2015年7月16日木曜日

〈議論が深まらない社会 2015〉  「安保法案」廃案へ向けた議論を深めるために

〈議論が深まらない社会 2015〉
 
「安保法案」廃案に向けた議論を深めるために

 昨日の特別委員会での強行採決に続き、安倍「安保法案」が衆院で強行採決された。
 これから7月後半から9月中旬にかけて、同法案をめぐり、参議院における攻防をはじめ、国会内外での長く、暑いたたかいが展開されることなる。

 しかし、反「安保法案」運動の理論的支柱になっている、「違憲(=憲法九条違反)」とする論理を軸に廃案に追い込もうとする主張では、また再びの敗北は目にみえている、と私には思えてならない。「戦後」の九条の死文化の上に積み上げられてきた、日米の軍産学複合体による安保政策に反対する民衆のたたかいは、敗北に次ぐ敗北を重ね、今日に至っているのである。

 現在の国会における力関係から言えば、安倍内閣が参議院においても強行採決に踏み切り、法案が成立する可能性はきわめて高い、と言わざるをえない。その意味では、法案の廃案をめざす運動は、来年の参院選、そしてその次の衆院選と、自・公政権に変わる次の政権交代を市民サイドから構想する、少なくともその萌芽を宿すような運動として発展することが求められている。(近未来における政権交代の現実的展望はきわめて暗いが、これについては今は触れない。)

 ともあれ、法案廃案をめざすこれからの、とても長くなるであろうたたかいに備えるために、今一度「安保法案」=「違憲」論を分析し、その弱点を、一度じっくり考えてみることが重要である。法案に反対し、運動に参加するようになった人々も、ぜひ一緒に考えてほしい。


Ⅰ 憲法九条体制(レジーム)の下での「安保法案」


 安倍「安保法案」は、
①国家の「自衛の措置」(=「国権の発動」としての武力行使)の適用範囲を拡張解釈し、
②その武力行使に、「限定的」「必要最小限度」というきわめて曖昧な「制約」を付帯することによって、
③これまで歴代内閣が「違憲」としてきた「集団的自衛権」の武力による行使に、一般法(憲法の下位法)としての根拠を与え、
④これにより、条約上においても実態としても、これまで軍事同盟ではなかった日米安保体制の軍事同盟化(いわゆる「日米安保の攻守同盟化」に踏み込む憲法解釈上の根拠を与えようとするもの、である。

 「安保法案」の法制化によって、憲法九条は、文字通りの軍事同盟と化した日米安保と平和共存することになる。より具体的に言うなら、法案が目論むのは、例えば、「対テロ」・アフガニスタン戦争においてその合憲・違憲性が激しく議論されたインド洋における自衛隊の「給油活動」、すなわち有志連合軍に対する自衛隊の「後方支援」(=軍事作戦)や、
 同じくその合憲・違憲性が激しく議論された、自衛隊の「平和構築」作戦として展開された対イラク「復興支援」に向けた「派遣」(=派兵)などをめぐり、これからは「違憲」だと主張させなくする、つまり派兵違憲論に対し、その憲法解釈上の根拠を無くそうとするものである。


 私は、昨春出版した『終わりなき戦争に抗う』の「序章」の中で、終わりなき対テロ戦争の時代(戦争イコール平和の時代)においては、「戦後」日本を支配してきた二つの神話、すなわち「憲法九条が平和を守る」と「日米安保が平和を守る」のいづれによっても〈平和〉は守れないことを指摘した。
 これに対しては、とりわけ護憲派の読者の中には、強い違和感や反感を持った人もいたかもしれないが、安倍「安保法案」はまさにそのことを如実に示すものである。護憲一辺倒では、安倍内閣の「積極的平和主義」や日米共同の「国際安全保障」政策に抗しきれない時代、それが「終わりなき戦争」の時代である。 

 「違憲立法」論に欠落している、と私には思える議論や論点の中で、最も重大なのは、安倍内閣が「安保法案」を「合憲=憲法九条に違反しない」として提出していること、そのことに対する怜悧な分析である。「安保法案」=合憲論にいったん内在し、その論理を崩し、無化するような論理である。 

・ 法案違憲論に対し、安倍内閣は合憲だと主張する。では、憲法九条解釈において違憲論と合憲論は、何がどう違うのか?
・ 違憲論は、自衛隊の海外「派遣」や日本の「自衛の措置」において、どこまでを「合憲」とし、どこからを「違憲」とするのか?
・ 憲法論において、法案違憲論と安倍内閣は、いったい何が違うのか?
 国会論戦を聞いたり、読んだりしても、これらの境界線が見えてこない。
 だから、議論は不毛な「平行線」に終わるだけで、議論そのものが何も深まらない・・・。
 

 〈「安保法案」=合憲論にいったん内在し、その論理を崩し、無化する〉ためには、「安保法案」の大本になっている昨年7月の「集団的自衛権」をめぐる安倍内閣の閣議決定の文章に分け入っていかねばならない。

 「閣議決定」は、「憲法第9条の下で許容される自衛の措置」において、政府の「憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる」としたうえで、「安保法案」が「憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内」にあるとし、その根拠を次のように述べている。

・・
(2) 憲法第9条はその文言からすると、 国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や第13条が「生命、自由および幸福追求 に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは到底解されない

 一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自 由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるも のであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される
 これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来、 政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権 と憲法との関係」に明確に示されているところである。 この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。

 (3) これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。
  しかし、 冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器等の脅威等により、わが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化 し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的・規模・態様等によっては、わが国の存立を脅かすことも現実 に起こり得る

 わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備 されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備等あらゆる必要な対応をとることは当然であるが、それでもなおわが国の存立を全う し、国民を守るために万全を期す必要がある。

 こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻 撃が発生した場合のみならず、
 わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追 求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、
 これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小 限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。

 (4) わが国による「武力の行使」が国際法を順守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。
 憲法上許容さ れる上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。
 この「武力の行使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とす るものが含まれるが、憲法上は、あくまでもわが国の存立を全うし、国民を守るためのやむを得ない自衛の措置としてはじめて許容されるものである。
・・

 「安保法案」の合憲性解釈を打ち出した上の閣議決定は、「正しい」だろうか?
 「間違っている」としたら、憲法解釈的に、何をもってそう言えるのか? 
 これらの問いに対する自分なりの答えを持つことが、「私たち」に問われている。


 安倍「安保法案」を問う際に、避けられない問題のひとつに、これまで「国権の発動」としての武力行使を否定してきたはずの「平和の公明党」が、なぜ、思想的にも路線的にも、到底相容れないはずの安倍自民党と共同戦線を張り、法案の法制化を目論むのか? がある。

 今や公明党は(16年前から?)、「積極的行動主義」の名の下に、「安保法案」論争の「バリケードの向こう側」に立ちながら、〈これまで軍事同盟でも何でもなかった日米安保体制の軍事同盟化〉のお先棒を担ぐ勢力として、積極的かつ行動的に動き回るようになったわけだが、その理由を公明党は、次のように正当化している。ほとんど「閣議決定」を、鸚鵡返しの如く、繰り返しているだけの内容である。

・・
 日本の憲法の考え方、政府の考え方は、9条1項で戦争を放棄して、2項で陸海空の戦力を持たないということを規定しております。一見、非武装を規定しているように読めます。 しかし、憲法の前文では平和のうちに生存する権利を示し、また13条では、国民の人権に対して政府は国政上最大の尊重を要する、と規定しております。
 国民の人権を最も奪う行為が日本に対する武力の攻撃ですから、これを排除するための力は必要であります。しかし9条がありますから、それは最小限のものでなければなりません。こういう考え方で、必要最小限度の自衛力を持つことは許される、こういう考えを取っております。

 個別的自衛権とか集団的自衛権という概念は、国際法で言われる概念でありますが、その集団的自衛権には、日本の国民の人権が台無しになること以外にも、他国をもっぱら守るために武力を使う概念も含まれておりますので、そうした国際法でいう集団的自衛権は日本の憲法は認められない、ということであります。

 他国に対する攻撃がきっかけであったとしても、それが日本に対する攻撃と同様に、日本の国民に深刻・重大な被害をもたらすような攻撃であれば日本は武力行使で反撃できるという、極めて限定的な意味での国際法上の集団的自衛権は認められる、という風に今回考えたわけです。

 日本の自衛権の行使が許されるのは、他国に加えられた攻撃か自国に加えられた攻撃か、ではなく、その攻撃が日本の国民の権利を根底から覆すことが明白なのかどうかという、客観的な考え方で一貫して捉えられているのが日本政府の考え方です。このような考え方は論理的に一貫しているものであり、また、これからも変わらないという、という意味で法的にも安定していると思います。

 ⇒「【全文】公明党・山口代表が安全保障法制について会見 」(BLOGOS 6/12/2015)より
・・

 「私たち」は、「安保法案」を違憲だと言い、認めない。
 しかし、「彼/彼女ら」は、合憲だと言い、法制化しようとする。
 どちらが「論理的に一貫」しており、「法的にも安定」している、と言えるのか? 
 あなたは、何と言うだろう。そして、その憲法解釈上の根拠は何だろう。


5 「違憲」なのか、それとも「違憲の疑いがある」なのか?
 「安保法案」を「違憲立法!」と断定することと、「違憲の疑いがある」と示唆することの間には、大きな違いがある。例えば、民主党は、少なくとも岡田代表をはじめとする党主流派は、「違憲立法」とは言わず、「違憲の疑いがある」という言い方をする。

・・
 時の内閣の判断で、戦争を始めてしまう。戦争を始めるということになれば、それによって救われる部分もあるかもしれませんが、反撃を当然食うので、日本国民の命、暮らし、ここに甚大な影響が及ぶ可能性があります。

 そういうところについて、しっかりとした議論がまだまだ必要だと思います。これだけの状態、そして金曜日の夜には、多くの学生が国会議事堂を取り囲んで、法案に対する反対を口々に唱えられました。学者も反対している、法制局長官経験者も憲法違反だと言っています。
 そして全国の自治体議員で、数多くの慎重審議を求める決議がなされています。それにもかかわらず、今週、強行採決がささやかれています。

 そういうことはあってはならないことです。安全保障法制に対する、国民の幅広い理解がなければ、これを闇雲に進める、特に憲法違反の疑いが非常に強いものを内閣がやってしまうのは、これは立憲国家、法治国家としての破壊になります。

「存立事態」(岡田克也 7月13日)より
・・

 岡田民主党代表は、「安保法案」を憲法違反と断定する一歩手前で逡巡し、注意深く、その「疑いが非常に強い」と表現にとどめようとする。それは、なぜなのか? それが〈問題〉である。


Ⅱ 憲法九条と「自衛の措置」

 「平和の公明党」は、「安保法案」を廃案に追い込むたたかいの「バリケードの向こう側」にいるが、民主党は党として、明確かつ鮮明な「違憲立法」論を打ち出せない。当面、廃案に向けた野党共闘にはやぶさかではないが、安倍「安保法案」に代わる岡田「安保法案」を、全党一致で取りまとめることは、おそらくできないだろう。
 なぜなら民主党は、政権交代に際して、自公政権の安保政策の抜本的見直しを回避し、大枠においてそれを踏襲、継承する方針を採ったからである。

 「日米安保」を日本の安保政策の中軸に据え、「日米同盟」なるものの「深化」をめざす、という点では、民主党と自公政権との間に何らの齟齬もない。民主党が党として反対しているのは、一つには「アジア・太平洋」地域を越えた「日米安保のグローバル化」と、
 もう一つには、安倍政権の「手続き的民主主義」や「熟議民主主義」を否定し、「立憲主義」の否定の「疑い」もある、その「上から目線」的、つまりはその官僚主義的で独善的な「政治手法」なのである。

 もちろん、これら一つ一つが重大な問題であり、法案と強行採決に対する十分な反対理由たりえるものではあるが、しかし民主党にはどこかしら「揺らぎ」が垣間見えるのも事実である。はっきり、しないのだ。その意味では、「私たち」は、今後、民主党の党内でどのような議論が起こってくるか、最後の最後に民主党がどうなるか、どうような立ち振る舞いをするか、についても監視を怠らないようにする必要がありそうである。民主党には「前科」があるからだ。

 では、安倍「安保法案」は、違憲だと断定できるのか、それも「違憲の疑いがある」程度の代物なのか? 私も、違憲だと断定する者の一人である。けれども、事はそう簡単ではない。

 ここから先に議論を進める一助として、ここで、ビジュアル的にも非常に参考になる資料を一つ紹介しておこう。 和田千才という人が16日付で公表した、「【安保法案】集団的自衛権、憲法制定時からこんなに変わった」である。その冒頭部には、次のように書かれている。

・・
もともと憲法9条で
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
と定められており、憲法制定時の政府は「日本に自衛権はあっても行使することができない」と考えていた。
 しかし、日本をめぐる安全保障環境が変化するたびに、日本政府は「わが国に軍隊はない」と主張しながらも、自衛隊が活動できる範囲を変えるなど、憲法に対する解釈を変えてきた。
 (中略)

 憲法制定時でも、日本政府は自国に自衛権があるとの考え方を取っていた。しかし、憲法9条2項によって、「一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した」と当時の吉田茂首相は発言しており、憲法によって自衛権の行使が認められないと解釈していた。

■米ソ冷戦「武力によらざる自衛権」
 自衛権が認められない当時、万が一の場合には国連軍が日本を守ることが想定されていた。しかし、米ソ冷戦が勃発。吉田首相は1950年1月、「武力によらざる自衛権を日本は持つ」と発言し、その後のアメリカとの軍事同盟の成立を匂わせた。旧日米安全保障条約が結ばれたのは1951年だった。
・・

 「自衛権」と「自衛の措置」、「自衛の措置」と「武力行使」。
 これらを日本国憲法の中に、あなたはどう読むか?
 憲法九条は、まだ生きているのか、それとももう死んで(死文化)しまっているのか?
 議論はそこから始まり、そこでまず深められねばならないのである。


2015年8月12日 「「必要最小限度の自衛の措置」って何?」につづく

・・・
安保法案が衆院通過 特別委に続き与党強行
 集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案は、16日午後の衆院本会議で自民、公明両党などの賛成により可決され、衆院を通過した。民主党など主な野党は質疑打ち切りに抗議して採決前に議場を退出。15日の衆院平和安全法制特別委員会に続き、与党が採決を強行した。安倍晋三首相が目指す今国会中の成立をめぐる与野党攻防の舞台は参院に移る。
 衆院審議では憲法との整合性を疑問視する声が強まったほか、拡大する自衛隊活動に関し歯止めが不明確だとの指摘もあり、参院審議でも焦点になりそうだ。

 法案は自衛隊法や武力攻撃事態法など10本の改正案を一括した「平和安全法制整備法案」と、他国軍の後方支援を随時可能にする新法「国際平和支援法案」の2本。
 米国など「密接な関係にある他国」に対する武力攻撃が発生した場合に「存立危機事態」と認定されれば、歴代政権が憲法9条の下で禁じてきた集団的自衛権の行使を可能にするなど、戦後の安保政策の転換となる。

 民主党の岡田克也代表は本会議で反対の立場から討論し「法案に対する反対の声はより高まっている。首相は国民の理解を得られなかったと率直に認め、直ちに撤回すべきだ」と訴えた。
 維新の党が提出した安保関連法案の対案も採決され、与党の反対多数で否決された。
 衆院本会議は午後1時すぎに開会し、特別委の浜田靖一委員長(自民党)が法案の審議結果を報告。与野党が賛成、反対の立場で討論した。民主、共産両党は討論で反対意見を表明した後、採決前に退席。維新は対案の採決後に議場を出た。社民、生活両党も採決に加わらなかった。(中国新聞)
・・・


【参考資料】
□ 平和安全法制 (概要(PDF)
 ○ 平和安全法制整備法 : 我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律 /案文(PDF)新旧対照表(PDF)参照条文(PDF)要綱(PDF)

 ○ 国際平和支援法 : 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律 /案文(PDF)参照条文(PDF)要綱(PDF)


【参考文献】
 日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構 (新評論 2010)
  「安保は軍事同盟ではない」。これが日本政府の公式見解だ。だとしたら、「日米同盟」の法的根拠とは何か。あるいはその逆に、安保が軍事同盟であるなら安保条約のどこにその根拠を見出しうるのか。また、かつて吉田茂は旧安保条約を米軍の「駐兵条約」と言ったが、ではそれを改定した現安保条約は在日米軍の無期限駐留を米国に保障した条約という以上の、何か具体的な軍事的意味を持つものなのか。
 岸信介は条約改定によって米国が「対日防衛義務」を負い、それによって安保は日本の「平和と安全」を「保障」する条約になったと語った。しかし、吉田茂もまたそれと同じことを語り、旧条約の国会「承認」を強行したのである。

 安保条約第五条一項。この条項はこれまで日米の「共同作戦」を規定した条項だと解釈されてきた。本書はそのような解釈に真っ向から挑戦する。北大西洋条約を始めとした軍事同盟条約と安保条約の条文の一字一句をつぶさに対照しながら、本書は安保条約が結局のところ「改定された駐兵条約」であり、1970年代末期に登場した日米同盟論が、「在日米軍の無期限駐留のための安保条約の無期限延長」を正当化するために捏造された、条約上の根拠なき政治宣言に過ぎないことを明らかにする。

 その意味で本書は、安保を「冷戦の産物」と捉え、軍事同盟規定した旧社会党や共産党の安保=対米従属論、さらには「60年安保」後の護憲運動が「九条を守る」ことを第一義に置き、安保問題を後景化させてきたことなどをも批判的検討の俎上にのせている。「日米同盟という欺瞞」を暴き、「日米安保という虚構」の物語を解体し、在日米軍の無期限駐留を阻むためには避けて通ることができない課題としてそれはある。
 読者の忌憚無き批判を仰ぎたい。

[本書の構成] 
第一章 日米同盟という欺瞞
第二章 日米安保という虚構(Ⅰ)――日米「共同防衛」の幻影
第三章 日米安保という虚構(Ⅱ)――安保=日米軍事同盟論をめぐって
第四章 憲法九条の死文化と日米安保――国家の自衛権をめぐって
第五章 憲法九条の死文化のメカニズム――「普通の国家」と霞ヶ関イリュージョン
第六章 国連憲章第五一条と「戦争と平和の同在性」
終章 日米同盟を再考し、日米安保に期限をつけるために
目次」の詳細はこちら、 「まえがき」はこちら「あとがき」はこちら、をご覧ください。