「虐殺を見過ごすことは許されない」?
博愛主義者は、人殺しをしない。論争もしない。
博愛主義者は、人に金を渡し、殺させ、論争させる。
利子がついて、返ってくることを知っているからだ。
博愛主義者は、人類の不幸を嘆く。
「困ったものだ」と眉間に皺を寄せる。
「どうしたものか」と思案に暮れる。
そんな博愛主義者は、今にも死にそうな、飢えて病んだアフリカの子どもたちが大好きである。
この世は、お金が欲しい人であふれている。
ソマリアの海賊とイスラム武装勢力を殲滅するために、米国の民間軍事会社に民兵として月100ドルだかで売られ/買われたソマリアの子どもたちもお金が欲しい。
「保護する責任」で武装し、21世紀の国連のモデル国家となり、日本と同じように安保理常任理事国入りをめざすカナダの民主党党首もお金が欲しい。
イスラエルの入植政策を批判する国連安保理決議に、またしても拒否権を発動したオバマもお金が欲しい。一期だけで消えるなんてできない。カーターやブッシュ・オヤジの二の舞はまっぴらだからである。
国連事務局、国連難民高等弁務官事務所、平和構築委員会、日本の国際協力機構もお金が欲しい。緊急人道支援・難民救援活動は21世紀の巨大なグローバル市場となり、巨万の金が流れる超ビッグビジネスになること受け合いである。「バス」に乗り遅れてはならない。
ハーバードやコロンビア大、distinguished scholarsもお金がほしい。
パレスチナやアフガニスタンで起きてきたジェノサイドには触れず、アフリカやアジアのそれには信じられないくらい敏感に反応する確信犯的NGOも、そうでないNGOもお金がほしい。
「イスラエルを批判する者は反ユダヤ主義者だ」とまで言い切ったノーベル平和賞受賞者、アンリ・ヴィーゼルも自分の「平和運動」のためにお金が欲しい。
みんなみんな、お金が欲しい。
私だって欲しい。
「保護する責任」論者は言う。
「虐殺を見過ごすことは許されない」と。
しかし、どれだけの虐殺を見過ごしてきたか、いま見過ごしているかは決して自問しない。
その言葉に欺瞞はないか。慈善と偽善の間にボーダーはあるか。
博愛主義者の慈愛に満ちた人道主義ほど、この世に恐ろしいものはない。