2011年6月23日木曜日

安保と原発のPolitical Technology(政治工学)

 安保と原発のPolitical Technology(政治工学)


 安保と原発に共通しているのは、両者とも国策として推進されてきたことだ。そして両者とも「地方」に犠牲を強いてきたことである。
 もちろん、米軍基地は東京にも神奈川にもある。しかし沖縄の一極集中状況とその他の「地方」が日米安保体制の実体を担わされてきたことに変わりない。
 そして福島と福井の「原発銀座」。青森なんて、原発の集積基地と化すと同時に、米軍基地も押し付けられてきた、稀にみる自治体である。こんなところが世界のどこにあるだろう。

 交付金と地域振興策によって、つまり札束をちらつかせながら、時には頬っぺたを札束ではたきながら、危険な国策を地方に押し付けるというのは、うまいやり方だ。必ず、「受け入れよう」と言い出す人たちが現れるからだし、地方で何が起ころうと、大都市圏のサイレント・マジョリティは「我関せず」でいるからである。1億3000万分の100万や200万、いや1000万、2000万人を切り捨てたところで、国の政治の大勢に影響は出ない。

 サイレント・マジョリティとは、たいてい国策とか国家が持ち出されると黙り込む、保守派の代名詞である。国策に抵抗する地元のたたかいは、長期戦になればなるほど、孤立化し、分裂し、サイレント・マジョリティに黙殺され、負けてしまう。それでも、国策と国家に対してたたかい続ける地方の者たちは、静かな怒りをやがて冷たい敵意に変え、その冷たいまなざしは、自分たちの叫びや呼びかけに耳もかさない大都会のサイレント・マジョリティに向けるようになる・・・。

 10代の頃、だいたいそんな風に、私は考えていた。
 しかし、「そうではないのだ」と、教えてくれた人がいる。日高六郎という人である。
 また古い話になって恐縮だが、今から30年ほど前、日高さんを招いて小さな企画をやったことがある。その企画の後、二人で話す機会があった。何を話していたかは詳しく覚えていないが、そのとき日高さんは「権力が支配を維持するためには、人民の15%ほどを掌握していればよい」みたいな事を言ったのである。
 今思えば、「なぜ15%なのか?」と訊けばよかったのだが、この話は当時の私には「目から鱗」もので、痛く衝撃を受けたのを覚えている。

 サイレント・マジョリティが「権力」を支持しなくとも、「権力」は自らを維持できる。サイレント・マジョリティがひたすら現状維持と安定を好む保守派、などというのは偏見と妄想であって、彼/彼女らは潜在的反逆者でさえあるかも知れないのである。「その時代のもっとも支配的なイデオロギー」を信奉する者は、マジョリティではなく、15%程度で十分なのである。
 「15%」が社会学的に正しい値なのかどうか、当時も今も私には分からない。社会学者の日高さんが言うのだから学説的に根拠のない話でもないのだろう、その程度に考え、痛く若かった私は納得したものである。 
 

 日高六郎の「15%」を思い出したのは、先週末、"Political technology": why is it alive and flourishing in the former USSR? というOpen Democracyに掲載されたテキストを読んだからである。

 旧ソ連時代の共産党の「支配の政治学」やレーニン像倒壊後のロシアの政治過程に関心がある人は、原文を読んで欲しい。ここでは、Political technologyとは、要するに、日高六郎言うところの「15%」の「政治工学」のこと、と理解することにしたい。私としては、そう考えることで沖縄・安保・原発問題から、アフガニスタン・リビア・パレスチナまで、ここ最近のいろんな事象の謎解きをする、一つの「鍵」を得た思いがしたからである。 

(つづく)