2015年8月11日火曜日

九電が川内原発1号機を再稼働させた日

九電が川内原発1号機を再稼働させた日
南日本新聞 PDF号外
川内原発再稼働 新規制下、全国初 (08/11)
⇒2015年7月7日 「川内原発: 「見切り発車許さぬ」

・・・
原発のリスク、忘れるな 
 九電本社前で抗議の青柳さん [鹿児島県] 
 3年7カ月ぶりに九州に原子の火がともった。福岡市の九州電力本店前にテントを張り、再稼働反対を訴え続けた青柳行信さん(68)=同市博多区=は、その瞬間を本店前で迎えた。
 座り込みの抗議を始めて1574日目。再稼働に踏み切った九電に静かに問いかける。
 「放射能の恐ろしさを前に、あなたたちは震えおののいているか」

 11日午前10時前、制御棒の耐震性に疑いがあるとして、仲間とともに九電に情報公開を申し入れたが、文書さえ受け取ってもらえなかった。その直後に原発起動の知らせを聞いた。
 「なぜ不安に感じる市民の声に耳を傾けないのか」
 テントを毎朝張り始めたのは、福島第1原発事故が起きた翌月の2011年4月20日。脱原発のムードは社会に広がり、夜通しの座り込みにも賛同者の訪問が絶えず、一時は道路にはみ出すほどだった。
 だが、時間の経過とともに、少しずつ人は減っていった

 「絶対に事故を風化させたくない」。教員をしながら社会運動をしていた若いころ、チェルノブイリ原発事故が起きた。広島、長崎の原爆を織り交ぜて核被害の脅威を訴えたが、世間は1年ほどで忘れていった。力不足を感じた苦い経験が、今回の長きにわたる運動につながった。 
 「九電本店前ひろば」と名付けたテントは、市や警察との協議で平日昼間のみの活動になったが、「目に見える拠点があることで、あの日の記憶が消えていないことを示せている。九電にも市民にも」と存在意義を強調する。

 訪問者の考えはさまざまだ。原発の即時ゼロ、段階的な廃炉、中には「あなたたちが声を上げるから安全性が高まる」と激励に来る原発推進派も。理解は広がり、社会運動とは無縁の人たちにも支えられてきた。
 周辺自治体の避難計画、火山や地震の影響、使用済み核燃料の行き先…。
 不安要素は山ほどあるが、最も九電に訴えたいのは人間としての「倫理」だ。
 「放射能と人類は共存できないことを、私たちは福島から学んだ。暮らし方を見直す時期に来ている」。ひろばはまだ閉じられそうにない。(西日本新聞)

8/12 
鹿児島・川内原発:1号機再稼働 福島を忘れたのか 
  飯舘電力社長「経済優先、変えたい」 /福島
 九州電力川内(せんだい)原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)が11日、再稼働した。東京電力福島第1原発事故で原発の安全神話が崩壊してから4年5カ月。原発に頼らない社会を目指し太陽光発電など再生可能エネルギーの普及に取り組む人からも再稼働に疑問の声が上がった。【喜浦遊】

 「福島で何が起きているか誰もが知っているはず。それでも原発を再稼働させるのか。経済優先の現状を福島から変えていきたい」。全村避難が続く飯舘村で昨年9月、村民の出資で設立した「飯舘電力」社長の小林稔さん(63)はこう決意を語る。
 村の丘陵地に太陽光パネル約200枚が並ぶ。帰村がかなった時に村民の暮らしの支えになることを目指す飯舘電力の太陽光発電所だ。今年2月に完成した。出力49・5キロワット。20年にわたり1キロワット時当たり32円で東北電力に売電し、年約160万円の利益を見込む。

 小林さんは震災前、村の牧場で和牛約30頭を育て、11ヘクタールの水田で米作もしていた。震災直後、宮城県蔵王町の知人の牧場に牛を避難させた。今も避難先の喜多方市から通って世話をする。
 喜多方市で酒米作りに携わったことが縁で、震災を機に再生エネルギー普及を目指す「会津電力」を起こした酒造会社社長、佐藤弥右衛門さん(64)と出会い、自らも電力会社を設立することを決意した。「原発事故は飯舘村民から日常を奪った。もう原発はいらない」。佐藤さんからアドバイスを受け、村民や地元企業などから1000万円を超える出資金を集めた。

 川内原発再稼働について小林さんは「地元で暮らす人たちが判断したこと。簡単に批判できない」と話す。原発関連の企業で多くの人が働き、生活してきた事故前の福島の姿を重ねるからだ。「だが、福島の現実を見なかったことにして再稼働したのであれば悲し過ぎる」と肩を落とす。「すぐにとはいかなくても再生エネルギーで村を復興させる。その姿を全国の人に見てもらい、原発が本当に必要なのか考えてもらうしかない」 (毎日)