現代の戦争と蘇る『知識人の裏切り』
人間は、五〇か月しか続かず、各国ごとに二〇〇万人しか殺さなかった戦争のために、価値観の修正はしないだろう。
ジュリアン・バンダ 『知識人の裏切り』(一九二七年刊)
おそらく、五年続き、二〇〇〇万人を殺した戦争のためでも、修正はしないだろう。
ジュリアン・バンダ (同書、一九四六年版の注)
はじめに――終わりなき戦争と介入の時代
フランスの思想家、ジュリアン・バンダは正しかった。
『知識人の裏切り』は、第一次と第二次の世界大戦の合間、一九二〇年代半ばに書かれた。そして、「各国ごとに二〇〇万人しか殺さなかった戦争」を二度とくり返すまいと、当時の主だった国々が誓ったはずの「パリ不戦条約」(一九二八年)の前年に出版されている。
第一次大戦の勃発(一九一四年)から一世紀、不戦の誓いの甲斐なく「二〇〇〇万人を殺した戦争」(実際には約七〇〇〇万人、その内四分の三が一般市民だったと言われている)の終結から、まもなく七〇年をまもなく迎えようとする今も、人間はバンダの予言通り「価値観の修正」をしていない。
「修正せよ」という声はこれまでもあったし、今もある。これからもそうだろう。
しかし、おそらく人間はこれからも相当、長期にわたり「価値観の修正」をしようとしないだろう。
いや、できないだろう。そう考える根拠はいくつかあるが、一番大きいのは戦争の「価値観」がバンダの時代からほとんど何も変わっていないことである。
現代の終わりなき戦争と介入の「価値観」と、バンダが生きた時代のそれを対照しながら、検証してみよう。
一九九〇年代初期からこの二〇年の間に、それ以前にはなかった戦争=国家の武力行使のパターンが三つ登場した。
・人道的軍事介入(一九九三年のソマリア以後)、
・対テロ戦争(二〇〇一年のアフガニスタン以後)、
・一般市民(文民)を「保護する責任」の名による武力行使(二〇一一年のリビア以後)、の三つである。
第二次大戦後、人間は、国連憲章の下で、第二次大戦の一応の反省から、国家が武力行使できる条件を一応は制限しようとした。その条件とは、
①侵略に対する「自衛権」の行使(「個別的」かつ「集団的」なそれ)か、
②侵略された国家が単独では侵略を阻止できない場合に、第三国が「国際の平和と安全」を守る「国連軍」(現在も存在しない)に参加し武力行使する、のいずれかである。
国際法は、後者を国連の「集団安全保障」と呼び、個別の国家間で結ばれる軍事同盟の下での「集団的自衛権」の行使と形式的に使い分けてきたのだが、このような「一応の反省」と「一応の制限」は結局、何の反省にも制限にもならなかった。そのことは、一九四五年から九〇年代初期までの間に世界各地でくり返された、さまざまな戦争の歴史が端的に物語っている。
「それは共産主義のせいだ、いや帝国主義のせいだ」といった「悪者探し」をすることがここでの本意ではない。人間が現在に至るも、核兵器の非人道性ばかりか、武力行使の非人道性という普遍的価値を人類共通の価値観にできていないこと、そのことを、読者とともにまず正視することが目的である。
現代の人間は、ある国家による侵略行為に対する武力行使に加え、右にみた「三つのパターン」の武力行使が国際法的に「合法」とされる時代に生きている。
前者についてもっと正確に言えば、特定の国家が定義する「侵略を未然に防ぐ、予防的な自衛権の行使」としての武力行使までが、国際法的に違法とはされない状況が出現している。
たとえば、イスラエルによるレバノン、ヨルダン、占領下のパレスチナに対する空爆、また世界各地で米軍が単独で行ってきた「対テロ戦争」がこれに該当する。
米軍は、軍事同盟国の後方支援を受け、各諜報機関と連携しながらも、巡航ミサイルによる空爆(二〇〇八年ソマリア)や無人攻撃機による爆撃(アフガニスタン、パキスタン、イエメン・・・)などの武力行使を現在もなお、単独で継続している。国際法違反の武力行使が違法とされない国際政治と国際法のリアリズムがここにある。
また、人道的軍事介入と「保護する責任」に基づく武力行使については、国連安保理常任理事五カ国(米国、中国、フランス、ロシア、イギリス P5)のどれか一国が、全体の合意を覆す拒否権を発動せず、安保理としての武力行使「決議」が通りさえすれば実行できる国際法的環境が、すでに作られている。
要は、武力行使を主に担う国家(米国、フランス・・・)の政治判断と軍事態勢の整備状況次第で、いつでも、自由に武力行使が実行できるということだ。近年ではリビアとコートジボアール(二〇一一年)、マリ(二〇一三年)の事例がこれに該当する。
「人道」や「人権」など、「普遍的価値」を掲げた戦争の時代の本格的幕開けである。
Ⅰ 「戦後レジームからの脱却」?――湧きおこる戦争の言説
二〇一三年七月の参議院選挙後、安倍=麻生政権の下で進行する日本の政治動向も、以上みた国家の武力行使をめぐる国際的な変化と決して無関係ではない。
二〇一三年八月九日現在、「自衛権」(「主権」防衛)のための武力行使と、「国際の平和と安全/安定」のための武力行使を切り離し、「集団的自衛権」の行使を可能にしようという動きが加速している。
「原子力ムラ」ならぬ「日米同盟ムラ」は、改憲→自衛隊の「国防軍」化を実現する前に、憲法九条の下で、海外における他国の武力行使と一体化した自衛隊の活動展開をめざすとともに、さらにその先に自衛隊自身による武力行使を可能とする新たな解釈改憲に向けた準備を進めている。
しかし、憲法九条の下で、自衛隊が米軍をはじめとした他国の軍隊と「集団的自衛権」を行使できるという憲法解釈が成り立つのであれば(政府与党たる「平和の公明党」はすでにそうした憲法解釈を打ち出している)、そもそも九条改定や憲法への「国防軍」規定の挿入などは、まったく無意味なものになってしまう。もしも自衛隊が、他国の軍隊と同じことができるなら、名前を変えずして自衛隊はリッパな軍隊になるからだ。
「戦後レジームからの脱却」を「自主憲法制定」を中心にめざすとする安倍首相個人の思想・信条や、いっそう保守化(国粋化?)した新生自民党の綱領に一見沿わない形、つまりは「戦後レジーム」の枠組みと戦後憲法を保持する形でこうした事態が進展している事実に、「価値観の修正」を求める人間は目を向けておく必要があるだろう。
現代日本は、憲法九条がもはや〈平和のエンジェル〉たりえず、「九条を守れ」「九条を世界に」と言うだけでは〈平和〉を守ることはできない、そういう時代に――実際にはかなり以前から――入っているのである。
とは言っても、福島第一原発のメルトダウン→核爆発→メルトスル―が起こらなければ「原発の安全神話」(?)から目覚めなかったように、どれだけ外国人が戦争で殺されようと、日本全土を震撼させるような大量の日本人犠牲者が出ることがなければ、「戦後」日本を形造ってきた二つの神話――「日米安保が日本を守る」/「憲法九条が日本を守る」から日本人が目覚めることはないのかもしれない。
実際には自衛隊員以外の、多数の犠牲者がすでに出ており、「メルトダウン」に向かう兆候は十分に現れているのだが、警鐘を鳴らすべき「知識人」の多くはそれに無頓着であるようだ。
今、日本の「知識人」の中で何が起こっているのか?
事態の深刻さを共有するために、ここで「現代の戦争と平和」を論じた一冊の本を紹介しておこう。『戦争の条件』(藤原帰一著、集英社新書、二〇一三)がそれである。
『戦争の条件』?
「国際政治学」を専門とし、メディアにも頻繁に登場する東京大学大学院教授によるこの書は、「戦争の条件を考え抜くことで、逆説的に平和の条件に至る道を模索」することが目的とされている。そしてその第一章のタイトルは、「戦争が必要なとき」となっている。
「価値観の修正」を追求しようとこの書を手にした人は、本を開いた瞬間に混乱してしまうだろう。なぜなら、戦争を前提にして「模索」の旅を始めてしまえば、そこからどのような「道」を辿ろうと、その先で到達する平和は、常に戦争を前提したものになってしまうからだ。
読者は、権威ある国際政治学者が言うところの「戦争の条件」と「平和の条件」がメビウスの環となった、どこにも出口(答え)のない異様な旅の随行者になることを強いられる。
それは常に「戦争の条件」によって重心が取られ、「戦争が必要なとき」、と著者が定義する「はじまり」に還ってゆく、この書のシナリオの必然的な帰結である。「逆説」でも何でもない。
著者にしてみれば、まさにそれこそが「平和のリアリズム」だと言いたいのかもしれない。
しかしそれでは、「価値観の修正」は永遠にできないことになる。人間はこれからも戦争の歴史、その価値観を変えることはできないし、変えようがなくなってしまう。
なぜ、そうなるのか? もう少し、著者が誘う「リアリズム」の世界を覘いてみよう。
第一章「戦争が必要なとき」に、「現代の戦争と「保護する責任」」という節がある。
藤原氏はここで、「現代戦争の多くは、「保護する責任」抜きには説明できない」、そしてこれが「国際機構で叫ばれている理念であるばかりか、すでに国際政治の現実の一部を構成している」との認識を示したうえで、次のように述べている。
「「保護する責任」に基づいた人道的介入は、各国それぞれの領土、安全、国益などの個別利益ではなく、普遍的人権の尊重を中核とした、優れて普遍主義的な理念によって支えられている」
要するに、氏はここで、「保護する責任」に基づく「現代の戦争」を「必要」だと言っているのである。
「「必要」と解釈する政治家、官僚、学者、国際NGOが世界にも日本にも存在する」と、客観的かつクリティカルな読者の思索を導く材料の提供としてではなく、「東京大学大学院教授」としての氏自身の価値判断としてそう言明しているのである。
「保護する責任」や人道的軍事介入に対するこのよう言明が「正しい」と言えるかどうか、またそれらがどのような問題をはらんでいるかについては、これまで何度も書いてきたので、ここでは立ち入らない。
ここでは、市民の「保護」を口実とした武力行使は、一九世紀以降何度もくり返されてきたことであって、「保護する責任」という概念自体に何の新しさもない、という点を指摘するにとどめておきたい。
過去と現在で変わったのは、「保護」の対象、その実行主体の拡張と、武力行使を容認する新たな国際法上の規範としてこれが利用されることになったこと、この三点である。具体的には、
①「保護」の対象が武力行使を行う国家の市民か、それとも他国のそれをも含むか、
②一国の軍隊が武力行使をするか、それとも国際機構の「決議」(お墨付き)の下で同盟軍+有志連合軍がするか、
③それが一国の「個別利益」に基づくか、それとも「普遍的価値」として表現される複数の国々の「共同利益」基づくか、以上の三点の変化である。
「保護」する対象と実行主体の拡張によって実現される、武力不行使原則の規制緩和(自由化)。これが「普遍的人権」という理念を剥ぎ取った後に露わになる「保護する責任」の実態である。
バンダが言う「平和の大義」からみれば、これはその進化ではなく無限後退と言うべきである。
P5や主要国連加盟国が、もしも本当に世界各地の市民を保護する責任を果たそうとするなら、武力行使以前にやるべきことは山ほどある。思いつくものをざっと挙げるだけも、
・「絶対悪としての核兵器」(松井一実広島市長、二〇一三年八月六日)の早期廃絶、
・強力な国際法的拘束力を持った軍縮の推進、
・軍事同盟の漸進的解消と一体化した世界的な脱軍事化、
・これまでの「武器」概念では武器扱いされないロボット・遠隔操作兵器を含む武器貿易・軍事援助規制の一層の強化、
等々の施策に始まり、国家が市民を守るために果たすべき政治・経済・法律・社会政策全般に及ぶ責任は数えきれない。
世界の主要国家は冷戦崩壊以後もずっとその責任から逃れようと腐心してきたとしか言えず、「保護する責任」はそのための新たな方便として世界サミットの「成果文書」に書き込まれ(二〇〇五年)、その翌年の国連安保理の「決議」の中に盛り込まれた、と見る方が事の真相を捉えていると思えるのだが、「保護する責任」を無条件で讃美する大学「知識人」はそうは考えないようだ。
現代に生きる人間が「価値観の修正」を模索し、武力行使の自由化を阻むためには、核兵器はもちろん、古典的武器概念ではもはや捉えきれない兵器体系によって実行される現代の武力行使の非人道性をまず理解しなければ、話が先に進みようがない。
その上で、今こそ「戦争が必要なとき」と主張する世界の政治エリートに対し、その「条件」が成立していると言えるかどうかを吟味し、「条件」に矛盾があればその根拠をつきとめ、「成立する」という主張を崩す論拠を思索しなければならない。
それが、非人道的な武力行使を、果てしなくくり返そうとする価値観に抗いうる〈知〉の在り処を、学生とともに思索し、模索すべき大学「知識人の責任」というものではないのか。
しかし、ここでも「国際政治学」を現代日本の大学、とりわけ旧帝大系の大学で教える「知識人」の多くは、そのようには考えないようなのだ。
そもそも戦争が平和の名において正当化される時代において、「戦争」と「平和」は対概念たりえない。だからこれらを両天秤にかけようとする/読者にそのように仕向ける問題構制そのものが誤っているのだが、おそらくそんなことは十分承知の上で著者は意図的にこの構制をとっている。
なぜそうなるのかと言えば、現代の戦争を捉えるキーワードたる「国際政治や国際法が「合法」と認める国家の武力行使」を著者が追認してしまっているからである。
「保護する責任」に対する著者の価値判断が如実に物語っているように、『戦争の条件』は、「平和の条件」が「戦争の条件」によって相対化された後に打ち消され、永遠の彼方に追いやられてゆく「構制」になっている。その結果、この書は見かけの上では「客観性」を装いつつも、一大学教授個人の価値観のさらなる追認を読者に迫る、きわめてイデオロギッシュな本に仕上がっている。
このような「権威ある知」に、さながら集団感染状態の現代日本において、「価値観の修正」は可能だろうか?
可能だとして、それまでにどれだけの年月を費やし、どれだけの人間が国家と武装勢力の戦闘行為によって殺されることになるのか?
日本人のみならず現代の人間は、そういう深刻な事態に直面しているのである。
8/9, 2013 中野憲志
⇒「現代の戦争と蘇る『知識人の裏切り』 (Ⅱ) 」へ
人間は、五〇か月しか続かず、各国ごとに二〇〇万人しか殺さなかった戦争のために、価値観の修正はしないだろう。
ジュリアン・バンダ 『知識人の裏切り』(一九二七年刊)
おそらく、五年続き、二〇〇〇万人を殺した戦争のためでも、修正はしないだろう。
ジュリアン・バンダ (同書、一九四六年版の注)
はじめに――終わりなき戦争と介入の時代
フランスの思想家、ジュリアン・バンダは正しかった。
『知識人の裏切り』は、第一次と第二次の世界大戦の合間、一九二〇年代半ばに書かれた。そして、「各国ごとに二〇〇万人しか殺さなかった戦争」を二度とくり返すまいと、当時の主だった国々が誓ったはずの「パリ不戦条約」(一九二八年)の前年に出版されている。
第一次大戦の勃発(一九一四年)から一世紀、不戦の誓いの甲斐なく「二〇〇〇万人を殺した戦争」(実際には約七〇〇〇万人、その内四分の三が一般市民だったと言われている)の終結から、まもなく七〇年をまもなく迎えようとする今も、人間はバンダの予言通り「価値観の修正」をしていない。
「修正せよ」という声はこれまでもあったし、今もある。これからもそうだろう。
しかし、おそらく人間はこれからも相当、長期にわたり「価値観の修正」をしようとしないだろう。
いや、できないだろう。そう考える根拠はいくつかあるが、一番大きいのは戦争の「価値観」がバンダの時代からほとんど何も変わっていないことである。
現代の終わりなき戦争と介入の「価値観」と、バンダが生きた時代のそれを対照しながら、検証してみよう。
一九九〇年代初期からこの二〇年の間に、それ以前にはなかった戦争=国家の武力行使のパターンが三つ登場した。
・人道的軍事介入(一九九三年のソマリア以後)、
・対テロ戦争(二〇〇一年のアフガニスタン以後)、
・一般市民(文民)を「保護する責任」の名による武力行使(二〇一一年のリビア以後)、の三つである。
第二次大戦後、人間は、国連憲章の下で、第二次大戦の一応の反省から、国家が武力行使できる条件を一応は制限しようとした。その条件とは、
①侵略に対する「自衛権」の行使(「個別的」かつ「集団的」なそれ)か、
②侵略された国家が単独では侵略を阻止できない場合に、第三国が「国際の平和と安全」を守る「国連軍」(現在も存在しない)に参加し武力行使する、のいずれかである。
国際法は、後者を国連の「集団安全保障」と呼び、個別の国家間で結ばれる軍事同盟の下での「集団的自衛権」の行使と形式的に使い分けてきたのだが、このような「一応の反省」と「一応の制限」は結局、何の反省にも制限にもならなかった。そのことは、一九四五年から九〇年代初期までの間に世界各地でくり返された、さまざまな戦争の歴史が端的に物語っている。
「それは共産主義のせいだ、いや帝国主義のせいだ」といった「悪者探し」をすることがここでの本意ではない。人間が現在に至るも、核兵器の非人道性ばかりか、武力行使の非人道性という普遍的価値を人類共通の価値観にできていないこと、そのことを、読者とともにまず正視することが目的である。
現代の人間は、ある国家による侵略行為に対する武力行使に加え、右にみた「三つのパターン」の武力行使が国際法的に「合法」とされる時代に生きている。
前者についてもっと正確に言えば、特定の国家が定義する「侵略を未然に防ぐ、予防的な自衛権の行使」としての武力行使までが、国際法的に違法とはされない状況が出現している。
たとえば、イスラエルによるレバノン、ヨルダン、占領下のパレスチナに対する空爆、また世界各地で米軍が単独で行ってきた「対テロ戦争」がこれに該当する。
米軍は、軍事同盟国の後方支援を受け、各諜報機関と連携しながらも、巡航ミサイルによる空爆(二〇〇八年ソマリア)や無人攻撃機による爆撃(アフガニスタン、パキスタン、イエメン・・・)などの武力行使を現在もなお、単独で継続している。国際法違反の武力行使が違法とされない国際政治と国際法のリアリズムがここにある。
また、人道的軍事介入と「保護する責任」に基づく武力行使については、国連安保理常任理事五カ国(米国、中国、フランス、ロシア、イギリス P5)のどれか一国が、全体の合意を覆す拒否権を発動せず、安保理としての武力行使「決議」が通りさえすれば実行できる国際法的環境が、すでに作られている。
要は、武力行使を主に担う国家(米国、フランス・・・)の政治判断と軍事態勢の整備状況次第で、いつでも、自由に武力行使が実行できるということだ。近年ではリビアとコートジボアール(二〇一一年)、マリ(二〇一三年)の事例がこれに該当する。
「人道」や「人権」など、「普遍的価値」を掲げた戦争の時代の本格的幕開けである。
Ⅰ 「戦後レジームからの脱却」?――湧きおこる戦争の言説
二〇一三年七月の参議院選挙後、安倍=麻生政権の下で進行する日本の政治動向も、以上みた国家の武力行使をめぐる国際的な変化と決して無関係ではない。
二〇一三年八月九日現在、「自衛権」(「主権」防衛)のための武力行使と、「国際の平和と安全/安定」のための武力行使を切り離し、「集団的自衛権」の行使を可能にしようという動きが加速している。
「原子力ムラ」ならぬ「日米同盟ムラ」は、改憲→自衛隊の「国防軍」化を実現する前に、憲法九条の下で、海外における他国の武力行使と一体化した自衛隊の活動展開をめざすとともに、さらにその先に自衛隊自身による武力行使を可能とする新たな解釈改憲に向けた準備を進めている。
しかし、憲法九条の下で、自衛隊が米軍をはじめとした他国の軍隊と「集団的自衛権」を行使できるという憲法解釈が成り立つのであれば(政府与党たる「平和の公明党」はすでにそうした憲法解釈を打ち出している)、そもそも九条改定や憲法への「国防軍」規定の挿入などは、まったく無意味なものになってしまう。もしも自衛隊が、他国の軍隊と同じことができるなら、名前を変えずして自衛隊はリッパな軍隊になるからだ。
「戦後レジームからの脱却」を「自主憲法制定」を中心にめざすとする安倍首相個人の思想・信条や、いっそう保守化(国粋化?)した新生自民党の綱領に一見沿わない形、つまりは「戦後レジーム」の枠組みと戦後憲法を保持する形でこうした事態が進展している事実に、「価値観の修正」を求める人間は目を向けておく必要があるだろう。
現代日本は、憲法九条がもはや〈平和のエンジェル〉たりえず、「九条を守れ」「九条を世界に」と言うだけでは〈平和〉を守ることはできない、そういう時代に――実際にはかなり以前から――入っているのである。
とは言っても、福島第一原発のメルトダウン→核爆発→メルトスル―が起こらなければ「原発の安全神話」(?)から目覚めなかったように、どれだけ外国人が戦争で殺されようと、日本全土を震撼させるような大量の日本人犠牲者が出ることがなければ、「戦後」日本を形造ってきた二つの神話――「日米安保が日本を守る」/「憲法九条が日本を守る」から日本人が目覚めることはないのかもしれない。
実際には自衛隊員以外の、多数の犠牲者がすでに出ており、「メルトダウン」に向かう兆候は十分に現れているのだが、警鐘を鳴らすべき「知識人」の多くはそれに無頓着であるようだ。
今、日本の「知識人」の中で何が起こっているのか?
事態の深刻さを共有するために、ここで「現代の戦争と平和」を論じた一冊の本を紹介しておこう。『戦争の条件』(藤原帰一著、集英社新書、二〇一三)がそれである。
『戦争の条件』?
「国際政治学」を専門とし、メディアにも頻繁に登場する東京大学大学院教授によるこの書は、「戦争の条件を考え抜くことで、逆説的に平和の条件に至る道を模索」することが目的とされている。そしてその第一章のタイトルは、「戦争が必要なとき」となっている。
「価値観の修正」を追求しようとこの書を手にした人は、本を開いた瞬間に混乱してしまうだろう。なぜなら、戦争を前提にして「模索」の旅を始めてしまえば、そこからどのような「道」を辿ろうと、その先で到達する平和は、常に戦争を前提したものになってしまうからだ。
読者は、権威ある国際政治学者が言うところの「戦争の条件」と「平和の条件」がメビウスの環となった、どこにも出口(答え)のない異様な旅の随行者になることを強いられる。
それは常に「戦争の条件」によって重心が取られ、「戦争が必要なとき」、と著者が定義する「はじまり」に還ってゆく、この書のシナリオの必然的な帰結である。「逆説」でも何でもない。
著者にしてみれば、まさにそれこそが「平和のリアリズム」だと言いたいのかもしれない。
しかしそれでは、「価値観の修正」は永遠にできないことになる。人間はこれからも戦争の歴史、その価値観を変えることはできないし、変えようがなくなってしまう。
なぜ、そうなるのか? もう少し、著者が誘う「リアリズム」の世界を覘いてみよう。
第一章「戦争が必要なとき」に、「現代の戦争と「保護する責任」」という節がある。
藤原氏はここで、「現代戦争の多くは、「保護する責任」抜きには説明できない」、そしてこれが「国際機構で叫ばれている理念であるばかりか、すでに国際政治の現実の一部を構成している」との認識を示したうえで、次のように述べている。
「「保護する責任」に基づいた人道的介入は、各国それぞれの領土、安全、国益などの個別利益ではなく、普遍的人権の尊重を中核とした、優れて普遍主義的な理念によって支えられている」
要するに、氏はここで、「保護する責任」に基づく「現代の戦争」を「必要」だと言っているのである。
「「必要」と解釈する政治家、官僚、学者、国際NGOが世界にも日本にも存在する」と、客観的かつクリティカルな読者の思索を導く材料の提供としてではなく、「東京大学大学院教授」としての氏自身の価値判断としてそう言明しているのである。
「保護する責任」や人道的軍事介入に対するこのよう言明が「正しい」と言えるかどうか、またそれらがどのような問題をはらんでいるかについては、これまで何度も書いてきたので、ここでは立ち入らない。
ここでは、市民の「保護」を口実とした武力行使は、一九世紀以降何度もくり返されてきたことであって、「保護する責任」という概念自体に何の新しさもない、という点を指摘するにとどめておきたい。
過去と現在で変わったのは、「保護」の対象、その実行主体の拡張と、武力行使を容認する新たな国際法上の規範としてこれが利用されることになったこと、この三点である。具体的には、
①「保護」の対象が武力行使を行う国家の市民か、それとも他国のそれをも含むか、
②一国の軍隊が武力行使をするか、それとも国際機構の「決議」(お墨付き)の下で同盟軍+有志連合軍がするか、
③それが一国の「個別利益」に基づくか、それとも「普遍的価値」として表現される複数の国々の「共同利益」基づくか、以上の三点の変化である。
「保護」する対象と実行主体の拡張によって実現される、武力不行使原則の規制緩和(自由化)。これが「普遍的人権」という理念を剥ぎ取った後に露わになる「保護する責任」の実態である。
バンダが言う「平和の大義」からみれば、これはその進化ではなく無限後退と言うべきである。
P5や主要国連加盟国が、もしも本当に世界各地の市民を保護する責任を果たそうとするなら、武力行使以前にやるべきことは山ほどある。思いつくものをざっと挙げるだけも、
・「絶対悪としての核兵器」(松井一実広島市長、二〇一三年八月六日)の早期廃絶、
・強力な国際法的拘束力を持った軍縮の推進、
・軍事同盟の漸進的解消と一体化した世界的な脱軍事化、
・これまでの「武器」概念では武器扱いされないロボット・遠隔操作兵器を含む武器貿易・軍事援助規制の一層の強化、
等々の施策に始まり、国家が市民を守るために果たすべき政治・経済・法律・社会政策全般に及ぶ責任は数えきれない。
世界の主要国家は冷戦崩壊以後もずっとその責任から逃れようと腐心してきたとしか言えず、「保護する責任」はそのための新たな方便として世界サミットの「成果文書」に書き込まれ(二〇〇五年)、その翌年の国連安保理の「決議」の中に盛り込まれた、と見る方が事の真相を捉えていると思えるのだが、「保護する責任」を無条件で讃美する大学「知識人」はそうは考えないようだ。
現代に生きる人間が「価値観の修正」を模索し、武力行使の自由化を阻むためには、核兵器はもちろん、古典的武器概念ではもはや捉えきれない兵器体系によって実行される現代の武力行使の非人道性をまず理解しなければ、話が先に進みようがない。
その上で、今こそ「戦争が必要なとき」と主張する世界の政治エリートに対し、その「条件」が成立していると言えるかどうかを吟味し、「条件」に矛盾があればその根拠をつきとめ、「成立する」という主張を崩す論拠を思索しなければならない。
それが、非人道的な武力行使を、果てしなくくり返そうとする価値観に抗いうる〈知〉の在り処を、学生とともに思索し、模索すべき大学「知識人の責任」というものではないのか。
しかし、ここでも「国際政治学」を現代日本の大学、とりわけ旧帝大系の大学で教える「知識人」の多くは、そのようには考えないようなのだ。
そもそも戦争が平和の名において正当化される時代において、「戦争」と「平和」は対概念たりえない。だからこれらを両天秤にかけようとする/読者にそのように仕向ける問題構制そのものが誤っているのだが、おそらくそんなことは十分承知の上で著者は意図的にこの構制をとっている。
なぜそうなるのかと言えば、現代の戦争を捉えるキーワードたる「国際政治や国際法が「合法」と認める国家の武力行使」を著者が追認してしまっているからである。
「保護する責任」に対する著者の価値判断が如実に物語っているように、『戦争の条件』は、「平和の条件」が「戦争の条件」によって相対化された後に打ち消され、永遠の彼方に追いやられてゆく「構制」になっている。その結果、この書は見かけの上では「客観性」を装いつつも、一大学教授個人の価値観のさらなる追認を読者に迫る、きわめてイデオロギッシュな本に仕上がっている。
このような「権威ある知」に、さながら集団感染状態の現代日本において、「価値観の修正」は可能だろうか?
可能だとして、それまでにどれだけの年月を費やし、どれだけの人間が国家と武装勢力の戦闘行為によって殺されることになるのか?
日本人のみならず現代の人間は、そういう深刻な事態に直面しているのである。
8/9, 2013 中野憲志
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