2011年3月1日火曜日

国連安保理のリビア制裁決議について考える

国連安保理のリビア制裁決議について考える


 周知のように、現地時間の先週の土曜(2/26)、国連安保理の対リビアの経済制裁が決議された。カダフィや軍人などの資産凍結、武器禁輸措置、そしてカダフィの「人道に対する罪」をめぐる立件化に向けた国際刑事裁判所への捜査要請などだ。過去の制裁決議との対比から、「異例のスピード」で決議があがったとも言われている。

 しかし、ほんとうにそのように肯定的に評価することができるのだろうか。カダフィの訴追の問題は後に述べるとして、軍や傭兵、武装警察などに殺される側の者たちから言えば、逆に、民衆蜂起が起き、空爆のみならず数百人規模の死者が出て、14万人近い(それ以上?)難民を出す事態を招いているというのに、なぜ弾圧と虐殺の責任者に対する資産凍結と武器禁輸措置にここまでの時間がかかったのか、こちらの方が検討され議論されるべき問いではないのか。

 制裁そのものは国連加盟国とリビアという国家間のものであって、一市民の立場から言えば、具体的制裁の細目が当該国家の人々の生活にどのように影響するかを第一の基準にして考えるべきである。つまり、カダフィ一族やその取り巻きを権力の座から引きずり下ろすために、リビアの民衆の生活を犠牲にするような制裁には反対するという立場に私自身は立っている。
 今回の資産凍結と武器禁輸措置に関して言えば、民衆の生活とは何の関係もないことであり、その意味において私は当然の措置だと考えている。むしろあまりに遅すぎたこと、そしてポスト・カダフィ体制においてもその措置を継続しながら、リビアと周辺諸国の脱軍事化を促進することがきわめて重要な問題である。

 ヒューマンライツ・ウォッチやオクスファムを含む「保護する責任」論者は、次のことを真剣に考えてみるべきだ。 まず、カダフィが民衆蜂起を武力鎮圧しようとした時点で国連安保理が資産凍結と武器禁輸措置を取るために「保護する責任」など必要ないこと。ある一定の国際的合意(基準)の下に、民衆に銃口を向け、虐殺する国家の責任者集団に対する迅速な資産凍結や一切の武器禁輸措置を取る新しい国際条約を制定すればよいだけである。

 つまり、「保護する責任」の致命的な問題は「第三の柱」の武力「介入する責任」(軍事的強制措置)の地球規範化のみならず、「第二の柱」(非軍事的強制措置)の細目をめぐる安保理内部および常任理事国内部の裏工作に時間がかかりすぎ、その決定と実施が国家(や武装勢力)の民衆虐殺の度合いに応じて移行す、そのグロテスクなあり方にある。もっと分かりやすく言えば、「保護する責任」の実態とは、安保理と常任理事国が民衆虐殺を国連加盟国を代表して「値踏み」する「責任」なのである。

 いったいどのようなカダフィとの利権構造が国連安保理と常任理事国に民衆虐殺を「値踏み」させ、虐殺の共犯者としているのか? 一般に安保理決議があがったところで、個々の国家にその意思がなければ、制裁は抜け穴だらけとなり何らの効力も発揮しない。今、私たちに必要なことは、今後この「値踏み」がいつまで続き、どの国家が虐殺の共犯者を演じ続けるか、それを見極めることだ。それを見極めつつ、さらなる民衆虐殺を招く「第三の柱」への移行にNO!と言うことである。


 いずれにしても「保護する責任」などいらない。
 他人事ではあるけれども、ヒューマンライツ・ウォッチとオクスファムはICRtoPを脱退すべきだと提言したい。

 リビア情勢に関してヒューマンライツ・ウォッチとオクスファムが発した声明は、内容的にはほとんど同じものだった。唯一確信犯的NGOと違うのは、リビア空軍の飛行禁止空域の強制を安保理に(まだ)「提言」していないところくらいのものだ。
 しかし、いやしくも両組織が「人権」を語るのであれば、合法的な政権交代を要求する民衆に対し、国家が銃口を向けたその瞬間に、その政権の正統性は国際法的根拠を失う、そのような新しい〈地球規範〉をなぜつくろうとしないのか。国家の武力行使を前提とした国際人道法体系を、「治安維持」のための軍の出動を当然のことと考える「慣習的」国際法と国法を、20世紀の「残虐な遺産」を乗り越える21世紀の新しい世界を創造する構想力と想像力によって、なぜ脱構築しようとしないのか。

 「保護する責任」は、それによって「保護」されることになる人々を、「保護」する者たちに永遠に「保護」される存在にしてしまう。時と場所、国籍や民族をかえるだけで「保護」されることになる者たちは増え続けるだけである。
 結局、ヒューマンライツ・ウォッチは「保護する責任」の「第一の柱」の「早期警戒体制」の構築にまつわる資金プロー、オクスファムは難民への緊急人道支援で国連と英国政府、日本などの各国から流れる資金フローが問題なのだろうか。

 両組織の日本支部・会員の人々に考えて欲しい。
 なぜ、何のためにICRtoPの「運営委員会」に名を連ねているのか。「虐殺を見過ごすことは許されない」を合言葉に、この10年攻勢的なキャンペーンを展開してきた「保護する責任」推進勢力は、実は民衆虐殺を「値踏み」する欧米諸国・ロシア・中国とともに、弾圧や虐殺継続の共犯者になっている、そのようには思わないだろうか?