「集団的自衛権」をめぐる国会論戦について
社民党の福島みずほ議員が、3月4日の参議院予算委員会における、集団的自衛権をめぐる安倍首相との質疑応答の議事録(速報版)を公開した。 これを一読し、改めて痛感したことは、日本の国会は、このような議論を65年近くも繰り返し続けている、ということだ。
私は、そのことを『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の中でも論じ、私なりに検証しているが、ここではまず、日本の国会においてこれまで「集団的自衛権」がどのように論じられてきたか、その起源をたどってみることにしたい。 読者の多く、とりわけ「国民投票」の対象年齢とするか否かで未だに議論が絶えない18歳以上の「若い」世代の人々にも、もう若くはない人々にも、きっと参考になると思う。
国会で「集団的自衛権」が初めて議論されたのは、1950年2月、今から64年も前のことだ。
その翌年、1951年9月に日本は米国と、「日米安全保障条約」(旧条約・1960年改定)と、サンフランシスコ「平和/講和」条約に署名し、翌52年4月に両条約の発効をもって、GHQ占領統治からの「主権回復」と「独立」を果たすことになる、と私たちは学校教育で教えられてきたし、教科書にもそう書いている。
だから、以下は、占領統治下であるが、現日本国憲法下の、まだ安保条約の全貌が明らかになっていない段階での話である。 しかし、64年も前の遠い昔の話ではあるが、少なくとも現安倍政権下で展開されている、「集団的自衛権」をめぐるアレやコレやの国会論戦や議論よりも、より本質的で、質の高い議論がなされている。
質問に立つのは、中曽根康弘・元日本国内閣総理大臣だ。
当時は、「気鋭」の「民族主義」的若手議員で、注目を浴びていたらしい。
・・
[1950年2月3日 衆議院予算委員会]
○中曽根委員
そこでお聞きしたいと恵うのでありますが、国際連合憲章第五十一條を見ると、集団的自衛権というのがあります。 集団的自衛権という概念は、第二次世界大戰以後出て来た新しい概念だろうと思います。
わが国においては横田教授がこれを支持しておられる。この横田教授の所論を読んでみますと、今私が申し上げたような自衛権概念からやや離れている解釈をしております。
ここに「国際法外交」という雑誌がありますが、この二十四年(1949年)十月一日の「集団的自衛の法理」という横田さんの文章を読んでみます。
これによると、こういう意味の自衛権ではなくて、それは一種の集団的正当防衛である。
簡單に申し上げると、ここにいる人が殺されそうになつた、そこでこの人が防衛するのみならず、第三者がこれはあぶないと言つて守つてやる、第三者が危害を加えられる人を守つてやる、これが集団的自衛権であるということを言つているのです。
こういうような考え方が現在国際法学界というか、世界の国際法の通念において主流を占めて来ているのか、あるいはまだほんとうの部分的な少数説にすぎないのか、そのことを承りたい。
○西村(熊)政府委員 (外務省条約局長(当時))
私はその点にお答えするについては、学者でもございませんし、まことに自信がない次第でありますが、中曽根委員御指摘の通り、自衛権について集団的自衛権という観念が突如として現われましたのは、国際連合憲章第五十一條によつてであります。
国際連合に加盟しております六十弱の国は、むろん国際連合憲章の規定を受諾いたしておりますので、そういう国の政府は、むろん公式に集団的自衛権はあるというような考えをとつておられるものと解釈するのが常識だと思います。
しかしこれを他方純粹の国際法上の、いわゆる論拠、主張としてみます場合に、今日自衛権について個別的の自衛権と別に集団的自衛権というものが、国際政治上の必要からかどうか知りませんが、そういうものが国際連合憲章によつて認められたにつきましては、いかにしてこれを学問的に見て肯定するかという、その論拠について非常な研究が行われておるようであります。
私の知つている範囲内におきましては、横田先生の発表されました、今御紹介になりましたような解釈、これは私そんたくいたしますのに、日本の刑法の三十六條に見ましても、三十六條は、個人の正当防衛権に基く行為はこれを罰しないという趣旨でありますが、
そのときに自己及び他人の権利、云々という規定になつておりまして、必ずしも正当防衛権を行使するその個人でなく三他人に対する不正なる危害も認められているというのが、刑法上の規定でもあるし、また判例もそうなつているというところから演繹されての一つの試論――集団的自衛権というものを、国際法上肯定するについての一つの試論の程度において、先生御発表になつておるものと了承いたしております。
私の知つている範囲内におきまして、頭から集団的自衛権というものは、肯定さるべしという議論を述べられた国際法学者の説には、お目にかかつたことがございません。(中略)
○中曽根委員
そうしますと、個別的の自衛権と集団的自衛権というものは、根元は全然関係なしに別個なものとして二つ持つている、こういうふうに解釈してさしつかえありませんか。
○西村(熊)政府委員
非常にむずかしい学間上の議論になりますが、私は一つのものであろうかと思うのでございますが、ほんとうに自信がございませんということを告白いたします。
今申し上げましたように国際法上、自衛権について集団的自衛権というものが肯定できるかできないかということが、現下の国際法学者の非常に興味のある、いわゆる研究課題になつておりますので、その研究課題になつておる問題につきまして、専門家でもございませんような一小役人が、こう思うというような意見を述べることは差控えたいと思うのです。(中略)
尊敬いたしております横田先生と田岡先生の御両所の御意見について、相当の相違があるという点については日ごろ承知いたしております。 しかしただいま中曽根委員が表現された事柄は、少し両博士の立場を正確に言い表わしてないかと思いますので、つけ加えさしていただきます。
両先生とも問題にされておりますのは、永世中立の制度についての見解の相違でございまして、中曽根委員が言われるように広い意味の中立、一国が外交政策として他国の戰争に介入しないような政策をとつて行くことを、国策として行くという広い意味での中立の問題についての意見の相違ではございません。
永世中立というものは御承知の通り――また講義めいて恐縮でありますが、
一国がその国策として中立政策をとつて行くというだけでは不十分でございまして、関係諸国特に利害関係の深い大国がその国と條約を結びまして、その條約によつて永世中立国となる国は、永久に中立政策をとつて行く義務を負う。
従つて平素他国との戰争に巻き込まれる可能性のある條約をつくることは、できないということになりますに対して、いわゆるその他の関係国、保障国というものは、その国の中立を尊重すると同時に、その国の中立が他国によつて侵略されるような事態が発生したときには、武力をもつてこれを制止する義務を負う條約関係にある国が永世中立国であります。
こういう性格の永世中立国というものが、今日の日本のいわゆる安全保障という方式として妥当であるか、妥当でないかという点についての両先生の見解が違つておる、こう了解いたしております。永世中立の性質そのものについては、決して御意見の相違はございません。
しからばどこから両先生の御意見の相違が出て来ておるかと申しますと、横田先生は、今申し上げましたような永世中立国という制度は、十九世紀から二十世紀の前半における、いわゆる国際政治において、国家主権の傾向が非常に強くありまして、国家はお互いに独立国であるという思想が強く、二国または三国の間で戰争が起つても、他の大多数国が中立関係で残るというような時代には、安全保障の方策として最も有力な制度であつた。
しかしながら第一次世界大戰後の世界というものは、国際連盟が設立され、国際連合が設立され、世界のほとんど全部の国を包含する国際平和と安全維持の組織ができ、しかも国際連合憲章のように、戰争というものを全部否認いたしまして、あらゆる国際紛争を全部国際連合の手によつて平和的に、またそれで成功しない場合には強制的措置によつて、これを防渇ないし中止させるという大きな国際政治、国際社会の組織が変化しておる今日は、すでに永世中立というものは時代遅れの観念だという言葉を横田先生は使つております。
この時代遅れであるという横田先生の考えに対して田岡先生は、そうじやない、何となれば、日本は憲法によつて交戰権を放棄し、また武装も持たないという独特の国家がここに現われておる。それからもう一つはいわゆる連盟、ことに今日国際連合というものはできたけれども、しからばそれによつて現実的に国際の平和と安全が確保されるという自信われわれは持ち得ない。
世界の客観情勢から見て、こういう時代であるならば、永世中立という制度を十九世紀的のオブソリート(古く、廃れた)な制度だといつて軽くあしらわないで、日本の安全保障の方式として、もつと違つた目から検討する必要があるのではないかという立場をとられて、いわゆる永世中立制度というものに、新しい意義を持たせようという立場をとつておられるのが、田岡先生の立場だと了解いたしております。
この二つの学説はなるほど違つはおりますが、主として学説上の争いではございませんで、両先生の国際政治の現状に対する見方の違いから来ておる結論だと私は判断いたしております。
実は学者の学理上の争いではなくて、二国際法大家の国際政治観の違いである。こういうふうに判断いたしております。 (中略)
私が国家にいわゆる個別的自衛権と集団的自衛権があると申し上げましたのは、むろん言うまでもなく、国際連合憲章を受諾いたしまして国際連合加盟国となつておる国については、憲章の明文にそう規定してありますから、そういうふうに解釈するのが穏当であろうと考えております、という形式で申し上げたということをお忘れにならないようにお願いいたします。
○中曽根委員
具体的に聞きますが、戰争の問題、戰争に関する條項に関するその部分については留保をしなければ、われわれは国際連合に加入できないのではないか。この問題に対してはどういうふうな御見解でありますか。
○西村(熊)政府委員
国際連合憲章は、御承知の通りどこにも戰争ということを容認しておりません。この点は連盟の規約と非常に違うところでございます。連盟規約はある場合には合法的な戰争というものを認めております。国際迎合におきましては、完全に戰争というものは禁止いたされております。
しかしながら国際連合というものは、第七章によりまして、強制的措置をとる。この場合には武力の行使、すなわち協力的措置をとることを規定しております。その場合には加盟国は、安全保障理事会の決定に服従する義務があるということになつております。
従つて日本のように交戰権を放棄するのみならず、軍備を持たないという性格を持つておる国が、かりに加盟国になりますならば、憲章第七章の規定によつて予見されておるような連合の行動に対する援助をなし得ない。いわゆる国内法上限界があるということは当然でございます。
従つてその点についての連合と日本政府との関係についての明確なる留保なり了解なりがあつた上に、それが可能であるならば、その場合に初めて日本の国際連合加入というようなものが可能になるであろう。こういうように考えておるのでございます。
・・
非常に、政治的かつ知的想像力を刺激する「論戦」ではないか。
このやりとりから整理できることを、次回、考えてみよう。
・・・
・【憲法解釈変更】 「憲政の王道外れる」
内閣法制局元長官、解釈改憲に警鐘
安倍晋三首相が集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更に意欲を示していることについて、元内閣法制局長官の 阪田雅裕氏は6日、東京都内の日本記者クラブで講演し
「(解釈改憲は)決して憲政の王道ではない。行使容認が必要なら、ぜひ9条を改正してもらいたい」と訴えた。
法制局は法制面から内閣を補佐する機関で、阪田氏は小泉純一郎政権の2004年から2年間、長官を務めた。同盟国などに武力攻撃があった場合、自国への攻撃がなくても実力で阻止する権利とされる集団的自衛権の行使を禁じてきた憲法解釈を安倍首相が変更しようとしていることに、阪田氏は、「自衛隊が発足してから約60年間『海外派兵はできない』と政府は言い続けてきたが、それを一内閣の判断で変えて良いのか」と疑問を呈した。
行使が容認された場合は「今すぐではないが、憲法上は自衛隊が戦闘に参加できるようになる。ベトナム戦争には韓国軍も派遣され、死者がたくさん出た。自衛隊が海外で外国の人を傷つけることも起こり得る」と指摘。「国の大事な政策転換であり、本当に必要なら、憲法改正手続きをして国民投票で賛否を問うべきだ」と述べた。
安倍首相が起用した外務省出身の 小松一郎 現長官は行使容認に前向きとされる。阪田氏は憲法解釈について「最終的な判断をするのはあくまでも内閣だが、法律の専門家集団である法制局の意見はそれなりに尊重されてきた」と説明。
「論理を詰めて筋が通っていることが重要だ。そこが失われたら、法制局が国会で何を言っても『政府の使いっ走り』と言われ、権威はなくなってしまう」と警鐘を鳴らした。(共同)
↓
ここで重要なことは、阪田氏が「集団的自衛権」の行使そのものに反対しているのではないということである。氏は、「集団的自衛権」の行使が違憲とはならない「王道」、改憲による合憲化とその行政手続きを問題にしているのである。そしてさらに、確かに解釈改憲は「憲政の王道」ではないが、それが「できない」と言っているのでもないことである。
はっきり言えば、解釈改憲による「集団的自衛権」の行使の合憲化は、憲法および法体系の解釈次第で、これまでがそうであったように可能である。 そのことは、日本国憲法下において、日米安保と、国際法上は軍隊として解釈することが可能な自衛隊の存在を合憲と解釈し、国連加盟において「集団的自衛権」の行使をめぐり、いっさい保留をつけなかった日本の戦後史の必然的帰結というべきである。 そしてそこに、日本の「戦後レジーム」そのものと、その「戦後レジームからの脱却」を主張する言説両方の欺瞞性が潜んでいるのである。
・国民投票法、与党案修正に前向き 自民船田氏が強調
自民党の船田元・憲法改正推進本部長は7日、改憲手続きを確定させる国民投票法改正をめぐり、投票年齢を改正法施行4年後に「18歳以上」に引き下げるなどとした与党案の修正に前向きな考えを強調した。
「与党案に何らかの修正を加えなければならない」と述べた。同日の与野党協議後、国会内で記者団に語った。修正案は来週の協議で提示する考えだ。
同時に「共同提案または賛成してくれる政党をできるだけ増やしたい」と語り、今国会の改正案提出に意欲を示した。 菅義偉官房長官は記者会見で「速やかに協議を進めることが大事だ」と述べ、与野党協議の行方に期待感を表明した。(共同)
「批評する工房のパレット 」内関連ページ
⇒2014年2月22日 「「集団的自衛権」行使の5要件? 個別法で対処? 秋の臨時国会で?」
⇒2013年9月11日 「憲法九条と集団的自衛権の行使が共存する時代」
社民党の福島みずほ議員が、3月4日の参議院予算委員会における、集団的自衛権をめぐる安倍首相との質疑応答の議事録(速報版)を公開した。 これを一読し、改めて痛感したことは、日本の国会は、このような議論を65年近くも繰り返し続けている、ということだ。
私は、そのことを『日米同盟という欺瞞、日米安保という虚構』の中でも論じ、私なりに検証しているが、ここではまず、日本の国会においてこれまで「集団的自衛権」がどのように論じられてきたか、その起源をたどってみることにしたい。 読者の多く、とりわけ「国民投票」の対象年齢とするか否かで未だに議論が絶えない18歳以上の「若い」世代の人々にも、もう若くはない人々にも、きっと参考になると思う。
国会で「集団的自衛権」が初めて議論されたのは、1950年2月、今から64年も前のことだ。
その翌年、1951年9月に日本は米国と、「日米安全保障条約」(旧条約・1960年改定)と、サンフランシスコ「平和/講和」条約に署名し、翌52年4月に両条約の発効をもって、GHQ占領統治からの「主権回復」と「独立」を果たすことになる、と私たちは学校教育で教えられてきたし、教科書にもそう書いている。
だから、以下は、占領統治下であるが、現日本国憲法下の、まだ安保条約の全貌が明らかになっていない段階での話である。 しかし、64年も前の遠い昔の話ではあるが、少なくとも現安倍政権下で展開されている、「集団的自衛権」をめぐるアレやコレやの国会論戦や議論よりも、より本質的で、質の高い議論がなされている。
質問に立つのは、中曽根康弘・元日本国内閣総理大臣だ。
当時は、「気鋭」の「民族主義」的若手議員で、注目を浴びていたらしい。
・・
[1950年2月3日 衆議院予算委員会]
○中曽根委員
そこでお聞きしたいと恵うのでありますが、国際連合憲章第五十一條を見ると、集団的自衛権というのがあります。 集団的自衛権という概念は、第二次世界大戰以後出て来た新しい概念だろうと思います。
わが国においては横田教授がこれを支持しておられる。この横田教授の所論を読んでみますと、今私が申し上げたような自衛権概念からやや離れている解釈をしております。
ここに「国際法外交」という雑誌がありますが、この二十四年(1949年)十月一日の「集団的自衛の法理」という横田さんの文章を読んでみます。
これによると、こういう意味の自衛権ではなくて、それは一種の集団的正当防衛である。
簡單に申し上げると、ここにいる人が殺されそうになつた、そこでこの人が防衛するのみならず、第三者がこれはあぶないと言つて守つてやる、第三者が危害を加えられる人を守つてやる、これが集団的自衛権であるということを言つているのです。
こういうような考え方が現在国際法学界というか、世界の国際法の通念において主流を占めて来ているのか、あるいはまだほんとうの部分的な少数説にすぎないのか、そのことを承りたい。
○西村(熊)政府委員 (外務省条約局長(当時))
私はその点にお答えするについては、学者でもございませんし、まことに自信がない次第でありますが、中曽根委員御指摘の通り、自衛権について集団的自衛権という観念が突如として現われましたのは、国際連合憲章第五十一條によつてであります。
国際連合に加盟しております六十弱の国は、むろん国際連合憲章の規定を受諾いたしておりますので、そういう国の政府は、むろん公式に集団的自衛権はあるというような考えをとつておられるものと解釈するのが常識だと思います。
しかしこれを他方純粹の国際法上の、いわゆる論拠、主張としてみます場合に、今日自衛権について個別的の自衛権と別に集団的自衛権というものが、国際政治上の必要からかどうか知りませんが、そういうものが国際連合憲章によつて認められたにつきましては、いかにしてこれを学問的に見て肯定するかという、その論拠について非常な研究が行われておるようであります。
私の知つている範囲内におきましては、横田先生の発表されました、今御紹介になりましたような解釈、これは私そんたくいたしますのに、日本の刑法の三十六條に見ましても、三十六條は、個人の正当防衛権に基く行為はこれを罰しないという趣旨でありますが、
そのときに自己及び他人の権利、云々という規定になつておりまして、必ずしも正当防衛権を行使するその個人でなく三他人に対する不正なる危害も認められているというのが、刑法上の規定でもあるし、また判例もそうなつているというところから演繹されての一つの試論――集団的自衛権というものを、国際法上肯定するについての一つの試論の程度において、先生御発表になつておるものと了承いたしております。
私の知つている範囲内におきまして、頭から集団的自衛権というものは、肯定さるべしという議論を述べられた国際法学者の説には、お目にかかつたことがございません。(中略)
○中曽根委員
そうしますと、個別的の自衛権と集団的自衛権というものは、根元は全然関係なしに別個なものとして二つ持つている、こういうふうに解釈してさしつかえありませんか。
○西村(熊)政府委員
非常にむずかしい学間上の議論になりますが、私は一つのものであろうかと思うのでございますが、ほんとうに自信がございませんということを告白いたします。
今申し上げましたように国際法上、自衛権について集団的自衛権というものが肯定できるかできないかということが、現下の国際法学者の非常に興味のある、いわゆる研究課題になつておりますので、その研究課題になつておる問題につきまして、専門家でもございませんような一小役人が、こう思うというような意見を述べることは差控えたいと思うのです。(中略)
尊敬いたしております横田先生と田岡先生の御両所の御意見について、相当の相違があるという点については日ごろ承知いたしております。 しかしただいま中曽根委員が表現された事柄は、少し両博士の立場を正確に言い表わしてないかと思いますので、つけ加えさしていただきます。
両先生とも問題にされておりますのは、永世中立の制度についての見解の相違でございまして、中曽根委員が言われるように広い意味の中立、一国が外交政策として他国の戰争に介入しないような政策をとつて行くことを、国策として行くという広い意味での中立の問題についての意見の相違ではございません。
永世中立というものは御承知の通り――また講義めいて恐縮でありますが、
一国がその国策として中立政策をとつて行くというだけでは不十分でございまして、関係諸国特に利害関係の深い大国がその国と條約を結びまして、その條約によつて永世中立国となる国は、永久に中立政策をとつて行く義務を負う。
従つて平素他国との戰争に巻き込まれる可能性のある條約をつくることは、できないということになりますに対して、いわゆるその他の関係国、保障国というものは、その国の中立を尊重すると同時に、その国の中立が他国によつて侵略されるような事態が発生したときには、武力をもつてこれを制止する義務を負う條約関係にある国が永世中立国であります。
こういう性格の永世中立国というものが、今日の日本のいわゆる安全保障という方式として妥当であるか、妥当でないかという点についての両先生の見解が違つておる、こう了解いたしております。永世中立の性質そのものについては、決して御意見の相違はございません。
しからばどこから両先生の御意見の相違が出て来ておるかと申しますと、横田先生は、今申し上げましたような永世中立国という制度は、十九世紀から二十世紀の前半における、いわゆる国際政治において、国家主権の傾向が非常に強くありまして、国家はお互いに独立国であるという思想が強く、二国または三国の間で戰争が起つても、他の大多数国が中立関係で残るというような時代には、安全保障の方策として最も有力な制度であつた。
しかしながら第一次世界大戰後の世界というものは、国際連盟が設立され、国際連合が設立され、世界のほとんど全部の国を包含する国際平和と安全維持の組織ができ、しかも国際連合憲章のように、戰争というものを全部否認いたしまして、あらゆる国際紛争を全部国際連合の手によつて平和的に、またそれで成功しない場合には強制的措置によつて、これを防渇ないし中止させるという大きな国際政治、国際社会の組織が変化しておる今日は、すでに永世中立というものは時代遅れの観念だという言葉を横田先生は使つております。
この時代遅れであるという横田先生の考えに対して田岡先生は、そうじやない、何となれば、日本は憲法によつて交戰権を放棄し、また武装も持たないという独特の国家がここに現われておる。それからもう一つはいわゆる連盟、ことに今日国際連合というものはできたけれども、しからばそれによつて現実的に国際の平和と安全が確保されるという自信われわれは持ち得ない。
世界の客観情勢から見て、こういう時代であるならば、永世中立という制度を十九世紀的のオブソリート(古く、廃れた)な制度だといつて軽くあしらわないで、日本の安全保障の方式として、もつと違つた目から検討する必要があるのではないかという立場をとられて、いわゆる永世中立制度というものに、新しい意義を持たせようという立場をとつておられるのが、田岡先生の立場だと了解いたしております。
この二つの学説はなるほど違つはおりますが、主として学説上の争いではございませんで、両先生の国際政治の現状に対する見方の違いから来ておる結論だと私は判断いたしております。
実は学者の学理上の争いではなくて、二国際法大家の国際政治観の違いである。こういうふうに判断いたしております。 (中略)
私が国家にいわゆる個別的自衛権と集団的自衛権があると申し上げましたのは、むろん言うまでもなく、国際連合憲章を受諾いたしまして国際連合加盟国となつておる国については、憲章の明文にそう規定してありますから、そういうふうに解釈するのが穏当であろうと考えております、という形式で申し上げたということをお忘れにならないようにお願いいたします。
○中曽根委員
具体的に聞きますが、戰争の問題、戰争に関する條項に関するその部分については留保をしなければ、われわれは国際連合に加入できないのではないか。この問題に対してはどういうふうな御見解でありますか。
○西村(熊)政府委員
国際連合憲章は、御承知の通りどこにも戰争ということを容認しておりません。この点は連盟の規約と非常に違うところでございます。連盟規約はある場合には合法的な戰争というものを認めております。国際迎合におきましては、完全に戰争というものは禁止いたされております。
しかしながら国際連合というものは、第七章によりまして、強制的措置をとる。この場合には武力の行使、すなわち協力的措置をとることを規定しております。その場合には加盟国は、安全保障理事会の決定に服従する義務があるということになつております。
従つて日本のように交戰権を放棄するのみならず、軍備を持たないという性格を持つておる国が、かりに加盟国になりますならば、憲章第七章の規定によつて予見されておるような連合の行動に対する援助をなし得ない。いわゆる国内法上限界があるということは当然でございます。
従つてその点についての連合と日本政府との関係についての明確なる留保なり了解なりがあつた上に、それが可能であるならば、その場合に初めて日本の国際連合加入というようなものが可能になるであろう。こういうように考えておるのでございます。
・・
非常に、政治的かつ知的想像力を刺激する「論戦」ではないか。
このやりとりから整理できることを、次回、考えてみよう。
・・・
・【憲法解釈変更】 「憲政の王道外れる」
内閣法制局元長官、解釈改憲に警鐘
安倍晋三首相が集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更に意欲を示していることについて、元内閣法制局長官の 阪田雅裕氏は6日、東京都内の日本記者クラブで講演し
「(解釈改憲は)決して憲政の王道ではない。行使容認が必要なら、ぜひ9条を改正してもらいたい」と訴えた。
法制局は法制面から内閣を補佐する機関で、阪田氏は小泉純一郎政権の2004年から2年間、長官を務めた。同盟国などに武力攻撃があった場合、自国への攻撃がなくても実力で阻止する権利とされる集団的自衛権の行使を禁じてきた憲法解釈を安倍首相が変更しようとしていることに、阪田氏は、「自衛隊が発足してから約60年間『海外派兵はできない』と政府は言い続けてきたが、それを一内閣の判断で変えて良いのか」と疑問を呈した。
行使が容認された場合は「今すぐではないが、憲法上は自衛隊が戦闘に参加できるようになる。ベトナム戦争には韓国軍も派遣され、死者がたくさん出た。自衛隊が海外で外国の人を傷つけることも起こり得る」と指摘。「国の大事な政策転換であり、本当に必要なら、憲法改正手続きをして国民投票で賛否を問うべきだ」と述べた。
安倍首相が起用した外務省出身の 小松一郎 現長官は行使容認に前向きとされる。阪田氏は憲法解釈について「最終的な判断をするのはあくまでも内閣だが、法律の専門家集団である法制局の意見はそれなりに尊重されてきた」と説明。
「論理を詰めて筋が通っていることが重要だ。そこが失われたら、法制局が国会で何を言っても『政府の使いっ走り』と言われ、権威はなくなってしまう」と警鐘を鳴らした。(共同)
↓
ここで重要なことは、阪田氏が「集団的自衛権」の行使そのものに反対しているのではないということである。氏は、「集団的自衛権」の行使が違憲とはならない「王道」、改憲による合憲化とその行政手続きを問題にしているのである。そしてさらに、確かに解釈改憲は「憲政の王道」ではないが、それが「できない」と言っているのでもないことである。
はっきり言えば、解釈改憲による「集団的自衛権」の行使の合憲化は、憲法および法体系の解釈次第で、これまでがそうであったように可能である。 そのことは、日本国憲法下において、日米安保と、国際法上は軍隊として解釈することが可能な自衛隊の存在を合憲と解釈し、国連加盟において「集団的自衛権」の行使をめぐり、いっさい保留をつけなかった日本の戦後史の必然的帰結というべきである。 そしてそこに、日本の「戦後レジーム」そのものと、その「戦後レジームからの脱却」を主張する言説両方の欺瞞性が潜んでいるのである。
・国民投票法、与党案修正に前向き 自民船田氏が強調
自民党の船田元・憲法改正推進本部長は7日、改憲手続きを確定させる国民投票法改正をめぐり、投票年齢を改正法施行4年後に「18歳以上」に引き下げるなどとした与党案の修正に前向きな考えを強調した。
「与党案に何らかの修正を加えなければならない」と述べた。同日の与野党協議後、国会内で記者団に語った。修正案は来週の協議で提示する考えだ。
同時に「共同提案または賛成してくれる政党をできるだけ増やしたい」と語り、今国会の改正案提出に意欲を示した。 菅義偉官房長官は記者会見で「速やかに協議を進めることが大事だ」と述べ、与野党協議の行方に期待感を表明した。(共同)
「批評する工房のパレット 」内関連ページ
⇒2014年2月22日 「「集団的自衛権」行使の5要件? 個別法で対処? 秋の臨時国会で?」
⇒2013年9月11日 「憲法九条と集団的自衛権の行使が共存する時代」