2011年10月18日火曜日

政府・東電は、なぜ「冷温停止」を急ぐのか?

政府・東電は、なぜ「冷温停止」を急ぐのか?


 昨日(10/17)、政府と東電は、福島第一原発の「事故収束」に向けた「工程表」の改訂版を発表した。その中で、原子炉の「冷温停止」の達成時期を「年内」と初めて明記したことが報道されている。 「冷温停止」の前倒しの理由について、朝日新聞は「細野豪志原発担当相が9月の国際原子力機関(IAEA)総会で年内達成を宣言した」こと、そして「原子炉がすでに冷温停止に近い状態にあるため」と報じている。

 原発担当大臣がIAEAで宣言したなんてことは、「冷温停止」と何の関係もない。また、「原子炉がすでに冷温停止に近い状態にある」と朝日新聞は断定的に書いているが、これは政府・東電がそう言っているだけであって「科学的根拠」があるわけではない。唯一指摘できるのは、先月28日に、1~3号機すべての格納容器内の水温が初めて100度を切った、ただそれだけである。

 朝日新聞は、「冷温停止の主な条件」を、「(1)原子炉圧力容器底部の温度が100度以下(2)放射性物質が新たに発電所の外に放出されない――の二つ」と書いている。しかし、これは子ども騙しも同然だ。(1)は(2)という現象が起こらないための絶対必要条件、つまり(2)は(1)の結果であって、原子炉の「冷温停止」とは無関係であるからだ。

 そもそも「100度以下」とは、反応による圧力容器内の水温上昇→沸騰→水素発生・圧力上昇→爆発を起こさない最低限の数字である。もちろん、原子力工学の専門家がこの数字を「冷温停止」の指標にしていることを知らないわけではないが、メルトダウン→メルトスルーを起こした原子炉・圧力容器の安定的冷却の判断基準にこれを適用するのは甘すぎるだろう。

 損壊していない使用済み核燃料を保管している「プール」の水温に限りなく近い、ある一定範囲内の水温(たとえば、50度から60度とか)から一定温度以上(たとえば70度とか80度とか)には二度と上昇しないと判断しうること、これを「格納容器が安定的に冷却されている状態」とし、「次の廃炉作業へと進む絶対条件」というのなら、私たち一般人にも理解しやすいし、少しは安心できるかもしれない。その数字を決定するのは原子力ムラの専門家以外には存在せず、その数字を確定し、自ら確定した数字にムラ全体として責任を取るべきなのである。

 いずれにしても、脱原発を社として宣言した朝日新聞は、もう少し国・東電が発表する内容にクリティカルであるべきだ。これでは、ただの「大本営発表」の垂れ流しに過ぎない。

 一方、毎日新聞は「冷温停止前倒し」宣言に対し、次のように分析している
・「溶融燃料が圧力容器から格納容器へ落ちているとみられ、圧力容器底部の温度だけで炉心内の状況を判断するのは困難」
・「放射性物質の放出量評価についても「暫定値」だけで、「達成」を明言するにはより精度の高いデータが求められる」
 当然のコメントだと思う。その上で毎日新聞は、「政府の国会答弁によると」と断わった上で、「第1原発の「冷温停止状態」の定義は主に」、
(1)圧力容器底部温度が100度未満
(2)原子炉からの放射性物質の管理・抑制
(3)放射性汚染水を原子炉の冷却水に再利用する「循環注水冷却システム」の安定運転の維持
の3点を再度、列挙する。

 しかし、この(3)、今後のあらゆる作業にとって絶対必要条件である(3)も、上に述べた「ある一定範囲内の水温から一定温度以上には二度と上昇しない」ことと、(2)を発生させないための条件になる。逆に言えば、(1)や(2)は、(3)が達成されることによってもたらされる結果(現象)なのだ。

 つまり東電は、とにかくできるだけ早く「原子力緊急事態はこれで収束した」という宣言を国内外に発するために(補償をケチり、補償総額を減らすために?)、互いが互いの条件でありその結果(現象)と理解すべきものを「冷温停止」の「条件」と定義し、それを国が一緒になって政治的に追認しているだけなのだ。補償をケチり、補償総額を減らすために? 一刻も早く「収束宣言」を出さないと、来年度の「原子力関連」の予算編成に間に合わない?

 「冷温停止」の政治的定義とその政治的宣言。そして「原子力緊急事態」の終息宣言。
 毎日新聞は、「測定が遅れている3号機の[放射性物質の]放出量について、保安院は「暫定値に過ぎない」としており、年内までに再測定したうえで、敷地境界の年間被ばく線量が法令基準(年1ミリシーベルト未満)を達成しているか判断する方針」と報じている。しかし、であるなら、なぜその「再測定」と「判断」を待った上で、「前倒し」を検討しようとしないのか?

 どのような政治が、この「前倒し」に隠されているのか。私たちはそれをこそ見抜く必要がある。


 NHKは今日のニュースで、「炉心が再び損傷する確率を試算することによってどこに弱点があるか[東電が]解析したところ、配管などの設備が屋外にあることで、注水システムが破損して注水が止まるリスクが高いことが分かり」、東電が「対策を強化する」ことにしていると報じた。

 東電の「解析」によって何が判明したか?
 「大津波で注水システムが流されて注水できなくなるリスクが最も高く、次いで、注水システムが壊れて注水の再開に失敗するケースのリスクが高い」ことだそうだ。

 また、読売新聞によれば、東電は「1~3号機で再び炉心が損傷する確率は、約5000年に1回とする試算結果」をまとめたらしい。「大津波そのものの頻度は700年に1回と見積もっている」云々・・・。

 しかし、よく考えてみてほしい。
①配管設備が屋外にあるのだから、現行の注水システムがかかえる「リスク」は、津波などによって流されてしまうこと、あるいは、
②直下型地震などにより、配管そのものが何か他の物体によって破壊されたり、あるいは配管結合部分が破壊されることであろうことは、素人にだって分かることだ。 さらに、
③この間の国内外の地震研究の専門家によって、「大津波そのものの頻度は700年に1回」という東電の「見積もり」に根拠がないことが明らかになっている。
 よって、私たちは小難しい「解析」などせずとも、
④東電の「約5000年に1回とする試算結果」に何の信憑性もないことも理解することができるわけである。

 NHKは、「このため東京電力は、緊急時の措置として作った注水システムの補強対策や、大津波の際に注水を継続するための対策の検討を急ぎ、冷温停止状態を安定的に維持することにつなげることにしています」と報じた。
 しかし、東電が言う「冷温停止状態」の「安定性」とは、実はこれらの「対策」が施されてはじめて言えることなのだ。(私が、「3・11」後初の東電の防災訓練に触れて「能天気」と書いたのは、まさにこのことを指している。機会があれば、後日また述べることにしよう)


 ところで。
 毎日新聞によれば、「冷温停止前倒し」に関し、東電の松本純一原子力・立地本部長代理は「上部からの注水で十分冷却できており問題ない」と説明したという。

 この発言に触れて、私は改めて「なぜ東電の技術屋は、自分たちが過去何度も判断を誤り、前言を翻し、「訂正」を繰り返し、そうすることで日本中を恐怖と不安に叩き込んできたことを顧みようとせず、かくも断定的に物が言えるのか?」と考え込んでしまったものだ。自分たちの判断はまた誤ってしまうかもしれない、慎重には慎重をきす、という姿勢が、どうしても感じられないのである。
 横柄とか傲慢という言葉では形容できない、何かが根本的に欠落しているとしか私には思えない、そんな人間の姿を垣間みてしまうのである。

 私たちは、「3・11」直後に東電経営陣が、事態の深刻さに怯え、「事態収束」作業から社として逃亡しようとしたことを忘れない。その報道に初めて接したときの、あの脱力感、怒りとかそういう感情を突き抜けたような徒労感を私は忘れない。 その直後だったか、「東電という企業を日本社会がなぜ生み出してしまったのか、私たちは真剣に総括する必要がある」といったような事を、このブログで書いた記憶がある。

 私個人に関して言えば、「3・11」のはるか前から東電という企業は「アウト!」だった。しかし「あの瞬間」において、それはもはや何物によっても変わりようがないものになった。
 「あぁ、この国は原発という「持ってはいけない物」「持てるはずがなかった物」を持ってしまったんだな、そしてまだ持ってしまっている・・・」という、「実感としての恐怖感」とでも言えばよいのか、そんな思いに襲われたのである。

 ここで私が言いたいのは、東電が何を言っても、また言ってることが仮に正しくとも、もう日本人の大半は東電という企業そのものを信用しなくなった、ということだ。東電が私たちをして、そうせしめてしまったのである。
 それと同じことが、国についても言える。そして、「3・11」直後から4月初旬ごろまでメディアを席巻した原子力ムラの面々に対しても言えるだろう。

 「原発の安全神話」とともに崩壊したのは、それを体現してきた者たちの人間性そのものに対する信頼性の崩壊なのだ。このことを現政権、東電、その他の電力企業、原子力ムラの面々は、どうも未だに理解しない/できないでいる、と思えてならないのである。

 一般の私たちの目線から言えば、ポスト「3・11」における原発の「安全性」の基準は、パソコンによって「解析」するような「工学的耐性」にあるのではない。原発というきわめて特殊な発電装置を管理・運営・経営・研究開発している者たちに対する人間性の信頼が、どこまで回復できるかにある。私自身はその可能性に対して、きわめて悲観的だ。
 このことは、「原発の工学的耐性と社会的耐性」をまた論じるときに再考したいと思うが、それが完全に崩壊したこと、地に落ちてしまったことを私たちは「これから原発をどうするか?」を考えるにあたり、認識の出発点に据える必要があるだろう。

 それは、「科学」的知見で解明したり、説得したりすることはできない。
 圧倒的多数の日本人が、もう感じ取ってしまったもの、そして信念化されてしまったようなものだ。
 それは、人間の集合的観念の問題である。それはもちろん、とても不合理であり、不条理なものだ。
 しかし、だからこそ決定的なものなのだ。

 「冷温停止」と「事故収束」を政治的に宣言することは自由である。
 だが、それをほとんどの日本人は信用しないだろうということ、少なくともこのことだけは理解できるようになってほしい。 私は、日本に多く存在するであろう、そう切に願う者の一人である。

・・・
「冷温停止状態、発表出来る状況」…平野復興相
 平野復興相は18日、福島県二本松市で開かれた民主党の会合で、東京電力福島第一原子力発電所事故の収束に向けた工程表に関連し、「ステップ2」の柱である原子炉の冷温停止状態は事実上、達成済み(?)との認識を示した。
 平野氏は「明日にでも冷温停止状態を発表しようと思えばできるが、警戒区域(の縮小など)をどうするか、セットで出すべきだということで、発表を差し控えている状況だ」と説明した。政府と東電は17日に改訂した工程表で、冷温停止状態の達成時期を「年内」と明記している。(読売)