしまった原因なのだろうか。そうだとは思えない。また、最終的な手段としての武力行使が担保されれば、問題解決の道が開けるのだろうか。これもそうとは考えない。

 「保護する責任」は、「ジェノサイド、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪」を国家が犯さず、これらから人々を「保護」する「責任」のみならず、それが守られない(と安保理が判断する)場合に、最後の手段としての〈武力行使を容認するパッケージとしての政策概念〉であるが故に重大な問題をはらんでいるのである。

「保護する責任」論が登場し、本格的に議論されてきたこの10年ほどの間に、これに異議を唱えた国際的議論を掘り起こし、日本においても「保護する責任」に異議を唱える責任について、もっと広範に議論されて然るべきだ。しかし、日本の国連研究、あるいは国際法研究などといった分野は、全体として、国連に対する批判精神を持たないきわめて現状追認・現状肯定主義的な傾向が強い。そのため、学者が書いた論文を読んだ結果、批判的精神を養うどころか逆に誤った認識を植えつけられ、影響を受けてしまうといったこともよくある話である。

 その一例が『新たな地球規範と国連』の巻頭論文、「保護する責任と国連」と題された松隈潤(東京外国語大学 総合国際学研究院教授)の論文である。

 松隈論文の問題点は多々あるが、さしあたりここでは「保護する責任」を一から考えるにあたって、次の点を指摘するにとどめておきたい。その問題点とは、2001年の『ICISS報告書』からの5年後には、これが世界サミット成果文書に明記され、「10年を経ずしてこれに関する集中的な国連総会審議が開催されるという異例のスピードを伴った展開」になったこと、そのことに関する松隈自身の見解や価値判断を何も明らかにせぬまま、「保護する責任」の「政治的な重要性については認めざるを得ない」としていることである。

 つまり、カナダ政府の肝いりで、米国やフランス政府の支持をも取り付けながらまとめられ、しかも国連機関の報告書でも何でもない『ICISS報告書』が、なぜ5年後には世界サミット成果文書に明記されるにいたったのか、さらにその報告書をベースにしながら、二代にわたる国連事務総長の実権と影響力を介して、この概念をめぐる「集中審議」が国連総会において行われるようになったのか、その「異例のスピード」に関する分析や松隈自身の評価がまったく欠落しているのである。

 その分析や評価を欠落させたまま、松隈は、「保護する責任」の「政治的な重要性」を「認めざるを得ない」という。しかし、そこには「保護する責任」の「政治的な重要性」を積極的に承認する松隈自身の政治的立場からこの論文が書かれていることを読者の目から隠蔽する作為がある。一般読者、学生が松隈論文を読んで受ける印象は、「保護する責任にはいろいろ問題はあるのかも知れないが、全体としては「政治的に重要」=肯定的に評価できる概念らしい」となるからである。

 一事が万事であるが、このような「保護する責任」概念の日本のアカデミズム、そして日本社会への「輸入」のあり方自体を問わねばならない、と私は考えている(後述するが、前世紀末期からの「人間の安全保障」概念の日本への「輸入」のあり方についても、これとまったく同じことが指摘できる)。

 「保護する責任」が「異例のスピード」によって国連政治の既定のディスコースとして定着化してしまったこと、そこにどのような〈政治〉が介在していたのかを批判的に分析することは、この概念の評価にとって不可欠の要素である。そして、そうしたクリティカルな眼を持ち、「保護する責任の履行 国連事務総長報告書」を読み、そこから「世界サミット成果文書」を分析し、さらには『ICISS報告書』へと遡行してゆく作業が必要である。

 しかし悪いことに、こうした作業を深めようとするのではなく、「保護する責任」を既定の方針として推進する国家や巨大なグローバル財団からの資金援助を受けて、これをNGOとして促進する欧米を拠点とする巨大人権NGOの動きもある(これについても後述する)。

 新たなテーマとして私がこれを取りあげる理由は、こうした「保護する責任」をめぐる問題性について、少しでも情報と認識を共有し、それらを広げる必要性を痛感するようになったからである。すでにネット上でいくつかの日本語の論文も公開されているので、「保護する責任 人道的介入」と入力し、それらに目を通し、「保護する責任」に関する予備知識を深めていただきたい。
 以下、最も基本的な情報を得るためのサイトをいくつか紹介しておくことにする。

参考資料及びサイト

・アナン元国連事務総長報告
より大きな自由を求めて:すべての人のための開発、安全保障および人権」(2005)
2005年サミット(国連首脳会合)成果文書(外務省)
2005年 平和及び安全保障に関する協力のための日加計画
『新たな地球規範と国連』(国連研究 第11号)
INTERNATIONAL COALITION FOR THE RESPONSIBILITY TO PROTECT (ICRtoP)
Report of the International Commission on Intervention and State Sovereignty

Ⅱ なぜ、「保護する責任」にNO!と言うのか

 2008年のダボス会議。そこで「保護する責任:人間の安全保障と国際社会の行動」と題した非公開セッションが行われた。自公政権時代の福田元首相は、その冒頭挨拶で次のように語った。

 「我が国は、「保護する責任」が問われるような紛争下の事態に対して、武力をもって介入することは国家の政策として行っておりません。これまで人道支援や復興支援に力を注いできた国であります」「私は、平和のために前線で活躍する人道・復興要員の安全確保の重要性を忘れてはならないと思います」。

 日本という国が、「「保護する責任」が問われるような「紛争下の事態」に対して、武力をもって介入することは国家の政策として行って」いないという、この福田発言はとても重大である。
 私は、『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の第五章「憲法九条の死文化のメカニズム」の中で、日本政府がタテマエとしての「紛争解決における武力行使の否認」を、集団的自衛権の行使をめぐる政府見解の解釈変更と、自衛隊の武器使用の「規制緩和」の積み上げによって有名無実化してきた実態を明らかにしているが、今そのことは横に置いたとしても、ここでまず問われるべきは、

 「日本が国の政策として行わない/行ってはならないと、まがりなりにもこの国の内閣総理大臣経験者が語ったことを、国連の政策としては行ってもよい/行うべき、とするのか?」
ということである。このことを「保護する責任」を肯定的に評価する国際法・国際政治・平和学専攻の研究者や、巨大な国際人権・開発NGOの日本支部の事務局や会員の人々は、一度真剣に考え、そこからこの概念に対する再評価を行うべきではないだろうか? 

 「保護する責任」は、「人道主義」を掲げながら、国連の名において新たな武力行使のための「規範」を導入する。それがために、「国民」を「保護」しない/できない「脆弱国家」に対する、カナダ、米国、フランス、イギリスなどの「人権軍事大国」による「最終的手段」としての「断固とした」軍事介入とレジーム・チェンジ(政権転覆)を正当化する概念ではないか、その意味でこれは「人道的帝国主義」の一形態ではないか、という国際的批判にさらされてきた。
 なぜ、「保護する責任」が「人道的帝国主義」ではないか、と批判されてきたのか。その理由を順を追って考えてみたい。そうすればHuman Rights WatchやOxfamなど、国際的に名だたる人権・開発NGOが「保護する責任」の推進エージェントとなっていることの問題性も明らかになるはずである。

 『人道的帝国主義』の著者、ジャン・ブリクモンは、ベルギーの理論物理学者で、日本ではアラン・ソーカルとの共著、『知の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店、2000)で知られている。
 この書は、「そこまで言うか?」と私でさえ(?)ちょっと引いてしまうような言明(ステートメント)が随所にみられるが、だからこそ「人道的介入」論がはらむ問題点を端的に抉り出しているとも言える、国際政治学・国際法・国連学の研究者・学生、そして国際NGOにとって必読の書である。
 なお、「保護する責任」を痛烈に批判する国連でのブリクモンの発言は、
A more just world and the responsibility to protect を、
また、チョムスキーのブリクモンの「人道的帝国主義」に関する評論は、
Humanitarian Imperialism: The New Doctrine of Imperial Right を参照してほしい。

A 最終的手段としての「断固とした集団的措置=武力行使」を容認する「保護する責任」

 「保護する責任」は、それを「主権国家」が守らない場合には、最終的手段としての「断固とした集団的措置=武力行使」を容認する。
 上にみた「第一の柱」たる「国家による保護の責任」と「第二の柱」たる「国際的な援助と能力構築」をもってしても、その国家が「保護する責任」を果そうとしない/果せない場合には、その国家を国連によって「主権」が守られるべき国家としては認めず、「内政不干渉」原則が適用されない例外国家として認識するという前提条件がそこでは設定されている。
 この前提の上に立ち、「保護する責任」は「第三の柱」として、その国家に対する国連加盟国の連合軍による最終的な武力行使を容認する。ここにこの概念の最大の政治的な問題性がある。

 ところが、「保護する責任」をプロモートする国家や国際NGOは、この事実を隠蔽しようとする。
 たとえば、International Crisis Group代表のGareth Evansの次のような説明が、その一例だ。

1. Conceptual misunderstandings; it must be made clear that:
a. the term is not another name for humanitarian and military intervention;
b. R2P does not necessarily mean the use of coercive military force, even in extreme cases

1、概念的誤解。以下のことが明確にされねばならない。
a. 「保護する責任」は、人道的そして軍事的介入の別称ではない。
b. それは、極端なケースにおいてでさえ、強制的な軍事力の使用を必ずしも意味しない。

 このギャレス・エバンスの「保護する責任」正当化論は、明らかにこの概念に関するエバンス自身の「概念的誤解」に基づいているか、そうでなければきわめて意図的で、悪質な詭弁である。

 「保護する責任の履行 国連事務総長報告書」をもう一度見てみよう。
 「報告書」の「第三の柱 適切な時期と断固とした対応」=国連安保理決議に基づく軍事的及び非軍事的強制措置に関する記述は、私たちのような素人には、一読しただけではこの箇所が何を問題にしているのか、とても把握しにくい表現になっている。しかし、次のくだりを読むなら「保護する責任」が国連の名による新たな武力行使と不可分一体の概念であることが明白になる。

 「急激に拡大する緊急の状態において、国際連合、地域、準地域、国家の意思決定者は、実態よりも手続を、また結果よりも過程を重んじる、任意の、連続したあるいは徐々に増加する政策の階層ではなく、「適切な時期に断固とした」行動を通じて生命を救うことに集中し続けなければならない(サミット成果文書第139項)」

 これを短くすると、
 「国際連合、地域、準地域、国家の意思決定者は・・・、「適切な時期に断固とした」行動を通じて生命を救うことに集中し続けなければならない」となる。

 「生命を救う」「断固とした」行動とは、「保護する責任」を果たさない/果せない「主権国家」に対する軍事介入=武力行使のことだ。軍隊を持つ国家が「保護する責任」を果さず、その国家の犯罪から人々の「生命を救う」ためには、外部からの介入に対して軍を動員して抵抗しようとする国家(の軍隊)との戦闘行為=戦争が避けられない。
 逆に言えば、そこまでを射程に入れた上で「第三の柱」の「戦略」を具体的に煮詰めてゆくのでなければ「第三の柱」は空論にとどまり、何らの実効性も担保できないことになる。

 では、ある国家の軍隊との事実上の戦争状態を想定した上で、その国家に外部から介入し、目的を達成するためには何が必要になるか。国家犯罪を犯した政府の転覆→新政府の樹立である。つまり、「保護する責任」に国連としての軍事的強制措置を一体化させてしまえば、論理の必然的帰結として、それは政権転覆→「保護する責任を果す新政権の樹立」までを射程に入れた政治的な概念にならざるを得なくなる、ということだ。

 過去の「保護する責任」をめぐる公的文書においては、「保護す責任」に基づく外部からの軍事的介入によって必然化される、このような「介入のリアリズム」は何も言及されていない。また、「保護する責任」をプロモートする論者も、この問題をいっさい語ろうとしない。そこに「保護する責任」と「保護する責任」推進論をめぐる〈問題〉がある。

 先述したように、私は個々の国家は「保護する責任」が言う四つの国家的犯罪からその国の人々を守る国家としての責任を断固として果さねばならない、と考えている。しかし、「保護する責任」がその「戦略目標」を果そうとすればするほど、国家に対する最終的軍事介入-武力行使を通じて、個別国家vs.国連という構図の下での事実上の戦争と外部からの強制的なレジーム・チェンジを必然化させるが故に、「NO!」と言うのである。
 
 この点をより明確にするために、「保護する責任」が登場した歴史的かつ国際法上の背景を次に簡単に押さえておこう。

B 国連の軍事的強制措置と国家の武力行使に新たな「規範」を導入することの愚かさとその危険 

 「保護する責任」が登場してきた歴史的かつ国際法上の背景を考えるにあたり、その前提として『国際法の暴力を超えて』(阿部浩己著、岩波書店)の内容を踏まえておきたい。

 阿部自身の言葉によれば、この書は「国際法のもつ社会変革機能を最大化していく」という課題意識の下に、国際法が「規範や制度の拡充を通して、グローバル化が人類の定めであるかのような心象を世界大で広め」、さらには「人権法という、人間を解放するための言説までもが不均衡な政治経済構造の維持に資する役割を演じさせられている」ことを論じている。

 国際的に「履行」段階に入ったとされる「保護する責任」という「規範」を検討する場合においても、阿部が言う「国際法の暴力」をいかにして超えるか?という視点を見失わないようにすることが肝腎である。
 なお、阿部が理事長をつとめる「ヒューマンライツ・ナウ」の「テロと人権」に関する活動報告「ICCにおける侵略犯罪の管轄権行使に関する見解~国際刑事裁判所検討会議にあたって~」も、ぜひ参照してほしい。『抗う思想/平和を創る力』も必読だ。

 なお、リビアに対する武力攻撃後の事態を踏まえた、R2Pに関する発展的考察については、「〈リビア以後〉における「保護する責任」に関する発展的議論のために~北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」をめぐって」を参照して頂きたい。