2011年6月14日火曜日

子どもたちが「積算被曝量計測器」を持たされる日

子どもたちが「積算被曝量計測器」を持たされる日

 福島市の子どもたち3万4千人が、9月から「被ばくした積算放射線量を計測する小型線量計」を持たされることになるらしい。対象は、保育園と幼稚園の園児と小中学校、特別支援学校の児童・生徒。「市内に放射線量が高い地域があり、一部の小中学校は子どもの校庭利用を制限、保護者の放射線に対する不安が高まっている。市は子ども一人一人の被ばく線量を測定し、健康管理に生かす(???)」という(共同通信の記事より)。

 「何か違う」という思いが強くしている。「何かが欠けている」という思い。子どもにとって線量計を持つことは何を意味するのか。「保護者の放射線に対する不安」と「子ども一人一人の被ばく線量を測定し、健康管理に生かす」が、どうつながるのか。「何か違う」という直感的な違和感が拭いきれないでいる。

 ところで。関東の放射線量が上昇している。
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各地の放射線量 関東で上昇目立つ 東北はほぼ横ばい
 東北、関東各都県で12日午前9時から13日午前9時に観測された最大放射線量は11~12日に比べ関東で上昇が目立った。文部科学省の集計によると、茨城が毎時0・103マイクロシーベルト、栃木が0・065マイクロシーベルトに上昇した。(共同通信より)→こんな値が出たのでは、文科省が信用できないからこそ、わざわざ子どものために線量計を買い、自宅のベランダから近くの公園まで毎日放射線量を測定しているママさんたちは、ドギモを抜くに違いない。
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 多分、「直感的な違和感」を私がいだいてしまうのは、「子どもを守る」という自治体・教育委員会・学校・保護者の行為を、「守られている」子どもたちがどう見ている/考えているか、そこにかなり、あるいは微妙なズレ、ギャップがあるのではないか、という先入観を持っているからなのだと思う。
 ポスト「3・11」における原発の「安全基準」や市民の「安心基準」にも深く関わる問題なのだが、一言で言えば、「被曝社会における子どもの教育とは何か?」に行き着く問題である。非常にセンシティヴな問題なので、もう少し考えてみたい。

〈Fukushimaの子どもたちと宮城の子どもたち〉
 毎日新聞にこんな記事があった。この子の詩を引用させていただく。

ない
見わたせば/なにもない
そこにあるはずの/風景/思い
ぜんぶない

でも
そこにあった/ものをとりもどす/ために
がんばっている

ぼくたちにはまえとはちがうが
必ずいいものが
帰ってくるだろう
・・・

 「宮城の子どもたち」は「岩手の子どもたち」でもよい。しかしおそらく、Fukushimaの子どもたちには、このような詩は書けないだろう。「まえとはちがうが/必ずいいものが/帰ってくるだろう」とは、とても書けないからである。

 「3・11」以後の国・県・市町村の事後措置を考える場合、たとえば米国・米軍が「80キロ圏内避難勧告」を未だ解除していない現実をきちんと見ておく必要がある、と私は思う。私は最初の最初から言っているのだが、国としての対処としては、明らかに米国の判断の方が正しい。つまるところ、国の自治体の判断のすべては市民の「安心」よりも、「前例主義」「法令主義」と銭勘定に基づいて決定されてきた/いるということである。

 実はそれは、大学においても同じなのだ。たとえば、ここに「福島大学教員有志、「授業再開」についての公開質問状を提出」がある。(福島大の教員有志の活動についてはこちらを参照して欲しい。)

 「福島大学授業再開問題」については、ある教員がブログでこの問題を論じ始めた頃から多くの人が注目してきたと思う。大学教員、しかも国立大学の教員が当局に対して公開質問状を突きつけ、さらには県に対して要望書を出す、ということはきわめて「異例」である。だから、それだけでサポートするに値する行為だと私は考えている(注1参照)。 しかしここでは、そのことにはこれ以上立ち入らない。ここでの問題は、福島大学内で議論されてきたようなことが、どれだけ県や自治体の教育委員会レベルで、保護者を交えながら、議論されてきたかというところにある。
 保護者が「被ばくした積算放射線量を計測する小型線量計」を子どもに持たせるように、市の教育委員会に要求したのだろうか? そういうことを親たちは市に望んでいるのだろうか、それで何か親たちが「安心」できるようなことがあるのだろうか? 私が保護者であれば、そういうことを要望するかどうか・・・。「何か違う」とどうしても考えてしまう。
 「線量計」を子どもに持たせたとして、「基準値」を上回ったとして、どういう「健康管理」を市が子どもにするのかが、私にはイメージできない。そのことが違和感を増幅させるのである。

 もう一つは、福島の「大人たち」(教育行政)が、原発問題を子どもたちにどのように説明しているのか、という問題である。何のために毎日マスクをするのか、教室の窓を閉め切るのか、校庭で遊べないのか、寄り道してはいけないのか、「線量計」を持ち歩かねばならないのか。 「原発のせい」ということは、子どもだって分かっている。で、そこから何を「大人」は子どもに語るのか? 「線量計」を持たせることより、持たせるからこそ、もっと大切なこと。
 福島の学校教育は、教師たちは、これまで原発をどう子どもに教えてきたのか、これからどう教えてゆくのか。教科書はどうする? 補助教材は? 国の方針が決まってから? 日本はこれから原発について、子どもに何をどう〈教育〉するのか?

 子どもたちは、これから決まるであろう(何も決まっていない)福島第一原発の5、6号機の廃炉問題、7、8号機建設計画問題、第二原発の廃炉問題について、何の決定権も持たない。それを決めるのは子どもに「線量計」を持たせる大人たちだ。福島の大人たち、県・市町村、学校/高校/大学教師たちは、この問題をきちんと子どもに説明し、考えさせる義務がある。大人が何を決めるにせよ、その決定を一生背負っていかねばならないのは子どもたちだからである。
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子どもの将来のため 「脱原発」に歓迎の声
 県の復興ビジョン検討委員会が15日、打ち出した「脱原発」の意思表示。東京電力福島第1原発事故で避難生活を強いられたり、風評被害など大きな影響を受けているだけに、県民からは評価する声が聞かれる。その一方で約40年にわたり“共存”してきた原発との「決別宣言」に複雑な思いを吐露する県民もいる。
 福島第2原発が立地する楢葉町から会津美里町に避難している山野辺利幸さん(57)は「これまでは原発のおかげで地元が発展し、職もあった」としながらも「今の町には何もない。現状を考えると原発をなくさないと町に帰ることはできない」と話し、脱原発に賛成する。
 原発事故は、子どもの生活にも大きな影響を及ぼしている。佐藤辰夫県PTA連合会長は「子どもの健康への放射線の影響は将来にわたり心配だ。県は、脱原発の方針を貫いてほしい」と力を込めた。鏡石町の岡ノ内幼稚園の山野辺澄子園長は「子どもたちの将来のためにも原発は廃止し、新たなエネルギー資源の確保を目指してほしい」と話した。(福島民友ニュース)
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 「復興ビジョン検討委員会」の「意思」を、県の意思とし、第一・第二原発の立地自治体の意思とすることが次のステップである。その次には、東電から文書における廃炉の確約を取る必要があるだろう。それは国の方針決定を待たずに、自治体の権限においてできることである。こうした具体的手続きを、一つ一つ確実に進めることが、県・市町村の行政責任というものだろう。

 とにかく。子どもが「被ばくした積算放射線量を計測する小型線量計」を持ち歩く日常は異常としか言いようがない。それが異常だという認識、感覚を失ってはダメだと思う。 大人の一人として、私たちも子どもたちにその異常さをどう説明し、その次に何を語るか。
 子どもがいる人もいない人も、きちんと考える必要があるのではないか。それが子どもに対する大人の責任だと私は思う。みなさんはどう考えるだろうか。

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学校プール:文科省が利用容認…福島県内、月2回検査で
 文部科学省は16日、東京電力福島第1原発事故による放射線の影響が懸念されている福島県内の学校の屋外プールの水について、毎月2回以上の検査を求めた上で利用を容認する暫定的な方針を同県教育委員会などに通知した。だが、飲料水について食品安全委員会が新たな規制値を検討中のため、文科省は利用の可否に直結する基準値までは示さず、飲料水の規制値が見直された段階で基準を策定する方針だ。
 通知では、小学生が1回の屋外プール授業で受ける放射線量について、現状では0.41マイクロシーベルト、15回の授業で計6.1マイクロシーベルトになると推計(参考値)。前提として、プールの水1リットル当たり10ベクレルの放射性物質が検出され、プールサイドの放射線量は毎時1マイクロシーベルト、水200ミリリットルを誤飲し、30分間の水中活動をするなどと仮定して算出した。 最近は福島県内の水道水からヨウ素やセシウムなどの放射性物質が検出されておらず、通知は「屋外プールの利用に際して児童生徒が水から受ける線量は極めて低い」と指摘。文科省は今年度に児童生徒が学校で受ける放射線量を1ミリ(=1000マイクロ)シーベルト以下にする目標を掲げているが、スポーツ・青少年局の担当者は、プール授業で受ける放射線量(15回で推計6.1マイクロシーベルト)について「(目標達成に)影響しない数字」との認識を示した。
 同県の屋外プール授業を巡っては、同県教委が5月30日にシャワーなど注意事項の徹底を条件に「実施は問題ない」との通知を出したが、保護者らの不安が根強く、文科省によると、福島市など約30市町村が利用を中止している。同県外の地域からも早期の基準づくりを求める声が上がっている。【毎日・木村健二】

自民・石原氏、反原発は「集団ヒステリー」
 自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、東京電力福島第1原発の事故後、反原発の動きが広がっていることについて「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と述べた。 「反原発は簡単だ。脱原発というのも簡単だ。しかし生活を考えたときどういう選択肢があるのか示さなければいけない」とも指摘した。(産経)
原発、本当に必要なら消費地の大阪に…橋下知事(読売)
クローズアップ2011(毎日新聞)

福井県の原発、再稼働のハードル高く 西川知事「ボールは国に」
 福井県内で停止中の原発の再稼働が大きなハードルに直面している。西川一誠福井県知事は13日の記者会見で、国が福島第1原発事故を踏まえた安全基準を示していないとして、再稼働は認めないとの考えを改めて示した。西川知事が国に求めている安全基準は簡単には示されそうにない。電力不足による節電を回避するために残された時間は限られている。 西川知事は都内の日本記者クラブでの会見で「節電と停止中原発の再稼働了承の判断は関係ない」と述べた。
 福井県は国に対し、福島での事故で特に(1)地震の影響はなかったか(2)原子炉の高経年化(老朽化)の影響はないか――の2点を明らかにするよう求めている。県側はその回答がまだ来ていないという立場だ。 しかし、福島第1原発の津波到達前の地震の揺れによる原発の損傷や高経年化の影響が明らかになるには相当な時間がかかる見通し。高経年化については、同県内には40年超運転を了承された敦賀1号機、美浜1号機をはじめ、1980年以前に稼働した原子炉が8基ある。再稼働と電力需給を完全に切り離して判断するという西川知事が求める原因究明のハードルは、極めて高い。 西川知事は「産業界が電気は大丈夫かと心配していては日本の将来はない」と配慮を見せる一方で、「ボールは国にある」と強調した。
 原発事故が収束していない中で、国が電力需要がピークを迎える7月下旬までに安全基準を示せるかどうかは微妙な状況。さらに、原発を再稼働するには手続き的にも物理的にも時間が必要だ。 福井県の原子力安全対策課によると、国が自治体に向け原発の新たな安全基準を提示した場合、県は副知事や安全環境部長、専門家らからなる「安全対策検証委員会」を開くことになる。 西川知事が関電など電力事業者に原発の再稼働を了承するのは、同委員会での議論や県内の原発立地市町の意見を聞いた後になる可能性が高い。 定期検査が終わった原発を再稼働し、出力がほぼ100%に達するには通常、2~3日かかる。県原安課では「定期検査を終えた原発が多いため、一つ一つを再稼働すると、すべてが稼働するまでにはかなりの時間が必要」と話している。
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 「ボール」はこれまでも、これからも福井県と立地自治体が握っている。「NO」のサインをして国に投げればよいだけだ。福井県と立地自治体は、市民の「安心」のためにすでにその手にある「ボール」を責任を持って国に投げるべきである。

東海第2原発:原子力安全対策委、知事が開催の方針 再開、技術的検証が必要/茨城
 定期検査中の日本原子力発電東海第2原発(東海村)の運転再開の是非を巡り、橋本昌知事は9日の県議会本会議で、再開には専門家による技術的な検証が必要になるとの考えを強調。地震や津波の専門家らで構成する県の諮問機関「原子力安全対策委員会」を開催する方針を明らかにした。錦織孝一議員(自民)の質問に答えた。 また橋本知事は「県原子力審議会の意見も踏まえ、判断してまいりたい」と述べ、県の別の諮問機関で、地元市町村長などで構成する同委の意見も考慮に入れる考えを示した。【6/10 毎日・大久保陽一】
東海第2原発:タービンの羽根に傷 地震でこすれ合ったか
 日本原子力発電は8日、定期検査中の東海第2原発(茨城県)で、タービンの羽根に多数の傷が見つかったと発表した。東日本大震災の揺れでこすれ合った可能性が高いとしている。(6/8 毎日)
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(注1) なぜ、この程度のことが「異例」であるのかが、むしろ日本の(国立)大学/教員が自らに問うべき本当の〈問題〉ではないだろうか。
 「大学自治」という観点からみた場合、福島大学の「大学憲章」および「三者自治」が他の国立大学法人のそれより、相対的にかなりマトモなものであることは事実である。そのことは、北大から九大まで旧帝大系やその他の国立大学のそれと比較すると、よく理解できるはずである。福島大学は法人化に先立ち、「大学憲章」の文言をめぐり、学生も参加した全学集会を開いた数少ない大学の一つなのだが、ただ、それで「大学自治」を語るには心寒いものが残ることは指摘しておかねばならない。だからこそ、こういう問題が起きたのだと理解すべきである。逆説的に聞こえるかも知れないが、だからこそ有志の人々の活動は意義があり、重要なのである。
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⇒「NATO、リビア空爆で遺跡攻撃の可能性も否定せず」(CNN)
⇒「CIA:イエメンでの無人機攻撃本格化へ 米紙報道」(毎日)