〈 NGOと社会〉の会のニューズレター最新号が完成した。最新号のテーマは、今年の連続シンポジウムのタイトル、「イスラーム社会の変革の胎動とNGO--「イスラーム的価値」の社会的実践から学ぶ」である。新評論のトップページに紹介されているので、興味のある人は読んでいただければと思う。(バックナンバーは 〈 NGOと社会〉の会のページから閲覧できる)
以下、最新号に書いた拙文を紹介しておこう。
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「介入の政治」と覇権主義を超えて
中野憲志(先住民族・第四世界研究)
〈脱「国際協力」論の基底にあるもの〉
数ある開発理論の中に、そこに住む人々の権利と自己決定を起点に社会とその発展のビジョンを構想するという方法論がある(rights-based approach)。その基本にあるのは、開発プロジェクトをある地域で行う場合には、そこで生きる人々の特定の民族的・文化的アイデンティティと価値観に基づきながら、人々の集団的・個人的権利が保障されなければならない、という考え方である。
一言で言えば、開発にあたり国家や企業はそこで生きている人々の〈人間としての尊厳〉を守る法的な責任と義務を負うという、厳格なる開発規制論だと言ってよい。
しかし支配的な開発パラダイムは、いまだに経済成長主義に貫かれていると同時に人々の権利と尊厳を踏みにじるものになっている。そのような「開発」や「国際協力」なるものを、人々とともに在るべきNGOが支持するというのはおかしいのではないか?
これが私たちの問題提起なのだが、NGOの世界でこの考え方が主流になるには、まだまだ長い年月がかかりそうだ。新世代の研究者やNGOスタッフによって支配的な開発パラダイムに対する批判的な検証と議論が継続されてゆくことを私たちは強く期待している。
〈内発的発展論と「土に根差した信仰/宗教」〉
社会学者の鶴見和子は『内発的発展論の展開』(筑摩書房)の中で「後発国の内発的発展を論じるとき、植民地化その他の理由によって、伝統が断絶もしくは著しく変形された場合は、なにをよりどころとして内発性を表出するのか」(206頁)という問いを提出した。
この鶴見の問いかけに対する答えを、私たちはすでに持っている。「伝統」は実際には破壊しつくされることなく、口承・伝承によって人々の記憶に残っており、その復元と再生は可能であること、そして「よりどころ」とすべきはその土地に根差した信仰/宗教に基づく価値観/世界観/宇宙観であること等々である。開発理論において、人々の権利保障を最も重視するアプローチとともに、信仰/宗教に重きを置くそれ(faith-based approach)が議論される背景がここにある。
〈なぜ今、イスラーム的価値か?〉
「植民地化」が今も続く「後発国」や地域において、たとえ慎ましくとも人々が互いに分かち合い「良く生きる」ための「よりどころ」は、人々の「心」に宿る信仰/宗教をおいて他にありえない。しかし、経済成長主義は人間の「魂」の成長を忘れ、西洋的価値に基づく「開発」モデルと外部からの「介入の政治」は、一定の均衡を保ちながらその地域の中で共存してきた様々な信仰/宗教的関係を撹乱し、異宗教間の対立や宗派間の紛争を引き起こしてきた。
では、日本の「開発援助」や「人道支援」「平和構築」はどうなのか? それらは様々な人種と民族、宗教に生きる人々の権利や信仰、尊厳をどこまで守ろうとしてきたのか?こうした課題意識の下で、今では人類の5分の1を占め、しかも「テロとの戦い」や「人道的介入」のターゲットになってきたイスラーム社会と、そこでの「イスラームの教えに基づくプロジェクト」に焦点をあてたいと考えた。
イスラーム社会の多様性とイスラームの社会的実践を学ぶことは、「人道的介入」を乗り越え、イスラーム社会と私たちがつながるためのヒントを与えてくれるに違いない。
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「保護する責任」の名によるシリアに対するNATOの軍事介入が迫っている。シナリオはアフガニスタン、イラク、リビアに続く政権転覆である。そのシナリオに沿って、ユダヤ-キリスト教社会を拠点とする国際NGOが「人権の普遍主義」を掲げ、「介入せよ!」と叫んでいる。
聖なるものと俗なるものとの間には、互いに超えてはならぬ境界がある――。
おそらくこれが、政治と宗教が複雑に錯綜しつつ展開される戦争/内戦に対して、特定の信仰を持たない者が言えるギリギリの境界なのではないか。その境界を侵犯し、殺戮をくり返した宗教改革=戦争の愚かさの自覚が、西洋近代が定義する「教養=人文」の基礎たるべき〈知〉というものなのだろう。だとしたら、現代世界の〈知〉は愚かさの極致に向かって退行していると言えそうだ。
レシャード氏が語った「政府の歯車」と化した「未熟なNGO」が成熟するために必要なのは、「境界を侵犯することの愚かさを知る教養」なのかもしれない。今の大学にそれを望むことができるだろうか。できないとしたら、私たちには「民衆(peoples)の平和をめざす運動」の中で〈教養〉を身につけるしかなさそうである (〈NGOと社会〉の会NL9号 「編集後記」より)
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【〈NGOと社会〉の会 2012年連続シンポジウム】
イスラーム社会の変革の胎動とNGO~「イスラーム的価値」の社会的実践から学ぶ~
■第二回■ イスラーム社会のNGO~その多様性と実践に学ぶ
□日時: 10月27日(土) 午後2時~5時半
□場所: 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館5階 856教室
□発題:
・「イスラーム社会における「市民社会」の台頭:その特徴とパレスチナ問題への影響」
イヤース・サリーム(パレスチナ・ガザ地区出身。元中部大学講師/同志社大学大学院博士課程)
・「イスラーム的慈善制度とは何か」
子島進(東洋大学教員)
・ 「ムスレムNGOに日本のNGOができること」
長谷部貴俊(日本国際ボランティアセンター[JVC] 事務局長 )
【講演者紹介】
○イヤース・サリーム
パレスチナ・ガザ地区出身。国際援助ワーカーとして10年以上の経験を持つ。現在、トルコを中心としたイスラーム社会におけるNGOの研究を行っている。
○子島進(ねじま すすむ)
文化人類学、南アジア地域研究、イスラームと開発をめぐる問題を中心に研究。イスラーム的な価値観に根ざしたNGO活動に関心をもつ。東洋大学准教授。著書に『現代パキスタン分析―民族・国民・国家』(岩波書店、2004年。共著)など。
○長谷部貴俊(はせべ たかとし)
日本国際ボランティアセンター(JVC)事務局長。
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「批評する工房のパレット」内の関連ページ
⇒「「保護する責任」(R2P)に関するヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)への質問状と回答: 解説 」(2011, 12/14)
⇒「〈リビア以後〉の「保護する責任」にNO!と言う責任~「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」をめぐって」(2011, 12/1)
⇒「ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと」(2011, 2/24)
以下、最新号に書いた拙文を紹介しておこう。
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「介入の政治」と覇権主義を超えて
中野憲志(先住民族・第四世界研究)
〈脱「国際協力」論の基底にあるもの〉
数ある開発理論の中に、そこに住む人々の権利と自己決定を起点に社会とその発展のビジョンを構想するという方法論がある(rights-based approach)。その基本にあるのは、開発プロジェクトをある地域で行う場合には、そこで生きる人々の特定の民族的・文化的アイデンティティと価値観に基づきながら、人々の集団的・個人的権利が保障されなければならない、という考え方である。
一言で言えば、開発にあたり国家や企業はそこで生きている人々の〈人間としての尊厳〉を守る法的な責任と義務を負うという、厳格なる開発規制論だと言ってよい。
しかし支配的な開発パラダイムは、いまだに経済成長主義に貫かれていると同時に人々の権利と尊厳を踏みにじるものになっている。そのような「開発」や「国際協力」なるものを、人々とともに在るべきNGOが支持するというのはおかしいのではないか?
これが私たちの問題提起なのだが、NGOの世界でこの考え方が主流になるには、まだまだ長い年月がかかりそうだ。新世代の研究者やNGOスタッフによって支配的な開発パラダイムに対する批判的な検証と議論が継続されてゆくことを私たちは強く期待している。
〈内発的発展論と「土に根差した信仰/宗教」〉
社会学者の鶴見和子は『内発的発展論の展開』(筑摩書房)の中で「後発国の内発的発展を論じるとき、植民地化その他の理由によって、伝統が断絶もしくは著しく変形された場合は、なにをよりどころとして内発性を表出するのか」(206頁)という問いを提出した。
この鶴見の問いかけに対する答えを、私たちはすでに持っている。「伝統」は実際には破壊しつくされることなく、口承・伝承によって人々の記憶に残っており、その復元と再生は可能であること、そして「よりどころ」とすべきはその土地に根差した信仰/宗教に基づく価値観/世界観/宇宙観であること等々である。開発理論において、人々の権利保障を最も重視するアプローチとともに、信仰/宗教に重きを置くそれ(faith-based approach)が議論される背景がここにある。
〈なぜ今、イスラーム的価値か?〉
「植民地化」が今も続く「後発国」や地域において、たとえ慎ましくとも人々が互いに分かち合い「良く生きる」ための「よりどころ」は、人々の「心」に宿る信仰/宗教をおいて他にありえない。しかし、経済成長主義は人間の「魂」の成長を忘れ、西洋的価値に基づく「開発」モデルと外部からの「介入の政治」は、一定の均衡を保ちながらその地域の中で共存してきた様々な信仰/宗教的関係を撹乱し、異宗教間の対立や宗派間の紛争を引き起こしてきた。
では、日本の「開発援助」や「人道支援」「平和構築」はどうなのか? それらは様々な人種と民族、宗教に生きる人々の権利や信仰、尊厳をどこまで守ろうとしてきたのか?こうした課題意識の下で、今では人類の5分の1を占め、しかも「テロとの戦い」や「人道的介入」のターゲットになってきたイスラーム社会と、そこでの「イスラームの教えに基づくプロジェクト」に焦点をあてたいと考えた。
イスラーム社会の多様性とイスラームの社会的実践を学ぶことは、「人道的介入」を乗り越え、イスラーム社会と私たちがつながるためのヒントを与えてくれるに違いない。
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「保護する責任」の名によるシリアに対するNATOの軍事介入が迫っている。シナリオはアフガニスタン、イラク、リビアに続く政権転覆である。そのシナリオに沿って、ユダヤ-キリスト教社会を拠点とする国際NGOが「人権の普遍主義」を掲げ、「介入せよ!」と叫んでいる。
聖なるものと俗なるものとの間には、互いに超えてはならぬ境界がある――。
おそらくこれが、政治と宗教が複雑に錯綜しつつ展開される戦争/内戦に対して、特定の信仰を持たない者が言えるギリギリの境界なのではないか。その境界を侵犯し、殺戮をくり返した宗教改革=戦争の愚かさの自覚が、西洋近代が定義する「教養=人文」の基礎たるべき〈知〉というものなのだろう。だとしたら、現代世界の〈知〉は愚かさの極致に向かって退行していると言えそうだ。
レシャード氏が語った「政府の歯車」と化した「未熟なNGO」が成熟するために必要なのは、「境界を侵犯することの愚かさを知る教養」なのかもしれない。今の大学にそれを望むことができるだろうか。できないとしたら、私たちには「民衆(peoples)の平和をめざす運動」の中で〈教養〉を身につけるしかなさそうである (〈NGOと社会〉の会NL9号 「編集後記」より)
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【〈NGOと社会〉の会 2012年連続シンポジウム】
イスラーム社会の変革の胎動とNGO~「イスラーム的価値」の社会的実践から学ぶ~
■第二回■ イスラーム社会のNGO~その多様性と実践に学ぶ
□日時: 10月27日(土) 午後2時~5時半
□場所: 法政大学市ヶ谷キャンパス 58年館5階 856教室
□発題:
・「イスラーム社会における「市民社会」の台頭:その特徴とパレスチナ問題への影響」
イヤース・サリーム(パレスチナ・ガザ地区出身。元中部大学講師/同志社大学大学院博士課程)
・「イスラーム的慈善制度とは何か」
子島進(東洋大学教員)
・ 「ムスレムNGOに日本のNGOができること」
長谷部貴俊(日本国際ボランティアセンター[JVC] 事務局長 )
【講演者紹介】
○イヤース・サリーム
パレスチナ・ガザ地区出身。国際援助ワーカーとして10年以上の経験を持つ。現在、トルコを中心としたイスラーム社会におけるNGOの研究を行っている。
○子島進(ねじま すすむ)
文化人類学、南アジア地域研究、イスラームと開発をめぐる問題を中心に研究。イスラーム的な価値観に根ざしたNGO活動に関心をもつ。東洋大学准教授。著書に『現代パキスタン分析―民族・国民・国家』(岩波書店、2004年。共著)など。
○長谷部貴俊(はせべ たかとし)
日本国際ボランティアセンター(JVC)事務局長。
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「批評する工房のパレット」内の関連ページ
⇒「「保護する責任」(R2P)に関するヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)への質問状と回答: 解説 」(2011, 12/14)
⇒「〈リビア以後〉の「保護する責任」にNO!と言う責任~「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際NGO連合」をめぐって」(2011, 12/1)
⇒「ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと」(2011, 2/24)