2009年3月28日土曜日

誰のための「平和と和解」か?---対テロ戦争時代の国連安保理と「国際社会」の役割を再考する

誰のための「平和と和解」か?
---対テロ戦争時代の国連安保理と「国際社会」の役割を再考する


 ソマリアの内戦勃発からほぼ二十年、旧ソ連のアフガニスタンへの軍事介入から三十年、また「自衛権」を発動した米国のアフガニスタンへの空爆の開始から七年半を迎え、誰の目にも明らかになったことがひとつだけある。それは、「イスラム原理主義」は欧米、ロシア、中国の軍事力をもってしても消え去らない、ということだ。
 アルカーイダのみならず、アフガニスタンのタリバーンもソマリアのアルシャバーブも、ハマスにファタハにヒズボラ、その他フィリピンをはじめ世界各地のイスラム武装勢力も、米軍やNATO軍によって軍事的に殲滅することはできなかったし、これからもできないだろう。なぜなら、彼、彼女たちは米軍や外国の軍隊が自国の領土に駐留する限り、武装闘争を放棄しないと宣言しているからである。

 問題は、国連安保理においても日本においても、この現実をいまだに教訓化しきれていないことである。つまり、ブッシュ政権の対テロ戦争に全世界が振り回され、世界全体がブッシュ政権登場以前より惨憺たる状況になっていることを総括しきれないまま、ぼくらはいまポスト・ブッシュの「国際政治」になし崩し的に雪崩れ込んでしまっているのである。

 ぼくらのような「非イスラム原理主義」の世界は、「原理主義」を外部から軍事的に解体することは不可能であることを知ってしまった。にもかかわらず、現実的には「原理主義」=「過激派」=「テロリスト」というレッテル貼りではない、彼や彼女たちとの関係を作り直すための政治的言説をいまだ見出しきれていないのである。その結果、ぼくらはイスラム武装勢力をターゲットにした、けれども実際には絶大なる一般市民の犠牲を生み出してきた米国、イスラエル、中国、ロシア等々の対テロ戦争を国際的に容認、あるいは黙認してしまっているのである。

 米軍とNATO軍、そして「紛争」をかかえる各国の軍隊と武装勢力の戦闘の激化、追い詰められた武装勢力による「自爆テロ」の炸裂、一般市民の犠牲、国家と武装勢力双方の戦争犯罪の氾濫、そしてそれに対する国際的な黙殺や沈黙・・・。ここ数年、アフガニスタンやソマリアで起こってきたことは「テロ対策」の絶対戦争化という根本的な政策的誤りが正されない限り、これからも半永久的に続くことになる。そのことを十分に知りながら、ぼくらは惰性的に同じ誤りをくり返そうとしている。

 人によって程度の違いはあるかもしれないが、米国の大統領がブッシュからオバマに変わったことによって、もしかしたら対テロ戦争は終息する兆しをみせるかもしれない、という仄かな期待を感じた人は多いだろう。ぼく自身が、「もしかしたら」と思った人間の一人である。しかし、大統領選におけるオバマの勝利以降、米国から発せられてくる情報を読むにしたがい、「もしかしたら」は「やっぱりダメか」にあっけなく変わってしまった。

 たしかに、バラク・オバマその人は、ブッシュ政権八年の「単独行動主義」とネオコン的「軍事至上主義」からの転換をはかろうとしていたのだろう。「対テロ戦争」という言葉を嫌い、日本語でいえば米軍の「海外派遣」とでも訳せるような表現を使おうとし、何とかイスラム社会に対する米国と米軍のイメージアップをはかろうと腐心している。しかし、政権として打ち出されてくる内容は、早くもオバマ自身の公約を裏切っている。
 ブッシュが始めた「終わりなき戦争」としての対テロ戦争がオバマ政権の時代に終息する気配は、いまのところ何も確認できない。それを証明するのが、ブッシュの対テロ戦争からの転換をはかるとされた、しかし実態は「軍事だけでなく、民生もやる」と言っているに過ぎない、オバマ政権のアフガニスタンに対する「包括的新戦略」である。

 オバマ政権は、アフガニスタンとパキスタンにおいてこの間勢力を飛躍的に増大させているタリバーンの「穏健派」と「過激派」を分断し、「穏健派」の政治的取り込みをはかり、「過激派」を炙り出そうとしている。しかし、そうした米国の「包括的」で新たな軍事的・政治的介入を拒否する勢力に対しては、断固として戦争継続(use of force)を宣言しているのだ。それはいわば、軍事的・政治的破産が明らかになったブッシュの対テロ戦争を、軍事・開発・「民生」部門全体にわたる膨大な額のドルのバラ撒きを通じ、オバマ流に少しだけ「リベラル化」した対テロ戦争に過ぎないのである

 アフガニスタンでもソマリアでも、タリバーンやアルシャバーブに反対する人々さえ、米軍や外国軍の撤退を要求している。ぼくらはこのことを、もう少し真剣に考えてみる必要がある。そうすれば、人々の広範な支持を集めているとは決していえない両国の現政府を全面的に支援する形で行われている米国や「国際社会」の介入策の誤りが、より鮮明にみえてくると思うのである。

 「紛争当事国」のどの「紛争当事者」の立場にも立たず、まずは当事者間の停戦交渉を積み重ね、和平合意を実現する。そのための「調停」あるいは「仲介者」として、あくまでも第三者的に関与する。これが国連であれ、アフリカ連合などの地域機関であれ、「国際社会」の「紛争」地域に対する関与のあり方の大原則である。十年、二十年かかったとしても、粘り強く関わり続けるしかない。その過程で力の均衡が破れ、いずれかの勢力が伸張したとしても、外部からの軍事介入は事態を悪化させるだけだからである。

 ところが、対テロ戦争時代においては、この大原則が通らない。「テロとの戦い」は「国連的正義」となり、「テロ対策」を戦争化する米国の世界戦略と、一方においてEUと日本は利害が一致し、引きずられ、他方ににおいてロシアや中国は、自国に深刻な「民族問題」と「イスラム原理主義」武装勢力をかかえるがゆえに「連携」する。
 こうして国連(安保理)に代表される「国際社会」が、第三者的関与という大原則をかなぐり捨て、予め現政権・政府を支援する(あるいは転覆する)という明確な政治目的を持ち、「紛争」地域に干渉・介入するというパターンが確立してきたのである。

 ブッシュ政権の唯一の遺産とは、この外部からの軍事的介入が問題解決はおろか、問題をさらに複雑にし、悪化させることを、世界に知らしめたことである。にもかかわらず、ぼくらはいまだにブッシュの負の遺産を償却する道筋を見出せないまま、同じ過ちに向かって突き進んでいるのである。

 「テロルな平和」とは、そのようにしてかろうじて「維持」されたり「強制」されたりする「国際の平和と安定」のことである。つまりは、国家と非国家主体双方によってくり返される戦争犯罪、虐殺と隣り合わせの、そんな対テロ戦争時代の「平和」のことである。