2011年12月14日水曜日

「保護する責任」(R2P)に関するヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)への質問状と回答: 解説

「保護する責任」(R2P)に関するヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)への質問状と回答: 解説

 『脱「国際協力」――開発と平和構築を超えて』の版元新評論のブログに、「日本の「国際協力」と人道的介入」(11/20, 法政大学)で配布されたレジュメと資料が公開された。
 その中から「「保護する責任」(R2P)に関するヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)への質問状と回答」をここに転載するにあたり、若干の補足的説明を加え、解説に代えたい。


 まず最初に、多忙な中、質問状に対して回答してくれたHRW(本部)の担当者、ジェームズ・ロス氏への感謝を改めて述べておかねばならない。
 国際的に言えば、論争という形式を伴ったR2Pをめぐる議論は、この10年間にわたり展開されてきたが、日本においてはそれがなかった。日本の大学研究者による「R2P研究」なるものは、その質的レベルにおいて、単なる「R2Pの紹介」やその「意義」を追認する以上の、クリティカルなものではなかったのである。

 これについては、日本における「国際法」「国連研究」「国際関係」論等といった分野が、「現状維持」的であるという意味において、元来きわめて「保守」的な分野(=国連、政府・外務省追随型)であることに加え、国公立大学の法人化以降、ますますその傾向が強まっていること、大学研究者の「自主規制」が進行してきたなどがその要因として指摘できる。

 国連が「規範化」し、欧米など世界の「主要国」が推進し、日本も承認してしまったR2Pを、そこにどのような「隠れた狙い」(hidden agenda)が存在するかまでを分析しながら、批判的に研究するという作業は、それ自体とても困難な営みである。

 日本のアカデミズムにおけるこうした状況を、とりわけ若い研究者やNGOを含めた市民・社会組織体が乗り越え、すでに実行段階に突入しているR2Pをめぐる今後の活発な議論を切り開く一助として、この「質問状と回答」が少しでも寄与することが私たちの希望であり期待である。

 なお、「質問状と回答」については、ジェームズ・ロス氏の回答が個々の質問に対する回答になっているかどうか、この点に特に留意しながら読者それぞれが判断を下されることを促したい。
 また、東京オフィス代表の土井香苗氏に、ロス氏の回答に対するコメントと「質問4」に対する氏の見解を寄せて頂くように要請している(12月14日現在未着)。土井氏の回答が届き次第、氏の確認を得た上で、ロス氏の回答とともに上の資料に追加したいと考えている。


 今後のR2P研究(批判的検討)に問われている諸課題
 以下、順不同で列挙しておきたい。 

1)、国家が「文民」を「保護する責任」を果たしていないと国家が判断する基準NGOを含めた市民・社会組織体が判断する基準の差異性について。
 これは「国益」「国策」を基準に政策立案・決定する国家(政府)と「市民社会」の「公共益」との差異性、および両者の間に横たわるその緊張関係(「利益相反」)をNGOや市民・社会組織がいかに考えるのか、という問題である。

2)、R2Pが現実政治に適用される場合と適用されない場合が存在する、いわゆる「二重基準」の解決策が存在するか否かという問題。

3)、さらに、R2Pが現実政治に適用される場合には、①「外交」を含めた非軍事的強制措置(経済制裁など)と②軍事的強制措置(武力行使)を二つの「柱」とされるが、ある国家に対する非軍事的および軍事的制裁措置は、国家による「組織的かつ計画的」な「人権侵害」の阻止を含めたR2Pの目的を実際に実現するか否かという問題

4)、ある国の「人権侵害」を阻止するために、NGOを含めた市民・社会組織体が国家や国連安保理に対し、、①「外交」を含めた非軍事的強制措置(経済制裁など)と②軍事的強制措置(武力行使)が一体化したR2Pの実行を「提言」し、ロビーイングすることの是非について。
 これは上の「1」と相即的な問題であるが、特にNGOや市民・社会組織の活動の「政治性」を考える上で避けられない問題である。

5)、NGOを含めた市民・社会組織体は、国家の軍隊を自らの目的達成のための「道具」として利用すべきか否か。 独自の戦略に基づき行動する/しないを自律的に決定する軍隊(正規軍)と「市民社会」との間の「利益相反」および緊張関係の問題である。

6)、R2Pの実行に伴う一般市民の犠牲に対し、誰が責任を取り補償・賠償するのか。その主体の明確化の問題。

7)、「リビア以後」における日本におけるR2P論は、米軍・NATO軍・カナダ軍等によるリビアに対する武力攻撃、および「人道に対する罪」の適用による「北朝鮮」に対する制裁強化に対していかなる立場を取るのか、この二つをめぐる論者の主体的判断が欠かせない。
 つまり、意図する/しないにかかわらず、これら抜きの「R2P論」は思弁的な、ただの「おしゃべり」に終始せざるをえないことを踏まえる必要があるという点。