2011年2月24日木曜日

ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと

ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと

 「保護する責任」を推進するNGOの国際ネットワーク、INTERNATIONAL COALITION FOR THE RESPONSIBILITY TO PROTECT (ICRtoP)  が22日付でリビア情勢に関する声明を出した。その中で国連に対し以下の「提言」をしている。

1、カダフィ一族およ弾圧関係者への、即時の資産凍結を含む制裁
2、違法な市民への攻撃命令を拒否するリビア空軍のパイロット他の軍関係者の国外亡命先の保証
3、リビアへの武器輸出・軍事訓練の契約と協力関係のキャンセル
4、文民に危害を与えうる物品の商取引を差控えるとともに、武器売買と輸出を防止する禁輸措置の実施

 また安保理に対し、
1、リビア政府への非難とともに、政府・軍による文民に対する攻撃の即時停止と人道支援物資空輸のための空域の回復を指示すること、
2、国連加盟国に上の1から4の措置を取るべく要請すること、
3、2月1日以降の、リビア政府・軍および傭兵による一連の「人道に対する罪」に関する国際調査委員会を設置し、調査委員会が、リビア政府および国際機関が、犯罪の説明責任を果たす措置を取るための勧告をまとめること、
4、空爆がくり返された場合、国連憲章7章に基づき、リビア空軍の飛行禁止空域を設置すること。

 上の個々の内容に私は反対しない。安保理に対する「4」の提言を除いて。
 当然、カダフィは即刻退陣し、流血無き政権の平和的移行がなされるべきだと考えている。外国の介入無き、リビアの人々自身による暫定政権のための、さまざまな民族・「種族」の代表を始めとする「国民(national)フォーラム」が開催され、憲法制定を含めたそのための政治プロセスを国際的にサポートすべきだと考えている。
 しかし、私が「保護する責任」にNO!と言う責任を主張するのは、これらのこととは無関係である。民衆が政権交代を求め、平和的政権交代をするために「保護する責任」など必要ない。「紛争」を解決するためにも必要ない。これが核心点なポイントなのである。

 問題は、アフリカ・中東・アジア・ラテンアメリカで、政権の平和的移行を認めない権力を、戦後66年間に亘りつくってきたのは誰なのか、というところにある。「保護する責任」はその責任を免罪し、「平和」的「介入の責任」と「最終的手段」としての武力「介入の責任」を主張するところに根本的誤りがある。(また、上の「提言」以外にもやるべきことがある。たとえば、欧米・カナダなど「保護する責任」を推進する国家が「紛争」によって難民化する「文民」にもっと門戸を開放すべく、各国政府に対して要求することなどがこれに含まれる。) 

 「保護する責任」を推進する国際NGOネットワークの「運営委員会」を構成するヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)は、上に述べたことを根本的に理解できていない。ICRtoPには、「保護する責任」の本質を理解した上でこれを推進する、きわめて確信犯的な組織と、比較的そうとは思えない組織が混在している。HRWとOxfamが確信犯的組織なのかそうではないのか、私には分からないが両組織は日本にも支部を持ち、前者は「人権」アドボカシーを行い、後者は人権・開発・救急人道支援活動をプロモートしてきた団体である。

 「保護する責任」のはらむ重大な問題を見過ごしながら、リビア情勢との関係でICRtoPのキャンペーンが日本で展開されることに私は強い懸念をもっている。だから、もう一度論点を整理し、「保護する責任」とこれを唱道するHRWとOxfamの何が間違っているのかを明らかにしたい。両組織の日本支部の理事会・事務局、および会員の人々は、以下の内容を真剣に検討し、内部で議論を深めてほしいと思う。

1、市民組織、NGOは国連あるいは多国籍軍による武力「介入の責任」を容認すべきか?

 国連事務総長報告書にもあるように、「保護する責任」は第一から第三の「柱」すべてを統合した概念である。つまり、第一、第二の「柱」には賛成するが、第三の武力「介入の責任」には反対する、ということはありえないのである。この点をしっかり確認することが重要だ。
 推進派は次のように言う。
 「「保護する責任」は人道的介入や正義の武力行使を目的にしたものではない。主眼はあくまでも国家が文民を保護することにあり、植民地支配の現代版ではない。早期警戒体制の確立などを通じた紛争の予防と、万が一に武力紛争が起こったときの平和的手段による紛争の解決をめざしている。
 ただし、それでも万が一に紛争の解決に失敗したときには、国際社会は座して文民を見殺しにすることは許されない。だから適切な時期に、断固とした方法で、われわれは集団的行動(武力行使)を取り、平和の回復のために全力を尽くす」と。

 もっともらしく聞こえはするが、これは正当化のための論理であり、詭弁である。
 たとえば、上の4「空爆がくり返された場合、国連憲章7章に基づき、リビア空軍の飛行禁止空域を設置すること」が実行されない場合、どうなるのか? カダフィが退陣を拒否し、民衆弾圧を継続したらどうなるか? 「平和」的手段が尽きたらどうするのか?
 これに続く次のステップは、必然的に武力介入によるカダフィ政権の転覆にならざるをえない。カダフィを非難する国連安保理決議の連発に基づき、安保理の承認した多国籍軍がリビアを攻撃し、抵抗軍と戦い、政権転覆をはかり、軍事的占領を通じて「平和の回復」を実現する・・・。こうしたプロセスを経ざるをえないのである。基本的にそれは、イラクとアフガニスタンで行われたパターンをくり返すことを意味する。

 逆に言えば、そういうものとして「保護する責任」は構想され、世界サミットで「確認」され、「履行」段階に現在入っているのである。現在、リビアとともに「履行」の対象になっているのがコートジボワールである。リビアでは武力介入は避けられるかもしれない。しかしコートジボワールはどうするのか、あるいはスーダン、ソマリアはどうするのか。

 HRWとOxfamの日本支部理事会と事務局、そして会員はこうした事態の推移の可能性を容認した上で、「保護する責任」を承認するのだろうか? 私にはそうとは思えない。そしてそうでないなら、ともに「保護する責任」にNO!と言うべきである。少なくとも両組織の理事会・事務局は、組織の活動を支える会員に対し、なぜこのような紛争の、最終手段としての、武力行使による「解決」を認める「保護する責任」を組織として支持するのか、その理由および根拠を明確にし、意見を乞うべきである。たとえ国際本部の決定であろうと、誤りがあるなら支部として表明し、本部に対し意見表明すべきである。
 
2、世界サミット「成果文書」、国連事務総長報告書、「文民の保護」に関する一連の安保理決議を「保護する責任」正当化の根拠にしてはならない 

 私は憲法九条は死文化しているという認識を持っているが、自国の憲法において日本は「国際紛争の武力による解決」を認めていない国家である。憲法論議、護憲/改憲論争が今でも続いているとは言え、明文改憲はされていない。このような国で活動する国際NGOは、国際法や国際規範とともに日本国憲法の制約の下で活動することが求められているのである。

 もちろん、憲法に異論があり、改正の必要ありと認めるところはそのように主張し、運動することはできる。しかし「保護する責任」に関して言えば、その責任を日本が国家として果たす憲法上の余地は、今のところまだない。HRWとOxfamは、まずこの事実を事実として受け止めるべきである。そういう日本の国家的立場を支部として表明し、国際的・国内的なアドボカシーと活動を展開すべきである。つまり、2005年の世界サミット「成果文書」以降の、一連の国連事務総長報告書や「文民の保護」に関する安保理決議をもって、「保護する責任」の正当化の根拠にすることはできないのである。理事や事務局スタッフは、このことをシリアスに考えるべきである。

3、熟議無き、拙速な「保護する責任」の国際規範化とその実行を容認してはならない

 おそらく、このブログの読者も私の文章を通じてはじめて「保護する責任」という言葉をきいた人が多いに違いない。また、言葉を知ってはいてもこれに重大な問題がはらまれているとは考えなかった人も多いことだろう。
 その責任は、これを国連で承認し、背後で促進する役割を担ってきた外務省・国連大使や、緒方貞子・国際協力機構理事長、元ユーゴスラビア内戦時に国連文民保護軍の「指揮」を執った明石康氏などの影響力もさることながら、次にみる「保護する責任」の概念的形成・確立過程における〈政治学〉を踏まえずに、世界サミットで「確認」され「地球規範」化されたことを与件とし、これを論じてきた一部(ほとんど?)の大学研究者の論考そのものに問題がある、と私は考えている。順を追って説明しよう。

 たしかに、「保護する責任」は世界サミットの「成果文書」において「確認」され、以降、これの「履行」に関する事務総長の報告書をはじめ、国連の「平和活動」の改革問題に関する報告書、さらには「武力紛争における文民の保護」に関する安保理決議等々が公表されてきた。
 しかし、加盟国には今でも「保護する責任」に反対・疑義を表明している国々が存在するし、さらに言えば、加盟国の中でこれに対するマトモな審議を行った国など一つもない。おそらく「国政の主権者」の99.9%が「保護する責任」の何たるかも知らず、国会でその承認をめぐって審議されたこともない日本の現実は、推進派が「地球規範」になったというこの概念の国際的受容をめぐる問題性を、もっとも象徴的かつ端的に表現していると言えるだろう。
 
 ある意味で、「保護する責任」はこれを推進する勢力の、戦略的・計画的な国連事務局の「ハイジャック」によって「規範」化され、「履行」段階へと移行してきた政治的概念である。その背後には、米国の億万長者が創設した巨大な「博愛主義」財団から流れる資金フローがある。

 ①「博愛主義」と「保護する責任」
 「保護する責任」(R2P)の概念的ルーツは、米国のブルックリン研究所が1996年に発行した『責任としての主権---アフリカの紛争管理』にある。この書は、戦後冷戦体制が文字通り崩壊局面の真只中にあった1990年から8年間をかけて研究所が行った「アフリカの紛争解決」プログラムの研究成果として発刊されたものだ。このプログラムに190万ドル(当時の為替レート換算で2億5千万円程度)を資金援助したのが他ならぬカーネギー財団だった。

 カーネギー財団はさらに、1995年から2000年にかけ、3020万ドルを費やした「カーネギー破滅的紛争予防委員会」(PDC)を設立し、100を超える「プロジェクト」を行った。このPDCがそのまま、2001年12月にカナダ政府の肝いりで結成された「国家主権と介入に関する国際委員会」へと発展し、R2P推進派のバイブルとも言うべき『保護する責任』刊行へと結実する。この「国際委員会」のメンバーであり、ICRtoP代表としてキャンペーンとロビーイング活動に世界中を駆け回ってきたオーストラリア人の元外交官、ギャレス・エバンスも右のPDCのメンバーだったのだ。

 カーネギー財団なくしてR2Pなし。これがR2Pの起源であり、すべての事の発端である。
 上の「国家主権と介入に関する国際委員会」の『保護する責任』の発刊以降、世界サミットをはさんでこの間、カーネーギー財団を始めとする博愛主義財団が、カナダ・EU・米国の推進派政府、シンクタンク、大学、NGOに億単位の資金提供を行いこれの国際規範化と実行化をめざしてきた。言葉を換えるなら、巨大な国際的「R2Pコグレマット」が形成されてきたと言ってもよい。

 具体的に言えば、カーネギー、フォード、ロックフェラー、シモンズ、ウィリアム・フローラ・ヒューレット、ジョン・D・キャサリン・T・マッカーサー財団などが拠出する億単位の資金が、研究・出版プロジェクト、アフリカを含めた国際会議(日本を含む)の開催を始め、R2Pに関連する安保理決議をあげるためのロビーイングや国連事務総長名の「報告者」作成等々のために毎年のように流れきたのである。無論、日本を含む援助大国も多大の税金をそのために注ぎ込んできた。

 こうした資金フローの下で、政府系・独立系のシンクタンク、大学、国際NGOが動いた。列挙すればキリがないが、たとえば、カナダの国際開発研究センター(IDRC)や米国の国際平和研究所(IPC)などのシンクタンク、ハーバード・コロンビア・スタンフォードなどの米国の主要「有名」大学の関連研究所、先のR2Pを推進する国際NGOの連合組織ICRtoPに名を連ねる世界連邦運動、ジェノサイド・インターベンション、オクスファム、ヒューマンライツ・ウォッチ等々の国際人権・開発NGOである。

 ②対テロ戦争と「保護する責任」
 カーネギー財団のブロジェクトに端を発したR2Pが、10年前の「9・11」後のブッシュ政権のアフガニスタン空爆⇒対テロ戦争の勃発⇒英国他の連合国軍の参戦⇒NATOの「集団的自衛権」の行使⇒タリバン政権転覆⇒「アフガニスタン復興国際支援国会合」の結成、という一連の流れと見事なまでに軌を一にしていることに私たちは注意する必要がある。要するにR2Pは、
第一に、冷戦崩壊後の安保理常任理事国を軸とする大国および国連がアフリカの紛争を「管理」するという発想の中から生まれ、
第二に、旧ユーゴ内戦に対するNATOの空爆を経て、21世紀初頭における「対テロ戦争下における文民保護」という政治的文脈の中で発展してきた概念なのである。R2Pは「テロとの戦い」を「国際の平和と安全」を「維持」する不可欠の「戦い」=国連的正義とし、米軍やNATO軍による市民虐殺・戦争犯罪を安保理が問わないという合意の下で「地球規範」化され、「履行」されようとしてきたのである。

 ③日本政府・外務省、緒方貞子・国際協力機構理事長の責任
 (後日説明)

4、冷戦時代の「残酷な遺産」の未総括--安保理常任理事国の戦争犯罪を免罪する国際NGOの二重基準と共犯性

 もっとも分かりやすい言い方をすれば、R2Pは、米ソ冷戦体制崩壊後の米英仏を中軸とした新世界秩序の形成過程において必然化される「民族紛争」の予防と管理を国家の責任とし、それが果たされぬ場合に有志国家連合が国連憲章の規定と安保理決定に基づき武力介入し、国家と地域の安定化をはかろうとするものである。

 冷戦が崩壊局面を迎えた1980年代後期から、崩壊後の90年代前半期、旧ソ連・東欧諸国やアフリカ諸国の「民主主義構築」や「市民社会構築」論が、欧米のアカデミズムで興隆する。体制移行期に「紛争」が避けられないことを前提とし、それを「予防」・「管理」しつつ、その先に広がる「介入による国家建設(state building)論」としてこれらが盛んに「研究」された。先にみたカーネギー財団の一連の「プロジェクト」もその一環としてあったのである。

 これらの「理論」は、「革命の輸出」ならぬ「民主主義・市民社会の輸出」理論としてあった。欧米列強によるアフリカ・旧ソ連圏へのそれらの「移植」「外部注入」論と言ってよい。しかし、たとえばリビアがそうであるように、マトモな憲法もない国、また憲法はあっても「自由権」さえ保障されていない国家が、旧「社会主義」諸国や形式的に「独立」を果たした旧植民地諸国の実態だった。何度も触れたように、米ソは世界中でそうした開発軍事独裁国家を育成し、支えながら「覇権抗争」を展開してきた。そしてその他の安保理常任理事国もそれらの国々を資源開発と自国の兵器生産のはけ口としてきたのである。

 この〈構造〉が、世界遺産の数より多い冷戦時代の「残酷な遺産」を生み出すことになる。だから冷戦崩壊後において、その政治・経済・社会的総括抜きに「民主主義」「市民社会」を外部から構築するなどという「プロジェクト」が破産するのは明らかだったし、今後もそうなるのは必然である。

 リアル・ポリティクスにおけるR2Pは、この〈構造〉にいっさい手を付けようとしない。「国境を越えた紛争」が「国際の平和と安全」の「脅威」になるという認識の下で、それを一国内で予防・管理・処理するために「平和的」と「最後の手段」に分けた「介入の責任」を云々する・・・。そのためには内政不干渉と武力不行使原則の例外条項としての国連憲章第51条(「個別的または集団自衛」の権利としての武力行使)に加えた、新たな「地球規範」がどうしても必要になる。それがR2Pの本質である。

(なお、国連憲章第51条の成立過程、およびこの条項の安保理常任理事国による濫用の歴史的事例などについては、拙著『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の「第6章 国連憲章第51条と「戦争と平和の同在性」を参照のこと)