2011年3月4日金曜日

「保護する責任」を推進するNGOの何が問題なのか?

「保護する責任」を推進するNGOの何が問題なのか?

 リビア情勢が緊迫の度合いを強めている。米国、英国、中国が「避難民救済」を口実に海軍を地中海に向けて派兵し、これにドイツとカナダ(「保護する責任」(R2P)の最大推進国家)が続き、さらにフランスが反政府武装勢力の支援を行う、といった事態が急ピッチで進行してきた。R2PにNO!という責任を感じる者としては、これをプロモートするNGOをどうしても問題にせざるをえない。R2P推進国際NGOネットワーク、ICRtoPに所属する団体の関係者が、R2Pの支持を再検討するキッカケになればと思う。


 最初に指摘したいのは、「第二の柱」=経済制裁状況下において「人道・難民支援」で大国の軍隊が動くということは、それ自体が武力「介入の責任」=「第三の柱」に移行する軍事的態勢に入ろうとしている/入っているということであり、R2P推進派の国際NGOが、そうした軍事介入の「水先案内人」の役割を果たしていることである。

 国家が軍を動かす/動かしたいときには理由付けがあればよい。その理由付けを国際法や国内法によって支えることができれば、国家としては申し分ない。さらに動くことが「国益」や国家戦略に叶うなら、政府は軍を無条件に動かすのである。「人道支援」は政府/軍にとって、もっとも動きやすい理由付けになる。

 NGOは「人道支援」は「政治とは無関係であり、中立」という。しかし、どこにどれだけの国費を出して人道支援を行うか、それ自体が政治的判断抜きにはありえない。軍が動く場合には、それはもっと戦略的になる。
 R2Pを推進するNGOは、介入後の戦略を練りながら軍を動かす各国に対し、もっと急げと「提言」していることになる。つまり、自分たちの主張によって国や軍が動いたときに、その結果生じることに責任を取れなくなってしまうのだ。自分たちがその結果に対して責任を取れないにもかかわらず、それを「やれ」と国家に対して提言していることになる。

 軍が動き始めた時点で、その後の意思決定にNGOは関与しようがない。提言によって軍事大国が介入し、作戦過程で非戦闘員の犠牲が出ても、そのことにNGOは責任を取れない。取りようがない。せいぜいできることは「遺憾」声明をだすことくらいのものだ。もしもリビアへの武力介入=戦争が決行された場合、NGOは戦争を止める側ではなくそれを促進する側に回ってしまうのである。これが一点目である。


 二点目は、"positionality"の問題である。自分たちがどういう立場に立っているか、それを踏まえた上でどういう立場から、国家や国連に対し何を提言すべきなのか。

 ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)に関して言えば、①「自由権」中心主義、かつ②「人権」中心主義的に、脱植民地化の過程で軍事独裁国家になった国々のジェノサイド以下の四つの犯罪にアプローチする、その限界性の問題がある。HRWは「それこそが自分たちの専門である」と言うかもしれない。しかしそれでは問題は何も解決しないし改善もしない。

 過去にカダフィが行った大量虐殺(カダフィは否定)やその他の人権侵害の事例をみるなら、今回のような事態が起こりうることは誰もが十分に予想できたことだ。しかし、すべての安保理常任理事国、ドイツ、イタリア、カナダなどは、前回の対リビア制裁の以前・以後において、油田開発の権利の見返りに、軍事援助と開発援助をしてきた国々である。(日本は軍事援助こそしていないが、制裁解除以降、油田開発とインフラ開発の契約をカダフィと交わしている。) 

 これらの国々はすべて、民衆虐殺を行ってきた軍事独裁政権を、石油産出国であるというその一点において容認し、ありとあらゆる類の武器貿易の顧客とし、軍や武装警察の訓練(ドイツ)などを行ってきた。米国に関して言えば、ブッシュからオバマへの政権交代以降も、ブッシュ時代の対リビア政策を変えることなく今回の事態を迎えることになる。

 人権問題を棚上げにして進められてきたこれらの国々による軍事援助の停止、民衆の血に染まったカダフィ一族との癒着・腐敗構造の解体。こうした提言活動の積み上げなきR2Pの推進は、ただ単にカダフィを切り捨て、新政権の下での石油利権の回復、軍事援助の再開、復興人道支援を通じた新たな癒着・汚職・腐敗の構造を生み出すだけになる。実際、すでに欧米諸国は反政府勢力との接触を深め、その方向に向けて動き出しているのである。


 人権侵害の克服が、人権侵害の告発・懲罰化・投獄によってはもたらされないように、独裁国家や抑圧的国家の人権侵害も、それが生み出される国家の統治システム、経済・社会・宗教・文化の構造、それらを支える法制度、その歴史性、さらには対外関係がはらむ問題等々の改革抜きに、犯罪責任者を国際刑事裁判所に突き出し、裁きを受けさせるだけでは何も解決しない。まして権力者の首を挿げ替えてどうなるというものではない。人権侵害の克服とは、一個人、社会、国家、世界の価値観や関係そのものの〈変容〉の問題なのだから。

 こうした観点からみると、人権侵害の克服に人権NGOが果たす/果たせる役割が、きわめて限定的なものでしかないことがわかる。具体的に言えば、カダフィの「戦争犯罪」を阻止するためには、それが起きる以前からそれが起こらないように、人権NGOは他の分野で活動するNGOとのネットワークの形成によって「アオボカシー」や「プロジェクト」を行う必要がある。そういうICRtoPの姿が過去と現在のR2Pキャンペーン活動の中に確認できるかどうか。これが三点目である。


 ICRtoPのキャンペーン活動の問題性は、とくにアフリカの反「ジェノサイド」キャンペーンに端的に現れている。

 スーダンやコートジボワールをはじめ、アフリカの独裁的・抑圧的国家のほとんどすべては、リビアやエジプトから軍事援助と政治的・経済的バックアップを受けてきた国々である。つまり、欧米や旧ソ連時代からのロシアなどのリビアに対する軍事援助が、リビアを通じて他のアフリカ諸国にも回り、それによってカダフィはエジプトや南アに対抗するアフリカ内の「覇権」を形成してきたのである。これらの人権侵害国家は、欧米・ロシア・中国からの直接軍事援助・武器輸入だけでなく、リビア・エジプトなどからも二重にそれを受けてきたことになる。

 アフリカで展開されてきたこのような二国間・多国間の軍事・政治・経済的関係を構造的に捉え、問題化することが重要である。ある国で起きた「ジェノサイド」を、この構造から切り離し、その国一国の問題として論じ、介入を主張し、責任者の処罰(のみ)を目的にするという在り方は、きわめて限界がある。いや、限界があるというより問題を放置し、事態の悪化を招くだけだ。「紛争予防」が紛争の予防にならず、「紛争解決」が紛争を解決せず、紛争をくり返してきたこうした国々に生きる人々は、まさにこの構造に呪われ続けてきた人々なのである。


 ジェノサイドや民族浄化を阻むことを、国際法や国内法の問題として考えた場合、「自由権」の保障だけではとても対処しきれない。ジェノサイドや民族浄化のターゲットとなる人々の、「自由権」を基礎とした「集団的権利」が保障されることが必要条件になる。人種的・民族的・宗教的少数者を始めとするマイノリティや先住民族の集団的/個人的権利の保障の問題である。

 ICRtoPが人権分野においてすべきことは、国家や国連安保理・人権理事会に対し、自治や自己決定などのマイノリティや先住民族の集団的/個人的権利を〈保障する責任〉を提言することだ。とりわけ、その責任を認めようとしない常任理事国やカナダ、オーストラリア政府などに対して。日本政府に対しても。

 人権を語る「保護する責任」の人権論に欠落しているもの、それがこの〈保障する責任〉である。 国際人権法、国際関係論、開発論、「紛争予防・人間の安全保障・平和構築」の三位一体論、「国際安全保障」論などからR2pの「意義」をうったえる大学研究者やNGOは、「保護する責任」以前的な〈保障する責任〉の欠如をこそ問題にすべきなのである。