2009年4月9日木曜日

制裁の徹底化は、拉致問題の解決と朝鮮半島の非核化に何もつながらない

制裁の徹底化は、拉致問題の解決と朝鮮半島の非核化に何もつながらない

 四月五日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が三段ロケットを発射したころ、ぼくはPAC3が配備された首都圏のある地点から一〇キロも離れていない公園にいた。花見をしていたのである。

 公園は、ぼくが住んでいる界隈では花見の名所になっていて、家族連れで賑わっていた。こぼれ落ちそうな満開の大きな桜の樹の下でお弁当を囲む家族、駆け回る子どもたちのはしゃぎ声、酒宴に興じるおとなたち。少し離れたグランドでは少年野球の試合、その隣ではテニスコートを独占していた年配の人々・・・。何とも「平和」な、春爛漫の、最高の日曜日だった。

 ロケットに通信衛星が載っていたのかどうか、真偽の程はわからないが、韓国政府は飛翔体を「軌道から判断して、通信衛星用のロケット」と定義した(毎日新聞)。中国やロシアも同じ立場である。これに対し、日本政府は断固「弾道ミサイル」と言い張っている。読売・朝日・毎日・東京・産経・日経新聞などマスコミ各紙も政府に同調し、「弾道ミサイル」と表現している。ぼくは、北朝鮮が公表した映像を見た上で、韓国政府の定義が妥当だと思っている。

 日本政府は、ロケット発射直後から、これが二〇〇六年一〇月の国連安保理決議に違反した行為だとして、再決議を上げ、北朝鮮に対する制裁の徹底化をはかろうとしてきた。米国やイギリスを頼みの綱にしながら、安保理での政治工作にいまも余念がない。衆議院でも参議院でも、自民・民主・公明・国民新党の絶対多数で非難決議も上がってしまった。

 日本でも韓国でも、北朝鮮のロケット発射を良しとする人は、もしいたとしてもごく少数だろう。圧倒的多くの人は反対であり、たとえ「通信衛星」の打ち上げのためであったとしても、これ以上、北朝鮮がミサイルや核開発をすることを支持しないだろう。朝鮮半島と「東アジア」の非核化、そして両国の拉致被害者の帰国に始まる拉致問題の全面的解決を切に望んでいるだろう。ぼくも、その中の一人である。

 では、北朝鮮にミサイルや核開発をやめさせ、拉致問題を解決をはかるために、いま以上の制裁措置が有効だろうか? 答えは歴然としている。否である。制裁をいくら強化したところで、この間、事態はどれひとつとして何の進展も改善もはかられなかったのである。日朝間の金の移動はこれまでの制裁の結果、実に九億円程度にまでなっており、仮に制裁を徹底化したところで、実質的に何の効果もない。これが真実である。
 たびたび指摘されるように、北朝鮮は世界の一四〇ヶ国以上と国交関係を樹立しており、日本との貿易関係は北朝鮮の現政権と体制が生き残るにあたり、もはや必要不可欠の存在とはいえないのである。これも真実である。

 いまこそはっきりさせねばならないのは、主に拉致問題の解決のためと称して正当化されてきた北朝鮮に対する制裁こそが、拉致問題を解決はおろか、朝鮮半島の非核化という、そもそもの六カ国協議の基本目的の実現をも著しく困難にしている元凶だということではないか。
 日本政府をはじめ、何かといえば拉致問題を引き合いに出しながら、北朝鮮への制裁の強化を主張してきたマスコミ・新聞ジャーナリズムは、制裁政治の政策的破綻を自覚しながら、現実を真摯に見据え、政策の誤りを誤りとして総括しようとしない。むしろ、自らの無策ぶりを隠蔽するために「制裁の徹底化」を主張しているとしか思えない。

 もう一度確認しておきたいが、日本でも韓国でも、圧倒的多数の人々は、拉致問題の解決と朝鮮半島と「東アジア」の非核化を望んでいる。しかし制裁政治は、これまでがそうであったように、それに向けた道筋をつくらない。何の問題解決にもならないのである。このことを基本認識とすることが、二〇〇九年四月段階の「北朝鮮問題」を論じる出発点でなければならないとぼくは考えている。「いやそうではない、制裁の徹底化だ」という日本政府、議会政党、マスコミは、拉致問題の解決はおろか、朝鮮半島と「東アジア」の非核化を本気になって考えてはいないとしかいうしかないだろう。

 実は、一年半前、ぼくは⇒『制裁論を超えて--朝鮮半島と日本の〈平和〉を紡ぐ』の中でも同じ事を書いている。状況は、あれから悪化の一途を辿っている。では、どうすればよいのか? まず、
①制裁政治を外交に置き換える政策的誤りを正視し、次に、
②北朝鮮との二国間のチャンネルを復元することである。そして、
六カ国協議と「日朝平壌宣言」の枠組みの中で
④ミサイル・核開発問題を解決し、
⑤日朝国交正常化を実現することである。

 正規の国交関係抜きに、北朝鮮自身が認めた国家的組織犯罪たる拉致問題を解決することは不可能である。北朝鮮の正式な「調査報告書」に基づき、日本の外務省および警察が北朝鮮国内で独自に調査することも不可能である。いくら米国を巻き込もうとしても、米国が拉致問題を解決してくれるわけではない。

 これと同じことがミサイル・核開発についてもいえる。「約束対約束」の六カ国協議の原則を反故にしてきたのは、日本政府に言わせれば一方的に北朝鮮だとなっているが、北朝鮮に言わせれば日本の側である。そして、その主張には十分な根拠がある。なぜなら、「拉致問題の解決なくして経済援助なし」のスローガンの下、現に日本はエネルギー支援も経済援助も、植民地支配の清算も、何もしていないからである。

 今回のロケット発射に至るこうした経緯、つまり六カ国協議の膠着状態の原因は日本の側にもあるということ、そして実際に制裁強化は何の問題解決にもならないということを、マスコミや新聞ジャーナリズムは日本政府に対して提言すべきだったのではないか。にもかかわらず、今回もまた日本の政治と「言論」は、まさに体制翼賛的にそれとは真逆の方向へと、大きくブレてしまった。

 くり返される日本の政治と「言論」のダブル・スタンダード

 日本の政治と「言論」のダブル・スタンダード(二重基準)の根っこには安保がある。安保がある限り、何をやっても、何を言ってもダブル・スタンダードになる。

 「核廃絶」を政府として主張しながら、安保によって「米国の核の傘」に庇護されるのは「日本の防衛のため」だという。にもかかわらず、世界最大最強の軍事大国米国の核戦力や中国、ロシアの核戦力、そして日米安保と韓米安保に包囲された北朝鮮が核を持つことは絶対に許さない。米国の核軍事力に庇護されているという国が、それを自国の主権と安全保障に対する最大の脅威と捉え、「防衛的・対抗的核」を持とうとしている国を批判するのはダブル・スタンダードの極みというしかないだろう。

 けれども、日本社会の中では、これはダブル・スタンダードだとは見なされない。日本政府が安保と米軍基地を永続化させ、それを「日本の防衛のため」だと正当化し、それによって朝鮮半島と「東アジア」の核軍事バランスを著しく不均衡化させてきた現実に対し、「北朝鮮脅威論」と拉致問題を前にするとマスコミも「世論」も目をつむってしまうのである。この矛盾を矛盾として意識しなくなる矛盾・・・。まさしくこれこそが「戦後日本」が自らの内にすっぽりと抱え込んでしまった最悪のダブル・スタンダードとはいえだろうか。

 『制裁論を超えて』の中のぼくの文章のひとつ⇒「安保を無みし、〈平和〉を紡ぐ」で書いたのも、要するにそういうことであるが、ここで話を「オバマは「核のない世界」を実現するか?」の内容に引き付けて、もう少し問題の所在を整理してみよう。

(つづく)