2013年1月27日日曜日

コミュニケーションの困難、もしくは不在、そして必要性を痛感させるテキスト

コミュニケーションの困難、もしくは不在、そして必要性を痛感させるテキスト

 一つのテキストを紹介したい。
 福島県有機農業ネットワークが、1月20日、「公開討論会原発事故・放射能汚染と農業・農村の復興の道」を開催したが、その報告文である。(http://fukushimayuuki.blog.fc2.com/blog-entry-102.html
 
 各パネリストの発言要旨がリアルタイムでネットに公開され、討論会の模様をうかがい知ることができる。参加できなかった者も、これを読むと、当日の討論の白熱した緊張感を感じ取れるので、ぜひ一読をすすめたい。

 討論者4人の顔ぶれは次の通り。
小出裕章:京都大学原子炉実験所助教
明峯哲夫:有機農業技術会議代表理事
中島紀一:茨城大学名誉教授
菅野正寿:福島県有機農業ネットワーク
 この4氏の、ある意味では激論のコーディネータ役をコモンズ代表の大江正章氏がつとめた。

 まず、討論会の「開催趣旨」を確認しておこう。
今回の原発事故を経験して、有機農業と原発は原理的に相容れないことを痛切に実感しました。
 同時に有機農業は安全性論だけに依存しすぎていたことへの痛切な反省も迫られています。
 今回の公開討論会ではそうした認識を踏まえて、以下の諸点について語り合いたいと思います。

放射能の危険性をどのように認識するのか。特に、内部被ばくと低線量被ばくの危険性認識をめぐって。
「危険だ、避難せよ」という判断と呼びかけをめぐって、農業と風土的暮らしは土地を捨てては成り立たないことをどう考えるか。安全性の社会的保証と被災地復興の追及は、簡単には両立しないのではないか
放射能汚染の下で自然はこれからどのように推移していくのか。人は逃げられるが自然は逃げられない
科学者の役割とあり方。危険の中に生きる人びとへの助言も必要。煽ることから冷静な認識は生まれない

 討論会冒頭、小出氏が切り出す。
福島原発で放出された放射性物質は、広島・長崎の数百発分。二本松市における汚染は、1平方メートルあたり6万ベクレル。放射線管理区域の基準は1平方メートルあたり4万ベクレル。
 大地そのものが汚染されている。本当ならその地から人を引き離さなければならない状態。被ばくをしながら福島の農民は生きている。それにどう立ち向かうかが今日の課題。
このような場所には住むべきでない。すぐに移住すべき。

 この発言を受け、菅野氏が応答する。
阿武隈はアイヌ語で牛の背中という意味。
桑畑も荒れ放題という中で、地域づくりを進めてきた。首都圏の皆様との産直提携を進めてきた。
県外に16万人も避難している。異常な状況である。
 低線量被ばく、内部被ばく(野菜を食べる)が福島県の住民を不安にさせている。年間の被ばく量を5ミリシーベルトにするのか1ミリシーベルにするのかで国も迷っている状況。
二本松市は、毎時0.8ミリシーベルとのところもある。娘は、ホールボディカウンターでNDとなったが、カウンターにも検出限界というものがある。基準が体に与える影響が分からないのが問題。
 学校給食で地元産の米を使うようになったが、野菜は復活していない。住宅除染も始まり、1戸あたり80~100万円。大手ゼネコンが行っている。
 線量も元に戻ってしまっている。杉林とか松林とかの場所が線量も高い。
いくら住宅除染をしても元に戻ってしまう。周辺の森林除染をすべき。大手ゼネコンが行っている除染を住民で行う必要がある。
 復興のプロセスに住民をもっと参加させるべき。
 今回の問題を食べる食べないとか、逃げる逃げないという狭い議論にして欲しくない。
 地方に何もかも押し付けてきた、日本の歴史の問題。歴史の縦軸で考えていきたい。
 

 冒頭からこのような感じで討論会は進行してゆくのだが、言うまでもなく、討論会参加者に問われているのは、上にある討論会開催趣旨の①~④をめぐり、自分の個人的見解に近いパネリストの発言にうなずき、拍手喝采することにあるのではない。
 むしろ、今必要だと思えるのは、自分の個人的見解と相容れない見解を持つ者たちと、いかにコミュニケーションをはかり、議論を深め、それぞれの持ち場の活動の内容や質を広げ、高めてゆくという志向性ではないか、と私は思う。とりわけ脱原発・福島支援活動においては。

 自分の見解と相容れない者との対話や議論を閉ざし、同一あるいは親和的な見解を持つ者同士の間で活動をいくら続けても、そのような運動の内実が広がりを見せることは、まずありえない。時の経過とともに先細りするのが常である。
 
 日本の社会・市民運動が、今在るような現実になってしまった背景には、一言で言えば「独善的な排他性」が大きく作用してきた、という認識はかなり広がりつつあると言ってよい。
 しかし、私たちが社会・市民運動やNGO運動の傍観者や研究者一般ではない以上、問題はむしろこの認識をこそ出発点にせざるをえないところにある、ということだと思うのだ。これは結構、シビアなもんっだいである。

 人間という動物、そして「私」という人間は、果たして自分が「正しい」ものと設定する目的や、いその実現のための方法をめぐり、どこまで「独善的排他性」を克服・排除することができるのか。そして、異論を持つ者たちと協働関係を結ぶことができるか――。

 福島、被曝、子どもをどうするか、そして有機農業の未来・・・
 討論会は、とりわけこの40年ほどの日本における「有機農業」や「エコロジー」の運動的・思想的総括の必要性にまで言及しているがゆえに、きわめてアクチュアルな問題群へとここからさらに発展する可能性を秘めている。

 討論会で提起されている、ある特定の問いに対し、自分はどのような立場に立つのか、まずそのことをひとりひとりがはっきりさせる必要がある。その上で、自分と同一の立場に立たぬ者に対し、何をどのように語るか。
 一読と一考をすすめたい。