2011年3月4日金曜日

「保護する責任」を推進するNGOの何が問題なのか?

「保護する責任」を推進するNGOの何が問題なのか?

 リビア情勢が緊迫の度合いを強めている。米国、英国、中国が「避難民救済」を口実に海軍を地中海に向けて派兵し、これにドイツとカナダ(「保護する責任」(R2P)の最大推進国家)が続き、さらにフランスが反政府武装勢力の支援を行う、といった事態が急ピッチで進行してきた。R2PにNO!という責任を感じる者としては、これをプロモートするNGOをどうしても問題にせざるをえない。R2P推進国際NGOネットワーク、ICRtoPに所属する団体の関係者が、R2Pの支持を再検討するキッカケになればと思う。


 最初に指摘したいのは、「第二の柱」=経済制裁状況下において「人道・難民支援」で大国の軍隊が動くということは、それ自体が武力「介入の責任」=「第三の柱」に移行する軍事的態勢に入ろうとしている/入っているということであり、R2P推進派の国際NGOが、そうした軍事介入の「水先案内人」の役割を果たしていることである。

 国家が軍を動かす/動かしたいときには理由付けがあればよい。その理由付けを国際法や国内法によって支えることができれば、国家としては申し分ない。さらに動くことが「国益」や国家戦略に叶うなら、政府は軍を無条件に動かすのである。「人道支援」は政府/軍にとって、もっとも動きやすい理由付けになる。

 NGOは「人道支援」は「政治とは無関係であり、中立」という。しかし、どこにどれだけの国費を出して人道支援を行うか、それ自体が政治的判断抜きにはありえない。軍が動く場合には、それはもっと戦略的になる。
 R2Pを推進するNGOは、介入後の戦略を練りながら軍を動かす各国に対し、もっと急げと「提言」していることになる。つまり、自分たちの主張によって国や軍が動いたときに、その結果生じることに責任を取れなくなってしまうのだ。自分たちがその結果に対して責任を取れないにもかかわらず、それを「やれ」と国家に対して提言していることになる。

 軍が動き始めた時点で、その後の意思決定にNGOは関与しようがない。提言によって軍事大国が介入し、作戦過程で非戦闘員の犠牲が出ても、そのことにNGOは責任を取れない。取りようがない。せいぜいできることは「遺憾」声明をだすことくらいのものだ。もしもリビアへの武力介入=戦争が決行された場合、NGOは戦争を止める側ではなくそれを促進する側に回ってしまうのである。これが一点目である。


 二点目は、"positionality"の問題である。自分たちがどういう立場に立っているか、それを踏まえた上でどういう立場から、国家や国連に対し何を提言すべきなのか。

 ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)に関して言えば、①「自由権」中心主義、かつ②「人権」中心主義的に、脱植民地化の過程で軍事独裁国家になった国々のジェノサイド以下の四つの犯罪にアプローチする、その限界性の問題がある。HRWは「それこそが自分たちの専門である」と言うかもしれない。しかしそれでは問題は何も解決しないし改善もしない。

 過去にカダフィが行った大量虐殺(カダフィは否定)やその他の人権侵害の事例をみるなら、今回のような事態が起こりうることは誰もが十分に予想できたことだ。しかし、すべての安保理常任理事国、ドイツ、イタリア、カナダなどは、前回の対リビア制裁の以前・以後において、油田開発の権利の見返りに、軍事援助と開発援助をしてきた国々である。(日本は軍事援助こそしていないが、制裁解除以降、油田開発とインフラ開発の契約をカダフィと交わしている。) 

 これらの国々はすべて、民衆虐殺を行ってきた軍事独裁政権を、石油産出国であるというその一点において容認し、ありとあらゆる類の武器貿易の顧客とし、軍や武装警察の訓練(ドイツ)などを行ってきた。米国に関して言えば、ブッシュからオバマへの政権交代以降も、ブッシュ時代の対リビア政策を変えることなく今回の事態を迎えることになる。

 人権問題を棚上げにして進められてきたこれらの国々による軍事援助の停止、民衆の血に染まったカダフィ一族との癒着・腐敗構造の解体。こうした提言活動の積み上げなきR2Pの推進は、ただ単にカダフィを切り捨て、新政権の下での石油利権の回復、軍事援助の再開、復興人道支援を通じた新たな癒着・汚職・腐敗の構造を生み出すだけになる。実際、すでに欧米諸国は反政府勢力との接触を深め、その方向に向けて動き出しているのである。


 人権侵害の克服が、人権侵害の告発・懲罰化・投獄によってはもたらされないように、独裁国家や抑圧的国家の人権侵害も、それが生み出される国家の統治システム、経済・社会・宗教・文化の構造、それらを支える法制度、その歴史性、さらには対外関係がはらむ問題等々の改革抜きに、犯罪責任者を国際刑事裁判所に突き出し、裁きを受けさせるだけでは何も解決しない。まして権力者の首を挿げ替えてどうなるというものではない。人権侵害の克服とは、一個人、社会、国家、世界の価値観や関係そのものの〈変容〉の問題なのだから。

 こうした観点からみると、人権侵害の克服に人権NGOが果たす/果たせる役割が、きわめて限定的なものでしかないことがわかる。具体的に言えば、カダフィの「戦争犯罪」を阻止するためには、それが起きる以前からそれが起こらないように、人権NGOは他の分野で活動するNGOとのネットワークの形成によって「アオボカシー」や「プロジェクト」を行う必要がある。そういうICRtoPの姿が過去と現在のR2Pキャンペーン活動の中に確認できるかどうか。これが三点目である。


 ICRtoPのキャンペーン活動の問題性は、とくにアフリカの反「ジェノサイド」キャンペーンに端的に現れている。

 スーダンやコートジボワールをはじめ、アフリカの独裁的・抑圧的国家のほとんどすべては、リビアやエジプトから軍事援助と政治的・経済的バックアップを受けてきた国々である。つまり、欧米や旧ソ連時代からのロシアなどのリビアに対する軍事援助が、リビアを通じて他のアフリカ諸国にも回り、それによってカダフィはエジプトや南アに対抗するアフリカ内の「覇権」を形成してきたのである。これらの人権侵害国家は、欧米・ロシア・中国からの直接軍事援助・武器輸入だけでなく、リビア・エジプトなどからも二重にそれを受けてきたことになる。

 アフリカで展開されてきたこのような二国間・多国間の軍事・政治・経済的関係を構造的に捉え、問題化することが重要である。ある国で起きた「ジェノサイド」を、この構造から切り離し、その国一国の問題として論じ、介入を主張し、責任者の処罰(のみ)を目的にするという在り方は、きわめて限界がある。いや、限界があるというより問題を放置し、事態の悪化を招くだけだ。「紛争予防」が紛争の予防にならず、「紛争解決」が紛争を解決せず、紛争をくり返してきたこうした国々に生きる人々は、まさにこの構造に呪われ続けてきた人々なのである。


 ジェノサイドや民族浄化を阻むことを、国際法や国内法の問題として考えた場合、「自由権」の保障だけではとても対処しきれない。ジェノサイドや民族浄化のターゲットとなる人々の、「自由権」を基礎とした「集団的権利」が保障されることが必要条件になる。人種的・民族的・宗教的少数者を始めとするマイノリティや先住民族の集団的/個人的権利の保障の問題である。

 ICRtoPが人権分野においてすべきことは、国家や国連安保理・人権理事会に対し、自治や自己決定などのマイノリティや先住民族の集団的/個人的権利を〈保障する責任〉を提言することだ。とりわけ、その責任を認めようとしない常任理事国やカナダ、オーストラリア政府などに対して。日本政府に対しても。

 人権を語る「保護する責任」の人権論に欠落しているもの、それがこの〈保障する責任〉である。 国際人権法、国際関係論、開発論、「紛争予防・人間の安全保障・平和構築」の三位一体論、「国際安全保障」論などからR2pの「意義」をうったえる大学研究者やNGOは、「保護する責任」以前的な〈保障する責任〉の欠如をこそ問題にすべきなのである。

2011年3月3日木曜日

大学教師のあなたへ、非常勤のあなたにも

大学教師のあなたへ、非常勤のあなたにも

 「続・大学を解体せよ」を書き始めるときに、このビデオのことも盛り込みながら話をしようと思っていたのだけれど、いろんなことを書いているあいだに機会が見つけられないでいた。
Changing Education Paradigms ---The RSA

 あんまり関心のない人は、こちらでコーヒーブレイクを。
Ko to tamo peva

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中学教科書、25%ページ増=脱ゆとり、イオンや文豪復活―全社が竹島・尖閣記述(時事通信 3月30日(水))
 文部科学省は30日、2012年度から中学で使用される教科書の検定結果を発表した。新学習指導要領に基づく「脱ゆとり」路線が、昨年検定対象となった小学校教科書に続いて鮮明になり、全教科の平均ページ数が現行版と比べて25%増え、理科と数学はそれぞれ45%と33%増加。イオン(3年理科)や2次方程式の解の公式(3年数学)などが本格的に復活した。
 「我が国と郷土を愛する」とうたった改正教育基本法を反映し、領土に関する記述が増えた。社会の教科書を発行する全7社が竹島と尖閣諸島について触れ、「日本国固有の領土」などと書き込んだ。「伝統文化」の記述も、各教科を通して増加した。
 現行学習指導要領下で学ぶ内容を大幅に削減した00年度検定(02年度使用開始)以来、10年ぶりの全面的な見直し。当時と比べると、ページ数は全教科平均で36%、理科78%、数学63%の増に達した。国語は森鴎外など近代以降の代表的作家の作品が充実、社会は国内各地域の学習などが復活し、英語は取り扱う単語が900語から1200語に増えた。
 各社は、知識詰め込みに戻るのではなく、論理的に考え、表現する力を育成することや、知識と実生活を関連付けることに工夫を凝らした。一度学んだことを復習させ定着を図る「反復」もふんだんに取り入れられ、数学では全体の2~13%を占めた。ただ、02年度から実施されている週休2日制は変わらず、授業時間の増加は学習内容増に追い付いていない。同省は「全てを教える必要はない」としており、今後は学校現場の工夫が必須となる。

2011年3月2日水曜日

ナノテクノロジーの「リスク」

ナノテクノロジーの「リスク」

「市民科学研究室」
ナノマテリアルの生態系影響
フードナノテクノロジーの社会的影響を考える報告書


「化学物質問題市民研究会」
『ナノテクとナノ物質 どのように使われているか? 何が問題か?』

「人道主義+介入主義=人道的帝国主義」---なぜ、この足し算が難しいのか

「人道主義+介入主義=人道的帝国主義」---なぜ、この足し算が難しいのか


 米軍が動き出した。NATOも動こうとしている。「リビアにいる人の緊急避難や人道支援に備えるため」に。 21世紀の新たな「地球規範」として6年前の世界サミットで「全会一致で確認」された「保護する責任」を負う安保理常任理事国として。
 米国は「人道的介入」の「権利」ではなく「責任」がある。これが、1990年代に国際的に議論された「人道的介入の権利」論と「保護する責任」の決定的違いだ。同じく英国、フランス、NATOも「保護する責任」を果たすべく動く体制に入ろうとしている。

 今は、「保護する責任」(R2P)の「第二の柱」、「平和」的「介入の責任」(非軍事的強制措置)の段階である。これが「第三の柱」、武力「介入の責任」(軍事的強制措置)に移行するためには、
①米軍と少なくとも英国軍その他数カ国の有志連合軍が、
②国連安保理の武力介入決議に基づき、安保理からその決議の実行を「授権」されるかたちで、
③国連憲章で保障されているリビアの「主権」に武力介入し、
④カダフィ軍との戦争を経て、カダフィの軍事的排除⇒暫定政権樹立、という流れになる。
 その武力介入の第一段階が、カダフィ空軍の飛行禁止空域の強制⇒違反した場合の軍事基地への空爆である。

 これを「人道的帝国主義」などと批判するのはとんでもないことだ。すべては①国連憲章の規定と手続きに従い、②リビアの人々を独裁者による虐殺から解放するという、きわめて「人道的」な見地からなされる、③他の「平和」的手段が尽きた後の「最後の手段」として行われるからである。
 「保護する責任」によって派生するすべての責任は、「保護する責任」を果たせないカダフィ一党にある。「責任」の履行の過程で「文民」の犠牲が生まれることは大変「遺憾」なことだ。「文民」には前もって深い哀悼の意を表しておきたい・・・。


 「人道主義+介入主義=人道的帝国主義」という一見、簡単そうにみえる足し算ができないことがある。
①「人道主義=〇」「介入主義=×」の「〇+×」が〇になるのか×になるのか、判断停止に陥ってしまう場合と、
②介入主義は×だが、それを人道主義の〇が相殺する以上にプラスに転化し〇にする、と考える二通りの場合がある。
 どちらも〇、あるいは×だという人は、悩むことを知らない人である。

 「「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」」の下段で紹介した『人道的帝国主義』の著者、ベルギーの理論物理学者ジャン・ブリクモンは、ヨーロッパの「伝統的な左翼思想」に基づきながら、「人権」擁護の旗の下でNATOの域外介入を容認していったヨーロッパ左翼の転向を痛烈に批判している。
 つまり、ヨーロッパ左翼の多くが、上の①と②に陥り、①の人々は沈黙し、②の人々は「人道的帝国主義」を支持する側に回ったのである。ジェノサイド、民族浄化、戦争犯罪、人道に対する罪と疑われる事態に直面し、悩んだヨーロッパ左翼が総崩れしたのである。ドイツの「緑の党」を含めて。それまで反戦派リベラルであった人々とともに。

 このブリクモンの転向左翼批判は、今でもかなり有効だと思う。悩める左翼の人々にとっては。
 しかし一方で、踏まえておかねばならないのは、「アメリカ帝国主義」や「ヨーロッパ帝国主義」のやることはすべてが無条件にペケ、と主張しがちな左翼主義は、特に悩むことを知らないそれは問題解決に道を開かないことだ。

 「人道的帝国主義」の何に、なぜ反対するのか。その論理と倫理がなければ、今度は「人道的帝国主義」を批判する独裁や抑圧的な体制の側のキャンペーンに巻き込まれ、からめとられてしまう。イランはすでにそれを始めているし、カダフィもそう叫んでいる。古典的な「反帝国主義」論の延長で語るだけでは、「虐殺を見過ごすことは許されない」というそれ自体は人間として誰もが当然もつ倫理観や道理を、メディアを総動員しながら強烈に押し出してくる「人道的帝国主義」の対抗言説を創出することはできないのである。
 それを私は1990年代の最初と最後に米国で目の当たりにした。私自身もかなり危ういところまで行った。「人道的介入は必要悪ではないか?」という思いを、長い間、引きずる羽目に陥ったのである。
 だから難しい。だから、誰もが自分の頭でしっかり考える必要があると思うのだ。

 ともあれ、日本は「平和」だ。リビアで、アフリカで、パレスチナ・中東で何があろうと、この国はそんなこととは無関係にすべてが他人事顔、ユルい感じで、21世紀の新しい〈地球規範〉となった武力行使に協力し、加担することになるのだろう。リビアではなくとも、どこかで。
 少なくともこのブログを見てくれている人は、それが誰であろうと「人道的帝国主義」にNO!という論理と倫理を考え、それが何でも何かをしてほしい。できるなら、できるだけ。


 国連安保理の対リビア制裁決議の落とし穴と抜け穴

 このページの一番下のワシントン・ポストの記事。ほんの一例に過ぎないが、米国、英国、イタリアを始めとした欧米諸国が、いかにリビアの軍事独裁国家を育成し、その軍事的・経済的利権を貪ってきたかが伺える。制裁そのものが落とし穴と抜け穴だらけなのである。

 要は、すべての資産をその情報公開と共に凍結し、国連事務総長あるいは全権特使が早急にリビアに飛び、直接カダフィを説得し辞任させ、凍結した資産を平和的政権交代後のリビアの政権に戻せるようにすればよい。そういう国際的取極めを今回のような事態が他の国でくり返される前に、またリビアへの武力介入が行われる前に、行えばよい。それだけだ。独裁打倒が武装闘争に発展し、さらなる民衆の犠牲や難民を生み出すこともない。

 そういうことをやろうとしないで軍を動かし介入しようとするのが「人道的帝国主義」であり、そういうことを考え、提言しようとしないで「保護する責任」を云々するのが、「市民社会」から「人道的帝国主義」に自ら進んで共犯関係を持とうとする確信犯的な、国際人権・開発NGOなのである。

・at least in the foreseeable future, the effect on Gaddafi's regime may be limited as well, despite the freeze on Libyan assets imposed by the United States, the United Nations and Britain, and being debated by the European Union
・Gaddafi can fall back on as much as $110 billion in foreign reserve holdings to fund its operations for perhaps months to come
・The reserves managed by the Central Bank of Libya would be enough to cover the country's imports for about three years
・ENI, the Italian oil giant that produces about a third of Libya's petroleum,

U.S. firms courted Gaddafi and his family after the lifting of the earlier sanctions, which were imposed on Libya because of its involvement in the bombing of PanAm flight 103 over Lockerbie, Scotland, in 1988. The Carlyle Group, a District-based private equity firm, hosted a high-level reception for Saif al-Islam Gaddafi in 2008. Among the invitees were Frank C. Carlucci, a former U.S. defense secretary, and C. David Welch, a former assistant secretary of state for Near Eastern affairs who currently serves an executive with the engineering giant Bechtel

・the investments by the Gaddafi family or the Libyan government include Saadi Gaddafi's $100 million stake in a Hollywood production company, Natural Selection; a 7.5 percent share in Italy's UniCredit bank; part ownership of the Juventus soccer club; and about 3 percent of the stock of the United Kingdom-based Pearson media company, owners of the Financial Times and Penguin Books

・After students at the London School of Economics occupied administrative offices in protest, the university officials said they would forgo the remainder of a roughly $2 million pledge from Saif Gaddafi to the school and would set aside the about $500,000 already received into a scholarship fund for Libyan students. The younger Gaddafi received his doctorate from the school

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【3月2日 AFP】ロバート・ゲーツ(Robert Gates)米国防総省は1日、リビアにいる人の緊急避難や人道支援に備えるため、強襲揚陸艦キアサージ(USS Kearsarge)など米海軍の艦艇数隻を海兵隊員400人とともに地中海に派遣したと発表した。キアサージは「近いうちに」紅海(Red Sea)からスエズ運河(Suez Canal)を通って地中海に入るという。

 ゲーツ長官は、リビア以外の中東の国での米軍の活用についても考えなければならないとしつつ、人道支援を超える介入については、アフガニスタンで実施中の作戦におよぼす影響や、中東・北アフリカで米国の軍事行動に対する反感が強まりかねないことを考慮する必要があると述べた。(c)AFP/Dan De Luce

【ワシントン共同】ゲーツ米国防長官は1日の記者会見で、緊迫するリビア情勢を受け、米軍の強襲揚陸艦など2隻と海兵隊員約400人を地中海に派遣したと明らかにした。人道支援や避難民の救援活動が目的としつつ、オバマ大統領による最終決断のため「あらゆる選択肢を用意している」とも強調した。 ただ、リビアへの軍事介入について「介入を容認する国連安全保障理事会決議もなく、北大西洋条約機構(NATO)諸国の間でも意見が一致していない。注意深く考えないといけない」と述べ、慎重姿勢を示した。同席した米軍制服組トップのマレン統合参謀本部議長はリビア上空を飛行禁止区域に設定することについて「非常に複雑な作戦だ」と難しさを強調した。

 ゲーツ長官はイラクやアフガニスタンへの米軍駐留を踏まえ「新たな国に米軍を投入するには熟慮が必要だ」とも語り、軍事介入がアフガン戦略などに影響する可能性を指摘した。 ロイター通信によると、エジプト当局者は1日、米海軍の強襲揚陸艦「キアサージ」と輸送揚陸艦「ポンス」の2隻が2日朝、スエズ運河を通過して地中海に向かうと明らかにした。キアサージは海兵隊員約2千人の輸送が可能。また米駆逐艦バリーも2月28日、スエズ運河を通過して現在は地中海南西部に展開しているという。

UN urges mass Libyan evacuation BBC
Libyan Rebels Said to Debate Seeking U.N. Airstrikes NYTimes
Despite sanctions, Libya holds extensive reserves W.Post

2011年3月1日火曜日

国連安保理のリビア制裁決議について考える

国連安保理のリビア制裁決議について考える


 周知のように、現地時間の先週の土曜(2/26)、国連安保理の対リビアの経済制裁が決議された。カダフィや軍人などの資産凍結、武器禁輸措置、そしてカダフィの「人道に対する罪」をめぐる立件化に向けた国際刑事裁判所への捜査要請などだ。過去の制裁決議との対比から、「異例のスピード」で決議があがったとも言われている。

 しかし、ほんとうにそのように肯定的に評価することができるのだろうか。カダフィの訴追の問題は後に述べるとして、軍や傭兵、武装警察などに殺される側の者たちから言えば、逆に、民衆蜂起が起き、空爆のみならず数百人規模の死者が出て、14万人近い(それ以上?)難民を出す事態を招いているというのに、なぜ弾圧と虐殺の責任者に対する資産凍結と武器禁輸措置にここまでの時間がかかったのか、こちらの方が検討され議論されるべき問いではないのか。

 制裁そのものは国連加盟国とリビアという国家間のものであって、一市民の立場から言えば、具体的制裁の細目が当該国家の人々の生活にどのように影響するかを第一の基準にして考えるべきである。つまり、カダフィ一族やその取り巻きを権力の座から引きずり下ろすために、リビアの民衆の生活を犠牲にするような制裁には反対するという立場に私自身は立っている。
 今回の資産凍結と武器禁輸措置に関して言えば、民衆の生活とは何の関係もないことであり、その意味において私は当然の措置だと考えている。むしろあまりに遅すぎたこと、そしてポスト・カダフィ体制においてもその措置を継続しながら、リビアと周辺諸国の脱軍事化を促進することがきわめて重要な問題である。

 ヒューマンライツ・ウォッチやオクスファムを含む「保護する責任」論者は、次のことを真剣に考えてみるべきだ。 まず、カダフィが民衆蜂起を武力鎮圧しようとした時点で国連安保理が資産凍結と武器禁輸措置を取るために「保護する責任」など必要ないこと。ある一定の国際的合意(基準)の下に、民衆に銃口を向け、虐殺する国家の責任者集団に対する迅速な資産凍結や一切の武器禁輸措置を取る新しい国際条約を制定すればよいだけである。

 つまり、「保護する責任」の致命的な問題は「第三の柱」の武力「介入する責任」(軍事的強制措置)の地球規範化のみならず、「第二の柱」(非軍事的強制措置)の細目をめぐる安保理内部および常任理事国内部の裏工作に時間がかかりすぎ、その決定と実施が国家(や武装勢力)の民衆虐殺の度合いに応じて移行す、そのグロテスクなあり方にある。もっと分かりやすく言えば、「保護する責任」の実態とは、安保理と常任理事国が民衆虐殺を国連加盟国を代表して「値踏み」する「責任」なのである。

 いったいどのようなカダフィとの利権構造が国連安保理と常任理事国に民衆虐殺を「値踏み」させ、虐殺の共犯者としているのか? 一般に安保理決議があがったところで、個々の国家にその意思がなければ、制裁は抜け穴だらけとなり何らの効力も発揮しない。今、私たちに必要なことは、今後この「値踏み」がいつまで続き、どの国家が虐殺の共犯者を演じ続けるか、それを見極めることだ。それを見極めつつ、さらなる民衆虐殺を招く「第三の柱」への移行にNO!と言うことである。


 いずれにしても「保護する責任」などいらない。
 他人事ではあるけれども、ヒューマンライツ・ウォッチとオクスファムはICRtoPを脱退すべきだと提言したい。

 リビア情勢に関してヒューマンライツ・ウォッチとオクスファムが発した声明は、内容的にはほとんど同じものだった。唯一確信犯的NGOと違うのは、リビア空軍の飛行禁止空域の強制を安保理に(まだ)「提言」していないところくらいのものだ。
 しかし、いやしくも両組織が「人権」を語るのであれば、合法的な政権交代を要求する民衆に対し、国家が銃口を向けたその瞬間に、その政権の正統性は国際法的根拠を失う、そのような新しい〈地球規範〉をなぜつくろうとしないのか。国家の武力行使を前提とした国際人道法体系を、「治安維持」のための軍の出動を当然のことと考える「慣習的」国際法と国法を、20世紀の「残虐な遺産」を乗り越える21世紀の新しい世界を創造する構想力と想像力によって、なぜ脱構築しようとしないのか。

 「保護する責任」は、それによって「保護」されることになる人々を、「保護」する者たちに永遠に「保護」される存在にしてしまう。時と場所、国籍や民族をかえるだけで「保護」されることになる者たちは増え続けるだけである。
 結局、ヒューマンライツ・ウォッチは「保護する責任」の「第一の柱」の「早期警戒体制」の構築にまつわる資金プロー、オクスファムは難民への緊急人道支援で国連と英国政府、日本などの各国から流れる資金フローが問題なのだろうか。

 両組織の日本支部・会員の人々に考えて欲しい。
 なぜ、何のためにICRtoPの「運営委員会」に名を連ねているのか。「虐殺を見過ごすことは許されない」を合言葉に、この10年攻勢的なキャンペーンを展開してきた「保護する責任」推進勢力は、実は民衆虐殺を「値踏み」する欧米諸国・ロシア・中国とともに、弾圧や虐殺継続の共犯者になっている、そのようには思わないだろうか? 

2011年2月27日日曜日

「民衆のパワー」がウィスコンシン・マジソンから全米へ

「民衆のパワー」がウィスコンシン・マジソンから全米へ

 この週末、予想した通りにウィスコンシン・マジソンの「民衆のパワー」が全米に飛び火した。この数週間、マジソンでは最初は1万とか1万5千人といわれたデモ参加者が先々週の週末には3万人、先週には7万とも8万人と言われる数に膨れ上がり、10万人規模の抗議デモ・集会がもたれるにまで爆発した。Democracy Now!が報じている。 ワシントン・ポストの記事では、議事堂内の抗議行動のビデオが観れる。
 結局、日本でもよくありがちの、民主党と共和党のボス交で、誰も満足しない、みんなが頭にくるような法案が深夜に通過したようだ(⇒知事が拒否し、未通過)。日本の報道でも、全米50州にウィスコンシンの行動をサポートする地方公務員労働者のストライキや抗議デモが拡大していることが伝えられている。少し景気付けに。

People Have The Power - Patti Smith

2011年2月25日金曜日

「虐殺を見過ごすことは許されない」?

「虐殺を見過ごすことは許されない」?

 博愛主義者は、人殺しをしない。論争もしない。
 博愛主義者は、人に金を渡し、殺させ、論争させる。
 利子がついて、返ってくることを知っているからだ。

 博愛主義者は、人類の不幸を嘆く。
 「困ったものだ」と眉間に皺を寄せる。
 「どうしたものか」と思案に暮れる。 
 そんな博愛主義者は、今にも死にそうな、飢えて病んだアフリカの子どもたちが大好きである。

 この世は、お金が欲しい人であふれている。
 ソマリアの海賊とイスラム武装勢力を殲滅するために、米国の民間軍事会社に民兵として月100ドルだかで売られ/買われたソマリアの子どもたちもお金が欲しい。
 「保護する責任」で武装し、21世紀の国連のモデル国家となり、日本と同じように安保理常任理事国入りをめざすカナダの民主党党首もお金が欲しい。
 イスラエルの入植政策を批判する国連安保理決議に、またしても拒否権を発動したオバマもお金が欲しい。一期だけで消えるなんてできない。カーターやブッシュ・オヤジの二の舞はまっぴらだからである。
 国連事務局、国連難民高等弁務官事務所、平和構築委員会、日本の国際協力機構もお金が欲しい。緊急人道支援・難民救援活動は21世紀の巨大なグローバル市場となり、巨万の金が流れる超ビッグビジネスになること受け合いである。「バス」に乗り遅れてはならない。

 ハーバードやコロンビア大、distinguished scholarsもお金がほしい。
 パレスチナやアフガニスタンで起きてきたジェノサイドには触れず、アフリカやアジアのそれには信じられないくらい敏感に反応する確信犯的NGOも、そうでないNGOもお金がほしい。
 「イスラエルを批判する者は反ユダヤ主義者だ」とまで言い切ったノーベル平和賞受賞者、アンリ・ヴィーゼルも自分の「平和運動」のためにお金が欲しい。
 みんなみんな、お金が欲しい。
 私だって欲しい。

 「保護する責任」論者は言う。
 「虐殺を見過ごすことは許されない」と。
 しかし、どれだけの虐殺を見過ごしてきたか、いま見過ごしているかは決して自問しない。
 その言葉に欺瞞はないか。慈善と偽善の間にボーダーはあるか。

 博愛主義者の慈愛に満ちた人道主義ほど、この世に恐ろしいものはない。 

2011年2月24日木曜日

ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと

ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと

 「保護する責任」を推進するNGOの国際ネットワーク、INTERNATIONAL COALITION FOR THE RESPONSIBILITY TO PROTECT (ICRtoP)  が22日付でリビア情勢に関する声明を出した。その中で国連に対し以下の「提言」をしている。

1、カダフィ一族およ弾圧関係者への、即時の資産凍結を含む制裁
2、違法な市民への攻撃命令を拒否するリビア空軍のパイロット他の軍関係者の国外亡命先の保証
3、リビアへの武器輸出・軍事訓練の契約と協力関係のキャンセル
4、文民に危害を与えうる物品の商取引を差控えるとともに、武器売買と輸出を防止する禁輸措置の実施

 また安保理に対し、
1、リビア政府への非難とともに、政府・軍による文民に対する攻撃の即時停止と人道支援物資空輸のための空域の回復を指示すること、
2、国連加盟国に上の1から4の措置を取るべく要請すること、
3、2月1日以降の、リビア政府・軍および傭兵による一連の「人道に対する罪」に関する国際調査委員会を設置し、調査委員会が、リビア政府および国際機関が、犯罪の説明責任を果たす措置を取るための勧告をまとめること、
4、空爆がくり返された場合、国連憲章7章に基づき、リビア空軍の飛行禁止空域を設置すること。

 上の個々の内容に私は反対しない。安保理に対する「4」の提言を除いて。
 当然、カダフィは即刻退陣し、流血無き政権の平和的移行がなされるべきだと考えている。外国の介入無き、リビアの人々自身による暫定政権のための、さまざまな民族・「種族」の代表を始めとする「国民(national)フォーラム」が開催され、憲法制定を含めたそのための政治プロセスを国際的にサポートすべきだと考えている。
 しかし、私が「保護する責任」にNO!と言う責任を主張するのは、これらのこととは無関係である。民衆が政権交代を求め、平和的政権交代をするために「保護する責任」など必要ない。「紛争」を解決するためにも必要ない。これが核心点なポイントなのである。

 問題は、アフリカ・中東・アジア・ラテンアメリカで、政権の平和的移行を認めない権力を、戦後66年間に亘りつくってきたのは誰なのか、というところにある。「保護する責任」はその責任を免罪し、「平和」的「介入の責任」と「最終的手段」としての武力「介入の責任」を主張するところに根本的誤りがある。(また、上の「提言」以外にもやるべきことがある。たとえば、欧米・カナダなど「保護する責任」を推進する国家が「紛争」によって難民化する「文民」にもっと門戸を開放すべく、各国政府に対して要求することなどがこれに含まれる。) 

 「保護する責任」を推進する国際NGOネットワークの「運営委員会」を構成するヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)は、上に述べたことを根本的に理解できていない。ICRtoPには、「保護する責任」の本質を理解した上でこれを推進する、きわめて確信犯的な組織と、比較的そうとは思えない組織が混在している。HRWとOxfamが確信犯的組織なのかそうではないのか、私には分からないが両組織は日本にも支部を持ち、前者は「人権」アドボカシーを行い、後者は人権・開発・救急人道支援活動をプロモートしてきた団体である。

 「保護する責任」のはらむ重大な問題を見過ごしながら、リビア情勢との関係でICRtoPのキャンペーンが日本で展開されることに私は強い懸念をもっている。だから、もう一度論点を整理し、「保護する責任」とこれを唱道するHRWとOxfamの何が間違っているのかを明らかにしたい。両組織の日本支部の理事会・事務局、および会員の人々は、以下の内容を真剣に検討し、内部で議論を深めてほしいと思う。

1、市民組織、NGOは国連あるいは多国籍軍による武力「介入の責任」を容認すべきか?

 国連事務総長報告書にもあるように、「保護する責任」は第一から第三の「柱」すべてを統合した概念である。つまり、第一、第二の「柱」には賛成するが、第三の武力「介入の責任」には反対する、ということはありえないのである。この点をしっかり確認することが重要だ。
 推進派は次のように言う。
 「「保護する責任」は人道的介入や正義の武力行使を目的にしたものではない。主眼はあくまでも国家が文民を保護することにあり、植民地支配の現代版ではない。早期警戒体制の確立などを通じた紛争の予防と、万が一に武力紛争が起こったときの平和的手段による紛争の解決をめざしている。
 ただし、それでも万が一に紛争の解決に失敗したときには、国際社会は座して文民を見殺しにすることは許されない。だから適切な時期に、断固とした方法で、われわれは集団的行動(武力行使)を取り、平和の回復のために全力を尽くす」と。

 もっともらしく聞こえはするが、これは正当化のための論理であり、詭弁である。
 たとえば、上の4「空爆がくり返された場合、国連憲章7章に基づき、リビア空軍の飛行禁止空域を設置すること」が実行されない場合、どうなるのか? カダフィが退陣を拒否し、民衆弾圧を継続したらどうなるか? 「平和」的手段が尽きたらどうするのか?
 これに続く次のステップは、必然的に武力介入によるカダフィ政権の転覆にならざるをえない。カダフィを非難する国連安保理決議の連発に基づき、安保理の承認した多国籍軍がリビアを攻撃し、抵抗軍と戦い、政権転覆をはかり、軍事的占領を通じて「平和の回復」を実現する・・・。こうしたプロセスを経ざるをえないのである。基本的にそれは、イラクとアフガニスタンで行われたパターンをくり返すことを意味する。

 逆に言えば、そういうものとして「保護する責任」は構想され、世界サミットで「確認」され、「履行」段階に現在入っているのである。現在、リビアとともに「履行」の対象になっているのがコートジボワールである。リビアでは武力介入は避けられるかもしれない。しかしコートジボワールはどうするのか、あるいはスーダン、ソマリアはどうするのか。

 HRWとOxfamの日本支部理事会と事務局、そして会員はこうした事態の推移の可能性を容認した上で、「保護する責任」を承認するのだろうか? 私にはそうとは思えない。そしてそうでないなら、ともに「保護する責任」にNO!と言うべきである。少なくとも両組織の理事会・事務局は、組織の活動を支える会員に対し、なぜこのような紛争の、最終手段としての、武力行使による「解決」を認める「保護する責任」を組織として支持するのか、その理由および根拠を明確にし、意見を乞うべきである。たとえ国際本部の決定であろうと、誤りがあるなら支部として表明し、本部に対し意見表明すべきである。
 
2、世界サミット「成果文書」、国連事務総長報告書、「文民の保護」に関する一連の安保理決議を「保護する責任」正当化の根拠にしてはならない 

 私は憲法九条は死文化しているという認識を持っているが、自国の憲法において日本は「国際紛争の武力による解決」を認めていない国家である。憲法論議、護憲/改憲論争が今でも続いているとは言え、明文改憲はされていない。このような国で活動する国際NGOは、国際法や国際規範とともに日本国憲法の制約の下で活動することが求められているのである。

 もちろん、憲法に異論があり、改正の必要ありと認めるところはそのように主張し、運動することはできる。しかし「保護する責任」に関して言えば、その責任を日本が国家として果たす憲法上の余地は、今のところまだない。HRWとOxfamは、まずこの事実を事実として受け止めるべきである。そういう日本の国家的立場を支部として表明し、国際的・国内的なアドボカシーと活動を展開すべきである。つまり、2005年の世界サミット「成果文書」以降の、一連の国連事務総長報告書や「文民の保護」に関する安保理決議をもって、「保護する責任」の正当化の根拠にすることはできないのである。理事や事務局スタッフは、このことをシリアスに考えるべきである。

3、熟議無き、拙速な「保護する責任」の国際規範化とその実行を容認してはならない

 おそらく、このブログの読者も私の文章を通じてはじめて「保護する責任」という言葉をきいた人が多いに違いない。また、言葉を知ってはいてもこれに重大な問題がはらまれているとは考えなかった人も多いことだろう。
 その責任は、これを国連で承認し、背後で促進する役割を担ってきた外務省・国連大使や、緒方貞子・国際協力機構理事長、元ユーゴスラビア内戦時に国連文民保護軍の「指揮」を執った明石康氏などの影響力もさることながら、次にみる「保護する責任」の概念的形成・確立過程における〈政治学〉を踏まえずに、世界サミットで「確認」され「地球規範」化されたことを与件とし、これを論じてきた一部(ほとんど?)の大学研究者の論考そのものに問題がある、と私は考えている。順を追って説明しよう。

 たしかに、「保護する責任」は世界サミットの「成果文書」において「確認」され、以降、これの「履行」に関する事務総長の報告書をはじめ、国連の「平和活動」の改革問題に関する報告書、さらには「武力紛争における文民の保護」に関する安保理決議等々が公表されてきた。
 しかし、加盟国には今でも「保護する責任」に反対・疑義を表明している国々が存在するし、さらに言えば、加盟国の中でこれに対するマトモな審議を行った国など一つもない。おそらく「国政の主権者」の99.9%が「保護する責任」の何たるかも知らず、国会でその承認をめぐって審議されたこともない日本の現実は、推進派が「地球規範」になったというこの概念の国際的受容をめぐる問題性を、もっとも象徴的かつ端的に表現していると言えるだろう。
 
 ある意味で、「保護する責任」はこれを推進する勢力の、戦略的・計画的な国連事務局の「ハイジャック」によって「規範」化され、「履行」段階へと移行してきた政治的概念である。その背後には、米国の億万長者が創設した巨大な「博愛主義」財団から流れる資金フローがある。

 ①「博愛主義」と「保護する責任」
 「保護する責任」(R2P)の概念的ルーツは、米国のブルックリン研究所が1996年に発行した『責任としての主権---アフリカの紛争管理』にある。この書は、戦後冷戦体制が文字通り崩壊局面の真只中にあった1990年から8年間をかけて研究所が行った「アフリカの紛争解決」プログラムの研究成果として発刊されたものだ。このプログラムに190万ドル(当時の為替レート換算で2億5千万円程度)を資金援助したのが他ならぬカーネギー財団だった。

 カーネギー財団はさらに、1995年から2000年にかけ、3020万ドルを費やした「カーネギー破滅的紛争予防委員会」(PDC)を設立し、100を超える「プロジェクト」を行った。このPDCがそのまま、2001年12月にカナダ政府の肝いりで結成された「国家主権と介入に関する国際委員会」へと発展し、R2P推進派のバイブルとも言うべき『保護する責任』刊行へと結実する。この「国際委員会」のメンバーであり、ICRtoP代表としてキャンペーンとロビーイング活動に世界中を駆け回ってきたオーストラリア人の元外交官、ギャレス・エバンスも右のPDCのメンバーだったのだ。

 カーネギー財団なくしてR2Pなし。これがR2Pの起源であり、すべての事の発端である。
 上の「国家主権と介入に関する国際委員会」の『保護する責任』の発刊以降、世界サミットをはさんでこの間、カーネーギー財団を始めとする博愛主義財団が、カナダ・EU・米国の推進派政府、シンクタンク、大学、NGOに億単位の資金提供を行いこれの国際規範化と実行化をめざしてきた。言葉を換えるなら、巨大な国際的「R2Pコグレマット」が形成されてきたと言ってもよい。

 具体的に言えば、カーネギー、フォード、ロックフェラー、シモンズ、ウィリアム・フローラ・ヒューレット、ジョン・D・キャサリン・T・マッカーサー財団などが拠出する億単位の資金が、研究・出版プロジェクト、アフリカを含めた国際会議(日本を含む)の開催を始め、R2Pに関連する安保理決議をあげるためのロビーイングや国連事務総長名の「報告者」作成等々のために毎年のように流れきたのである。無論、日本を含む援助大国も多大の税金をそのために注ぎ込んできた。

 こうした資金フローの下で、政府系・独立系のシンクタンク、大学、国際NGOが動いた。列挙すればキリがないが、たとえば、カナダの国際開発研究センター(IDRC)や米国の国際平和研究所(IPC)などのシンクタンク、ハーバード・コロンビア・スタンフォードなどの米国の主要「有名」大学の関連研究所、先のR2Pを推進する国際NGOの連合組織ICRtoPに名を連ねる世界連邦運動、ジェノサイド・インターベンション、オクスファム、ヒューマンライツ・ウォッチ等々の国際人権・開発NGOである。

 ②対テロ戦争と「保護する責任」
 カーネギー財団のブロジェクトに端を発したR2Pが、10年前の「9・11」後のブッシュ政権のアフガニスタン空爆⇒対テロ戦争の勃発⇒英国他の連合国軍の参戦⇒NATOの「集団的自衛権」の行使⇒タリバン政権転覆⇒「アフガニスタン復興国際支援国会合」の結成、という一連の流れと見事なまでに軌を一にしていることに私たちは注意する必要がある。要するにR2Pは、
第一に、冷戦崩壊後の安保理常任理事国を軸とする大国および国連がアフリカの紛争を「管理」するという発想の中から生まれ、
第二に、旧ユーゴ内戦に対するNATOの空爆を経て、21世紀初頭における「対テロ戦争下における文民保護」という政治的文脈の中で発展してきた概念なのである。R2Pは「テロとの戦い」を「国際の平和と安全」を「維持」する不可欠の「戦い」=国連的正義とし、米軍やNATO軍による市民虐殺・戦争犯罪を安保理が問わないという合意の下で「地球規範」化され、「履行」されようとしてきたのである。

 ③日本政府・外務省、緒方貞子・国際協力機構理事長の責任
 (後日説明)

4、冷戦時代の「残酷な遺産」の未総括--安保理常任理事国の戦争犯罪を免罪する国際NGOの二重基準と共犯性

 もっとも分かりやすい言い方をすれば、R2Pは、米ソ冷戦体制崩壊後の米英仏を中軸とした新世界秩序の形成過程において必然化される「民族紛争」の予防と管理を国家の責任とし、それが果たされぬ場合に有志国家連合が国連憲章の規定と安保理決定に基づき武力介入し、国家と地域の安定化をはかろうとするものである。

 冷戦が崩壊局面を迎えた1980年代後期から、崩壊後の90年代前半期、旧ソ連・東欧諸国やアフリカ諸国の「民主主義構築」や「市民社会構築」論が、欧米のアカデミズムで興隆する。体制移行期に「紛争」が避けられないことを前提とし、それを「予防」・「管理」しつつ、その先に広がる「介入による国家建設(state building)論」としてこれらが盛んに「研究」された。先にみたカーネギー財団の一連の「プロジェクト」もその一環としてあったのである。

 これらの「理論」は、「革命の輸出」ならぬ「民主主義・市民社会の輸出」理論としてあった。欧米列強によるアフリカ・旧ソ連圏へのそれらの「移植」「外部注入」論と言ってよい。しかし、たとえばリビアがそうであるように、マトモな憲法もない国、また憲法はあっても「自由権」さえ保障されていない国家が、旧「社会主義」諸国や形式的に「独立」を果たした旧植民地諸国の実態だった。何度も触れたように、米ソは世界中でそうした開発軍事独裁国家を育成し、支えながら「覇権抗争」を展開してきた。そしてその他の安保理常任理事国もそれらの国々を資源開発と自国の兵器生産のはけ口としてきたのである。

 この〈構造〉が、世界遺産の数より多い冷戦時代の「残酷な遺産」を生み出すことになる。だから冷戦崩壊後において、その政治・経済・社会的総括抜きに「民主主義」「市民社会」を外部から構築するなどという「プロジェクト」が破産するのは明らかだったし、今後もそうなるのは必然である。

 リアル・ポリティクスにおけるR2Pは、この〈構造〉にいっさい手を付けようとしない。「国境を越えた紛争」が「国際の平和と安全」の「脅威」になるという認識の下で、それを一国内で予防・管理・処理するために「平和的」と「最後の手段」に分けた「介入の責任」を云々する・・・。そのためには内政不干渉と武力不行使原則の例外条項としての国連憲章第51条(「個別的または集団自衛」の権利としての武力行使)に加えた、新たな「地球規範」がどうしても必要になる。それがR2Pの本質である。

(なお、国連憲章第51条の成立過程、およびこの条項の安保理常任理事国による濫用の歴史的事例などについては、拙著『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の「第6章 国連憲章第51条と「戦争と平和の同在性」を参照のこと)

2011年2月23日水曜日

リビア空爆と「保護する責任」‐‐リビアへの「人道的介入」にNO!という責任

リビア空爆と「保護する責任」‐‐リビアへの「人道的介入」にNO!という責任

 空爆に対する在日リビア人の抗議行動が今日の午後、予定されている。
・2月23日(水) 16:00~17:00
・リビア人民局(大使館)前(東京都渋谷区代官山町10-14)
・地図:http://www.doko.jp/search/shop/sc70324367/#mapBlock
・最寄駅:東急東横線 代官山駅
・主催者:アーデル・スレイマンさん(在日リビア人学生)他
・ツイッターアカウント @libyanintokyo

 この事態に対し「国際社会は介入すべき」という表現を、ネット上で一部の人々が不用意に使っている。「国際社会」とはどのような国々をさし、「介入」とは具体的に何を意味するのかを明確にしないまま、情緒的にこの言葉が語られるのはとても危険だ。20年前のソマリアへの「人道的介入」の悲惨な結末、1990年代を通した旧ユーゴスラビア内戦がNATO空爆の大惨事に帰結したことを忘れてはならない。

 リビアを含めたアフリカ・中東の独裁国家体制に共通しているのは、ヨーロッパの旧植民地宗主国からの「独立」達成後の国家建設が「開発軍事独裁」体制の構築として進んだことである。これらの国々は、国軍・ゲリラ勢力双方とも、東西両陣営の通常兵器・小型兵器輸出の最大の市場として兵器漬けにされてきたのである。今も何も変わらない。その兵器が群集に対する空爆を行い、その兵器で武装した特殊部隊・傭兵が民衆を虐殺したのである。

 民族主義・ポピュリズムに社会主義を合体させた国々が開発独裁国家として、最悪の人権侵害・独裁国家になっていったことを思い起こす必要がある。アジアでもそうだ。民衆に基本的人権さえ保障せず、反政府運動を軍事的に弾圧し、開発のために少数民族・先住民族の土地を奪い、強制移住させ、虐殺してきたこうした旧ソ連派や「非同盟」の社会主義を標榜してきた開発独裁と、米国や旧植民地宗主国の「傀儡」政権として前者以上の規模の犯罪の数々を、権力構造の腐敗を深めながら行ってきた開発独裁の国々がある。

 「保護する責任」や「人道的介入」を言う前に、こうした冷戦・ポスト冷戦時代の日米欧・ロシア・中国の対アフリカ政策と開発戦略に対する分析を行い、何をなすべきかを考えることがとても重要である。
 日本の政府要人が今回の空爆に対し意味不明のことを語っているのを批判することと、「国際社会の介入」を主張することは、まったく別の次元の問題なのである。

2011年2月21日月曜日

サハラ砂漠の蜃気楼に浮かぶのは社会主義ではない

サハラ砂漠の蜃気楼に浮かぶのは社会主義ではない


〈ボクらの資本主義〉と〈少しはマトモなデモクラシー〉

 アフリカ、中東の反独裁のたたかいは、どこに向かうのか?

 「ボクら」は非常に困難な時代に生きている。というのは、今の〈体制〉にとって代わるべき〈体制〉のビジョンが思い描けないからだ。「自由経済」に代わる「計画経済」、「民営化」に代わる「国有化」、「私的所有の廃絶」など、「民衆蜂起」によって「権力奪取」をめざす「古い革命」のヴァリエーションでは問題解決に何もつながらない。

 資本主義社会の「自由と民主主義」は権力を独占する「ブルジョアジー」のものであって、これを「真の自由と民主主義」にするためには「プロレタリアート」や「プレカリアート」が「権力」を握る「革命」が必要だ、「権力を打倒せよ!」・・・・。世界的にみれば、こういう言説・イデオロギーが今でも「民衆のパワー」を突き動かす原動力の一つになっている。

 しかし、それは「オルタナティブ」にはなりえない。ボリビアをはじめとするアメリカ大陸の「先住民族・民衆のパワー」が表現してきたのは、そういうことなのだと私は考えてきた。

 今から20年ほど前、冷戦崩壊直後の数年間、米国はテキサスの片田舎に引きこもっていたことがある。
 湾岸危機から湾岸戦争の勃発、ソマリアの「人道危機」と国連と米国の「人道的介入」、ロサンジェルスの「黒人暴動」と日本では報道されたNo Justice, No Peace!ムーブメント、旧ソ連の崩壊・レーニン像の倒壊、「ユーゴ内戦」と「民族浄化」が日本よりもはるかに先駆けて「人権問題」として米国の主要メディアで報道され、メキシコのマヤ先住民族、「サパチスタ」の武装蜂起が起こり、南アの「革命」があった直後までの数年間である。

 いろんなことをハショッテ言えば、当時の「ボク」が体験したのは、1989年の「天安門事件」や「ベルリンの壁の崩壊」など、それまで「ありえない」と思っていたことが次から次に現実に起こり、「時代は変わっている」と強烈に印象付けられたことが、1990年代の最初の数年間を通して、逆の方向へと急激に変化していったことである。
 それは、今後の数年間において、また現実のものになりえるのである。「ほんの少しでもマシ」になるのでなく、「もっとヒドク」なる方向に向かって。

 この20年、いろんなことが言われてきた。「持続可能な開発」「フェアー・トレード」「マイクロ・クレジット」「連帯経済」「地域通貨」「債務削減・帳消し」「人間の安全保障」「国際金融取引・投機市場における規制強化・腐敗防止」、アチラコチラの「非核地帯構想」「独裁政権への武器援助規制」と非合法の「小型武器密輸規制」等々、等々、もう一つ等々・・・。
 毎年のように国連諸機関、G8、WTO、G20、NATO、世界社会フォーラム等々等々の会議があり、抗議行動が展開され、フォーラムが開かれ、「民衆」の共同宣言文が発せられてきた。

 たとえば、上に列挙した「オルタナティブ」のすべては、リベラル資本主義経済システムの下でもいくらでも可能なことだ。「少しはマトモな資本主義」のための政策提言を超えるものでは、まったくない。にもかかわらず、世界の現実はこの20年、「ほんの少しでもマシ」になるのではなく「もっとヒドク」なる方向に向かって進んできた。
 つまり、「可能」なはずの「もう一つの世界」が「不可能」になってきた原因を、体制やシステムを責め続けながらそれらに求め続けていたのでは、これからも何も変わらない、変えようがないということである。それでは永遠に不可能な「もう一つの世界」を叫び続ける、ただのパフォーマーでしかなくなってしまう。

 「世界の何が問題か」を分析することは比較的容易なことだ。それをどう変えるかを「提言」し、その「提言」が実現されなかったなら、「なぜ実現されない/できないのか」、その分析が必要になる。そしてそれに基づき、同じ結果を招かないように次の「提言」をまとめる。デッド・ロックに乗り上げたなら、どこで、何がそうさせたのかを考え、シェアする。その「デッド・ロック」は決して「体制」とか「システム」という抽象的なものではないはずだ。国際法・国内法・協定の文言であったり、そもそも国連・政府・官僚機構・政党に意思がなかったり、もともとの「提言」自体が実現可能性ゼロのものであったり、いろいろである。

 私が1990年代にもっとも「マシ」だと考え、その主張からも学んできたいくつかの国際NGO、今世紀に入って以降の「もう一つの世界」に集う組織や活動家たちに欠落していると思えるのは、多くの場合そういう具体的な分析、自分たちの活動・主張に対する反省、失敗や誤りを認め、明らかにしようとしない体質、一言で言えば自分たち自身の活動自体の「フォローアップ」を積み重ねようとしないあり方、等々である。それはワンパターン化されてゆく「声明」や「提言」にもっともよく示されている。
 
 だから「ボクら」は、冷戦崩壊後「新しい世界」をつくるための「オルタナティブ」としてさまざまプロモートされてきた理論・言説の数々が、「オルタナティブ」にならなかった、「新しい世界」をつくらなかった事実から出発する必要がある。この作業はネオコン・ネオリベ・権力者・独裁者を批判してそれですむようなことではない。それらを批判してきた者たちの理論・言説をも批判的に再検証し、何が誤ってきたのかを問い直す作業につながらなければ、同じことをくり返すだけになるからだ。だから、とても困難な作業にならざるをえないのである。
 とくに、冷戦崩壊後に生まれた人々、そして世界の「新左翼」運動、「アナキズム」運動、「解放闘争」が悲惨な遺産を残していった時代の只中以降に生まれた人々は、このことを真剣に考えてほしい。

 〈ボクらの資本主義〉が少しも〈マトモなデモクラシー〉にならないのはなぜか?
 にもかかわらず/であるからこそ、みんなfreedomやliberty, democracy now!と叫び続けてきたし、今も叫び続けている。そしてこれからも間違いなく、叫び続けることになる。
 いったいなぜ日給1ドル、2ドルで働かされ、生きている「民衆」がdemocracy now!と叫び、銃撃戦を戦ったり、死を賭してデモをしなければならないのか。〈ボクらの資本主義〉はいったいどんな資本主義なのか?


facebookとtwitterは「オマカセ民主主義」を越えられるか

 すべての国の政府・官僚機構、議会政党にメディア、もっと言えば市民・社会運動やNGOもサイバー空間で起こる〈革命〉についてゆけない。これが〈今〉の情況である。というより、誰もがそうなのだ。「政治」という特殊な世界において、それがもっとも醜悪な形で表出しているだけの話である。

 冷戦崩壊後に生まれた人々はもちろん、ちょうど30年前にレーガン政権が登場し「レーガノミックス」やイギリスの「サッチャー主義」が席巻し、いわゆる「新自由主義」経済政策が「新保守主義」の政治と合体したころに生まれた人々は、冷戦崩壊⇒バブル崩壊⇒「失われた10年」となった1990年代の「政局」の大混乱⇒政界の再編に次ぐ再編の過程を体験していない世代になる。
 この二つの世代がこの1月半ば以降のアラブ・イスラム社会の「革命」の担い手だ。「ボク」と同世代の人々は、若い世代がセッティングしたステージ(広場)にかけつけ「積年の恨み」を晴らそうとした、そんな感じだろうか。

 で。これからの数年、2010年代の半ば・あるいは後半期まで、あの頃ほど悲惨ではなくともまた同じような日本の議会政治の大混乱・「政界再編」を私たちは体験することになるかもしれない。政権与党をめざす政党のプラットフォームが定まらず、しかもどの政党も変わり映えのしない「マニフェスト」しか出せず、「争点」なるものがきわめてテクニカルな「やりかた」の違いでしかないような、そんな「政策論争」が延々とくり返される時代である。

 もうすでに始まっているが、それは政治的ニヒリズムというか、「日本の(議会)政治が変わることによって何かがもしかしたら変わるかもしれない」、そんな風にはとても思えない何とも鬱屈した気分が社会的に蔓延する時代である。無党派層が有権者の5割から6割(6割から7割?)になる時代。「国政選挙」の投票率が5割を割り、4割を割り、それでも「政治」や国が「回っている」時代。

 そのとき、上昇・安定志向を持たない/持てないタブレット・カルチャー第一世代の人々が、どういうムーブメントを起こすか/起こせるか。それが10年後/20年後に〈少しはマトモなデモクラシー〉に日本がなっているかどうかを決めることになる。そうしてセッティングされたステージ(広場)に「ボク」もかけつけ、「積年の恨み」を晴らすことができるだろうか。日本における戦後政治の終焉、ポスト冷戦時代のほんとうの幕開けは、そのときはじめてやってくるのかもしれない。

Talkin Bout A Revolution, Tracy Chapman

2011/2/23

関連資料サイト一覧(ランダム)
Africa can be food self-sufficient - study
Jubilee Debt Campaign's new report on the Export Guarantee Department
Oil, Gold Climb as Mideast Tensions Increase; Stocks, Eni Fall (これが「ドル経済の終焉」の兆候であり、「ハイパー・スタグフレーション」襲来の要因である。)

アフガニスタンの米軍:50人に1人はロボット
A New Way Forward: Rethinking U.S. Strategy in Afghanistan "Myths & Realities"
Think Again American Decline: This time it's for real

ボリビア・中南米の今と、リビア・北アフリカ・中東の未来

ボリビア・中南米の今と、リビア・北アフリカ・中東の未来

 「われわれは降伏しない。勝利か、死か。今回の蜂起が最後ではない。われわれと戦うがよい。お前たちは、リビアが解放されるその日まで、われわれに続く幾世代もの者たちと戦うことになるだろう」

 リビアが凄惨な事態になろうとしている。左の写真はここにアップされ、アルジャジーラのサイトに転載されたものだ。日本の報道機関も速報で、カダフィの息子が「内戦の危機」を訴え、反政府デモを批判したテレビ演説を報じている。

 すでにエジプトの虐殺を越える数の犠牲者がリビアで出ている可能性がある。政府・軍が発表する内容や数をそのまま報道する商業メディアを信じてはいけない。すでに「蜂起」はリビア全土に広がり、地方の政府機関が民衆によって占拠されるまでに発展しているのだ。
 また、「ありえない」と思っていたことが起ころうとしている。これ以上事態が凄惨にならぬよう祈るしかない。

 「エジプト革命」からたった1週間あまりで、バーレーン、イエメン、イラン、リビア、モロッコ、アルジェリアと広がったアラブ・イスラム社会の独裁打倒を掲げた民衆のたたかい。これほど短期間で民衆の同時多発蜂起が起きるほどに、一触即発状態の民衆の怒りが何十年にもわたって抑圧されてきたということだろう。
 そのようなアフリカや中東を誰がつくり、誰が支えてきたのか。この地域に駐在する日本人は何を恐れ、何に脅えているのか。

 しかし、北アフリカ・中東だけではない。民衆のたたかいは太平洋を越えて、中南米においても同時多発的に展開されている。その一例が、ボリビアの先住民族・労働者・民衆のたたかいである日本が「リチウム資源開発」に「夢」を託している国である。(新聞記事の説明は後日)

 おそらく私たちは、これまで生きてきた一つの時代が終わろうとしている、その歴史的局面にたちあっている。
 非常に象徴的なことは、南米のボリビア・エクアドル・ブラジルがそうであるように、「民衆のパワー」によって成立した「左翼政権」がその政権の登場を実現した当の「民衆のパワー」によって批判され、包囲されていることだ。もっと言えば、米国や日本がそうであるように、ここ数年に政権交代があった国々において政権に対する幻滅が急速に広がり、反政府運動が高揚しているのである。
 つまり、ボリビアや中南米の今は、リビアやエジプト・中東・北アフリカの近未来の政治シーンを映し出しているのかもしれないのである。

 どのような時代が終わろうとしていて、どのような時代がはじまろうとしているのか。
 少しはマトモな議論をマトモにすることが、日本のメディアにも私たちにも問われている。
 他人事のように語れる時代は、もうとっくに終わっているのである。 

2011年2月18日金曜日

米国の「民衆のパワー」

米国の「民衆のパワー」

 日本のメディアでは報道されることがないと思えるので、ちょっとした情報として。米国はウィスコンシン州の「民衆のパワー」のレポートである。(現時時間の水曜。CNN)

・Social Media is blowing up over Wisconsin Governor's, Scott Walker's declaration to cut collective bargaining rights for public workers.(「公務員労働者の団体交渉権を廃止する」という共和党の州知事の宣言に対し、オルタナティブ・メディアが「爆発」)
1000 Appleton East High School students walked out of school yesterday to support their teachers.
40% of the 2,600 Madison School District Employees plan to stage a "sickout" today. Madison schools close.
・Wisconsin State Journal reports more than 10,000 protesters appeared before the Capitol steps yesterday. Even more appeared today, sleeping the night in and around the Capitol.(一部報道ではデモ参加者は1万5000人といわれている。極寒のマジソンで泊り込みの抗議行動を展開している!)

映像
Amazing video of Wisconsin protests 州政府の議事堂を事実上「占拠」。下のビデオでは「エジプトの民衆のように歩こう」と書かれたプラカードが見える)
Wisconsin schools call off classes as budget protests continue CNN
UWM Student Walk Out Protest(ウィスコンシン州立大学・マジソンキャンパスの学生たちの授業ボイコット。最新)

Alternetに掲載された記事
Is Wisconsin Our Egypt? 15,000 Protest Off-the-Wall Right-Wing Governor's Policies
Nationに掲載された記事(現地時間の木曜。最新)
Wisconsin Crowds Swell to 30,000; Key GOP Legislators Waver
Wisconsin Students Protest Governor's Attack on Unions

 日本のどこかの県庁、県議会が包囲され、一時的にではあれ「占拠」されたようなものである。日本の高校生が教師のストライキを支援し、デモをするなんて考えられるだろうか? 日本では考えられないこと、「ありえない」ことが世界で、米国で現実に起こっているのである。
 確かに、ウィスコンシン州立大学のメインキャンパスのあるマジソンは昔からリベラルとプログレッシブの拠点のような街であるが、こういうシーンを観るのは私も初めてだ。まさにAmazing!である。
 米国の「民衆のパワー」。そのたたかいのはじまりかもしれない。これが民主党知事の膝元で起こったなら、二大政党制そのものを揺るがす地殻変動に発展する可能性さえ無キニシモアラズとなる。

 ただし。法的身分保障や給与・待遇などにおいて、日本の正規の公務員労働者に比べれるなら遥かに「劣悪」な環境に置かれている米国の地方の公務員労働運動や巨大な組合運動に対しては、それよりもさらに法的に劣悪な労働条件、賃金体系のクビキの下にある一般の非組合系の労働運動や社会運動から、さまざまな批判があることは明記しておく必要がある。「リーマン・ショック」の際の公的資金の投入が、GM労組の救済策としても活用されたことに対する批判を思い出してみればよい。「支持すべきか、せざるべきか」「勝手にやってくれ」といった、要するに日本と同じような「構造的問題」を抱えていると理解すればわかりやすい。ただし。今回は違う。「既得権防衛」の域を超えているからである。

 ともあれ、1月のあまりにさえなかったオバマの「一般教書」と先日の「予算教書」が、州財政の破綻寸前の状況のなかでリストラ・減給・年金支給減などの攻撃を受けている地方公務員のたたかいに油を注いだことだけは確かである。火は全米に飛び火する気配が十分にあるが、米国の民衆のたたかいも長いたたかいになりそうである。

2011年2月17日木曜日

米国経済がなぜ破綻するのか

米国経済がなぜ破綻するのか

⇒「ドル経済の終焉・米国の崩落・壊れる米国の大学」より

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 三日前だったか、2011年度の米国の「予算教書」が公表され、一昨日新聞各紙が一斉に報道した。この問題を先に書こうと考えていたのだが、鳩山前首相の「在沖米軍・海兵隊=抑止力発言は方便」をめぐる「茶番の連鎖」があって書けなかった。
 
 たとえば、ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版の記事をみてみよう。この記事のどこに嘘があるのか?
 末尾の「今回の予算教書では、11年度に国内総生産(GDP)比10.9%に達している財政赤字は、18年度までには同2.9%に縮小するとの見方が示された。エコノミストの多くは、GDP比3%以下の財政赤字は持続可能との見方で一致している」という表現である。

 「11年度に国内総生産(GDP)比10.9%に達している財政赤字」が「18年度までには同2.9%に縮小」するとの「見方」に何の根拠もない。また、「GDP比3%以下の財政赤字」が「持続可能」という「見方」も嘘である。ウォール・ストリート・ジャーナルが「米国は破綻する!」と言えば、すぐにでも世界恐慌が起こってしまうから、米国金融資本を支えるジャーナルは世界に嘘の情報を発信し続けるのである。

 これに対して、ワシントンポストはまだマトモな記事を書いている。
 Obama budget plan shows interest owed on national debt quadrupling in next decade(「国の債務の利子支払い額が向こう10年間で4倍に」)という記事である。これは「予算教書」が公表されてすぐに書かれたGeithner Tells Obama Debt Expense to Rise to Record(「ガイトナーがオバマに「史上空前の債務償還負担が米国経済を襲う」と警告)をベースにしたものである。資料としての「膨張する利子返済」も見ておきたい。

 踏まえておくべきポイントは、次のような記事の内容だ。
First, the nation's debt is growing faster than the economy. Second, interest rates are rising. Over the next decade, net interest payments will amount to nearly 80 percent of the debt added, an indication of how past borrowing is forcing the country deeper into debt.
・The phenomenon is a bit like running up the down escalator.

・"The scary scenario ---- is an incident of capital flight, where investors lose confidence in the U.S., causing interest rates to rise precipitously and pushing the budget deficit even further into the red,"
・"We are in a self-reinforcing, vicious cycle," "There's no sugar daddy out there for us."

 国の借金が経済よりも成長しており、利率が上がっている。借金の利子返済額が借りた借金総額の八割を占め、国をさらなる借金地獄に叩き込んでゆく。それは下りてくるエスカレーターを駆け上ろうとするようなもの。しかし、上の階(財政均衡)には上れない。ずっとエスカレータを下から上に、車輪の中に置かれたコマネズミのように走り続けるしかない。そしていつか息絶えてしまう・・・。
 恐ろしいシナリオは、その間に起こるかもしれない、海外から米国に投資された「資本逃亡(引き上げ)」だ。投資家が米国経済の回復やドルへの信用を落とせばそうなるし、そうなるとそれを回避するための金利の上昇を招き、さらにそれが財政崩壊の決壊点、デフォルト寸前にまで追い詰めてゆく。見かけの上では、今はまだ大丈夫そうにみえる。しかしこの現象が水面下ではすでに始まっているのである。

 もちろん「ドル経済の終焉、米国の崩落」と言っても、ドルが消滅したり米国経済が完璧に崩壊するわけではない。その影響をモロに受けるのは、米国国内ではせいぜい1億人くらい、総人口の3割「程度」のものだろうか。大恐慌のときでさえ、失業に追いやられたのは全労働者の3割あったかなかったか、「その程度」のことだった。むしろ問題は、すでに失業率が4割、5割を超えるような「低開発国」や「重債務国」、軍事独裁国家に生きる人々への影響、グローバルな民衆の生活への影響である(これについては、機会をみつけてまた書くことにしたい)。

 いずれにせよ、「悪(魔の)循環」vicious cycleに米国は叩き込まれている。それと同じ構造にEUも日本が置かれ、どの国も米国の破綻の救世主sugar daddyにはなれない。「財政緊縮」で増税と「受益者負担」を強化し、互いに「協調介入」しながら「壊れる国」のドミノ化を未然に防止することくらいしかできないのだから。そのためにEUはIMFのEU版も創設した。

 で、それで「壊れる国」のドミノ化を防ぐことができるのか? 米国発の再度の大地震を防ぐことができるのか?
 政治家や財務・日銀官僚、メディアの嘘に騙されてはいけない。貧しき者は「戦略的防衛体制」に入りながら、たたかうしかないのである。

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4月
米大統領、330兆円の赤字削減表明 今後12年で
 オバマ米大統領は13日、米ワシントン市内で演説し、今後12年で財政赤字を4兆ドル(約330兆円)削減すると表明した。国防費の節減や高額所得者への増税などをして、大規模な財政赤字削減に取り組む。  オバマ大統領は演説で、「我々は歳入の範囲内で生活し、財政赤字を削減し、債務残高を減らしていく道に戻らなければならない」と強調した。  具体的には、今後12年で、
(1)国防費のさらなる節約や社会保障費の削減など大幅な歳出削減で2兆ドル
(2)債務の利払い費の節減で1兆ドル
(3)富裕層の所得税減税の廃止などの税制改革で1兆ドル、を削るとした。
 米国の財政赤字は今の2011会計年度に史上最悪の1.6兆ドル(今年2月時点の予測)に達する見通し。その場合、対国内総生産(GDP)の比率は10.9%になる。オバマ大統領は今回の削減計画で、対GDP比を15年に2.5%に下げ、10年後には2%近くまで引き下げたいという。  これから12会計年度(11年10月~12年9月)予算の策定に向けた議論が始まる。野党・共和党との間で本格的な財政再建論議が交わされそうだ。(朝日・ワシントン=尾形聡彦)

米の財政赤字69兆円 11会計年度、上半期
 米財務省が十二日発表した二〇一一会計年度(一〇年十月~一一年九月)の上半期の財政収支は、赤字額が前年同期比15・7%増の八千二百九十四億一千万ドル(約六十九兆円)だった。 上半期の赤字額として過去最悪の高水準となった。
 歳出は国防費、社会保障費、国債の利払いなどがかさみ前年同期比10・7%増の一兆八千四百九十三億六百万ドルだった。歳入は所得税が増えた一方、法人税の税収が減少し6・9%増の一兆百九十八億九千六百万ドル。歳出の伸びを下回った。 同時に発表した三月の財政収支は、前年同月比187・8%増の千八百八十一億五千三百万ドルの赤字。単月の赤字は三十カ月連続で、過去最長を更新した。 オバマ大統領は十三日、財政赤字縮小に向けた歳出削減方針について演説する予定だ。【ワシントン=共同】

米、政府閉鎖を回避 大幅な歳出削減で合意
 米国で、4月9日午前0時(日本時間同日午後1時)に予算措置の期限が切れて「政府閉鎖」となる可能性があった問題で、与野党は、大幅な歳出削減と歳出削減法案をまとめあげる数日間はつなぎの予算措置を講じることで合意した。オバマ大統領も合意を歓迎した。 米オバマ政権・民主党と野党・共和党の間では、期限切れを数時間後に控えた8日夜、大詰めの折衝が続いた。米ホワイトハウス高官は8日夜、朝日新聞に対し、「(政府閉鎖を回避するための)合意ができることに希望を持っている。合意は近いがまだそこに至っていない」と語っていた。
 オバマ米大統領は当初、2011会計年度の政策経費として1兆1283億ドルを提案。米議会は昨年末、それより約410億ドル少ない水準で暫定予算を設定した。この暫定予算の水準から、さらにどこまで歳出を削減するかが与野党間で攻防になっていた。  与野党は7日夜から8日早朝にかけての交渉で、さらなる削減幅を380億ドルとすることで合意しかけたが、女性のがん検診向け助成3億ドルの扱いを巡って意見が対立し、合意に至らなかった。共和党側は助成費の一部が中絶費用にも転用されているとして、予算自体の削減を要求。民主党側は「がん検診を巡って政府閉鎖に陥れば、脆弱(ぜいじゃく)な米経済は勢いを失うことになる」と批判していた。
 仮に政府閉鎖の事態となれば、米国の国立公園やスミソニアン博物館は閉鎖される。連邦職員は、緊急対応など一部の機能を除いて勤務できなくなる。ただ、米原子力規制委員会(NRC)職員による日本の原発問題対処への支援や、米軍による復興支援は継続する予定。一方、日本での米国大使館によるビザ発給は緊急対応のものに限られ、通常のパスポートやビザ発給の手続きは行われない。 (朝日)

2011年2月16日水曜日

「抑止力」は「方便」以外の何なのか?---戦後政治と戦後外交の欺瞞と虚構から目覚める時

「抑止力」は「方便」以外の何なのか?---戦後政治と戦後外交の欺瞞と虚構から目覚める時


 鳩山前首相が去年、在沖米軍が「抑止力」として重要と言ったのは「方便」だったと本音をもらし、この発言に対し社民党党首が「私は方便でクビになったのか」と言い、さらに防衛大臣が「衝撃」を受けたという。何という茶番の連鎖だろう。
 毎度の事とはいえ、もういい加減に日本の政治家は、こういう低次元のアレヤコレヤによって私たちの貴重な時間を潰し、税金を浪費し、ウンザリした気分にさせるのはやめてもらいたいものだ。もっと、子どもたちの想像力を豊かにし、少しでも私たちの知性を刺激するようなパフォーマンスができないものか。読者はそう思わないだろうか。

 在沖米軍を「抑止力」とすることが単なる「方便」に過ぎないのは、みんな見抜いている。海兵隊や在沖米軍のみではない。在日米軍全体がそうであり、在韓米軍もそうである。しかし、その「方便」を永遠にくり返さなければ、在日米軍を永遠に駐留させておく口実がつくれない。「日米同盟という欺瞞」や「日米安保という虚構」は、米軍が外部(どこ?)から日本が武力攻撃を受けないようにするための「抑止力」という、ただその一点のみにおいて成り立っているのだから。

 だから、これを「方便」と言ってしまえば、すべてが崩壊してしまう。けれども、そんなことは子どもだって知っている。産経・読売新聞の論説委員を始め、いまどき「右翼」だって米軍が「抑止力」だなんて本気で考えている者はいないだろう。
 一度、日米の「2+2」に在日米軍司令官、自衛隊統合幕僚長を加え、在日米軍が何に対する「抑止力」として存在するのか、全世界に公開されたパブリック・フォーラムを開催すべきである。日本の政治家が何を言った/言わないなどアレコレ問題にしても、まったく意味がない。ただ時間と税金を無駄にするだけである。


 「北方領土」問題にしても、「尖閣諸島」を含めた琉球問題にしても、私たちが相手にしている国はすべて国連安保理常任理事国である。朝鮮民主主義人民共和国も国連加盟国だ。いったいどこの国が日本に核攻撃や武力攻撃をしかけるというのか。
 思い起こして欲しい。去年の「北の脅威」論の根拠とされたアレヤコレヤは、いったいどうなったのか。去年と同じように、これまでも安保を無期限延長し、在日米軍を無期限駐留させるために「北の脅威」や「中国の脅威」が扇動されてきた。いつになったら私たちはそのことに気づくのか。

 「日米関係を重視する」と言うのはよい。しかしそれを言うにしても、いったん安保をいつかは解消する、米軍をいつかは撤退させる、そのケリをつけてからのことだ。
 戦勝国というのは、一度侵略し、軍事基地を作り、駐兵した国からは、絶対に無条件では撤退しない。このことを大前提にして、米国という国、在沖・在日米軍のことを考える必要がある。それは「北方領土」を「実効支配」してきたロシアについても言えることだ。

 米国はロシアが「北方領土」を「実効支配」することを容認し、ロシアは米国が沖縄を「軍事植民地」化し、日本・韓国に基地を持ち、駐留することを容認してきた。中国についても然り。そしてこれら三国は、「国際の平和と安全」を「維持」する国連の最高権力機関たる安保理の常任理事国なのだ。国連に常任理事国体制が続く限り、これら三国は永遠に非公式で密約を交わしながら平和共存し、「国際の平和と安全」のために「協調」し続けるのである。

 さらに残りの常任理事国たる英国にフランスは、日本政府が最大の「脅威」と言う北朝鮮と国交があり、外交関係も持っている。ドイツはと言えば、日本が国交断絶し、経済制裁を強化するなか、北朝鮮に対する「経済協力」を強化してきた。外務省の無策ぶりと対比するなら、北朝鮮の外務省の方がよほど国際法の限界、国連加盟国としての制約をわきまえつつ、しかし体制の生き残りをかけて戦略的外交を最大限に展開してきた、と言えるだろう。

 これに対し、日本という国の政権与党・自民党、外務省という官僚機構、未解体の財閥は、戦後の世界秩序形成の中で日本の針路をめぐる「国政の主権者」の意思を顧みず、「ヌエ」のようにただ「パックス・アメリカーナ」に寄生し、国際社会の中で「経済大国」としての地歩を築くことしか考えてこなかった。
 1970年の安保の「自動延長」の時点において、読売新聞の世論調査でさえ、「国民」の過半数は「安保の段階的解消、米軍の段階的撤退」を主張していたのである。その声を封殺され、壊れたボイス・レコーダーのような政治家の口から「極東の平和と安全」「日本の平和と安全」のために安保と在日米軍が「抑止力」として欠かせない、こんなナンセンスを40年以上にわたって私たちは聞かされ続けてきたのである。


 在日米軍問題について言えば、戦勝国・米国の本音に対し、敗戦国・日本を代表する政府・外務省が、①国際条約としての安保条約の内容に即しながら、在日米軍の無期限駐留の論理的無根拠性を理路整然と米国に対置しつつ、②国連総会や安保理の場で無期限駐留の不当性を問題化しようとしてこなかったことが致命的である。そればかりか、歴史的事実が教えるのは、日本政府・外務省が、系統的・計画的、すなわち段階的な米軍の撤退をこれまで一度たりともまともに検討したことがない、ということだ。

 安保条約が「自動延長」体制に突入した1970年から数年をかけて、あるいは冷戦が崩壊した1990年代初頭から数年をかけて、10年、20年という長期のスパンで外務省がそうした戦略構想をまとめ、広く議論を興そうとしたなら、こんなことにはならなかったはずである。すべてが密約で処理されてきたのである。今からでも遅くはない。その議論を始めるべきだ、というのが私の主張である。

 「北方領土」問題もまったく同じである。敗戦国家としての日本が1945年以前に戦争し、侵略した国家に「戦勝国」として何を要求し、何をしてきたかを、まず想起することが重要である。「米国が沖縄を取るなら、北方領土を取る」と旧ソ連が米国の合意の下で兵を動かしたことを私たちは認識しておく必要がある。私たちは侵略し、完敗した。敗戦国が戦勝国に実効支配された領土を、「過去の国際条約違反だ。日本の固有の領土であるから返還せよ」と言ってケリがつくなら、パレスチナ問題など、イスラエルの占領政策など、とっくの昔にケリがついているではないか。

 事の核心は、「四島返還か、それとも二島返還か」にあるのではない。①1960年の「安保改定」が、旧ソ連の四島全域の実効支配の口実を与えると同時に、1972年に「返還」されるその後の沖縄を切り捨てたこと、②またそれと抱き合わせとなって、米ソ間の裏取引と日米間の密約の下で「北方領土」問題がはらんでいるリアル・ポリティクスが私たちの目からそらされてきたこと、③そのことが何十年間にもわたって放置されてきたことにある。

 これまで私たちは、「北方領土」の日ロ共同開発、ロシアへの経済協力を進めるという以外に、何か具体的な全面返還、あるいは二島返還⇒段階的完全返還に向けた政府・外務省、自民党・民主党の「方針」を聞いたことがあっただろうか? 国境・領土問題をいかなる意味においても「紛争」の火種にしない、そのことを日ロ間の合意として外交文書化した上で、国際法と二国間条約の歴史に基づきながら、返還の正当性を国際的にキャンペーンする日本政府・外務省、政権与党の姿を、これまで私たちは一度でも見たことがあっただろうか?

 こうした政府・外務省、政権与党としての主張を交渉国に公式に突きつけた上で、①国際法を遵守し、②自国が交わした国際条約に基づいて二国間関係や領土・基地問題を解決するという国際的責任を持ち、③しかも「国際の平和と安全」に対しても責任を持つ安保理常任理事国として、米国やロシアが、さらには中国が日本、また世界に対して何をどう答えるか。すべての外交交渉は、そこから始まるのである。
 日本の戦後政治と戦後外交、それを報じるメディアの言説は、私たちを愚弄する欺瞞と虚構で塗り固められてきたのである。


 どこの国でもそうだが、こうした国家間の領土問題において、もっとも忘れられ、切り捨てられてきたのがその領土に生きてきた人々(マイノリティ)であり、多くの場合、先住民族である。これらの人々の尊厳、国際法的に認められた自治や自決権。そして剥奪されたそれらの回復。

 先週の「北方領土の日」にあたり、アイヌの人々が北海道や東京で集まりを持ち、そのことを告発した。また、今週の土曜には、アイヌ・琉球・在日の人々が日本における人種・民族差別の撤廃を求めて東京で集まりを持とうとしている。さらに4月には明治大学で企画が予定されている。

 もういい加減、私たちは日本の戦後政治と戦後外交の欺瞞と虚構から目覚める時を迎えているのではないか。今年は、そのための絶好の機会を与えてくれそうだ。今年を、そういう年にしなければいけない。

2011年2月15日火曜日

「鎖に縛られたまま誕生したデモクラシー」---「エジプト革命」へのナオミ・クラインの警鐘

「鎖に縛られたまま誕生したデモクラシー」---「エジプト革命」へのナオミ・クラインの警鐘

 昨日、ナオミ・クラインが The Shock Doctrineに収録されたDEMOCRACY BORN IN CHAINS: SOUTH AFRICA’S CONSTRICTED FREEDOMを公開した。彼女は先週までダカールで開催されていた世界社会フォーラムに参加し、その間ツイッターで情報を配信しており、時折私も覗いていた。

 ナオミ・クラインがこの章を公開したのは、「エジプト革命」を担った者たちやそれに熱い視線を注いでいた者たちへの警鐘だと私は捉えている。今回の革命を祝福する。しかし課題は山積しているのだと。それをアパルトヘイトを解体し、ANCへの権力移行後10年余を経た南アのルポを転載することを通じ、彼女は伝えようとしたのだと。

 ちょっと情報は古いが、以下のような統計的資料は、アパルトヘイトを形だけは解体した南アの「革命」が、黒人の解放・生活向上には何もつながらなかった現実をとてもリアルに浮き彫りにしている。

・Since 1994, the year the ANC took power, the number of people living on less than $1 a day has doubled, from 2 million to 4 million in 2006.
・Between 1991 and 2002, the unemployment rate for black South Africans more than doubled, from 23 percent to 48 percent.
・Of South Africa’s 35 million black citizens, only five thousand earn more than $60,000 a year. The number of whites in that income bracket is twenty times higher, and many earn far more than that amount.
・The ANC government has built 1.8 million homes, but in the meantime 2 million people have lost their homes.
・Close to 1 million people have been evicted from farms in the first decade of democracy.
・Such evictions have meant that the number of shack dwellers has grown by 50 percent. In 2006, more than one in four South Africans lived in shacks located in informal shantytowns, many without running water or electricity.

 このような南アの現実は、「革命」10周年を迎えた7年前にもさまざまな媒体で流布されていた。状況は今日、さらに悪化しているだろう。政権が移行しても、経済運営の権限はいっさい移譲されなかった。しかもアパルトヘイト体制下の弾圧・拷問の犠牲者となった人々への「真相究明委員会」を通じた「和解」と補償のための財政支出により、国家財政が逼迫する。ANC政府は、国際金融資本や旧体制を牛耳っていた白人アフリカーナの権力者が言うがままの「民営化」路線を受け入れ、腐敗を深めてゆく。

 すべての背景には、南アの「デモクラシー」そのものが、奴隷制と植民地主義の遺制=鉄鎖には何も手をつけることができず、それに縛られたまま誕生せざるをえなかったという悲しい現実がある。(だとしても、ANC指導部の官僚主義・権威主義・腐敗とモラルハザードは何も免罪されないが)。

 日給2ドルで働くエジプトの労働者と、その資産総額が7、8兆円(もっと?)の独裁者(失踪?病気?)。
 南アの現在の中に映し出されているその鉄鎖を、エジプトやアフリカ大陸の未来を縛る鉄鎖にしてはならない、ナオミ・クラインはそう言いたいのである。
 軍の動きを決めるのは、その背後に存在する得体の知れない〈権力〉なのだ。おそらくそのことを指導者無き「エジプト革命」の主役たちは見据えているだろう。

2011年2月12日土曜日

エジプトからパレスチナへ、そして・・・

エジプトからパレスチナへ、そして・・・


 ムバラクが辞任した。
 この18日間を「革命」と民衆は呼んでいる。この間もそうだったが、これからのことについても軍の動きが非常に気になっている。だから、考え込んでしまうところがどうしても残ってしまうのだが、アルジャジーラのインタビューに応えていた若い人々の話を聞いて、そういう感じ方はやはり間違っているのだな、と思った。

 ある女性はこのように話していた。とにかく今夜は祝うのだと。一晩明けて、明日からどうするか、帰るか残るかを考える。軍との関係についても、私たちが何を要求としてまとめ、それに軍がどう返答するかによって決めるのだと。何もかもが、ムバラクが辞めてから始まるのだと。
 その通りなのだろう、と思った。すべてが「ありえない」とそれまでは思っていたことから始まり、「ありえない」と思っていたことがたった18日間で実現したのである。

 「革命」という政治的定義があらかじめあるのではない。すべての定義は起こったことの事後解釈にすぎないものだ。そういう定義や「理論」、解釈に沿って進む/進まないによってアレコレ評価したり、否定的に考えることは、はやり今回の出来事がいかに革命的なことであるかを理解できない外部の人間の思い込みや杞憂にすぎない、ということだろう。「ナルホドナ」と思った。

 エジプトの「民衆のパワー」。連帯感、結束力、そのエネルギー。そして自分たちがここで死んだとしても、何が何でもムバラクはもう認めない。何があっても権力の座から引き摺り下ろすまでたたかう。その気迫。「民族的」決意。圧倒的だった。

 1980年代後半から90年代始めの旧ソ連・東欧圏の崩壊と「民主化」以来の体験だ。「9.11」以後この10年、対テロ戦争という「戦争」が自分の思考を深く規定してきたことに気づかされた。対テロ戦争を乗り越え、国家と社会を根本から変えうる民衆のパワーとエネルギーに、どこか懐疑的になっていた自分を思い知らされた気がした。

 米国が、オバマがどう出るか、軍がどう出るかを事態の帰趨の決定要因であるかのようにどこかで考えていた自分がいた。ずっとどこか懐疑的で、醒めた目でみていた自分がいた。「ありえない」と思っていたことが、エジプトで現実に「ありえた」ことの意味、そもそもの始まりの革命性を最初から私は理解できていなかったのかもしれない。
 「事態は流動的」と書いた。しかし流動的でない事態、歴史などない。何でも起こりうる。歴史を生きるとはそういうことであり、歴史とは解釈するものではなく、つくるものなのだ。まざまざと見せつけられた気がした。


 次に進む前に、拙著『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評を紹介させていただきたい。 一昨日、卞宰洙さんが書かれ、朝鮮新報に掲載されたものである。ロシア文学、朝鮮文学・詩の研究者である卞宰洙さんに書評を書いていただいたこと、そのこと自体をとても光栄に思う。

 「民衆のパワー」は宗教・民族・国境を、いずれは越えるものであることを信じたい。それは時の権力者や軍が押さえ込もうとしても、いずれは解き放たれる。「エジプト革命」はそのことを教えてくれた。2011年2月11日は、チュニジアとエジプトで解き放たれた「民衆のパワー」が「新しい中東」をつくり、それが「新しいシルクロード」をつくり、新しいアジア、中国、朝鮮半島をつくる歴史的転換点となるかもしれない。そしてその「新しい朝鮮半島」のためには「日米同盟という欺瞞」と「日米安保という虚構」に目覚めた「新しい日本」の出現が欠かせない。

 「道は長く険しい ここから見れば なだらかな坂みたいだが---」
 ロシアの詩人、マヤコフスキーの詩の一節であったと記憶するが、「道」はそれでも続いている。楽観は禁物かもしれない。が、悲観することもない。


 The Electronic Intifada (EI)。私が最も信頼している、英語で読めるパレスチナの情報サイトである。
 このEIに、先月27日、Palestinian students claim right "to participate in shaping of our destiny" が掲載された。パレスチナ学生総連合が、ロンドンのPLOの事務所前で座り込みをし、来年1月に「パレスチナ国民会議」の「直接選挙」を行うことを要求したのである。

 この間のパレスチナ情勢については、ネット上でもさまざまな情報を得ることができるので、それらを参照してほしい。ここで問題にしたいのは、これからのパレスチナ/イスラエル問題の行方を大きく左右するであろう学生・青年たちの運動についてである。
 上の要望文において、ハマス・ファタ・自治政府指導部間の「内ゲバ」にウンザリしきっている学生たちは、分裂を超えて統一したプラットフォームと「戦略」を確定する、難民、移民、亡命者、留学生などをも含めた民主的総選挙の実施を要求している。チュニジアでもエジプトでも「革命」の主役を果したのは青年・学生たちだった。そしてパレスチナでも、それが始まろうとしている。
 イスラエルは、これまでのような暴力的占領政策や入植活動を継続することはできなくなるにちがいない。「ありえない」と思っていたことが、パレスチナでもイスラエルでも本当に起きるかもしれない。

革命は、静かにではあるが確実に、もう始まっているようだ。時代は変わっている。
People Get Ready---Ziggy Marley
・・・・・・・
4月
エジプト軍批判のブロガーに有罪 禁錮3年、軍事法廷
 エジプトの軍事法廷は10日、インターネット上でエジプト軍を侮辱したとして、ブロガーの男性に対し、禁錮3年の有罪判決を言い渡した。国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(RSF)が11日明らかにした。弁護士は付かなかったという。 2月11日のムバラク政権崩壊後、暫定統治に当たる軍は国民の信頼を得ているが、RSFは表現の自由を規制する動きだと批判している。
 AP通信によると、この男性は「人々と軍は一致協力などしていなかった」と題するブログを開き、旧ムバラク政権を長年支えてきた軍の姿勢を疑問視。また交流サイト「フェイスブック」にも軍の権力乱用ぶりを伝える内容を掲載するなどしたとして、3月28日に拘束された。 軍幹部は地元テレビで「意見表明には敬意が必要で、侮辱や中傷があってはならない」と主張した。【カイロ共同】

エジプト軍がデモ隊強制排除、2人死亡 異例の実力行使
 エジプト軍は9日未明、カイロ中心部のタハリール広場に集まっていたデモ隊を強制排除した。ロイター通信は病院関係者の情報として、2人が死亡したと伝えた。軍が実力行使に出るのは異例で、2月のムバラク政権崩壊後、全権を握った軍最高評議会と市民の間で緊張が高まる可能性がある。 広場では8日、ムバラク前大統領と一族の訴追を求める大規模なデモがあった。同通信などによると、9日午前3時ごろ、約300人の兵士が広場を囲み、威嚇射撃などで残っていたデモ参加者の排除に乗り出した。軍側は同通信に対し、実弾の使用を否定している。(朝日・カイロ=松井健)

2011年2月11日金曜日

人道的帝国主義とは何か---「保護する責任」と二一世紀の新世界秩序

人道的帝国主義とは何か---「保護する責任」と二一世紀の新世界秩序

⇒「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」より

 1月のハイチ大地震の1周年にあたり、ハイチや「低開発国」「重債務国」と呼ばれている国々の〈脱植民地化〉のプロセスに対して、巨大な国際人道・開発NGOが果している役割を書こうと考えていた。いわゆるポスト・コロニアル状況と国際NGOとの関係性の問題である。
 非常に大きなテーマなのだが、この問題を考えるヒントを与えてくれる言葉がある。「NGO共和国」という表現がそれである。


NGO共和国

 ハイチがNGO共和国になったという国際人道・開発NGOに対する批判がある。
 たとえば、アルジャジーラが報道した、Haiti 'a republic of NGOs' を観てほしい。記事にはこのようなことが書かれている。A report from Oxfam, one of the major NGOs working in Haiti admitted that international groups often exclude the state in their plans and should do more to work with the government.

 オクスファムは、まだこの事実を認めているだけマシだと私は考えている。圧倒的多数の欧米のNGOは、そして一部の日本のNGOも、NGOというよりは「サービス・デリバリー団体」化し、援助対象国の中央・地方の政府・行政機構、また現地の住民組織(NGOではない)や民衆運動体をバイパスして、一方的な「援助の押し売り」をしている現実がある。なぜか。「人道緊急援助」というのは、今日において、それ自体が巨大なグローバル産業になっているからである。こういう援助産業が、欧米の植民地支配の遺制と遺産を清算し、「自立」しようとしているその最中に海外から「ベイシック・ニーズ」の供給者として次から次に入ってきたらどうなるか? 

 ジャパン・プラットフォームなどは、活動展開の規模で言えば、チッポケな存在でしかない。しかし、やっていること、その結果がもたらしていることは、「NGO共和国」を世界各地につくっている欧米の巨大開発・人道NGOと同じである。しかも問題なのはサイトを見ても、そのことを捉え返そうとする気配が感じられないことだ。捉え返すどころか、年末まで募金とプロジェクトを延長するという。

 「震災からの復旧が遅れているハイチでは、ユニセフが水衛生分野で2011年末まで、IFRCがシェルターで2011年半ばから2011年末まで活動の継続を表明するなど、国際機関は緊急段階の支援が長期に必要なことで一致している。かかる状況下、JPFとして緊急対応期間を2011年末まで延長することが適切だと判断した」?

 まったくのデタラメである。復旧が遅れているのは、国連機関も国際NGOも、互いに競合しあうだけで、全世界から集めた寄付・税金・物品を、効率的・合理的に、現地の「ニーズ」に合わせて配分することをしないからだ。NGO間の何のコーディネーションもない。いわばすべてがバラバラで、「クライアント」の争奪戦・陣地戦を展開し、ハイチの人々を国連機関とNGOの管理・統制下に置き、実態的に支配/統治してしまっているのである。
 60ヶ国以上の国から、1万組織以上の「NGO」が、カリブの「最貧国」ハイチにハエのように群がり、「卵」を産み、寄生することによって実効支配している。ハイチにおいて、国際人道・開発NGOは脱植民地化の阻害物にしかなっていない。現代世界の最もマージナルな国々の、最もマージナルな人々にとって、今では「アラブの王国」を含む「援助大国」・国連・国際NGOは、文字通り「エイリアン」な存在なのである。

 税金を使っている組織体として、JPFを構成するNGOユニットは、たとえばハイチ、あるいはアフガニスタンやイラクにおいて自らが果している、果たしてしまっている役割を、一度きちんと総括し、レポートを公表すべきである。


 「紛争予防」「人間の安全保障」「平和構築」の三位一体神話の解体

 どんなに「貧しい」国だとしても、人々がそこで生きている限り、さまざまな社会的組織体がある。NGOの役割はそれらの社会的組織体を現地の「カウンターパート」としてNGO化することではない。またその社会固有の活動や運動を「プロジェクト」化することもでもない。これらは、NGOとして絶対にしてはならない禁止則である。
 戦後という時間幅で見ると、欧米の「チャリティ」系NGOが、旧植民地宗主国が軍事独裁国家を構築するのを横目でやり過ごしながら、世界各地でこの禁止則を犯してきたことに気づかされる。援助国が軍事独裁を支え、武器輸出のマーケットとし、NGOがその国の内部から社会的組織体の成長を阻害してしまうハイチのような国が「破綻国家」「脆弱国家」として構造的に「自立」できなくなってしまうのは必然である。国家として、また社会として自立する条件を、援助する側が奪ってきたのであるから。

 次から次に「ホットスポット」を目指して組織と財政基盤の拡大をはかるNGOは、目的が手段化し、本来の主役が隷属化し、黒子(くろこ)が主役になってしまっていることを反省しようとしない。活動そのものがビジネス化するにつれて、その傾向はひどくなる一方になる。

2011年2月9日水曜日

在沖米軍のヘリパッド建設問題

在沖米軍のヘリパッド建設問題

 このブログの訪問者の中で、在沖米軍のヘリパッド建設をめぐる緊迫した現地の状況をご存知ない人は琉球朝日放送のこの映像をみていただきたい。また右のサイト下にある記事と映像にも目を通していただきたい。そして友人や知人に情報を広めていただくことを要請したい。

2011年2月7日月曜日

ドル経済の終焉・米国の崩落・壊れる米国の大学

ドル経済の終焉・米国の崩落・壊れる米国の大学


 今年は、2001年の「9.11」から10周年になる。つまり、対テロ戦争勃発10周年の年だ。
 米国の繁栄の象徴でもあった世界貿易センターは、旅客機の突撃によって崩落した。少なくともそういうことになっているし、私たちもそういうことにしている。その米国が、「9.11」から10年を経て、ドル経済の終焉と自らの経済・金融・財政政策の失敗により崩落しようとしている。米国の大学が次から次に壊れてゆくのは、そのことの表れでしかない。

 ドル経済の終焉と米国の崩落に関しては、いまその筋の専門家たちにとっての問いは、これらが「本当に起こるのかどうか」にあるのではない。「いつ起こるのか、どれくらいの打撃を世界経済にもたらすか、打撃を小さくするにはどうすればよいか」にすでに移っている。詳しいことを知りたい人は、証券会社の人間か米国経済の専門家にでも聞いたり、専門書に自分で目を通して欲しい。

 世界のドル経済体制は、近い内に必ずや終焉を迎える。すでに世銀、EU、中国、OPECに日本は「ポスト・ドル体制」をどうするのかを真剣に議論し始めている。しかし、円はもとよりユーロ、元、「オイルマネー」もドルに代わって、単一の通貨として世界経済と貿易を支える力はない。だから米国の国債を買い、為替相場の変動に介入し、米国を崩落させないために「協調」してきたのである。世界金融・信用恐慌がいくら起こっても、1930年代のように恐慌⇒ブロック化⇒ブロック相互の戦争(帝国主義間戦争)へとは「発展」しようがない。

 しかし「協調介入によるドル体制と変動為替相場体制の「安定」の偽装」にも、もう限界がきている。というより、10年前にブッシュが登場した時点ですでに限界を超えていたというのに、ブッシュとグリーンスパンが無策であったことの帰結が3年前の「リーマンショック」となって噴火したのである。
 米国や世界の投資・投機家たちはドルをこぞって売り、手放している。米国から資本を引き上げている。世界各地の観光スポットでは、ドルが歓迎されなくなるのを通り越して、ドルではモノが買えないところが増えている。米国国内でさえ、ドル以外のユーロや円が好まれる店や、連邦政府が発行するドルとは別の「地域通貨」での取り引き活動が登場し、広がっている。

 ともあれ、米国と世界は「リーマンショック」をはるかに凌ぐ大噴火を近い内に目撃することになる。ちょうど1929年に始まる世界大恐慌と同様に、「大地震が来た!」と思っていたものが前兆に過ぎず、本格的な打撃は1930年代に入って直後に来たように。今年の後半から来年が、かなりヤバイ。石油・穀物関連の市場価格の高騰、そこから波状的に拡大する物価全般の高騰。「気象変動」がそれに追い討ちをかける・・・。


 米国の大学が壊れているのは、その規模の大きさを別にすれば、基本的に日本、いや世界中で起こっている現象とまったく同じことが要因になっている。全米46州がデフォルト(債務不履行)宣言寸前の財政状況にある中で、州立大学の「運営費交付金」の大幅カット。連邦政府自体がデフォルト寸前で、州への財政配分を大幅にカットしようとしているのであるから、政府はあてにならない。その結果、授業料が高騰し、正規の教職員が合理化され、非常勤の教職員が膨張している。

 私立大学はますます金持ちしか行けない大学となり、昔はその「セーフティネット」とされた州立大学もそうなりつつある。リーマンショック以降、奨学金の利子の返済ができない学生たちが自己破産し、大学を中退し、ホームレス化するという事態が起こったが、それを克服・解決できない間に米国は、さらに破壊力のある大地震に見舞われようとしている。

 プエルトリコ、あるいはメキシコ、中米などのヒスパニック系移民がテキサスと並んで多いカリフォルニアの州立大学システム(バークレーやLAなど)で学生の運動が先鋭化したのは、以上のようなことが背景にあってのことだった。

2011/2/10


 プエルトリコの「大学教授協会」が学生たちの運動と当局の弾圧に抗議して、一日ストをした(現地時間の水曜)。800ドルの学費値上げに反対した学生のストライキで少なくとも八名の逮捕者が出たとのことだ。⇒ワシントンポストに転載されたAP通信の記事。およそストなどという経験を持たず、闘うことをしない、どこかの国の大学教授よりはよほどリッパである。
 米国の州立大学システムの財政事情については、1月24日のニューヨークタイムズが報じている。注目したいのは、次のような記事の内容だ。

・“The whole thing is kind of scary, for somebody like me who’s paying for college myself,” said Ms. Murphy, who plans to be a teacher. “I turn 20 tomorrow, I’m already in debt, and if tuition goes up again next year, I’ll be in an even worse position.”
・In California, where tuition has been raised by 30 percent in the last two years — and where out-of-state tuition now tops $50,000, about the same as an elite private university — the governor has proposed cutting state support for the University of California by $500 million for the next fiscal year.
・In state after state, tuition and class size are rising, jobs are being eliminated, maintenance is being deferred and the number of nonresident students, who pay higher tuition, is increasing.
・At the University of South Carolina, budget cuts have already pushed tuition to $9,786, more than double what it was a decade ago and well above both the national and regional averages.

 いずれ近いうちに、日本の国公立大学もかならず米国の州立大学と同じような状況に叩き込まれることになる。
 今年から来年にかけて日本列島を襲撃するであろう、ガソリン・灯油・石油関連商品・光熱費・食料品等々の値上げ、新消費税の導入などの大攻勢が「壊れる大学」現象をより一層加速させ、深刻なものにするだろう。これに伴い労働強化と口減らしが起こるだろう。今春季から日本は、一部の儲ける業種は内部留保を拡大させつつ「好況」を迎えつつも、全体としてはデフレ経済からハイパー・スタグフレーション(不況下のインフレ)に徐々に突入してゆくだろう。

 だから、派遣労働者やフリーターの人々は「戦略的防衛体制」に入る必要がある。サラ金には絶対に手を出さぬこと、少しでも貯金と必需品の備蓄をすること、今年に契約解除・解雇がありうることを念頭に置いておくこと、身体と精神の健康を保ち、医者や歯医者にかからないようにすること、「いざ」というときに互いに助け合うネットワークを広げること、未組織労働者を支援する最寄の団体を調べておくこと・・・。

 長いたたかいになりそうだ。 

2011年2月4日金曜日

エジプトのこと、「壊れる米国の大学」のこと、世界社会フォーラム2011のことなど

エジプトのこと、「壊れる米国の大学」のこと、世界社会フォーラム2011のことなど

 この二週間ほど、ブログの読者と同じように、チュニジアに始まり北アフリカ、アラビア半島からさらに世界中に拡大したアラブ・イスラム社会の「民主化」のたたかいに釘付けになっていた。この週末、いや明日にもエジプトのムバラク独裁政権が崩壊するかもしれない。歴史的な出来事に、まさにリアルタイムで立ち会うために、Al Jazeera(英語)のLive Streamでしばらく事態の推移を見守りたいと思う。「壊れる米国の大学」のことや世界社会フォーラム2011のことなどは、順次追って報告したい。

2011/2/7

エジプトのこと

 週末にもムバラクが辞任し、独裁政権が崩壊するかもしれないという予測は裏切られたようだ。報道によれば、新たに副大統領となったスレイマンと反政府側が昨日初めて交渉のテーブルにつき、政府側が大幅な「譲歩」を提案したという。憲法改正、大統領の任期制限、逮捕者の釈放、非常事態法の撤廃なども含まれている。しかし、民衆が要求しているムバラク政権の即時退陣のみは含まれていない。

 反政府側の「穏健派」の取り込みと懐柔、運動の分断・統制がミエミエの「譲歩」は、反政府側にとっては原則的に受け入れられる代物ではない。何をどうするにしても、すべてはムバラク辞任と総辞職が大前提だというのが当初からの一貫した主張であるからだ。
 しかし、現実問題としては、民衆蜂起が13日目に突入し、それでなくとも逼迫している国内経済と困窮を深める市民生活にさらなる打撃を与える結果になっていることは事実であり、みんなかなり疲弊しきっていることはライブ映像を観ていても感じられる。そのなかで政府の「譲歩」の受諾如何をめぐり、もしかしたら運動内部に亀裂が走り、衝突が表面化することもありえるかもしれない。

 死傷者・逮捕者総数は、もう少し事態が落ち着いてから明らかになるだろうが、かなりの数にのぼることがすでに明らかになっている。当事者やその家族としてはそれへの対応もあるし、何より仕事をいつまでも休むわけにはいかない。失業中の者たちにしても、自分や家族がきちんと食べることができるようにすることが先決だ。休養もきちんと取らなければ、たたかいを持続させることはできないからだ。
 その意味では、今回のような大規模におよぶ行動が二週間にもわたり間断なく展開されてきたこと自体が驚異的である。今後の事態の推移は、昨夜の交渉結果がこれから反政府勢力内でどのように検討され、どのような統一的方針がまとめられるかにかかっている、と言えそうだ。

 一方、オバマやクリントンの動き、米国国内の主流メディアの論評、イギリス、フランス、イスラエルの動きなどもブツブツ文句を言いながら聞いたり、読んだりした。しかし、これらを含め何か断定的なことが言える状況にはまだない。事態は依然、流動的だ。もう少し見守ることにしよう。


「壊れる米国の大学」のこと

 これについては、独立ページをつくって整理する必要があると考えている。さしあたり、米国の中の「植民地」、プエルトリコの学生運動が昨年以来高揚していることを、ちょっとした情報として紹介しておこう。
⇒Puerto Rico Student Protests 2010/11(英語)

2011年1月24日月曜日

米国とイギリスの大学の軍事研究とグローバル軍産学複合体、その他

米国とイギリスの大学の軍事研究とグローバル軍産学複合体、その他

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米国とイギリスの大学の軍事研究とグローバル軍産学複合体

 「武器と市民社会」研究会の連続公開セミナー、「「ロボット戦争」はどこに向かうのか?」が先週の土曜日(2011/1/22)に行われた。今回が最後だということで参加するつもりでいたが、どうしても都合で参加することができなかった。(研究会の事務局は、昨日、早速セミナーのレポートを送ってきてくれた。担当者が週末を潰して作成したものである。なかなかできることではない。私は誰よりも事務局の労をねぎらいたいと思う。)以下、ちょっとした情報として、この研究会にも関連することを最初に紹介しておこう。

  「武器と市民社会」研究会は、「2007年5月にNGO関係者や研究者などによって設立された」。「会合開催、研究会メンバー有志による学会でのパネル報告、セミナー企画などを行って」きた。研究会は、無人戦闘・爆撃機やロボット兵器の登場など、対テロ戦争時代における「戦争」と「兵器」の形態変化の中で、これと日本の「市民社会」との関わりを考えようとするプロジェクトである。その中には、当然、「ミッサイル防衛システム」の日本配備、日米共同研究・開発、武器輸出三原則の規制緩和・撤廃問題も含まれる。
 私もまたこの問題意識を共有する者のひとりである。2007年1月に出した拙著『大学を解体せよ』は、まさにそうした状況と時代変化に日本の大学研究が深く関わっているという認識の下に書かれたものである。

 いろいろ詳しい説明を省略して言えば、「武器と市民社会」プロジェクトの問題意識を共有しつつも、私はこのプロジェクトには、日本における軍産学複合体の形成を問うという視点が非常に希薄なのではないか、という思いをずっと抱いてきた。研究会の過去の発言者の中では、唯一「核とミサイル防衛にNO!」キャンペーンの杉原浩司氏がこの問題を提起している程度である。しかし、無人戦闘・爆撃機やロボット兵器の登場、ミサイル防衛システムの日本独自の研究・開発を考える場合、グローバルなレベルにおける軍産学複合体の形成とそこにおける日本の大学研究が果たしている/果そうとしている役割の検討は欠かすことのできないテーマである。

 米国やイギリスにおいて、軍産学複合体を問う運動は広がりつつある。すでにこのブログで紹介してきたものに加え、新たに二つの資料を紹介しておこう。

そのひとつは、International Peace Bureau (IPB) とThe Institute for Policy Studies (IPS) が創設したdemilitarize.org が1月14日に公表したFact Sheet: The Pentagon and the Universitiesである。調査結果の一部を引用してみよう。

・Pentagon support totals $3 billion a year, about 12% of all university-sponsored R & D. The Pentagon also sponsors research at two Federally Funded Research and Development Centres (FFRDC): the MIT Lincoln Laboratory, which receives about $650 million, and the Software Engineering Institute at the Carnegie Mellon University at about $70...All told, Pentagon support for university research totals about $4 billion.

・The top recipients of Pentagon research funds in 2007 were Johns Hopkins University ($511 million), Pennsylvania State University ($172 million), Georgia Institute of Technology ($99 million), Utah State University ($62 million), University of Hawaii ($54 million) Washington ($58 million), and MIT ($53 million).

 調査の記述の中で特に注目したいのは、Apart from direct Pentagon support, many university professors through their consulting business receive funds from corporations, who in turn receive R&D funds from the Department of Defense, which are not reflected in the NSF figure. である。 つまり、ペンタゴンからの直接資金援助という形ではなく、米国の多くの大学教授が「コンサルタント」という活動を通じて企業から助成を受け、その企業がペンタゴン発注の軍事技術の研究・開発を行っている、しかしそれはNSFの統計の中には含まれていない(実際の額はもっと高額になる)、という分析だ。

 もうひとつは、2007年に公表された、オックスフォード大に拠点を置くFellowship of Reconciliation (FoR)と、Campaign Against Arms Trade (CAAT)がまとめたイギリスの大学の軍事研究の実態調査、Study War No More: Military Involvement in UK Universitiesである。その「主な調査結果」は、次の通り。

•between 2001 and 2006, more than 1,900 military projects were conducted in the 26 UK universities covered by the report.
•the total value of these projects to be a minimum of £725 million.
•Out of the 26 UK universities, those conducting the largest number of military projects were, in descending rank order: Cambridge, Loughborough, Oxford, Southampton and University College, London.
•Three powerful multinational companies were involved as the sponsors/ partners of over two-thirds of identified military projects: Rolls Royce, BAE Systems and QinetiQ.

 「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」で述べたように、産軍学複合体は、
①軍事(に転用される)テクノロジーと産業部門の「イノベーション」のための/それに転用されるテクノロジーの境界線が「融合」し、
②その「融合」領域に対して、大学と研究者が自己資金を確保するために能動的に関与することによって形成される。 米国やイギリス、フランス、中国、ロシアにイスラエル等々の核軍事国家においては、軍産学複合体は完璧に制度化されたシステムとして存在するのである。

 こうした核軍事国家の軍産学複合体との日本の軍事産業と大学や独法系研究機関の「連携」や「融合」に対して、「憲法九条があるから日本の大学は軍産学複合体とは無関係である」と考えることは、「「護憲」を貫くことが軍産学複合体の形成を阻む」という考えと同じくらいナイーブであり、無力である。事態は憲法九条問題とは次元の違うところで進展してきた/いるのだ。

 今、非常に重要な研究領域は、上の二つの資料が行ったような実態的な研究調査を日本の軍事産業と東大・京大を筆頭とする日本の大学研究・開発に引き付けて、具体的に行うことだ。その意味において、「武器と市民社会」研究会の「プロジェクト」のスコープはきわめて自己限定的であり、弱点を持っている。


大学研究の可視化と規制

 一昨日の「武器と市民社会」研究会では、「グローバル軍産学複合体の中の東京大学、そして日本の大学(1)」の中で紹介した、国立大学法人千葉大学の副学長が率いる「ロボット工学」研究のことが触れられた。「米軍マネー、日本の研究現場へ 軍事応用視野に助成」という2010年9月8日の朝日新聞の記事をベースにしたものだが、とくに新しい事実の暴露はなかったようだ。去年の記事では、次のようなことが書かれていた。

「大学や研究所など日本の研究現場に米軍から提供される研究資金が近年、増加傾向にあることがわかった。研究に直接助成したり、補助金付きコンテストへの参加を募るなど、提供には様々な形がある。背景には、世界の高度な民生技術を確保し、軍事に応用する米軍の戦略がある。軍服姿の米軍幹部がヘリコプター型の小型無人ロボットを手に取り、開発者の野波健蔵・千葉大副学長(工学部教授)が隣で身ぶりを交えて説明する。そんな様子が動画投稿サイトで公開されている。 米国防総省が資金提供し、インド国立航空宇宙研究所と米陸軍が2008年3月にインドで開いた無人航空ロボット技術の国際大会の一場面だ。

 千葉大チームは「1キロ先の銀行に人質がとらわれ、地上部隊と連係して救出作戦に当たる」というシナリオのもと、自作ロボットで障害物や地雷原、人質やテロリストの把握などの「任務」に挑んだ。入賞はならなかったが、その性能は注目を集めた。参加は、組織委員会に日本の宇宙航空研究開発機構の研究者がおり、出場を誘われたからだという」・・・。

 実は、2008年に開催した「戦争マシーンを止めよう! ~「産軍学複合体」の現実に迫る~」 の準備過程において、「ロボット憲章」を起草しながら上のコンテストに参加した「千葉大チーム」の責任者、野波健蔵氏に講座での発言を依頼したことがある。千葉大の事務局(総務課)を通して行ったその要請は、当然と言えば当然なのだろうが、丁重に断られてしまった。

(つづく)

2011年1月18日火曜日

こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問い詰める・・・

こんなはずじゃなかっただろ? 歴史が僕を問い詰める・・・


 The Blue Heartsの「青空」。『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の「テーマソング」である。歌詞の一節を、「まえがき」の後、本文の冒頭に引用させていただいた。もちろん、著作権料を払ってのことだ。自分の脳の小さなキャパシティではとても処理できない巨大なテーマを追いながら、ときおり激しい頭痛に襲われたときに、この唄を聴くことで精神の均衡を保っていたことを思い出す。

 「こんなはずじゃなかった」ことが、この世界には多すぎる。
 拙著を批評してくださった天木直人氏は、これを一昨年の政権交代に引き付けて理解されたようだ。それも確かにある。確かにあるが、しかし私は「1945年8月15日以後」という、もっと広いスパンでこれを使った。
 私の「戦後」認識は、60年前の1951年9月8日を節目としている。日本が「個別的または集団的自衛の権利」を保有することを認めたサンフランシスコ「平和」条約と旧安保条約を同時に署名したこの日を、憲法九条が死文化した日として理解しているからだ。

 なぜ、憲法九条が1951年9月8日に死文化したか。その憲法解釈上の根拠については拙著を読んでいただくしかない。しかしこの認識にいったん立つなら、「憲法九条を守れ/憲法九条を世界に」という「護憲」派の思想と論理のみならず、「集団的自衛権をめぐる憲法解釈を変更せよ/憲法九条を改廃えよ」と主張してきた「改憲」派の思想と論理のいずれとも与(くみ)し得ないことは明白になる。
 と同時に、「戦後・以後」を20年前の湾岸戦争・以後とするような加藤典洋流の「敗戦後論」、その歴史認識とも袂を分かつことになる。当然のなりゆきとして、日本の言論空間においてそのような「戦後」認識はoutcastになり、私はoutcasteになる。本が売れるはずもない。自分がoutcast/outcasteであることを、どこまで引き受けながらモノが言えるか? 前田朗氏が言う「非国民」になる/ならないというより、これが私個人の人生のテーマである。

 「非国民」と言えば、前田氏と並ぶ「非国民」(?)たる鹿児島大学の木村朗さんから、遅ればせの献本への礼状と年賀の挨拶を兼ねたメールを先週いただいた。木村さんにも「共感をもって読ませていただきました。新しい知見をいただき、感謝しています」と言っていただいたことに大変感謝し、恐縮もしているが、私より年配の木村さんは、次のようなことを書かれていた。

 「今の気持ちは、「暗転する時代状況のなかで自分を見失わずに、戦争犯罪と人権侵害を許さないために、いま出来ること、やるべきことを一つずつやっていくつもりである」ということに尽きます」・・・。私も自分を見失わないようにしたい。
 

 2011年の「世界の学生運動、日本の大学の今」
 因みに、『大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために』の「テーマソング」は加川良の「教訓Ⅰ」だった。

 命はひとつ人生は1回 だから 命を捨てないようにね
 あわてると ついフラフラと「御国のためなの」と言われるとね
 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい

 7年前の国(公)立大学の法人化、その後の私大の「制度改革」が、「御国のためなの」と言われながら行われ、「壊れる大学」を続出させてきたからだが、今年に入っても「世界の学生運動」のうねりは衰えることがなさそうだ。 (今日(1月18日)、ドイツのフライブルグでは300人の学生が学内集会を開き、その内40人が学生センターを占拠した、と伝えられている。)

 世界各地でこれから予定されている運動を紹介している上のサイト。その右上のビデオの中にも出てくるピンクフロイドのAnother Brick in the Wall. 『学校のない社会への招待---〈教育〉という〈制度〉から自由になるために』のテーマソングである。

We don't need no education  教育なんていらない
We dont need no thought control  思想統制なんていらない
No dark sarcasm in the classroom  気分が落ち込む皮肉を授業で聞かされるのはもうまっぴらだ
Teachers leave them kids alone  教師どもよ、子どもたちを解放せよ
Hey! Teachers! Leave them kids alone!  そこの教師どもよ、子どもたちを解放せよ
All in all it's just another brick in the wall.  何もかも
All in all you're just another brick in the wall. 誰も彼も単なる〈壁〉の一塊に過ぎない

 1979年にリリースされたThe Wallでは、Another Brick in the WallはPartⅠからⅢまである。そのⅢには、こんな詩がある。
I don't need no arms around me 武器なんていらない
And I dont need no drugs to calm me. 気を静める/正気を保つために(麻)薬なんていらない
 教育と武器と(麻)薬で〈壁〉はつくられる。教育・軍事・医療-薬剤の三つの産業が世界と人間を支配し、〈壁〉をつくる。世界は教育、兵器、(麻)薬に溢れ、人類は教育、兵器、薬漬け人間にされる。
 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい・・・。

 そのピンクフロイドのギタリスト、デビッド・ギルモアの息子がイギリスの戦没者記念碑の壁によじ登り、国旗を引きちぎって逮捕されたのは先月のことだったが、それにしても気になるのは、相変わらず日本の大学人や学生たちがこの世界的な教育‐大学闘争のうねりのネットワークに参加していないのはなぜか、ということだ。学生や大学人自身によって、情報がもっと伝えられるべきだと思う。

 壊れゆく日本の大学事情の中で、目にとまった記事がある。長周新聞の「独法化で崩壊する下関市大」という昨年11月の記事だ。この新聞の「党派性」が何であれ、下関市大の現状に興味が引かれた。
 記事の執筆者は言う。

①「下関市立大学の場合、市立だからといって下関市から運営交付金をもらっているわけではなかった。2000人に及ぶ学生の授業料・受験料で大学運営のすべてをまかなうという、全国的にも異例な経営事情が以前から問題になっていた。下関に公立大学があり、2000人の学生が学んでいることに対して、下関市には国から毎年約五億円の地方交付税交付金が配分される。30年間で換算すれば150億円にもなる。ところがそのお金は大学運営のために回った試しがなく、市の箱物事業などに消えていった。むしろ2000万円の黒字(授業料・受験料)が出た年には市財源に巻き上げられたことすらあった」・・・。

②「この数年間で下関市立大学への志願者は激減し、国公立で最低水準にまで転落した。2010年度の入試実施状況を見ると、国際商学科でとくに激しく、志願者は141人で前年度(442人)の3分の1まで減った。そのうち実際の受験者は126人。定員は60人だが、80~90人程度を合格させることから実質倍率は1・5を切っており、ほぼ全入に近い。
 その要因として語られるのが学費の大幅な値上げだった。来年度の初年度納入分は91万8000円。授業料は年年値上げされ来年度は53万5800円で、4年前と比べて6万円以上もアップする。全国平均よりも約2万5000円程度安かった魅力が薄れたことで「庶民の大学」とは縁遠い存在と映り、優秀な苦学生たちが敬遠し始めたと指摘されている。

 利潤を得るためにてっとり早く学費を上げた結果、学生が集まらない。そこで受験者の数を増やすために基礎学力がなくても入学できるよう、入試では推薦枠を拡大して面接だけで通す「固定客」を確保したり、受験生の苦手な科目は選択しなくても合格できるような制度を取り入れてきた。
 このため、英語や数学が中学生程度の学力がなくても、また高校で日本史や世界史を学んでこなくても入学でき、大学の語学、経営学や東アジア史の授業をきょとんとした表情で受ける学生が多く存在するようになっているという。「学生がまったく本を読まない」「漢字が読めない」「琵琶湖の位置を岡山県とこたえる学生がいた」など学力の問題が危惧されてきた。低学力の学生の補習を制度として確立することが真剣に論じられ、通常の試験でも合格できるように、ノートなどの「持ち込み方式」をとり入れるようになった」・・・。

③「独法化と同時に報酬1600万円の「理事長」ポストが新設され、そこに江島前市長のブレーンだった松藤水道局長が退職後スライドして天下り。さらに植田市大事務局長が退職して事務局長(兼理事)にも就いた。かれらが学長をしのぐ権力者となって采配を振るうようになったことが、大学の空気を様変わりさせた。教授会との鋭い対立の激化となって、処分や反駁、訴訟沙汰の応酬が始まった。

「理事長」と「学長」が分離され、学長は銀行関係者など外部も交えた理事会の一理事となった。国公立大学において大学トップの「理事長」と「学長」は同一人物が兼務するのがほとんどで、わざわざ1600万円を与えて「理事長」を据える大学も稀である。理事長になると1年ごとに100万円の退職金が加算されていく仕組みにもなった。

 独法化直前、学長選挙で教授会が投票で選出した候補者が理事によって拒否されたのを皮切りに、安倍(元首相)代理の江島市政側すなわち政治が手を突っ込むのとセットで、つぎつぎと教授会の権限がなくなる過程をたどった。経営審議会と教育研究審議会という2つの組織でことが決まり、トップダウン方式で押しつけられるようになったのも特徴だ。現場での予算配分を一手に請け負う事務局長の権限が絶大となり、教授会は事務局が提起する方針を単に受諾する機関に成り下がったこと、反発する教授への処罰や事務職員の降格、丸坊主にさせたりといったことが日常茶飯事でまるで田舎ヤクザが人を脅すような手法が持ち込まれたと指摘されている」・・・。

 青くなって尻込みなさい 逃げなさい 隠れなさい・・・。 
 下関市の行政が、公的サーヴィスを次から次に切り捨ててきた行政、市長以下の職員の給与アップと「箱物」‐公共事業を第一に考える「市民不在」の代物であることは、以前から指摘されてきたことであるし、私自身も知っていた。そうした地方自治体主体の「公立大学」経営が抱える問題とその矛盾を下関市大が最も集約的に表現している、ということだろう。
 ではその他の「公立大学」は今どうなっていて、教職員や学生たちはいったい何をしているのだろう。

 世界の国々は「超」がつく緊縮財政の中、公教育と大学教育の「受益者負担」を高騰させ、これに対して「世界の学生運動」は怒っている。ところが、「超」がつく「就職氷河期」の中で、日本の受験生や学生たちは、怒ることをせず「内向」し、自己防衛に走っている。就職先が決まらない学生たちは、ある者たちは「保護者」の金を目当てに、またある者たちは借金をしてまで専門学校に通い、来年のセカンド・チャンスに未来を託そうとしている。また、受験生たちは文系よりは理系に、首都圏や京阪神よりは地元に、資格取得と就職を第一に考え大学を選択する傾向を強めているという。そしてそういう学生や受験生たちを、大学と行政が一体となり「ケア」する態勢が構築されるようになっているという。

 けれども、そういう学生や受験生、「保護者」に納税者が決して自問しようとしないのは、「そこまでして大学に行くことに本当に価値があるのかどうか」という問いである。いや、多くの人々は実は自問し始めているにもかかわらず、エリート主義の牙城であるこの国のメディアがそれを取りあげず、「大学ボッタクリシステム」を温存させる役割を担っているだけなのかもしれないが、いずれにせよ確実に言えることは、日本の学生・受験生のサバイバルをかけた営みが既存の教育・大学制度の在り方を問うものには、いまだなっていないことである。

 『大学を解体せよ』の「知識社会の教育社会学」の中で、私は「教育の社会的資本の過剰」を論じているが、階層化された社会的資格を取得し、それをもって就職するために大学なんていう制度はいらないのだ。人間が自分の人生の進路をじっくり考え、そのために準備することができる「モラトリアム」の時代を人生の間に数回、数年単位で持たねばならないと私は考えているが、その「場」が今の「大学」「大学院」「専門学校」であらねばならない必然性は何もない。大学をはじめとする教育産業という〈壁〉こそが、私たちを生き急ぐ、病んだ動物にしているのである。 


 で、改造菅内閣は「普天間問題」をどうするのか?
 人気が凋落し、倒壊寸前の政府にとって「最良」の政策は、「何もしない」という最悪の選択である。時間を潰し、問題を先送りしている間に、ある政策をめぐる「民意」の関心が薄れたり、意見が変わるのを待つ、という「戦略」である。
 菅内閣は、すでに「普天間問題」を当面(最長3年程度?)棚上げにする合意を米国と交わし、3月の日米首脳会談における「日米同盟の深化」のための日米共同宣言の内容をめぐる調整に入っている。その一方で、日米両政府は、在沖米軍基地の新たな「負担軽減策」として、嘉手納基地のF15戦闘機訓練の県外移転先を、グアムまで含めることで基本合意した。

 これに対し、「パッケージ論 実効性のない空論やめよ」と題された1月16日付けの琉球新報の論説は、とてもまっとうな事を述べている。曰く、

①「普天間飛行場を県内移設しなければグアムへの訓練移転はない、という論法は典型的なアメとムチではないか」
②「これまで日米合意は(1)普天間飛行場の移設(2)海兵隊のグアム移転(3)嘉手納より南の基地返還―がパッケージと説明されてきた。F15訓練のグアム移転をその対象に追加することは、ゲームのルールを変えることに等しい。一方の当事者である日本政府は、ルール変更に異議を挟む場面ではないか」
③「米国の言いなりになってゲームを続けるのなら、最初から勝負はついているようなものだ。そもそもグアムへのF15訓練移転が負担軽減につながるというのは、現状を見れば空論にすぎない」
④「県や名護市が反対する名護市辺野古崎への移設は現実的ではない。海兵隊の「抑止力」と同様に、パッケージ論は破綻している。無効にすべき代物だ。
⑤「非現実的な日米合意を盾に、県内移設を押し付ける民主党政権は滑稽(こっけい)ですらある。日米両政府こそ現実を直視すべきだ」。

 「まったく、その通り」と言うほかない。
 また、沖縄タイムスの15日付の「日米合意推進を懸念 名護市長 方針変更望めず」という記事では、稲嶺進名護市長が、改造内閣において内閣官房長官と沖縄担当相が兼務されることなどについて、「首相が日米合意を踏襲すると言っているなかでは方針は変わらないし、表だけ沖縄を大切にすると言っても中身が変わらなければ前には進まない」と述べたことが報じられている。

 「日米合意の見直し」が「世論」の多数派の意思であるというのに、「普天間問題」解決のなし崩し的な引き延ばしと、沖縄との合意なき「パッケージ」が米国主導で行われていることに対し、「本土」のジャーナリズムはこれらを正面から取り上げず、沈黙を決め込んでいる。「本土」の私たちが、「無情報」という情報操作によってまた騙されてしまうことがあったとしても、沖縄の人々は二度とそうなることはないだろう。

 朝日新聞が行った先月の世論調査。全国3000人の有権者を対象に4、5日に行われ、回答率は67%だったという。結果は以下のようなものだった。
・昨年5月の日米合意について。
 「見直して米国と再交渉する」が59%、「そのまま進める」は30%。
・支持政党別の結果。
 民主支持層の61%、無党派層の62%が「見直し」、自民支持層では「見直し」が47%だったが、「そのまま進める」の41%を上回った。
・「日米合意を見直す」と答えた人への「どうしたらよいと思うか」という質問。三つの選択肢から選らばれた。
 「国外に移設する」が51%、「沖縄県以外の国内」が32%、「沖縄県内の別の場所」が12%。
・沖縄に米軍の基地や施設が集中している現状について。
 「おかしい」48%、「やむを得ない」45%。
・「おかしい」という人のなかでは、日米合意を「見直して米国と再交渉する」と答えた人が76%、「やむを得ない」という人のなかでも、「そのまま進める」と「見直し」がそれぞれ45%と46%。
・沖縄の米軍基地などを整理縮小するため、一部を国内の他の地域に移すことについて。
 「賛成」57%、「反対」28%。

 民主党支持者の6割以上が「見直して再交渉すべし」と回答しているのに、菅政権はその民意に応えようとしない。また自民支持層にも半数近くが「見直し」派であるのに、自民はその民意を汲み取ろうとしない。既存の政党政治の枠組では日米合意の見直し、米国との再交渉さえできない、ということになる。
 問題はめぐりめぐって、「民意を反映しない「議会制民主主義」を、私たちがいつまで容認し続けるのか?」、ここに行き着くことになる。

2011年1月3日月曜日

2011年の始まりに---「戦後」批判の精神を継承する

2011年の始まりに---「戦後」批判の精神を継承する

 去年以上に慌しくなりそうな年が始まった。多忙な中、わざわざブログを訪問して下さったみなさんに、新年の挨拶を送りたい。


 年賀状の中に、一通の封書がまぎれていた。『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(講談社現代新書)の著者、孫崎享さんからの手紙だった。
 孫崎さんは、拙著『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』を「労作」と評価し、出版を祝してくださった。そして、拙著で示した論点や「データ」などを「多くの人々に紹介し」、日米同盟や安保について人々が「正しい認識が持てるように努力したい」とまで書いてくださっていた。とても、ありがたいことである。

 孫崎さんも天木さんも、ともに外務省出身である。もちろん考え方に違いはあるだろうが、両氏に共通しているのは、小泉政権の時代に「世界の中の日米同盟」路線の下で進展した日米安保体制の再編に対する批判である。その両氏と私は、政府がとるべき安保・外交・防衛政策に関する見解や、考え方そのものに大きな違いがある。だからこそ私は、両氏から拙著に対する多大な評価をいただいたことを、とても嬉しく思うのである。
 と同時に、孫崎さんの手紙を読みながら私は、「現役の外務・防衛官僚(や国会議員)がこの本を読んだとしたら、どんな印象を持つだろう?」と、ちょっと考え込んでしまった。安保・外交を専門とする元官僚の人々が、それなりの論を提出していると評価する本を、現役の外務・防衛官僚ならどのように読むだろうか、そんな好奇心が湧いたのである。

 定年退官しても、中途で辞めたとしても、孫崎・天木両氏のように既存の政府批判を主張する、それができる元官僚は稀である。もっとも、現官僚の立場から言えば、組織を離れてしまった者が、組織の外部から何を言おうと、いちいち取り合っている精神的・時間的・立場的余裕など無いのは一般企業や政党組織と同じ、ということになるのだろう。 とりわけ官僚機構の場合には、いくら過去の政策や現在の政策が誤っていると批判され、そこに理を認めたとしても、一般企業や政党組織などより、組織全体の中に「官僚の無謬性神話」によって武装された/自縄自縛状態になった「前例主義」が「慣性の法則」となって強烈に作用しているのであるから、個人が個人としてなしうることにも限界があるだろう。まして、その組織の中で生き延びてゆくことを考える人々にとっては、なおさらのことだ。しかし個人としての限界があるとしても、何もできないということはないはずである。

 この正月、菅政権は「日米同盟の深化」なるものを巡り、三月にオバマ政権と「共同声明」を発表することを明らかにし、前原外相は「日韓同盟」云々を語り始めた。だから私は、孫崎・天木両氏のような元官僚の人々には、現役の官僚が官僚機構内部で、「世界の中の日米同盟」路線の下で進展した日米安保体制の再編、その政策的誤り(「政策」と呼べるものの不在)から何をどう総括し、個人として何をどうすべきなのか、そのことを積極的に発言していただきたい、と思っている。私としては、これからの両氏の発言に注目しながらも、『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』を出発点とし、現政権の諸策に対する私なりの主張、批判を述べてゆきたいと考えている。

 知人の、とある大学教授は「文部官僚にとって、一介の大学教授など鼻クソのような存在に過ぎない」と、右手の親指と人差し指で輪を作り、「ピン!」とはじく仕草までして語ったことがあるが、大学教授が鼻クソに過ぎないなら、私などはさしずめ、ハウスダストのような存在に過ぎないことになる。サイバー空間に浮遊する、しかしモノを言う「ハウスダスト」ならぬ「サイバーダスト」として、今年もここから発信してゆくつもりである。
 

「戦後」批判の精神を継承する、ということ

 安部公房と並んで、私の好きな小説家に高橋たか子という作家がいる。
 正確な表現は忘れたが、その高橋たか子が昔、内容としては「戦後文学を継承する」という意味のことを言ったことがある。私が理解していた彼女の作風や文体からは、とても意外な表現に思えたので記憶に強く残っているのだと思う。

 高橋たか子は、1932年生まれである。だから、戦争体験や戦後体験を作品化した「戦後文学」の第一世代とは、一世代以上年が離れている。その彼女が、「戦後文学を継承する」と言うその意味が、私にはよくわからなかったし今でもわかったとは言えない。それでも、わずかながら自分が書いたものを世に問うてきた人間として、「もしかしたら、こういうことなのではないか」と思うことがある。
 自分が不特定多数の「読者」を想定しながら、ものを書き、発言しようとするとき、私の中にはすでに何人かの人々が存在し、その人々のことをどこかしら自分が意識していることに気づくことがある。とは言っても、私が意識するのは特定の世代の人々や特定の思想ではない。彼/彼女らが「戦後」という時代に向き合ってきたその精神、「戦後」を批判的に論じたり、表現しようとしたその精神に感応するのだ。私は「昭和30年代生まれ」の一人として、未完の「戦後」批判の精神を継承するのである。2011/1/4

2011/1/8

 未完の「戦後」批判の精神を継承する、とはどういうことか。
 私は「日米同盟という欺瞞」や「日米安保という虚構」を既定の事実のように語り、流布する政治的言説のすべてに冷たい敵意のようなものを感じてきた。しかし敵意や憎悪という否定的情念だけでは一冊の本を書ききろうとするまでの原動力にはなりえない。私を執筆に駆り立てたのは、私がものを書き、発言しようとするときに私の中に存在する者たちがその「欺瞞」や「虚構」を捉えきっていないと思え、そのことを伝えなければならないと考えたからである。

 ここで言う「人々」の中には、たとえば作家/評論家で言えば大江健三郎や故江藤淳、加藤典洋という人もいる。丸山真男や吉本隆明という名前をあげてもよい。護憲論者もいれば改憲論者もいるし、「論憲・加憲」論者もいる。政党で言えば、日本共産党や旧日本社会党、さらには新左翼の党派を代表していた論客もいるだろう。
 およそこれらの人々は、特定の世代や思想の下に括ることは不可能な人々だ。私はこれらの人々が書いてきたものや発言に、意識する・しないにかかわらず強い影響を受けてきた。しかし、私にとっての問題は、これらの人々による「戦後」批判がきわめて不十分なものに終わっているか、誤っているということにある。そのことを日米同盟論や日米安保論に引き付けて示そうとしたのが『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』だったのである。

 特定の誰か、特定の政治組織を批判することは私の問題意識にはない。自分が生きてきた「戦後」という時代への批判に対する批判的検証を通じ、「戦後」批判を試みようとした者たちの精神を継承すると同時に、未完の「戦後」批判を継続してゆかねばならないと考えている。サンフランシスコ平和条約と旧安保条約の締結から60周年を迎える今年、今まで以上にそのことを意識化しなければならない、そう思っているのである。


 サンフランシスコ-安保体制を問う、ということ

 未完の「戦後」批判を継続する、とはどういうことか。それはたとえば、次のようなことである。
 琉球新報は、1月8日付の電子版、「講和条約説明を是正 歴史民俗博物館」という記事の中で、国立歴史民俗博物館(歴博、佐倉市、平川南館長)が、現代展のパネル展示「米軍基地と戦後沖縄」の中の、サンフランシスコ講和(平和)条約の解説文を是正し、5日からその公開を始めたことを報じている。

 これは、元の解説文では「沖縄の占領継続は日米両国の政治的外交過程を経てサンフランシスコ講和条約第3条によって決定された」となっていたのを、同条約で予定された国連の信託統治を米国が提案せぬまま、軍事占領を続けたとする解説文に改めたというものである。琉球大学の高嶋伸欣名誉教授らが「基本的事実に反した説明」と、昨年4月に是正を求める要望を提出し、それに歴博が対応したという。

 言うまでもないことだが、沖縄の占領継続を「サンフランシスコ講和条約第3条によって決定された」とする歴史認識は、「同条約で予定された国連の信託統治を米国が提案せぬまま、軍事占領を続けた」とする歴史的事実を歪曲し、沖縄の占領継続が何かしら国際条約的に正当化されたものであったかのような誤った歴史観を植えつけてしまう。
 つまり、この条約によって敗戦後の占領統治を終了し、「主権」と「独立」を回復したとされてきた「戦後」に関する誤った歴史認識のみならず、「軍事占領を続けた」米国という国家とそれを容認/黙認した日本という国家の両方に対する誤った認識を正当化し、固定化してしまうのだ。

 琉球新報によれば、高嶋名誉教授は次のように語っている。
 「この提案が実行されていれば、米国は国連憲章や世界人権宣言下で沖縄の人々を虫けら扱いできなかった。しかし、72年の施政権返還まで米軍は沖縄で人権侵害の限りを尽くしてきた」・・・。
 「3条後半の、提案が可決されるまでの軍事占領を認めるとした暫定措置の規定を米国が悪用したばかりか、国連への提案期限が明示されていない異例の条約だった」・・・。

 日本政府はこの条約の締結を正当化するために、条約と史実に基づかない誤った条約観を戦後教育において流布し、私たちはそれを学んできた。だから私たちは、もう一度「講和」条約の内容とその解釈に立ち返り、「「戦後」を考え直す」という作業がここでも問われていることになる。
 一方、この「講和」条約を、たとえば旧社会党や丸山真男などの戦後知識人がどのように捉え、どのように賛成/反対し、その後の「反戦・平和」運動にどのような思想上の遺恨をもたらしたのか。そのことの批判的検討を含む〈総括〉が、今を生きる私たち自身にも突きつけられている。

 右翼/左翼、保守/革新、改憲/護憲の立場から「戦後」を批判してきた者たちと、その彼/彼女らの言説に埋め込まれていた誤謬。誤謬はあまりに多く、その根はあまりに深い。
 たとえば、「講和」条約に対して、「全面講和か、それとも片面講和か」といった観点から議論を立てたヤマトの右翼/左翼、保守/革新、改憲/護憲論者の言説には、琉球に対する米国の占領継続、「北方領土」に対する旧ソ連の実効支配、要するにヤマトの「辺境」-先住・少数民族問題を切り捨てた、という共通の陥穽がある。それはヤマト/倭人の知識人が戦前からそっくりそのまま引き継いだ陥穽だった。

 私は自分が生きてきた時代について知らないことがあまりに多い。未完の「戦後」批判を継続することは、そのような戦後知識人の「陥穽」から決して自由ではない自分の「戦後」認識を洗いなおす作業にもなるはずだ。

2010年の「パレット」から

2010年の「パレット」から

『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』
『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』のご案内と著者自身による広告
日米安保と琉球の自治

「国際協力・平和構築・NGO」
「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」
国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
対テロ戦争と自衛隊のアフガニスタン「派遣」--民主党のアフガン政策を批判する
12/11シンポジウム
「平和構築」は平和を創造するか?~「平和構築」とNGOの役割~

NGOのシンポジウムに自衛隊員が参加した日

「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」
大学の「脱植民地化」--「大学の自治」再考
世界の学生運動、日本の大学の今
続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために 
最近、考えさせられたこと---①「大学教授は教育労働者」か? その他
大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について
グローバル軍産学複合体の中の東京大学、そして日本の大学(1)
武器輸出三原則緩和と軍産学複合体・資料(1)
1960年代の日本の大学の軍事研究

2010年の終わりに---こんな世界、日本に誰がした

2010年12月29日水曜日

2010年の終わりに---こんな世界、日本に誰がした

2010年の終わりに---こんな世界、日本に誰がした


 大田昌秀元沖縄県知事から、『こんな沖縄に誰がした』(同時代社、2010)を贈っていただいた。サブタイトルは、「普天間移設問題--最善・最短の解決策」。先週、遅ればせながら『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』を贈呈させていただいたのだが、わざわざ手紙まで添えて、その「お返し」をして下さったのである。深謝。
 『こんな沖縄に誰がした』の帯にはこう書かれている。「日米両政府合作によってつくられた現実を、無視しつづける鉄面皮はもう許されない。海外移設への具体的道を提示する!」 続けて、大田さんは言う。「私は泣き言をいうのではない。事態が何に起因するかを明かし、解決への道を提起したいのだ。」

 沖縄・核密約の真実を暴き、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(新装版、文藝春秋、2009)を著した若泉敬は、核付き・基地付きのまま「返還」された沖縄の現実を変えることのできない/その意思さえ持たない日本政府、そして日本社会を「愚者の楽園 Fool’s Paradise」 と呼んだ。であるなら、愚者=fool=バカの楽園とは、大田さんの言う鉄面皮の楽園、ということになる。私たちは、気が滅入るような「楽園」に住んでいるらしい。

 私たちの多くは、さしあたり、菅首相、民主党、この国の現内閣を「愚者の楽園」に生きる鉄面皮集団、と定義することに異論はないだろう。しかし、こと沖縄・普天間問題に関して言えば、私たちもまた愚者であり、鉄面皮の人間であることを認めざるをえない。その上でこれから、「で、私たちは沖縄・普天間問題をどうするのか?」をそれぞれがそれぞれの場で考える以外に道はなさそうだ。「こんな沖縄」にしたのは私たち自身でもあるからである。
 

 『出版ニュース』という出版業界の業界誌がある。その「2011年1月上中合併号」の「ブックガイド」に拙著が紹介されている。昨日、新評論よりコピーを送っていただいた。日本の新刊出版数は、年間ざっと8万冊程度。毎日200冊以上が出版される計算だ。その内、『出版ニュース』に掲載される本はごくごくわずかになるはずだから、とても名誉なことだ。
 「ブックガイド」には拙著を含め14冊の新刊が紹介されている。長倉洋海氏の『私のフォト・ジャーナリズム』(平凡社)、山田朗氏の『これだけは知っておきたい 日露戦争の真実』(高文研)、阪口修平編著『歴史と軍隊』(創元社)などが並んでいる。なかでも目がとまったのは、『中世の知識と権力』(マルティン・キンツィガー著、井本 晌二・鈴木麻衣子訳、法政大学出版局)だった。

 『中世の知識と権力』の目次にある、「13 大学における古いものと新しいもの」「14 知識を巡る争い」「15 王の知識と貴族の教養」、そして「あとがき 知識社会における教養、知識、権力」が関心をひいた。これらはそっくりそのまま、いまの日本社会と大学の問題にひきつけて、大学人のみならず私たち自身が問わねばならないテーマだからである。もっとも、「王の知識と貴族の教養」は「官僚(や官僚出身の政治家)の知識と市井の人間の教養」に書き換えなければならないが、文科省が「知識基盤社会」と言う現代日本における「教養、知識、権力」の関係に、私ももっと自覚的であらねばならないと思った。

 「大学における古いものと新しいもの」「知識を巡る争い」。この表現に触れて、思い出したことがある。一昨日、首都圏のとある国立大学法人に助手として勤める友人と行った忘年会での話である。
 
12/31/2010

 生々しい話を抽象的に語るのは難しい。
 要するに、国立大学法人の助手になったところで、それで大学人としての将来が保障されるわけでは決してない、という話が一つである。そして、助手にも常勤と非常勤があって、非常勤講師というのは授業のコマを担当するだけだが、助手の方は常勤も非常勤も、院生の論文アドバイスをはじめとした「ティーチング・アシスタント」の仕事もする。事実上、院生の「ケア」をしているのは教授や助教よりも、助手の方だということになる。院生や助手を教授の「奴隷」とする、いわゆる昔の講座制の悪い因習というのが今でも厳として生きていて、その皺寄せを大学人位階制の最下層の助手が蒙り、犠牲になっている、というのが二点目である。

 もちろん、大学人として生きてゆこうとする人の多くは、自ら率先して「奴隷」になったし、今でもそうだろう。そういう人々も私は知っている。しかし今では「奴隷」になったとしても、未来が保障されるわけではない。そこが決定的に変わってきているのだ。
 その一方で、論文を書かず、およそ「業績」と呼べるものを持たない人間が国立大学法人の教授職にのさばっている現実がある。私立大学の場合には、その数はもっと増えるに違いない。私は論文を一本しか書いていない人間が東京大学法人の教授職に就いていることを知っているので、そういうことを聞いても、とりたたて驚きはしない。アカデミズムの世界も、それ固有の「ポリティクス」というものがあり、その世界でうまく立ち回れる人間が権勢を振るうようになるのは、一般企業や現実政治の世界と何ら変わらない。それを「アンフェアー」と言う方が、むしろナイーブ過ぎるという謗りを受けることになる。
 しかしそうだとしても、常勤はともかく非常勤の助手までが院生の論文アドバイザーとしての仕事を負わされている現実は、どう考えても腑に落ちなかった。そこまでさせるなら常勤として雇用すべきであるし、そういう不安定な立場にある者の指導を受けている院生の立場から言ってもそうだろう。実際、それは国立大学法人への運営費交付金の減少云々の問題に解消されてよい問題ではない。現行の国立大学法人の給与体系を少し改善するだけで処理できる問題なのだ。

 たとえば、ここに「国立大学法人東京大学の役職員の報酬・給与等について」がある。他の国立大学法人の総長/学長以下の「役職員の報酬・給与等」も各大学ごとの規程がある。その額は、東大を頂点とするピラミッドを形成しているのだが、東大の「役員」にも文科省の天下り官僚がいて、年収2000万近くの報酬を得ていることがわかる。これと同様の現象が日本全国の国公私立大学にみられるのである。

 大学の正規の「役職員」は、キャリア官僚および公務員と同様の、さまざまな「手当」によって厚遇されている。 東大総長であれば「教育研究連携手当」だけで232万円、ある理事は「副学長手当」と「教育研究連携手当」で300万円の報酬を得ている。「非常勤」の役員は、それだけで年間300万から400万円の所得を保障されている。だから、
①大学天下り官僚を廃絶し、
②役員や教授以下の正規の教員のみならず、職員の「手当」の在りかた、その額の妥当性如何をめぐる全学的な「事業仕分け」をして「無駄」をカットし、
③「ワークシェアリング」と「サラリーシェアリング」を進めるだけで、
「不当労働」を強制されている非常勤助手・講師・職員の常勤化はかなり程度保障できるのだ。東大や各大学の当局は「財政の窮状」を一般学生や「保護者」/納税者に訴える前に、やるべきことが山程あると言わねばならないだろう。

 私は『大学を解体せよ』の中で「大学の経済学」を経済学すること、「大学の経営学」を経営学することが、大学で学ばされている経済学や経営学を学んだり、今年ブームとなったドラッカーなんかを読むことより、はるかに世界経済と日本経済の現実を学ぶことになると書いたが、そのことを改めて学部生・院生や非常勤助手・講師・職員、このブログの読者に問題提起をしておきたいと思う。


 私のごく身近に、現役の大学生が二人いる。一人は都内のとある私大文系の三年生で、すでに「就活」に入っているが、何の展望もない。もう一人は、中部地方のとある国立大学法人で「臨床看護師」をめざす二回生だが、大学院に進学するかどうか/そのための態勢に入るかどうかで悩んでいる。
 この二人の同世代には、昨春、とある関西の国立大学法人・文系を卒業しつつも就職できず、家庭教師と予備校でのバイトで食いつなぎながら、未だ就職先がみつからず、来年以降も「フリーター」確定の者や、都内の私大文系卒業後、一旦就職し、専門学校に通いながら、とある官僚機構にもぐりこんだ者、さらには高校時代から不登校となり、「職業としての引きこもり」人生を送っている者たちがいる。
 
 大学に進学した者たち全員に共通しているのは、学生時代の無利子・有利子の「奨学金」を自分の「負債」として抱え込んでいることだ。知人の中には800万円近い「負債」を抱えたまま、とある国立大学法人の契約研究員になった人もいるが、上に述べた子ども、いや成人になった者たちは、無事に就職できたとしてもできなかったとしても、これからの人生で多額の借金を抱え込み、社会人としての出発点が借金返済人生の始まりとなる。何かがどこかで、決定的に間違っている、とは思わないだろうか? 

 何かがどこかで、決定的に間違っていると思っても思わなくても、私たちすべてが直面している現実は、米国経済は2014年まで回復の兆しはみられないということ、そしてこれに引きずられる形で、ギリシャ・アイルランドに続くEU圏のデフォルト危機がさらに進行し、世界経済のみならず日本経済も波乱含みのこれからの数年を迎えることである。

 ちょうど一年前、政権交代後の民主党のブレや迷走ぶりを訝り、「こんなはずじゃなかっただろ?」と感じていた〈私たち〉の思いは、今では「やっぱりこうなってしまった」に変わってしまった。
 けれども、政権交代への支持/不支持/無関心を超えて、ここでも私たちすべてが直面している現実は、世界や日本がどうなろうと、そのことに誰も責任を取ろうとしないこと、そして現政権が違う政権に変わったところで、既成の政党政治の枠組みでは、何も変わらないであろうことも完全に予測可能になっていることである。

 そんな中で、日本の官僚機構とキャリア官僚は、巻き返し戦略が功を奏し、着実にその権力構造と特権構造の保持に勝利しつつある。
 たとえば、毎日新聞は一昨日、仙谷由人官房長官が、各府省事務次官に年末訓示を首相官邸で行い、「(政務三役会議から)事務方を排除して意思疎通が図られないのはいけない。決定事項が円滑に連絡され速やかに実行されるよう、次官、官房長が出席、陪席するように」と述べ、政務三役会議に出席するよう指示した」と報じた。「政治主導」を掲げ、事務次官会議を廃止し、政務三役会議を各府省の最高意思決定機関としてきたことを翻しての決定である。しかも仙谷自身、去年の12月には、民間企業で社長や労務担当重役以外に、事務トップがいる組織は見たことがない。組織をちゃんと営むには、常識的な格好がある」と次官ポストの廃止を表明していたにもかかわらず、である。

 毎日新聞によれば、訓示で仙谷は、「政治主導とは決して事務方が萎縮したり、汗をかかず政治に丸投げすることではない。適切に役割分担し緊密な情報共有、意思疎通を図り、国家国民のために一丸で取り組むことだ」と強調し、「官邸にも速やかに必要な情報が伝わるよう、事務方間の連絡体制を整える必要がある」と求めたということだ。

 一方、読売新聞の昨日付け電子版は、「キャリア優位変わらず、室長以上昇進の過半数に」と題された記事の中で、「2009年度に各府省で室長以上に昇進した国家公務員のうち、1種採用のいわゆるキャリア職員が全体の半分以上を占めていることが、総務省のまとめでわかった。政府は09年3月に国家公務員の能力・実績主義を徹底するとする基本方針を閣議決定したが、キャリア優位の傾向が依然強いことを裏付けた」と書いている。

 この「基本方針」なるものは、「職員の採用年次や採用試験の種類にとらわれない人事管理」を行うとし、能力次第で慣行にとらわれない早期昇任や2段階以上上位の官職へ昇任する「飛び級」も可能とするものだった。しかし実態は、「09年度に室長以上になった450人の職員のうち、キャリアは249人で、昇進までにかかる時間も、キャリアが10年程度短かった。課長以上では、8割以上をキャリアが占めていた」のである。

 政治家や政党と同様に、日本の官僚機構は政策展開(「法の運用」)において失敗しても、いっさい責任を取ることはない。日本国憲法には、そもそも「政党」に関する条項など存在しない。また、官僚がつくった日本の法体系は、政策の失敗ごときで責任を取るなどということからキャリア官僚を頂点とする国家・地方公務員を徹底的に防衛しているのである。

 もしも私たちが、「こんな日本に誰がした」と問うのであれば、たとえ世界や日本がどうなろうと、誰も、何も責任を取らずして涼しい顔をして権力を濫用し、特権を貪る日本の政党政治と官僚制度を成り立たせている、その「法源」を突き止める必要がある。自民党にしろ民主党にしろ、なぜその改正や廃止をしようとしない/できないのかを考えてみることである。そしてそれら法体系の「構造改革」を未来における政治のアジェンダとするムーブメントを起こす以外に道はないのである。
 昨日私は、とある出版社の編集者と今年最後の忘年会をしたが、そういう書を世に問うことで意見の一致をみた。その書の内容と構成を考えることと構想中の新本の原稿着手が、新年からの私の仕事になるはずである。

 最後に、このブログを訪問し、書きなぐりの文章に目を通して下っているみなさんに感謝したい。
 良い新年を迎えられんことを。

2010年12月22日水曜日

大学の「脱植民地化」---「大学の自治」再考

大学の「脱植民地化」---「大学の自治」再考


 『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の中で、「霞が関イリュージョン」という表現を使った。ある「公共政策」の立案や、その政策に関連する立法・行政措置において、官僚機構は「霞が関文学」を駆使し、その政策に秘められている本当の目的を見えにくくし、「国民」の目を欺こうとする。そのマヤカシを「霞が関イリュージョン」と名づけたのである。

 私たちは、「霞が関イリュージョン」に簡単に騙されてしまう。なぜなら、官僚が立案する「公共政策」が、たとえ一部の社会セクターのみに利益誘導をはかる政策であったとしても、その一部のセクターも「公共」を構成することには変わりなく、実際にはどのセクター/階層が利益を得て、どのセクター/階層が不利益を蒙るかなんて、一般の私たちにはわからないからだ。それを個々の政策ごとに分析し、見極めることは困難を伴う作業になる。
 政府が「内需創出のために減税する」と聞けば、誰だって「結構なことだ」と思いがちになる。しかしよくよく調べてみると、実質減税になるのは全体の1%に過ぎない年収1500万以上の世帯のみで、それ以下の世帯は増税になる、となる。これは、「霞が関イリュージョン」の古典的事例である。たしかに、一見では「低所得層」にも減税されるかのように見えたとしても、別の租税制度の仕組みによって、結果としては納税者の大多数には増税になる、というカラクリである。
 
 こうした「霞ヶ関イリュージョン」によって、ある政策を押し通そうとするときに、官僚機構は政治家(族議員)やメディアを利用し、一大キャンペーンを張る。官僚機構は政策立案→立法集団であると同時に、そのための言説を創造する集団、〈言説創造マシーン〉でもあるのだ。
 たとえば、小泉「構造改革」路線がキャンペーンされたとき、「努力した者が報われる社会」という言説が流布された。そして、「努力しないで報われている者」バッシングが、小泉「革命」を推進するキャンペーンとして、マスコミ自らが尖兵となって行われたのである。
(小泉政権のことなど、いまの20歳前後の人々にとっては、遥か「大昔」のことであり、ほぼ5年におよんだあの時代のことは記憶もおぼろで、自分の〈歴史〉には存在しないと思うのだが、大学のことも安保のことも、そしてNGOのことも今起こっていること/これから起こってゆくであろうことの矛盾や問題は、すべて小泉政権(とブッシュ息子政権)時に打ち出された政策に起因する。なので、まだ誰も提出していない小泉「革命」の「決算報告書」を私たちは自分でまとめる以外にない。そのための参考資料は巷に溢れているが、それらはあくまで参考資料に過ぎず、結局は自分の頭で考え、自分の言葉で語るしかないのである。)

 「努力した者が報われる社会」=「努力しないで報われている者がいない社会」・・・。
 「当然の社会で、結構なことだ」と誰だって思う。しかし、ここに「霞が関イリュージョン」のイリュージョンたる所以(ゆえん)、その罠、その落とし穴がある。

 小泉「構造改革」は、橋本行政改革を継承する、①官僚機構のスリム化と、②政府の歳出削減・歳入増加の二つを内政の主目的としていた。これを小泉政権は、「自民党をぶっ潰す」という大衆受けするスローガンをぶち上げてやった。その結果、「小泉フィーバー」が起こり、小泉政権は戦後屈指の長期安定政権となったのである。(「自民党をぶっ潰す」とは、自民党内「護憲・保守」と郵政などの公共部門や公共事業部門の「族議員」排除をさす)。

 この「小泉フィーバー」をプロモートしつつ、「小泉人気」にあやかったマスコミのキャンペーンは、「努力した者が報われる社会」キャンペーンと「努力しないで報われている者」バッシングとして展開された。
 前者の「努力した者が報われる社会」キャンペーンは、官僚機構が制定した法的規制を緩和・撤廃し、「民間活力」導入を積極的に推進するという理念の下で、「ベンチャー・ビジネス」の興隆とそれを支える「起業精神」を育成する観点から行われた。いわゆる「護送船団方式」の解体、「日本型経営」から「米国型経営」への転換である。

 そこで、「努力しないで報われている者」バッシング」は、当然のこと、①「税金を貪る」特権官僚や公務員労働者叩きと、②官僚の「天下り」の温床にもなっている「無駄な公共事業」叩きとして過熱化する。これらは国家財政を圧迫する国家公務員数と給与の削減を促進するキャンペーンと一体的に展開されたわけだが、「聖域なき構造改革」=「小さな政府」路線を追求する小泉政権と小泉路線に自己調整をはかろうとした官僚機構は、「安保・防衛」部門を聖域化し、「社会保障・教育」分野を削減・切り捨てることによって「財政再建」を行おうとした。
 その結果、「努力しないで報われている者」バッシングは、③社会保障費を膨張させる、いわゆる「社会的弱者」(高齢者・母子家庭・障害者などの低所得者層)叩きとしても展開されることになる。忘れてならないのは、④「子どもの学力低下」と「ゆとり教育」批判、日本の大学の「質の低下」と「旧態依然の大学」批判も、この文脈の中で登場したことである。 
 
「肉を切らせて、骨を断つ」

 私たちは、橋本行改→中央省庁の再編・統合→小泉「構造改革」→民主党への政権交代というこの10数年の過程を経ても、なぜ「公務員制度改革」が停滞し、中央官僚機構の抜本的「構造改革」が遅々として進まないのか、流布されるいろんな言説に惑わされることなく、自分の頭で一度考えてみる必要がある。

 中央省庁の再編・統合以降のこの10年近くを、自公連立政権、民主連立政権、官僚機構、メディア、そして「国民」という「アクター」間の構図でみた場合、ひとり勝ちしたのは官僚機構である。日本の官僚機構は「肉」=「天下り」を含む官僚特権の一部を切らせて、「骨」=官僚機構の持つ権力構造の解体論を「断つ」ことに成功したのである。

 菅直人首相は「日本の官僚はバカだ」と言ったことがある。丁度、1年くらい前のことだ。菅が言わんとしたのは、官僚の「前例主義」批判だった。「官から政へ」の政策決定過程の転換をはかろうとしても、一つの政策とその政策を根拠付ける法制度をめぐる過去の積み上げ=「前例」を盾に、官僚が「抵抗」し、言うことをきかない。これに腹をすえかねた菅の焦燥感と怒りが記者会見という公の場で爆発したのだった。
 けれども、「前例主義」は「法の番人」としての官僚機構に内在する「慣性の法則」のようなものなのであって、官僚の内的論理によってこれから脱却することなど不可能である。(以下、後日追記)。  


 「大学の社会貢献」論は、小泉「大学革命」という「霞が関イリュージョン」において最大限に駆使された言説である。大学が社会に貢献する。「結構なことだ」と思う。しかし、「社会」に貢献する大学に創り変えることによって、大学が「壊れる」。一部の大学が「社会」に貢献する一方で、大多数の大学が「壊れる」・・・。そうなることを私たち(の多く)は、見抜けなかったのだ。

 「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、「東大が世界最大の軍事産業との国際産官学連携で儲ければ、日大が壊れる」。どう考えても「風が吹く」ことと「桶屋が儲かる」ことは繋がらないように思えるが、ある力が作用し、その連鎖反応によって想定もしていなかった事態が派生するように、日本における軍産学複合体の形成が、多くの国公私立大を「壊す」ことになる。しかも私たちは、東大自体がすでに「壊れている」ことにいまだに気づかない・・・。

 「社会に大学が積極的に連携しつつ、それによって大学が社会に貢献する」という「大学の社会貢献」論は、「大学院研究が戦略的先端産業部門の技術革新に貢献する「産官学連携」という言説を正当化し、その言説を社会化する、すなわち「国民的コンセンサスを得る」ために活用された。大学の「社会貢献」という言説に、「バブル崩壊からの日本経済の脱却」「日本再生」などのキャッチコピーをつければ、マスコミはイチコロだ。簡単に官が仕組んだキャンペーンに便乗する。

 私たちは「大学の社会貢献」論を創造・流布し、それによって産官学連携と国立大学法人化・私大「改革」を構想し、仕掛けたのが、旧通産官僚や科技庁官僚であったことを忘れてはならない。
 橋本行政「改革」方針が打ち出されたときには、すでにその青写真が確定していた「産官学連携」路線の「影の立役者」には、京大出身の元新左翼の理論家で、転向し、米国の軍産学複合体の一角を占めるスタンフォード大に移った、旧通産官僚からカリスマ視された人物がいるのだが、問題は、「講壇マルクス主義者」をはじめとした人文・社会科学系フィールドの大学人が、単なる情勢/現状分析を超えた、「産官学連携」をめぐる霞が関イリュージョン、その言説の欺瞞と虚構を暴き、対抗言説を打ち出すことができなかったことにある。
 だから、「敗北」(もしも、そういう認識に立てばの話であるが)は、1990年代の半ばにすでに決まっていたのである。

 しかし、この「敗北」/「勝利」は、必然的な事態だった。それには、いくつかの理由がある。
 一つは、もともと大学教職員の「闘争」というのは、官公労労働運動と同様に、賃上げ・身分(特権)保障・労働条件及び職場環境改善を三つの柱とするものであり、法人化を始めとする大学「改革」に対しても、これらが悪化することに反対するという論理で取り組まれたことだ。
 つまり、「産官学連携」路線による大学研究・教育の変質や崩壊を論じたのは、ごく一部の「良識派」大学人であり、しかもその主張さえも論理の土台は前者にあった。「法人化」しても「身分保障」がされるかどうかが、多数派の「闘争」の主眼だったわけである。もっと分かりやすく言えば、小泉大学「革命」が、運営費交付金や私学助成金の削減を伴わず、国からの大学界全体に対する「学術研究・教育」予算の増額を伴うものであったなら、「革命」に対する反対運動など、起こりようもなかったのである。

 丸山真男は「六〇年安保」の前に、当時の社会党-総評の指導部が「安保は重い」(労働者を安保闘争に組織動員するのは困難)と言ったと生前に証言したことがあるが、「産官学連携は重い」といった状況が、法人化以前に、すでに大学業界内部でつくられていたのである。言葉を換えるなら、大学人の圧倒的多数派が、大学現場で「アカデミック・フリーダム」はもとより、「言論の自由」さえ抑圧・封殺されてゆくことに対して、自分自身のサバイバルをかけて沈黙し、「職場闘争」「現場のたたかい」を放棄したのである。総じて、大学当局ともたたかわず、「大学の危機」を見過ごし、自己保身に走ったのだ。これが、歴史が教える現実である。

 二つ目は、官製版大学解体=「大学の崩壊」を社会問題化できなかったことである。
 これには、大学問題が大学の下位にある教育現場(高専・高校)の問題と有機的に関連した問題であることを、研究・教育論に即して大学人サイドが分析し、論理化することができなかった/しようとしなかったことが、さらにその理由の一つとして指摘できる。

 日本の教育制度は、東大・京大を偏差値の頂点とする階層化された大学システムへ向けて、その合格者数を競う形でさらに初等・中等教育が公私とも序列・階層化されているにもかかわらず、
①初等・中等・高等教育全般にわたる文科省および官僚機構の統制・差別・分断構造が確立していることに加え、
②初等・中等教育に対して、地方自治体の「教育委員会」という、自治体の官僚機構の延長組織による統制・差別・分断構造という「統制と支配の二重構造」が存在する。
 この「二重構造」が、大学問題を日本の教育制度全体の問題=教育界全体の問題として取り組むことを制度的に阻害し、これが障害となって、「大学問題」を社会問題化することを困難たらしめてきた。
 しかし、その責任の大半は、「戦後」という長いタームで考えるなら、大学システムの下層に位置付けられた多数の私立大学教員を除き、擬似「象牙の塔」の安住し、俗世から隔絶された研究・教育活動に埋没してきた「有名」大学の大学人の側にあると言ってよいだろう。

 さらにこの二つ目の理由の二点目として、
①「大学問題」を子ども進学問題に解消し、それを日本の政治・経済・社会問題として捉えることをしない/できない傾向がいまだに強いメディアや、
②大学教育サービスの「受益者」としての「保護者」と学生/高校生の、大学を偏差値やブランドでしか判断しない/そのように社会的に洗脳され、仕向けられた、「大学問題」に対する無関心、この二つが指摘できる。さらに言えば、
③「受益者」や当事者の「大学問題」への無関心を助長し、消費者に「学校外教育」を受けるように扇動し、儲けることしか考えない塾・予備校などの教育産業の存在もあるだろう。

 もちろん、上にあげた二つの理由以外にも、人によって様々なことを追加することはできるだろう。「敗北」/「勝利」の理由、その総括を深めることは、「では、これから何をどうすればよいのか?」を考案するあたり、様々な方針上の選択肢を提出するものであるから、とても重要な作業である。しかしそれは、私の仕事ではない。
 以下では、上に記した私なりの分析に基づき、①「産官学連携」路線への「対抗言説」に関する個人的問題意識と、②「大学の自治」という概念の再考作業を通じて、私なりに「問題の所在」を浮き彫りにする試みをしてみたいと思う。


 私たちは、自分が「壊れかけている」と思っても、日常生活を送り、仕事ができているかぎりにおいては、そのことを自分にも他人にも隠そうとする。無理をして自分を誤魔化し、他人をも誤魔化そうとする。そして、「ヤバイ!」と思ったときには、たいていは「薬漬け人間」になっている/されている。私はそうなった人/いま、まさにそうなっている人を、たくさん知っている。
 
 大学はどうか? 日大は、なぜ「壊れた」のか?
 日大には、毎年、100億円を超える「日大助成金」が文科省から流れている。2010年度の額もすぐに調べられるので、興味のある人は自分で調べて欲しい。『大学を解体せよ』によれば、5年前でその額は126億円(!)に上る。つまり、納税者ばかりでなく、生まれたばかりの子どもから寝たきりで臨終を持つ人々まで、この国のすべての人が毎年100円を日本大学に「寄付」させられている計算になる。
 日大の次に多い大学はどこか。言わずと知れた、早稲田大学である(5年前で102億円)。たったこの二大学に、「私学補助金」総額の約15分の1の金が流れていることを知る納税者、「国民」は少ないのではないか。
 100億、さらにそれに20億、30億を加算した金、血税が、「補助/助成」という名目で毎年二つの私立大学、「学校法人」に流れてゆく。日大と早稲田の経営陣・理事会は、黙っていても毎年この金を、国を通して受け取るわけだ。これほど「おいしい、ボロイ商売」がこの世にあるだろうか?

 けれども、120億、130億程度の金なんて、日大資本にとっては、ただの「端(はした)金」に過ぎない。「リーマン・ショック」以前の日大の年間予算はざっと2500億円。さらにそれとは別に運用可能な、ざっと3000億円の資金を日大当局は保有していた。(入学金・授業料・寄付金など、要するに学生の「保護者」から吸い上げた金が元手の3000億円は「リーマン・ショック」後のいま、いったいどうなっているのだろう?)。
 2500億円という額は、静岡市レベルの(表の、つまり裏を含まない)年間予算に匹敵する。そして3000億は、北朝鮮の国民総生産の10分の1以上の額になる(例えが、わかりずらいだろうか?)。日大という「超」が付くマンモス大学は、「大学」という名前こそついてはいるが、その実態は「教育事業」でひたすら収益を上げることを目的とする、「フランチャイズ経営」形態の「株式会社」、大企業と定義した方がよい。それを「学校法人」と呼んでいるのは、官僚機構が定めた「株式会社大学」と一般「学校法人」との「設置形態」をめぐる法解釈上の違いに、ただ私たちが準じ、そう呼ばされているだけのことなのだ。

 私は、私立大学が日本の大学教育の実質的な屋台骨を形成しているだけに、現状では税金が私学の「補助/助成」に向けられるのは必要だと考えている。しかし、5500億円もの財政+資金規模を有する大学、しかも総長選になると1億、2億の金が票の買収工作に使われるような大学に、なぜ130億円近くもの血税が注ぎ込まれねばならないのか、まったくその理由が分からない。早稲田にしても、それは同じである。

 在学中の学生諸君や卒業生・教職員の反感と反発しか買わないことを覚悟の上で、私はこのような日大や早稲田が「壊れている」ことを、出版から四年近くになる『大学を解体せよ』の中でも触れている。しかし「壊れている/いない」は、そこに大学という社会的組織体の在り様に対する価値基準が介在した分析・評価であって、日大にしても早稲田にしても、大学当局・経営陣は「壊れている」なんて、当然考えていない。彼/彼女たちにしてみれば、むしろ〈私たち〉の方が「壊れている」。

 ただ、一点だけ『壊れた大学』の著者に私が感じるのは、たしかに日大が「壊れた」現場を知る者の暴露本として、実態を知らない者に対する情報価値はあるとは思うのだが、「何を今更」という印象が拭えないことだ。少なくとも章立てを見るかぎり(関心のある人は自分で調べて欲しい)、この人は定年退官年齢を遥か過ぎた年まで日大教授として日大資本の恩恵を受けてきた人であり、最後の最後にケツを巻くって「おしりペンペンをカマシタ」といった類の暴露本にしか、どうしても思えない。なぜなら、日大の学部教授会のみならず、日本の大学の学部教授会が「トップ・ダウン」方式による大学の機構改革によって形骸化し、企業化した大学の「株主総会」と化したのは、今年や去年の話ではないからだ。ここで上に述べた「敗北」の理由、〈対抗言説〉の内容が問題として浮上するのである。(2010/12/23)


 ちょっと閑話休題。クリスマス・シーズンのヨーロッパの学生運動は、先週からイタリアにフロント・ラインを移し、荒れに荒れている。
 同時多発的・波状的に展開されてきた、とくに「リーマン・ショック」後の「世界の学生運動」は、その国の財政状況、政党政治の歴史と現状、社会・労働・学生運動の歴史と現状によって、その激しさも違えば、具体的な運動の課題も違ってくる。街頭行動が「平和的パレード」で終わることもあれば、ときには武装警察との肉弾戦が展開され、火炎瓶が飛び交うこともある。国家=権力からのポポロ(ピープル)の「アウトノミア」(オートノミー=自律)を唱導してきた大学知識人アントニオ・ネグリの国、イタリアの場合は後者のケースである。

 ネグリの思想については、その解説めいたものを読んだことがあるのと、米国の「知識人」と言えるのかどうかは私には判断できない大学人とネグリとの共著とされている『〈帝国〉』を流し読みした程度の知識しか私は持たない。ネグリが「共産主義的アナキスト」なのか「アナキスト的共産主義者」なのかも知らない。しかし、「アウトノミア」は現代人がもっとも真剣に考えるに値する概念だという認識は、私も持っている。
 「だからこそ」と言うべきか、「しかし」と言うべきか、私は歴史的学説であり運動の理論でもある、未だに互いに抗争をやめない「共産主義」と「アナキズム」の思想と理論もまた、いったん解体し、その瓦礫の山からそれぞれが何をもう一度拾い、何を葬り去るのかを自分で決める必要がある、と考えている。

 アウトノミア/オートノミーを共産主義やアナキズムの思想から解放し、自分の生きる思想にすること。それが、自己に課した私のテーマである。この15年ほど、国連体制下の現代世界秩序において政治・経済・社会・文化的なアウトノミア/オートノミーを否定されてきた先住民族や「マイノリティ」の「主権/自決権」の問題を考えてきたが、それは自分の生の在りかたに「アウトノミア/オートノミー」が欠如している、という自覚があったからだ。
 そこで、「アナキズム」思想一般と、例えばこの間、世界の先住民族が主張してきた「アウトノミア/オートノミー」の何が違う/ズレるのかを、簡単に記しておきたい。先住民族の「脱植民地主義」と「アウトノミア/オートノミー」をめざすたたかいは、大学のそれをめざす、これからの長い、長いたたたかいの理論的・運動的宝庫と言えるからだ。

(つづく) 

2010年12月17日金曜日

民主党政権による新たな「琉球処分」を許さないために---あるいは、〈歴史〉を消去されないために

民主党政権による新たな「琉球処分」を許さないために---あるいは、〈歴史〉を消去されないために

 1990年代の最後の数年間、つまり第二期クリントン(民主党)政権の途中から、ブッシュとゴアの大統領選の予備選が本格化しようとしていた頃まで、理由があって私はワシントンD.C.南の「黒人居留区」に引きこもっていたことがある。
 その時に知った、二人とも外科医、女性の方は脳外科医のあるカップルの話である。
 二人は、「売れっ子」の超多忙な医者である。だからまず、食事はすべて外食、テレビは観ない/観る時間がない。新聞は読まない/読めない、メールもしない/できない。移動の車内では、好きな音楽を聴くか、車内に設置した携帯でのオペや会議の打ち合わせをするかになる。時間があるときには専門雑誌に目を通しておかねばならないし、原稿も書かねばならない・・・。

 私がびっくり仰天したのは、その二人が当時の米大統領、自分の国の大統領、クリントンの名前を知らなかった/言えなかったことである。当然、「コソボ紛争」に対する米国の介入、NATOの空爆のことも知らない。自分の国が戦争状態にあること、いや世界で何が問題になっているのかはもとより、共和党と民主党との間で何が次の大統領選に向けた攻防のアジェンダとなり、米国社会の主なイシューとなっているのかなど、何も知らなかったのである。

 さらに、彼と彼女は、選挙登録はしていても、30代の頃から大統領選や中間選挙はもちろん、およそ選挙に行って投票したことがない。こうしたことを、二人は笑いながら話していた。「こういう人たちがいるんだ!」と、呆れるというより私は深く感嘆し、二人の超過労状況を逆に気の毒に思ったことを覚えている。

 専門の仕事や研究に忙殺され、労働以外の自分の「余暇」もその専門に関わることに追われ、しかも日常生活で会話をする相手も同じ専門同士の、同じような労働・生活環境に置かれた者たちであるなら、程度の差こそあれ、私たちも実はこの二人と同じような存在であることは、自覚しておく必要がある。「ポリティクス」にヤタラ「詳しい」人間が、「ポリティクス」以外のことは、何も知らない、何も語れない、のも同じことなのであるから。
(「どの国がどうしたこうした、どの党、どの政治家がどうしたこうした」という分刻みの「下世話な話」は、「芸能やスポーツ業界の誰それがどうしたこうした」という「下世話な話」と同一のレベルでリーク・流布される「情報」に過ぎない。そういう「下世話な話」のリーク・流布を私たちが「ジャーナリズム」と呼んでいる/呼ぶことにしているだけの話である。)

 自分の国の大統領の名前を知らない超多忙の米国人外科医の話をしたのは、それを思い出させた人(たち)と、一昨日、私が忘年会をしたからである。
 その人は、首都圏のとある大学の薬学部を卒業し、とある企業で働く「アラフォー」の人である。
 もちろん、その人は、今現在の日本の内閣総理大臣が誰であるかは知っている。しかし、その人は「サンフランシスコ平和条約」が何年に締結されたか、今の安保条約が「改定」される前に「旧い安保条約」があり、それが「平和条約」と一緒に結ばれたこと、また日本が国連にいつ加盟したのか、さらに昔、中華民国(台湾)が安保理常任理事国であったこと、それがいつ中華人民共和国(中国)に代わったのか、自分が生まれた頃に「日中国交回復」がなされたこと、等々等々を知らなかったのである。

 つまり、「戦後」日本(「戦前」は言わずもがな)の「正史」、自分が生まれた時の時代状況、自分が生きてきた歴史について、知らないことがあまりに多いのだ。まして、現行の安保条約が、日本政府にその意思さえあれば、いつでも米国に対し、一方的に「終了」通告ができる国際条約であることなど、知るよしもない。岸内閣や佐藤内閣の時代に、いったいどんな「核密約」「沖縄密約」が交わされていたかなど、自分が生き、働くにあたって、関心の領域外である。「そんなこと」より、自分には知っておかねばならないこと、フォロー・アップしておかねばならない、山のような専門領域の知識・情報がゴマンとあるからだ。自分の「精神衛生」を保つための「趣味」の時間も取っておかねばならない。とてもこうした事柄をフォローする、そのためにその筋の「専門」の本を読む時間なんて実際問題としてない、ということだろう。

 私は、先日更新した「最近、考えさせられたこと」の中で、「知識障害者」という表現をした。私たちは、ある分野の知識はものすごくあるが、別の分野のことは何も知らない/知ろうとしない/知らなくて何の不自由もないし、そのことを何とも思わない人間として私たちが在ること、これがどの専門分野であれ避けられないような働くマシーンになっていることを自覚する必要がある。脳から〈歴史〉や何かを消去された働くマシーン、「ヒューマノイド」のような存在に。
 脳から〈歴史〉が消去されると、私たちは自分が何者であるかを同定できず、他者に対するエンパシーという、人間が人間であるために最も重要と思える能力が欠如した「人間もどき」の存在になる。私自身、そのことを『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の構想、下調べ、執筆過程において痛感させられた。
 私は、「戦後」日本(「戦前」は言わずもがな)の「正史」、自分が生まれた時の時代状況、自分が生きてきた歴史について知らないことがあまりに多い。つくづくそのことを思い知らされたのである。

 問題は、「義務教育」以降の今の教育制度のサバイバーとして、私たちが「知識障害者」であることの自覚症状がどの程度あるか、そして「いったい誰が、私たちの脳から〈歴史〉を消去しているのか?」というところにある。

「戦後」の「琉球処分」と「普天間問題」

 「日中国交回復」が自分が生まれた頃になされたことを知らなかったその人は、「沖縄返還」のことは知っていた。しかし、「沖縄返還」の「正史」には「外史」があり、その「外史」には日本への「復帰」に反対し、「琉球独立」を主張していた人々の存在が含まれることは知らなかった。
 しかしこれは、何もその人に限ったことではない。むしろ問題は、「復帰」後の38年間を通じ、さらには民主連立政権への政権交代を通じ、「日本=ヤマトへの「復帰」は、本当に正しい選択だったのだろうか?」と公言するようになった人々、公言はしないがそう考えるようになった人々が増えていることを、私たちの多くが知らない/知ろうとしないところにあるように思う。そして私たちは、その事実や「沖縄密約」の史実を知りながら、しかし38年前に遡って「どうすべきだったのか/これからどうすべきなのか」を考え、それを視聴者や読者に問題提起しようとしない巨大メディアの沖縄「報道」もまた、私たちから〈歴史〉を消去するエージェントとなっていることを知っておくべきだと思うのである。

 今日、県知事と会談し、「移設」への「理解」を要請した菅首相、民主党、日本政府に対する沖縄の多くの人々の怒り、怒りを通り越した白けきった反応を理解するためには、前々世紀に遡る「琉球処分」以後の琉球の歴史、せめてその大まかな流れくらいは押さえておかねばならないだろう。「普天間」がどうしたこうした、そういう問題だけで済まされることではないからだ。

 このような「琉球の今」を知る手がかりとして、読者に「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」のサイトに掲載されている記事や文章を、まず読んでみることを推奨したい。
 もちろん、基地問題をはじめ沖縄/琉球に関する専門・参考文献は限りない。しかし、この「問う会」の「呼びかけ人」に名を連ねている人々(そこには拙著をブログで紹介していただいた松島泰勝さんもいる)を見れば、いかに広範な人々がヤマトによる「琉球支配」の歴史を、いま問うているか、そしてそれが政権交代後のこの一年余りを経て、沖縄の若い世代、一般の人々の間にも広がってきていることは、容易に想像できることだと思う。

 この「問う会」の運動を報じたメディア、また報じなかったメディアが、「普天間問題」の今後を行方をどのように「報道」し、どのような内容を発信してゆくか。そのことをも含めて私たちは注目し、金をばら撒くことしか知らない菅政権の「琉球政策」「基地対策」が、二一世紀の第一次「琉球処分」としてあることを見抜いておかねばならないと思う。消去して/されてしまった〈歴史〉を、自分の脳に埋め込む作業を怠らないなら、それを見抜くことも決して困難ではないはずである。

2010年12月16日木曜日

天木直人さんの『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評

天木直人さんの『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評

 天木直人さんがご自身のメルマガで、四回にわたり『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の書評を連載されていたようだ。感謝。

 有料のメルマガということだけれど、関心がある人はこちらからどうぞ。2010年12月9日(第1回)から同12日(第4回)まで。

2010年12月14日火曜日

NGOのシンポジウムに自衛隊員が参加した日

NGOのシンポジウムに自衛隊員が参加した日

 「平和構築」とNGOの役割を問う、先日開催したシンポジウムに自衛隊員が参加した。そしてその人は、「国連PKOをめぐって、いったいどういう問題が起きているのか」と質問した。
 出席者名簿に「所属」を書かない人は割と多いから、断定的なことは言えないが、私たちが開催したシンポジウムに自衛隊の人が参加したのは、今回が初めてだと思う。そして、私はそのことに「時代は変わっている」という感慨を強くした。

 私たちのシンポジウムに自衛隊が参加したことを、私以外の主催者側関係者や、その他の参加者がどのように捉えたかはわからない。誰がどのように考えたのであれ、確実に言えるのは、参加した自衛隊員は、とても真面目な隊員だったということである。自分の職務に関連する「平和構築」というテーマをめぐり、公開のシンポジウムが開催される、これに参加し「平和構築」に関する理解を深めねばならない、とその自衛隊員は考えたはずだからだ。私は、すべての自衛隊員が、参加した彼のような問題意識を持つことを期待したい、と強く考えている。

 今回のシンポジウムの報告は、次号の「NGOと社会」のニューズレターで特集し、新評論のサイトやこのブログで公開する予定になっているので、詳細は少し待っていただきたい。ここでは、私個人が考えたことを書き綴ってみたい。

何も教えられていない自衛隊員---事実を隠蔽する外務・防衛官僚と自衛隊統合幕僚本部 
 なぜ、一自衛隊員が私たちのシンポジウムに参加し、「国連PKOをめぐって、いったいどういう問題が起きているのか」と質問しなければならないのか? 
 自衛隊が「国際平和協力」活動を「本体任務」とするように法の改定を行い、「国連PKO等」への「参加」を常態化してきたというのに、1990年代からこの20年近くの過程において「国連PKOが抱える問題」を日本政府・外務省、防衛省、そして自衛隊という一個の官僚機構の上層部そのものが、「派遣」されることになる当の自衛隊員に何も教育してこなかったからである。自衛隊内部、そして日本語のインターネットサイトでは十分に情報を得ることができないから、自衛隊員は私たちのシンポジウムに参加してきたのである。

 非常に小さな事例ではあるけれども、今回のシンポジウムへの自衛隊員の参加に、前線で起きている事態を何も兵士たちに明らかにせず、ただ「玉砕」を命じ、兵士たちを見殺しにし、自分たちは戦後も、のほほんと生きながらえて行った、戦前の「大本営」官僚の縮図を見たような思いがした。

 「大袈裟なことを言うヤツだ」、と読者は言うかもしれない。しかしそれがこの間、イラクやアフガン戦争に狩り出されてきた米軍兵士やその他各国の兵士たちに起こってきたことであり、今、現に起きていることなのである。戦争を前線で戦っている各国の兵士たちの現実は、実は自衛隊員の現実でもある。もちろん、日本社会全体もそうである。

 「国連PKO等」が引き起こしてきた問題は、実は『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の主要には第五章において、また第六章の中でも述べている。だから、詳しくは是非、そちらを参照していただきたいのだが、一言で言えば、それは「平和維持作戦の泥沼化」であり「内戦化」である。そして、「中立・公正」であるべき国連PKOや「平和維持」作戦を展開する多国籍軍が、イラク・アフガン対テロ戦争において明白になったように、政府側を軍事的・政治的にバックアップする形で、反政府武装勢力(「テロリスト」?)との戦闘行為を、非戦闘員(一般市民・農民)の虐殺をくり返しながら、行ってきたことである。

 つまり、「紛争当事者間の和平合意の成立」を大前提にした国連機関、国連PKO、「国際治安維持部隊」の「紛争」への「介入」の大原則が、旧ユーゴスラビアからコソボ、そしてソマリア、ルワンダなどの事態などを経て、一挙に崩れ去り、内戦のプロセスに国連機関や第三国が直接的に軍事的・政治的に介入する事態へと、変質してしまったのである。
 これにより、「停戦合意後の平和構築」から、「停戦合意を前提としない、合意以前段階からの平和構築」論が登場するようになる。いわゆる「ブラヒミ・レポート」と呼ばれる文書が、この転換を決定付けることになる。(「ブラヒミ・レポート」の説明は後日、追記。)

 このような「平和維持」作戦や「平和構築」の変貌をめぐる歴史的経緯、そしてそこにおける現場で発生してきた様々な問題や矛盾を、この国の官僚機構は自衛隊員にその任務を担うことを強制しながら、何も具体的な情報を明らかにせず、「教育」もしてこなかった、ということになる。
 いつの時代、どこの国でもそうだが、権力者や官僚機構は戦争に狩り出そうとするその国の兵士、つまりは一般市民を、ただの捨石、駒としか考えていないのである。