2010年の終わりに---こんな世界、日本に誰がした
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大田昌秀元沖縄県知事から、『こんな沖縄に誰がした』(同時代社、2010)を贈っていただいた。サブタイトルは、「普天間移設問題--最善・最短の解決策」。先週、遅ればせながら『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』を贈呈させていただいたのだが、わざわざ手紙まで添えて、その「お返し」をして下さったのである。深謝。
『こんな沖縄に誰がした』の帯にはこう書かれている。「日米両政府合作によってつくられた現実を、無視しつづける鉄面皮はもう許されない。海外移設への具体的道を提示する!」 続けて、大田さんは言う。「私は泣き言をいうのではない。事態が何に起因するかを明かし、解決への道を提起したいのだ。」
沖縄・核密約の真実を暴き、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(新装版、文藝春秋、2009)を著した若泉敬は、核付き・基地付きのまま「返還」された沖縄の現実を変えることのできない/その意思さえ持たない日本政府、そして日本社会を「愚者の楽園 Fool’s Paradise」 と呼んだ。であるなら、愚者=fool=バカの楽園とは、大田さんの言う鉄面皮の楽園、ということになる。私たちは、気が滅入るような「楽園」に住んでいるらしい。
私たちの多くは、さしあたり、菅首相、民主党、この国の現内閣を「愚者の楽園」に生きる鉄面皮集団、と定義することに異論はないだろう。しかし、こと沖縄・普天間問題に関して言えば、私たちもまた愚者であり、鉄面皮の人間であることを認めざるをえない。その上でこれから、「で、私たちは沖縄・普天間問題をどうするのか?」をそれぞれがそれぞれの場で考える以外に道はなさそうだ。「こんな沖縄」にしたのは私たち自身でもあるからである。
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『出版ニュース』という出版業界の業界誌がある。その「2011年1月上中合併号」の「ブックガイド」に拙著が紹介されている。昨日、新評論よりコピーを送っていただいた。日本の新刊出版数は、年間ざっと8万冊程度。毎日200冊以上が出版される計算だ。その内、『出版ニュース』に掲載される本はごくごくわずかになるはずだから、とても名誉なことだ。
「ブックガイド」には拙著を含め14冊の新刊が紹介されている。長倉洋海氏の『私のフォト・ジャーナリズム』(平凡社)、山田朗氏の『これだけは知っておきたい 日露戦争の真実』(高文研)、阪口修平編著『歴史と軍隊』(創元社)などが並んでいる。なかでも目がとまったのは、『中世の知識と権力』(マルティン・キンツィガー著、井本 晌二・鈴木麻衣子訳、法政大学出版局)だった。
『中世の知識と権力』の目次にある、「13 大学における古いものと新しいもの」「14 知識を巡る争い」「15 王の知識と貴族の教養」、そして「あとがき 知識社会における教養、知識、権力」が関心をひいた。これらはそっくりそのまま、いまの日本社会と大学の問題にひきつけて、大学人のみならず私たち自身が問わねばならないテーマだからである。もっとも、「王の知識と貴族の教養」は「官僚(や官僚出身の政治家)の知識と市井の人間の教養」に書き換えなければならないが、文科省が「知識基盤社会」と言う現代日本における「教養、知識、権力」の関係に、私ももっと自覚的であらねばならないと思った。
「大学における古いものと新しいもの」「知識を巡る争い」。この表現に触れて、思い出したことがある。一昨日、首都圏のとある国立大学法人に助手として勤める友人と行った忘年会での話である。
12/31/2010
生々しい話を抽象的に語るのは難しい。
要するに、国立大学法人の助手になったところで、それで大学人としての将来が保障されるわけでは決してない、という話が一つである。そして、助手にも常勤と非常勤があって、非常勤講師というのは授業のコマを担当するだけだが、助手の方は常勤も非常勤も、院生の論文アドバイスをはじめとした「ティーチング・アシスタント」の仕事もする。事実上、院生の「ケア」をしているのは教授や助教よりも、助手の方だということになる。院生や助手を教授の「奴隷」とする、いわゆる昔の講座制の悪い因習というのが今でも厳として生きていて、その皺寄せを大学人位階制の最下層の助手が蒙り、犠牲になっている、というのが二点目である。
もちろん、大学人として生きてゆこうとする人の多くは、自ら率先して「奴隷」になったし、今でもそうだろう。そういう人々も私は知っている。しかし今では「奴隷」になったとしても、未来が保障されるわけではない。そこが決定的に変わってきているのだ。
その一方で、論文を書かず、およそ「業績」と呼べるものを持たない人間が国立大学法人の教授職にのさばっている現実がある。私立大学の場合には、その数はもっと増えるに違いない。私は論文を一本しか書いていない人間が東京大学法人の教授職に就いていることを知っているので、そういうことを聞いても、とりたたて驚きはしない。アカデミズムの世界も、それ固有の「ポリティクス」というものがあり、その世界でうまく立ち回れる人間が権勢を振るうようになるのは、一般企業や現実政治の世界と何ら変わらない。それを「アンフェアー」と言う方が、むしろナイーブ過ぎるという謗りを受けることになる。
しかしそうだとしても、常勤はともかく非常勤の助手までが院生の論文アドバイザーとしての仕事を負わされている現実は、どう考えても腑に落ちなかった。そこまでさせるなら常勤として雇用すべきであるし、そういう不安定な立場にある者の指導を受けている院生の立場から言ってもそうだろう。実際、それは国立大学法人への運営費交付金の減少云々の問題に解消されてよい問題ではない。現行の国立大学法人の給与体系を少し改善するだけで処理できる問題なのだ。
たとえば、ここに「国立大学法人東京大学の役職員の報酬・給与等について」がある。他の国立大学法人の総長/学長以下の「役職員の報酬・給与等」も各大学ごとの規程がある。その額は、東大を頂点とするピラミッドを形成しているのだが、東大の「役員」にも文科省の天下り官僚がいて、年収2000万近くの報酬を得ていることがわかる。これと同様の現象が日本全国の国公私立大学にみられるのである。
大学の正規の「役職員」は、キャリア官僚および公務員と同様の、さまざまな「手当」によって厚遇されている。 東大総長であれば「教育研究連携手当」だけで232万円、ある理事は「副学長手当」と「教育研究連携手当」で300万円の報酬を得ている。「非常勤」の役員は、それだけで年間300万から400万円の所得を保障されている。だから、
①大学天下り官僚を廃絶し、
②役員や教授以下の正規の教員のみならず、職員の「手当」の在りかた、その額の妥当性如何をめぐる全学的な「事業仕分け」をして「無駄」をカットし、
③「ワークシェアリング」と「サラリーシェアリング」を進めるだけで、
「不当労働」を強制されている非常勤助手・講師・職員の常勤化はかなり程度保障できるのだ。東大や各大学の当局は「財政の窮状」を一般学生や「保護者」/納税者に訴える前に、やるべきことが山程あると言わねばならないだろう。
私は『大学を解体せよ』の中で「大学の経済学」を経済学すること、「大学の経営学」を経営学することが、大学で学ばされている経済学や経営学を学んだり、今年ブームとなったドラッカーなんかを読むことより、はるかに世界経済と日本経済の現実を学ぶことになると書いたが、そのことを改めて学部生・院生や非常勤助手・講師・職員、このブログの読者に問題提起をしておきたいと思う。
3
私のごく身近に、現役の大学生が二人いる。一人は都内のとある私大文系の三年生で、すでに「就活」に入っているが、何の展望もない。もう一人は、中部地方のとある国立大学法人で「臨床看護師」をめざす二回生だが、大学院に進学するかどうか/そのための態勢に入るかどうかで悩んでいる。
この二人の同世代には、昨春、とある関西の国立大学法人・文系を卒業しつつも就職できず、家庭教師と予備校でのバイトで食いつなぎながら、未だ就職先がみつからず、来年以降も「フリーター」確定の者や、都内の私大文系卒業後、一旦就職し、専門学校に通いながら、とある官僚機構にもぐりこんだ者、さらには高校時代から不登校となり、「職業としての引きこもり」人生を送っている者たちがいる。
大学に進学した者たち全員に共通しているのは、学生時代の無利子・有利子の「奨学金」を自分の「負債」として抱え込んでいることだ。知人の中には800万円近い「負債」を抱えたまま、とある国立大学法人の契約研究員になった人もいるが、上に述べた子ども、いや成人になった者たちは、無事に就職できたとしてもできなかったとしても、これからの人生で多額の借金を抱え込み、社会人としての出発点が借金返済人生の始まりとなる。何かがどこかで、決定的に間違っている、とは思わないだろうか?
何かがどこかで、決定的に間違っていると思っても思わなくても、私たちすべてが直面している現実は、米国経済は2014年まで回復の兆しはみられないということ、そしてこれに引きずられる形で、ギリシャ・アイルランドに続くEU圏のデフォルト危機がさらに進行し、世界経済のみならず日本経済も波乱含みのこれからの数年を迎えることである。
ちょうど一年前、政権交代後の民主党のブレや迷走ぶりを訝り、「こんなはずじゃなかっただろ?」と感じていた〈私たち〉の思いは、今では「やっぱりこうなってしまった」に変わってしまった。
けれども、政権交代への支持/不支持/無関心を超えて、ここでも私たちすべてが直面している現実は、世界や日本がどうなろうと、そのことに誰も責任を取ろうとしないこと、そして現政権が違う政権に変わったところで、既成の政党政治の枠組みでは、何も変わらないであろうことも完全に予測可能になっていることである。
そんな中で、日本の官僚機構とキャリア官僚は、巻き返し戦略が功を奏し、着実にその権力構造と特権構造の保持に勝利しつつある。
たとえば、毎日新聞は一昨日、仙谷由人官房長官が、各府省事務次官に年末訓示を首相官邸で行い、「(政務三役会議から)事務方を排除して意思疎通が図られないのはいけない。決定事項が円滑に連絡され速やかに実行されるよう、次官、官房長が出席、陪席するように」と述べ、政務三役会議に出席するよう指示した」と報じた。「政治主導」を掲げ、事務次官会議を廃止し、政務三役会議を各府省の最高意思決定機関としてきたことを翻しての決定である。しかも仙谷自身、去年の12月には、民間企業で社長や労務担当重役以外に、事務トップがいる組織は見たことがない。組織をちゃんと営むには、常識的な格好がある」と次官ポストの廃止を表明していたにもかかわらず、である。
毎日新聞によれば、訓示で仙谷は、「政治主導とは決して事務方が萎縮したり、汗をかかず政治に丸投げすることではない。適切に役割分担し緊密な情報共有、意思疎通を図り、国家国民のために一丸で取り組むことだ」と強調し、「官邸にも速やかに必要な情報が伝わるよう、事務方間の連絡体制を整える必要がある」と求めたということだ。
一方、読売新聞の昨日付け電子版は、「キャリア優位変わらず、室長以上昇進の過半数に」と題された記事の中で、「2009年度に各府省で室長以上に昇進した国家公務員のうち、1種採用のいわゆるキャリア職員が全体の半分以上を占めていることが、総務省のまとめでわかった。政府は09年3月に国家公務員の能力・実績主義を徹底するとする基本方針を閣議決定したが、キャリア優位の傾向が依然強いことを裏付けた」と書いている。
この「基本方針」なるものは、「職員の採用年次や採用試験の種類にとらわれない人事管理」を行うとし、能力次第で慣行にとらわれない早期昇任や2段階以上上位の官職へ昇任する「飛び級」も可能とするものだった。しかし実態は、「09年度に室長以上になった450人の職員のうち、キャリアは249人で、昇進までにかかる時間も、キャリアが10年程度短かった。課長以上では、8割以上をキャリアが占めていた」のである。
政治家や政党と同様に、日本の官僚機構は政策展開(「法の運用」)において失敗しても、いっさい責任を取ることはない。日本国憲法には、そもそも「政党」に関する条項など存在しない。また、官僚がつくった日本の法体系は、政策の失敗ごときで責任を取るなどということからキャリア官僚を頂点とする国家・地方公務員を徹底的に防衛しているのである。
もしも私たちが、「こんな日本に誰がした」と問うのであれば、たとえ世界や日本がどうなろうと、誰も、何も責任を取らずして涼しい顔をして権力を濫用し、特権を貪る日本の政党政治と官僚制度を成り立たせている、その「法源」を突き止める必要がある。自民党にしろ民主党にしろ、なぜその改正や廃止をしようとしない/できないのかを考えてみることである。そしてそれら法体系の「構造改革」を未来における政治のアジェンダとするムーブメントを起こす以外に道はないのである。
昨日私は、とある出版社の編集者と今年最後の忘年会をしたが、そういう書を世に問うことで意見の一致をみた。その書の内容と構成を考えることと構想中の新本の原稿着手が、新年からの私の仕事になるはずである。
最後に、このブログを訪問し、書きなぐりの文章に目を通して下っているみなさんに感謝したい。
良い新年を迎えられんことを。