民主党の政権交代劇--そして誰も責任を取らない、何も変わらない
1
民主党の新代表選挙が行われ、菅内閣の主要閣僚の一人が新首相となり、その下で新内閣が組閣されようとしている。 支持率が二割に満たない政権与党による政権のタライ回しが、また、くり返されようとしているのだ。
ほんの3、4年前、私たちは自公政権時代の末期に、自民党を軸に形成されてきた戦後政治の末路、その末期症状を目撃し、「少しは何かが変わるかもしれない」と期待しながら、2年前の政権交代を実現した。
しかし結局、この2年間ではっきりしたことは、「民主党に自民党政治と官僚主導を変える能力はなかった」ということではないだろうか。 民主党を支持する読者(もしもそういう人がいれば、の話だが)には大変申し訳ないが、「民主党の命脈は尽きた」、というのが私個人の実感である。
野田新政権の迷走とそれによる政局の混乱は、今の時点でもう目に見えている。支持率の低迷により、新政権が自ら進んで解散・総選挙に持ち込もうとするはずはなく、そうなれば「政局の安定」を口実とした「大連立」構想が、また浮上するに違いない。
しかし、そもそも支持率2割に満たない政権与党と2割前後の野党第一党が野合したところで、「二大政党制」を語るには、あまりに肌寒いものがある。保守派の一部には「大連立」を望む声がずっとあるが、そんなことをすれば民主党に引きずられる形で自民党自体が轟沈しかねない。それほど民主党に対する「国民」の失望と怒りは根深いものがあることを民主党も自民党も知るべきだろう。
だから、「ねじれ国会」の打開策としてこれからさまざま取り沙汰されるであろう野田新政権による「大連立」構想にせよ、みんなの党や公明党の取り込み策にせよ、功を奏することはないだろう。その結果、民主党が自ら政権の座から降りない限り、「政局」の混迷と混乱は続くことになる。しかし、民主党にその意思はなく、あくまで権力にしがみつこうするだろう。そして、そのことが日本の政治の混迷と混乱をいっそう深めることになるだろう。
また、自民党と公明党が一緒になって政権の座に返り咲いたとしても、何も新しい展望、明るい未来は見えそうにない。民主党の命脈が尽きたということは、戦後の議会政治、政党政治の命脈が尽きたということでもあるはずだが、既成メディアはそこに踏み込もうとしない。その結果、誰も責任を取らず、何も変わらない「政治」に対する失望というよりは諦め、怒りというよりは、ただただ情けなくなるような思いが、私たちの意識を支配しつつある。この8月、いろんな人の話を聞いて感じたことを要約するなら、そういうことになる。
おそらく私たちは、民主党や自民党、既存の政党をどうするこうするではなく、向こう20年、30年先を見据えた「日本の議会政治や政党政治のシステムをどうするか?」という話を、真剣に始めねばならない時代を迎えている。その議論を、今の政治のシステムから得られる既得権を守ろうとするすべての勢力が一緒になって押さえ込もうとしているのではないか・・・。 8月が終わり、2週間後には「3・11」から丸半年を迎えるが、新政権をめぐるメディアの報道振りを見るにつけ、そのように思えてならない。
私事と雑事、新刊の刊行、それに伴うアレヤコレヤ、次の仕事の準備などに追われ、この間じっくり物事を考え、文章を書くことができなかった。それでも私なりに考えてきたことはある。書きなぐりの文章を少しずつ書き足すようなことしかできないが、今書けることを記録しておこう。
2
「3・11」から5ヶ月半余り。この間、はっきりしたことが二つある。一つは、これだけの原発災害を引き起こしても、政治家も官僚も結局誰も責任を取ろうとはしなかったこと、もう一つは、「3・11」直後にはあれだけ「そんなことはありえない」と言われていた「チェルノブイリの空間的再現」が福島で起こっていることだ。
前者については、今、これを論じる気力も暇も私にはない。
「3・11」直後から、「きっとそうなるに違いない」という思いが、今回の事態をめぐる国・東電・自治体の責任問題を論じる私自身の原動力にもなってきた。しかし、結局のところ「私たち」は、これだけの災難に直面しても、business as usualの政治を変えることができなかった。「国策・民営」の原子力行政とその無責任体制を、機構としても構造としても抜本的に変革する絶好の機会を逃してしまったのである。民主党の代表選挙において原発問題がアジェンダにもならなかったこと、そして「検査が終わった原発は再稼動すべき」と語る人物が新首相に選任され、新内閣を組閣するということは、そういうことだと私自身は考えている。
「チェルノブイリの空間的再現」、ふたたび
だが、新政権や政局の動きがどうあれ、後者の問題を見過ごすことはできない。拡大する「チェルノブイリの空間的再現」は、福島県民や近隣の住民のみの問題ではなく、私たち自身の問題でもあるからだ。
「菅政権とはいったい何だったのか?」という、実に憂鬱なる問題に対する答えも見出せないまま、私たちは福島における「チェルノブイリの再現」に対する新政権の政策の分析、その批判を通じ、新政権と民主党の政治責任と行政責任を問い続けねばならないだろう。「3・11」から時間が経つにつれ、私たち自身が忘れがちになるが、被災・被曝者がかかえる問題は根本的なレベルで何も解決していないし、今現在福島や東北の避難所に入っている私の友人たちを含め、支援活動は継続されているからである。
民主党政権と世論のねじれ
新聞社によって世論調査の結果に違いはあるが、原発の即時停止と段階的廃止を合わせるなら、6割から7割強が脱原発のスタンスを取る世論と、原発推進路線をとる民主党および新政権との間には、原発をめぐる意識のねじれがある。政権与党と野党第一党の原発政策が一般市民の意識と乖離するという状況が、少なくとも今後数年間にわたって続くのである。
しかし、世論調査の多数派が脱原発だからと言って、脱原発派は安心してはいられない。というのも、8月に入って以降、明らかにその傾向が強まっていると思える、望ましくない兆候があるからだ。
その一つは、地震・津波・原発事故の再来に関する全般的な危機意識が大幅に後退していること、二点目は、その危機意識にもかなりの地域差があり、それがより広がっていること、最後に、人と食の放射能汚染をめぐる人々の意識、それらを報じるメディアの内容が、原発そのものに対する是非、国の原子力政策をどうするかという問題と切断されて意識されたり、報道されるようになってきていること、などである。
9月には今年最大規模の脱原発集会が予定されている。しかし、風は追い風から逆風になりかけていることを、私たちは冷静になって自覚する必要がありそうだ。
一つの場所にできるだけ多くの者たちが集まり、一つの意思を示すことには、たしかに意義がある。けれども、この半年近くの総括として、その積み重ねだけでは国と自治体の既定の方針を変えることはできないことも知っておくべきかもしれない。
鎌田慧氏は、「これまでの脱原発運動は、結局のところ社会の意識を変えることができなかった」といったようなことを語ったと記憶するが、その根拠がどこにあるのかを議論し、運動のあり方自体を変えてゆくことが、私たちの次の課題になると思うのである。
2011年8月30日火曜日
2011年8月18日木曜日
『脱「国際協力」 ~開発と平和構築を超えて~』のご案内
NGOは誰のために活動するのか。
「開発援助」による貧困と、「平和構築」による暴力から脱け出すために。
『脱「国際協力」 ~開発と平和構築を超えて~』の序章から
NGOは政府とのパートナーシップを追求するあまりに独立性を失ってはいまいか、そして社会変革への志向も薄らぎつつあるのではないか。
本書の編者らが『国家・社会変革・NGO-政治への視線/NGO運動はどこへ向かうべきか』(新評論、2006年)を出版したのはそんな危機意識からであった。
国際協力の分野においてその危機は今、さらに深まりつつある。国益実現のツールとしての政府開発援助(ODA)の戦略的活用路線がますます明確になり、対テロ戦争と並行共存する平和構築が日本の国際協力政策の中核の一つに位置づけられるようになっているからだ。
本書はこの危機の深まりを捉えるために、国際協力政策の背景やその依拠する考え方、そして国際協力という言説そのものの見直しに主眼をおいている。
本書の第一の特色は、非国家の視点から国際協力を論じている点にある。例えばODAを“援助する側”の論理ではなく“援助を受ける側”の視点で見れば、「開発援助」の思想と実態の“貧しさ”が見えてくる。
本書のもう一つの特色は、問題提起と批判的省察の姿勢をもって主流の国際協力のあり方を検討している点にある。「平和構築」と呼ばれる一連の活動も、アフガニスタンなどの現場で起きていることを直視すれば、それが本当に平和を創出しているのか疑問に思わない方が難しい。むしろ“人道的帝国主義”と呼べるような事態が進行しつつあるといえる。
福島第一原発事故によって原発推進における産官学政一体の癒着構造が明らかになった今、主流から外れることを恐れず、国家におもねることなく、被害に遭い切り捨てられる人々の立場に立って物を考え行動し続けることの重要性を、今ほど痛感することはない。
NGOの出発点もそこにおくべきではないか。(編者 藤岡恵美子)
/////////
【目次】
序章
第一章 政官財ODAから地球市民による民際協力へ(村井吉敬)
Essay1 「国際協力」誕生の背景とその意味(北野 収)
第二章 日本の軍事援助(越田清和)
Essay2 差別を強化する琉球の開発(松島泰勝)
第三章 イスラエル占領下の「開発援助」は公正な平和に貢献するか?――パレスチナ・ヨルダン渓谷における民族浄化と「平和と繁栄の回廊」構想(役重善洋)
第四章 人道支援における「オール・ジャパン」とNGOの独立(藤岡美恵子)
Essay3 アフガニスタンにおける民軍連携とNGO(長谷部貴俊)
第 五章 日本の国際協力NGOは持続可能な社会を夢見るか?――自発性からの考察(高橋清貴)
Essay4 NGOによる平和促進活動とは?――バングラデシュ、チッタゴン丘陵の事例から(下澤 嶽)
Essay5 先住民族と「平和構築・開発」(木村真希子)
第六章 「保護する責任」にNO!という責任――21世紀の新世界秩序と国際人権・開発NGOの役割の再考(中野憲志)
【著者紹介】
-北野収-獨協大教員
-木村真希子-立教大非常勤講師
-越田清和-ほっかいどうピーストレード事務局長
-下澤嶽-ジュマ・ネット代表
-高橋清貴-日本国際ボランティアセンター(JVC)調査研究員
-中野憲志-先住民族・第四世界研究
-長谷部貴俊-JVCアフガニスタン現地代表
-藤岡美恵子-法政大他講師
-松島泰勝-龍谷大教員
-村井吉敬-早稲田大教員
-役重善洋-パレスチナの平和を考える会メンバー
★お問い合わせ sales@shinhyoron.co.jp
★カバー写真(表):アッサム(インド)の先住民族(ボド民族)の親子/ナガランド(インド・ビルマ国境)の女性たち。村への歓迎の歌を歌うため集まった/沖縄を象徴する熱帯植物ハイビスカス/アフガニスタン・ナンガルハル県の子どもたち(提供:JVC)/チャモロネーション(グアム)の自決を訴えるバナー(提供:山口響)
・・・
「批評する工房のパレット」内の関連ページ
⇒「ポスト「3・11」の世界と平和構築」(6/19)
「保護する責任」関連
⇒「「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」」(2010, 10/28)
⇒「人道的帝国主義とは何か---「保護する責任」と二一世紀の新世界秩序」(2/11)
⇒「「保護する責任」を推進するNGOの何が問題なのか?」(3/4)
⇒「ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと」(2/24)
「開発援助」による貧困と、「平和構築」による暴力から脱け出すために。
『脱「国際協力」 ~開発と平和構築を超えて~』の序章から
NGOは政府とのパートナーシップを追求するあまりに独立性を失ってはいまいか、そして社会変革への志向も薄らぎつつあるのではないか。
本書の編者らが『国家・社会変革・NGO-政治への視線/NGO運動はどこへ向かうべきか』(新評論、2006年)を出版したのはそんな危機意識からであった。
国際協力の分野においてその危機は今、さらに深まりつつある。国益実現のツールとしての政府開発援助(ODA)の戦略的活用路線がますます明確になり、対テロ戦争と並行共存する平和構築が日本の国際協力政策の中核の一つに位置づけられるようになっているからだ。
本書はこの危機の深まりを捉えるために、国際協力政策の背景やその依拠する考え方、そして国際協力という言説そのものの見直しに主眼をおいている。
本書の第一の特色は、非国家の視点から国際協力を論じている点にある。例えばODAを“援助する側”の論理ではなく“援助を受ける側”の視点で見れば、「開発援助」の思想と実態の“貧しさ”が見えてくる。
本書のもう一つの特色は、問題提起と批判的省察の姿勢をもって主流の国際協力のあり方を検討している点にある。「平和構築」と呼ばれる一連の活動も、アフガニスタンなどの現場で起きていることを直視すれば、それが本当に平和を創出しているのか疑問に思わない方が難しい。むしろ“人道的帝国主義”と呼べるような事態が進行しつつあるといえる。
福島第一原発事故によって原発推進における産官学政一体の癒着構造が明らかになった今、主流から外れることを恐れず、国家におもねることなく、被害に遭い切り捨てられる人々の立場に立って物を考え行動し続けることの重要性を、今ほど痛感することはない。
NGOの出発点もそこにおくべきではないか。(編者 藤岡恵美子)
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【目次】
序章
第一章 政官財ODAから地球市民による民際協力へ(村井吉敬)
Essay1 「国際協力」誕生の背景とその意味(北野 収)
第二章 日本の軍事援助(越田清和)
Essay2 差別を強化する琉球の開発(松島泰勝)
第三章 イスラエル占領下の「開発援助」は公正な平和に貢献するか?――パレスチナ・ヨルダン渓谷における民族浄化と「平和と繁栄の回廊」構想(役重善洋)
第四章 人道支援における「オール・ジャパン」とNGOの独立(藤岡美恵子)
Essay3 アフガニスタンにおける民軍連携とNGO(長谷部貴俊)
第 五章 日本の国際協力NGOは持続可能な社会を夢見るか?――自発性からの考察(高橋清貴)
Essay4 NGOによる平和促進活動とは?――バングラデシュ、チッタゴン丘陵の事例から(下澤 嶽)
Essay5 先住民族と「平和構築・開発」(木村真希子)
第六章 「保護する責任」にNO!という責任――21世紀の新世界秩序と国際人権・開発NGOの役割の再考(中野憲志)
【著者紹介】
-北野収-獨協大教員
-木村真希子-立教大非常勤講師
-越田清和-ほっかいどうピーストレード事務局長
-下澤嶽-ジュマ・ネット代表
-高橋清貴-日本国際ボランティアセンター(JVC)調査研究員
-中野憲志-先住民族・第四世界研究
-長谷部貴俊-JVCアフガニスタン現地代表
-藤岡美恵子-法政大他講師
-松島泰勝-龍谷大教員
-村井吉敬-早稲田大教員
-役重善洋-パレスチナの平和を考える会メンバー
★お問い合わせ sales@shinhyoron.co.jp
★カバー写真(表):アッサム(インド)の先住民族(ボド民族)の親子/ナガランド(インド・ビルマ国境)の女性たち。村への歓迎の歌を歌うため集まった/沖縄を象徴する熱帯植物ハイビスカス/アフガニスタン・ナンガルハル県の子どもたち(提供:JVC)/チャモロネーション(グアム)の自決を訴えるバナー(提供:山口響)
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「批評する工房のパレット」内の関連ページ
⇒「ポスト「3・11」の世界と平和構築」(6/19)
「保護する責任」関連
⇒「「保護する責任」にNO!という責任--人道的介入と「人道的帝国主義」」(2010, 10/28)
⇒「人道的帝国主義とは何か---「保護する責任」と二一世紀の新世界秩序」(2/11)
⇒「「保護する責任」を推進するNGOの何が問題なのか?」(3/4)
⇒「ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)とオクスファム(Oxfam)が理解できていないこと」(2/24)
泊3号機の営業運転再開は、停止中原発の再稼働の不吉な序曲
泊3号機の「営業運転再開」は、停止中原発の再稼働の不吉な序曲
高橋はるみ北海道知事が、昨日、泊原発3号機の「営業運転再開」を容認する意向を正式に表明した。
私はこの間、原発は「安全」だから建設されてきたのではないし、「危険」だから廃止できるのでもないこと、また「3・11」以後においても、「安全」だから再稼働されるのではないし、「不安全」だから再稼働を阻止できるのでもないことを訴えてきたが、政府が言う「ストレステスト」の基準さえ満たしていない泊原発3号機の「営業運転再開」の立地自治体による承認は、憂鬱なこれらの仮説を、きしくも証明するものとなった。
この事態を受け、これから秋、そして秋から冬にかけ、各地の停止中原発の再稼働に向けた怪しい動きが、にわかに活気づくことになるだろう。
「3・11」から5カ月余り。脱原発派の本格的な試練が始まろうとしている。
〈泊原発3号機の「営業運転再開」から何を教訓化すべきか〉
①「原子力安全庁」の評価をめぐって
まず、敗戦記念日に閣議決定された「原子力安全庁」の評価に引き付けて言えば、原発の管轄官庁が経済産業省から環境省に移行したところで、そのこと自体は何ら原発の「科学」的かつ「工学」的な「安全性」を担保するものにはならない、ということである。
泊原発の場合、道庁、道議会、立地自治体は、道内の研究者たちが、道議会産炭地域振興・エネルギー問題調査特別委員会の開催を前に発表した「緊急声明」の内容を完全に無視・黙殺する形で、営業再開容認に踏み切っている。
重要なのは、元道環境審議会会長の吉田文和北大大学院教授(環境経済学)を始めとする研究者たちは、営業再開そのもの反対したのではなく、「無条件の営業運転開始は容認できない」として、「安全」を確保するための条件をクリアせよ、と要求したに過ぎないことだ。北海道新聞によると、吉田教授や干場信司酪農学園大教授たちは、
① 安全協定の範囲拡大、
② 泊原発の沖合に存在が指摘されている活断層などについて、第三者機関による調査・検証の実施、
③ 2~4年後までに実施するとしている北電による安全性向上対策の前倒し、などの5項目を「営業運転再開の条件」とするよう求めたわけだが、 市民の「安全・安心」を保証する必要最小限度の条件とも言うべきこれらの内容が、道・議会・立地自治体(およびその議会)によって無視・黙殺されたのである。
私は、3号機営業再開容認問題が持ち上がった直後に、「高橋知事は、少なくとも「ストレステスト」の実施とその結果が判明するまで、という条件の下に、泊3号機の営業再開にストップをかけることができるし、そうすべきだろう。「地元4町村」の首長たちにしても同じである」と書いた。 吉田教授たちの「緊急声明」の内容と同意見である。(⇒「泊原発が危ない!」の末尾を参照)
また、北海道新聞の社説、「泊最終検査 道民の理解得られるか」は、
「道民の不安を解消することが最優先である以上、3号機をいったん停止させ、さまざまな安全審査を待つことも選択肢の一つになるのではないか。 最終検査は、原発の設備の状態をデータで確認する程度の形式的なものにすぎない。 中ぶらりんの状態は解消すべきだが、それを出来レースのような手続きで済ませるのは誠実なやり方とは言えまい。 ・・・北電は、道民の議論の材料として、道内企業の自家発電設備も含めた電力供給能力、必要な節電の程度など詳細なデータを公開すべきだ 」
「これまで試験運転の継続を放置してきた保安院が、検査忌避の疑いまで持ち出して、北電に検査申請を促すのは奇妙だ。 経産省は停止中の原発の運転再開を急いでいた。その突破口として期待していた玄海原発の再稼働が暗礁に乗り上げた直後である。 泊3号機を、福島の事故後に定期検査から営業運転を再開する最初の原発と位置づけ、再稼働に弾みをつける意図があるとしたら、国民軽視もはなはだしい」 と書いていた。
要するに、「ストレステスト」もヘッタクレもクソもない。
「何でもアリ」なのだ。
高橋はるみ北海道知事が、昨日、泊原発3号機の「営業運転再開」を容認する意向を正式に表明した。
私はこの間、原発は「安全」だから建設されてきたのではないし、「危険」だから廃止できるのでもないこと、また「3・11」以後においても、「安全」だから再稼働されるのではないし、「不安全」だから再稼働を阻止できるのでもないことを訴えてきたが、政府が言う「ストレステスト」の基準さえ満たしていない泊原発3号機の「営業運転再開」の立地自治体による承認は、憂鬱なこれらの仮説を、きしくも証明するものとなった。
この事態を受け、これから秋、そして秋から冬にかけ、各地の停止中原発の再稼働に向けた怪しい動きが、にわかに活気づくことになるだろう。
「3・11」から5カ月余り。脱原発派の本格的な試練が始まろうとしている。
〈泊原発3号機の「営業運転再開」から何を教訓化すべきか〉
①「原子力安全庁」の評価をめぐって
まず、敗戦記念日に閣議決定された「原子力安全庁」の評価に引き付けて言えば、原発の管轄官庁が経済産業省から環境省に移行したところで、そのこと自体は何ら原発の「科学」的かつ「工学」的な「安全性」を担保するものにはならない、ということである。
泊原発の場合、道庁、道議会、立地自治体は、道内の研究者たちが、道議会産炭地域振興・エネルギー問題調査特別委員会の開催を前に発表した「緊急声明」の内容を完全に無視・黙殺する形で、営業再開容認に踏み切っている。
重要なのは、元道環境審議会会長の吉田文和北大大学院教授(環境経済学)を始めとする研究者たちは、営業再開そのもの反対したのではなく、「無条件の営業運転開始は容認できない」として、「安全」を確保するための条件をクリアせよ、と要求したに過ぎないことだ。北海道新聞によると、吉田教授や干場信司酪農学園大教授たちは、
① 安全協定の範囲拡大、
② 泊原発の沖合に存在が指摘されている活断層などについて、第三者機関による調査・検証の実施、
③ 2~4年後までに実施するとしている北電による安全性向上対策の前倒し、などの5項目を「営業運転再開の条件」とするよう求めたわけだが、 市民の「安全・安心」を保証する必要最小限度の条件とも言うべきこれらの内容が、道・議会・立地自治体(およびその議会)によって無視・黙殺されたのである。
私は、3号機営業再開容認問題が持ち上がった直後に、「高橋知事は、少なくとも「ストレステスト」の実施とその結果が判明するまで、という条件の下に、泊3号機の営業再開にストップをかけることができるし、そうすべきだろう。「地元4町村」の首長たちにしても同じである」と書いた。 吉田教授たちの「緊急声明」の内容と同意見である。(⇒「泊原発が危ない!」の末尾を参照)
また、北海道新聞の社説、「泊最終検査 道民の理解得られるか」は、
「道民の不安を解消することが最優先である以上、3号機をいったん停止させ、さまざまな安全審査を待つことも選択肢の一つになるのではないか。 最終検査は、原発の設備の状態をデータで確認する程度の形式的なものにすぎない。 中ぶらりんの状態は解消すべきだが、それを出来レースのような手続きで済ませるのは誠実なやり方とは言えまい。 ・・・北電は、道民の議論の材料として、道内企業の自家発電設備も含めた電力供給能力、必要な節電の程度など詳細なデータを公開すべきだ 」
「これまで試験運転の継続を放置してきた保安院が、検査忌避の疑いまで持ち出して、北電に検査申請を促すのは奇妙だ。 経産省は停止中の原発の運転再開を急いでいた。その突破口として期待していた玄海原発の再稼働が暗礁に乗り上げた直後である。 泊3号機を、福島の事故後に定期検査から営業運転を再開する最初の原発と位置づけ、再稼働に弾みをつける意図があるとしたら、国民軽視もはなはだしい」 と書いていた。
要するに、「ストレステスト」もヘッタクレもクソもない。
「何でもアリ」なのだ。
2011年8月16日火曜日
原発推進機関としての「原子力安全庁」にNO!
原発推進機関としての「原子力安全庁」にNO!
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敗戦記念日の昨日、環境省の「外局」として、原子力安全庁(仮称)の設置が閣議決定された。
広島と長崎の「原爆の日」、「3・11」から丸5ヶ月目を迎えた8月11日、そして敗戦記念日の昨日と、この10日間は「核と戦争」の問題を、フクシマと脱原発の問題に引き付けて考え直すことが余儀なくされた10日間だった。少なくとも、私たちの多くにとってはそうであったはずだが、日本政府というか民主党政権にとってはそうではなかったようだ。その証左が、敗戦記念日に来年4月の設置が決定された、原子力安全庁という名の新たな原発推進機関の存在である。
脱原発/段階的廃炉を主張する者として、原子力安全庁の設置をどのように考えればよいのだろう。
脱原発を公的に表明した一部新聞メディア、あるいは社民党のように、衣替えした新たな原発推進行政機関の設置を、経産省から「分離・独立」したという一点において、「基本的に歓迎」しながら、しかし「独立性」の徹底化に向け、さらに政府に「注文」をつける、というスタンスを取るべきだろうか。 それとも、設置に反対の立場から別の道を模索すべきだろうか。
難しい問題だ。
私自身は、後者の立場を選択したい。前者を含むマスコミの主張を検討しながら、その理由を述べてみたい。 原子力安全庁をどのように捉えるべきか、思案中の人々の参考になれば、と思う。
最初に、社の方針として、原発の安全性の確保をはかりながら、その推進を打ち出してきた読売新聞の今日付の社説、「原子力安全庁 安全確保へ規制担う組織築け」を読んでみよう。読売新聞の分析および論点は、以下の諸点である。
① 原子力規制行政への信頼は、福島第一原発の事故で失墜。電力の安定供給には定期検査で停止中の原発の再稼働が急務、しかし規制行政への不信が、関係自治体の同意取り付けを困難に。こうした中で、
② 原発を安全に稼働させるうえで必要な規制を担うことが、安全庁の重要な使命。環境省を選んだのは、電力業界とのしがらみがなく、既存の地方組織を関係自治体との折衝に利用できるため。しかし、
③ 環境省は、発電時に温室効果ガスを出さない原発を推してきた。それで規制が緩む、と見られるようなことがあってはならない。
④ 安全庁には、保安院や原子力安全委などからスタッフ500人前後が移り、関連する独立行政法人、研究機関も合わせると1000人を超える大規模な異動となる。人事の独立性維持のため、異動後に元の組織に戻さない「ノーリターンルール」や独自採用の制度も導入。原子力に関する高度な専門知識と判断力を備えた人材が、職務に専心できる環境を築くべし。
⑤ 規制に加え、安全庁は、原子力事故が起きた時の初動対応や、原子力施設を狙った核テロなどへの対応も担うことに。文部科学省が担当してきた放射線の測定や監視業務も引き継ぐ。 事故の悪化を食い止められず放射線測定などで不信を増幅した福島第一原発事故の反省を踏まえ、こうした業務を遂行できるよう必要な法整備をすべし。
⑥ 政府の事故調査・検証委員会の検証結果も取り込み、「頼りになる安全庁」を。
この読売の社説を、この間脱原発を主張し、安全庁設置に対し基本的に「歓迎」を立場を表明する毎日新聞の社説、「原子力規制組織 人材結集し徹底改革を」と比較対照してみよう。
① 原子力の安全規制改革は生半可な取り組みではできない。独立性や専門性、危機管理力を兼ね備えた組織を作るには、国全体で意識を変革する覚悟が必要。徹底した改革に全力をあげるべき。
② 新組織を環境省におくことのメリットとして、経産省の影響力を排除しやすいとの見方があるが、環境省には原発の安全基準や耐震設計などに詳しい原子力の専門家はほとんどいない。当面、保安院や原子力安全委などの人員が横滑りで新組織を構成することに。専門知識を持つ人の多くが、いわゆる「原子力ムラ」に属している現実の中で、「中立性」と「専門性」をいかに両立させるか。職員数も予算規模も少ない環境省にとっては難題。
③ そうした実情を十分に踏まえた上で、本当に安全を担保できる人材を確保し、新たな人材も育成していく仕組みが必要。柔軟な姿勢で、あらゆるところから人材を集め、プロ集団を組織し、強い権限を持たせるべき。
④ 独立性を保つには、原発推進を支えてきた組織との人事交流も制約すべき。経産省からの独立だけでなく、政治からの独立も重要。
⑤ 新組織には、安全研究を担ってきた原子力安全基盤機構や、文部科学省が所管してきた放射線モニタリングの司令塔機能、放射性物質の拡散予測システム(SPEEDI)なども統合。日本原子力研究開発機構など、各組織に分散している安全規制の人材をさらに統合すべき。
⑥ 現在、「原子力安全庁」という仮称で呼ばれているが、組織の性格を明確にするためにも「原子力監視庁」といった名称にしたほうがよい。
さらにもう一つ紹介しておこう。安全庁への「懐疑派」、東京新聞の今日付の記事、「「原子力安全庁」新設 閣議決定ありき 権限議論不十分」は、このように語っている。
・・
政府は十五日の閣議で、原子力規制機関に関する組織改革基本方針を決定した。経済産業省原子力安全・保安院と内閣府原子力安全委員会を統合した「原子力安全庁」を環境省の外局として、二〇一二年四月に新設する。ただ、菅政権の退陣前に方向を定めようと結論を急いだあまり、肝心の権限や名称で詰めを欠き、原発に対する環境省の立ち位置にも疑問が残る。
「『原子力安全庁』は仮称。規制を一元的に担う役割からすれば、『規制』を役所の名前にすべきだ」。枝野幸男官房長官は十五日の記者会見で、こう異を唱え、法案策定段階で名称が変わる可能性に言及した。 閣議決定したのに、なお閣内から異論が上がるのは、安全庁をめぐる議論が十分でなく“閣議決定ありき”の実態を物語る。
基本方針では、これまで原発を推進してきた経産省から、原発の規制に携わる原子力安全・保安院を分離し、原子力安全委員会とともに統合することで、組織上は推進と規制の分離が実現している。
だが、安全庁にどのような権限を持たせるかは今後の課題に残された。中央官庁では後発の環境省の外局が、経産省を向こうに規制の実を挙げるには、調査や勧告などでどの程度の権限が与えられるかが焦点だ。こうした権限がなければ、今までの保安院のように原発にお墨付きを与えるだけの組織になりかねない。
一方で、原発規制に関する環境省のスタンスに懐疑的な見方もある。同省は地球温暖化対策で、原発は二酸化炭素(CO2)を排出しないとして「一層の活用を図り、基幹電源として官民協力で着実に推進する」(二〇一〇年版環境白書)としてきた。
この点について、細野豪志原発事故担当相は「環境省は自然エネルギーを推進してきたので、原子力にはもともと厳しい考え方を持っている(???)」と説明するが、環境省は一一年版白書でも「原子力も含めたエネルギー政策全体の議論が必要」と位置付けている。 規制に重点を置くのか、それとも今後も積極利用を図るのか。原子力政策の根幹に関する議論が生煮えだった面は否めない。 (三浦耕喜)
・・
さて、読者は原子力安全庁をどのように分析し、評価するだろうか。
2
「減原発」さえ不透明な民主党政権のエネルギー・原子力行政
「原子力安全庁」なる新行政組織が原発推進機関になる、その根拠はとても単純なことだ。政府としても、内閣としても、与党民主党としても、脱原発はおろか「減原発」さえ不透明であり、〈フクシマ〉をめぐるアレヤコレヤの「事態」が「一定の収束」を迎えた暁には、政・官・財・学の原発推進派は、「安全」な原発の海外輸出と国内新規増設に具体的道筋をつけることを狙っているからである。今はとにかく脱原発の「嵐」が過ぎ去るのをじっと待つ、ガマンのしどころ、といったところだろうか。事実、新設される「原子力安全庁」には、現原子力安全・保安院に替わり、未来における原発の新規増設の許認可権限が与えられようとしていることを見落とすべきではないだろう。
「3・11」以後、これまでの日本の原子力行政をめぐる諸問題に関し、菅内閣は「白紙から見直す」という言葉を乱発してきたが、それは政府としての問題点を点検し直す、と言った程度の意味であり、「断念」でも「白紙撤回」でもなかった。
裏返して言えば、2040年でも50年でも、いや半世紀後でもよい、それがいつになるのであれ、福島第一原発のメルトスルーを引き起こしてしまった国家的総括としての脱原発を、政府、内閣、与党としての基本方針として確定しないまま、安全・保安院に変わる「規制」行政組織を作ったところで、新組織は必然的に原発推進機関になってしまう/ならざるをえなくなる、ということだ。
原発推進派の読売の社説の執筆者は、そのことを十分承知しているし、見抜いてもいる。脱原発派の毎日、東京新聞の社説に比し、読売の社説の主張の方が分かりやすく、スッキリしたものになっているのも、そのせいだと理解すべきだろう。 菅内閣はとっとと退陣し、国家と政治の信頼を取り戻し、決めるべきこと、やるべきことを早急に実行し、「安全」が確認された停止中原発をできるだけ早く再稼働せよ、そして一時中断を余儀なくされた原発の海外輸出や再処理の話も当初の「既定の方針」通りに進めるべし・・・。
これが読売新聞社としての方針である。私(たち)とは正反対の立場ではあるが、論理は通っている。「原発の不安全」を説くだけでは、なかなか崩すことが困難な、手ごわい論調である。
このような読売流論調に対し、どういう「論調」を脱原発派が対置できるか。「原子力安全庁」設置の閣議決定を経た今、そのことが私(たち)に問われているわけである。
読売の社説に対し、安全庁への懐疑を示しつつ、にもかかわらず基本的に経産省からの分離・独立を「歓迎」し、さらに政府に「注文」を付けるという毎日の社説は、「注文」内容の実現可能性が未知数であるだけに、読む者を懐疑的にさせる。また、菅首相の「原発に依存しない社会をめざす」論を支持した、同じく脱原発派の東京新聞の記事は、安全庁に懐疑的であるのは理解できるが、賛成なのか反対なのか、立場が分からない。
毎日の社説を一読し、読者が懐疑的になってしまうのは、経産省と同じ官僚機構たる環境省の「外局」、すなわち一国家行政組織に、その「専門性」と国策(国家戦略)からの「中立性」とが「両立」しうるかのように社説が論じている点にある。この社説の筆者が言うように、もしも国策からの「中立性」と、さらには「政治からの独立」をも確保せよというのであるなら、そもそもの初めから国の行政機構そのものから独立した、いわゆる「第三者機関」でなければならないはずだが、社説はこの点を曖昧にしてしまう。その結果、「分かったようで、何だかよく分からない」、そんな印象が否めない社説になってしまっている。 とても残念だ。
もちろん、原子力安全庁はまだ名称の変更もありうる、それ自体が何だかよく分からない組織ではある。報道によれば、準備室を月内にも設置し、来年の通常国会に関連法案を提出する方針とされ、原発の安全規制の組織改革についても、その詳細は来年に持ち越されることになる。はっきりしていることは、「組織改革の第1段階で安全庁を発足させ、第2段階として東京電力福島第1原発事故の検証結果や原子力政策の見直しを踏まえ」、来年末をめどに組織の機能と体制の「強化案」を決定する(産経)、その程度のことだ。
だから、楽観的に考えるなら、注文や対案を政府に突きつけてゆくなら、原案よりはマシな、「政治から独立」した「中立性」を保った組織になりうる余地がある、と解釈する人がいたとしても不思議ではない。
しかし、現実も日本の官僚機構もそう甘くない。官僚機構から独立した第三者機関ではなく、環境省という中央行政機構の延長機関、外局と位置付けらた時点で国策からの「中立性」と「政治からの独立」は「アウト」だと私は言いたい。
楽観主義者が正しいか、それとも私のような「悲観主義者」の分析通りになるか。結果は、そう遠くない未来に明らかになるはずである。
3
国としての脱原発の方針決定なき原発の「安全規制」機関は、経産省・環境省如何を問わず、その「外局」である限り、必ずや停止中原発の再稼働容認になる。今は想像することが若干困難ではあるが、将来的な新規増設を国が決定した場合には、それにお墨付きを与える機関となる。
現原子力安全・保安院が、いつ、どのような位置づけの下で、どのような「国家的使命」を負わされながら創設されたか、そしてその結果が「3・11」であったことを想起するなら、このことは明らかではないか。と、私は考えるのだが、どうも脱原発派の人々の中には、そう考えない人が結構いるようだ。
私の分析と主張が誤っていると思う人は、北海道の泊原発3号機の「営業運転再開」を、つい先ほど(8/16日夜)高橋はるみ知事が、事実上容認した現実をどのように捉えるべきか、じっくり考えてみてはどうだろう。(⇒「泊原発が危ない!」)
⇒「泊3号機の「営業運転再開」は、停止中原発の再稼働の不吉な序曲」へつづく
1
敗戦記念日の昨日、環境省の「外局」として、原子力安全庁(仮称)の設置が閣議決定された。
広島と長崎の「原爆の日」、「3・11」から丸5ヶ月目を迎えた8月11日、そして敗戦記念日の昨日と、この10日間は「核と戦争」の問題を、フクシマと脱原発の問題に引き付けて考え直すことが余儀なくされた10日間だった。少なくとも、私たちの多くにとってはそうであったはずだが、日本政府というか民主党政権にとってはそうではなかったようだ。その証左が、敗戦記念日に来年4月の設置が決定された、原子力安全庁という名の新たな原発推進機関の存在である。
脱原発/段階的廃炉を主張する者として、原子力安全庁の設置をどのように考えればよいのだろう。
脱原発を公的に表明した一部新聞メディア、あるいは社民党のように、衣替えした新たな原発推進行政機関の設置を、経産省から「分離・独立」したという一点において、「基本的に歓迎」しながら、しかし「独立性」の徹底化に向け、さらに政府に「注文」をつける、というスタンスを取るべきだろうか。 それとも、設置に反対の立場から別の道を模索すべきだろうか。
難しい問題だ。
私自身は、後者の立場を選択したい。前者を含むマスコミの主張を検討しながら、その理由を述べてみたい。 原子力安全庁をどのように捉えるべきか、思案中の人々の参考になれば、と思う。
最初に、社の方針として、原発の安全性の確保をはかりながら、その推進を打ち出してきた読売新聞の今日付の社説、「原子力安全庁 安全確保へ規制担う組織築け」を読んでみよう。読売新聞の分析および論点は、以下の諸点である。
① 原子力規制行政への信頼は、福島第一原発の事故で失墜。電力の安定供給には定期検査で停止中の原発の再稼働が急務、しかし規制行政への不信が、関係自治体の同意取り付けを困難に。こうした中で、
② 原発を安全に稼働させるうえで必要な規制を担うことが、安全庁の重要な使命。環境省を選んだのは、電力業界とのしがらみがなく、既存の地方組織を関係自治体との折衝に利用できるため。しかし、
③ 環境省は、発電時に温室効果ガスを出さない原発を推してきた。それで規制が緩む、と見られるようなことがあってはならない。
④ 安全庁には、保安院や原子力安全委などからスタッフ500人前後が移り、関連する独立行政法人、研究機関も合わせると1000人を超える大規模な異動となる。人事の独立性維持のため、異動後に元の組織に戻さない「ノーリターンルール」や独自採用の制度も導入。原子力に関する高度な専門知識と判断力を備えた人材が、職務に専心できる環境を築くべし。
⑤ 規制に加え、安全庁は、原子力事故が起きた時の初動対応や、原子力施設を狙った核テロなどへの対応も担うことに。文部科学省が担当してきた放射線の測定や監視業務も引き継ぐ。 事故の悪化を食い止められず放射線測定などで不信を増幅した福島第一原発事故の反省を踏まえ、こうした業務を遂行できるよう必要な法整備をすべし。
⑥ 政府の事故調査・検証委員会の検証結果も取り込み、「頼りになる安全庁」を。
この読売の社説を、この間脱原発を主張し、安全庁設置に対し基本的に「歓迎」を立場を表明する毎日新聞の社説、「原子力規制組織 人材結集し徹底改革を」と比較対照してみよう。
① 原子力の安全規制改革は生半可な取り組みではできない。独立性や専門性、危機管理力を兼ね備えた組織を作るには、国全体で意識を変革する覚悟が必要。徹底した改革に全力をあげるべき。
② 新組織を環境省におくことのメリットとして、経産省の影響力を排除しやすいとの見方があるが、環境省には原発の安全基準や耐震設計などに詳しい原子力の専門家はほとんどいない。当面、保安院や原子力安全委などの人員が横滑りで新組織を構成することに。専門知識を持つ人の多くが、いわゆる「原子力ムラ」に属している現実の中で、「中立性」と「専門性」をいかに両立させるか。職員数も予算規模も少ない環境省にとっては難題。
③ そうした実情を十分に踏まえた上で、本当に安全を担保できる人材を確保し、新たな人材も育成していく仕組みが必要。柔軟な姿勢で、あらゆるところから人材を集め、プロ集団を組織し、強い権限を持たせるべき。
④ 独立性を保つには、原発推進を支えてきた組織との人事交流も制約すべき。経産省からの独立だけでなく、政治からの独立も重要。
⑤ 新組織には、安全研究を担ってきた原子力安全基盤機構や、文部科学省が所管してきた放射線モニタリングの司令塔機能、放射性物質の拡散予測システム(SPEEDI)なども統合。日本原子力研究開発機構など、各組織に分散している安全規制の人材をさらに統合すべき。
⑥ 現在、「原子力安全庁」という仮称で呼ばれているが、組織の性格を明確にするためにも「原子力監視庁」といった名称にしたほうがよい。
さらにもう一つ紹介しておこう。安全庁への「懐疑派」、東京新聞の今日付の記事、「「原子力安全庁」新設 閣議決定ありき 権限議論不十分」は、このように語っている。
・・
政府は十五日の閣議で、原子力規制機関に関する組織改革基本方針を決定した。経済産業省原子力安全・保安院と内閣府原子力安全委員会を統合した「原子力安全庁」を環境省の外局として、二〇一二年四月に新設する。ただ、菅政権の退陣前に方向を定めようと結論を急いだあまり、肝心の権限や名称で詰めを欠き、原発に対する環境省の立ち位置にも疑問が残る。
「『原子力安全庁』は仮称。規制を一元的に担う役割からすれば、『規制』を役所の名前にすべきだ」。枝野幸男官房長官は十五日の記者会見で、こう異を唱え、法案策定段階で名称が変わる可能性に言及した。 閣議決定したのに、なお閣内から異論が上がるのは、安全庁をめぐる議論が十分でなく“閣議決定ありき”の実態を物語る。
基本方針では、これまで原発を推進してきた経産省から、原発の規制に携わる原子力安全・保安院を分離し、原子力安全委員会とともに統合することで、組織上は推進と規制の分離が実現している。
だが、安全庁にどのような権限を持たせるかは今後の課題に残された。中央官庁では後発の環境省の外局が、経産省を向こうに規制の実を挙げるには、調査や勧告などでどの程度の権限が与えられるかが焦点だ。こうした権限がなければ、今までの保安院のように原発にお墨付きを与えるだけの組織になりかねない。
一方で、原発規制に関する環境省のスタンスに懐疑的な見方もある。同省は地球温暖化対策で、原発は二酸化炭素(CO2)を排出しないとして「一層の活用を図り、基幹電源として官民協力で着実に推進する」(二〇一〇年版環境白書)としてきた。
この点について、細野豪志原発事故担当相は「環境省は自然エネルギーを推進してきたので、原子力にはもともと厳しい考え方を持っている(???)」と説明するが、環境省は一一年版白書でも「原子力も含めたエネルギー政策全体の議論が必要」と位置付けている。 規制に重点を置くのか、それとも今後も積極利用を図るのか。原子力政策の根幹に関する議論が生煮えだった面は否めない。 (三浦耕喜)
・・
さて、読者は原子力安全庁をどのように分析し、評価するだろうか。
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「減原発」さえ不透明な民主党政権のエネルギー・原子力行政
「原子力安全庁」なる新行政組織が原発推進機関になる、その根拠はとても単純なことだ。政府としても、内閣としても、与党民主党としても、脱原発はおろか「減原発」さえ不透明であり、〈フクシマ〉をめぐるアレヤコレヤの「事態」が「一定の収束」を迎えた暁には、政・官・財・学の原発推進派は、「安全」な原発の海外輸出と国内新規増設に具体的道筋をつけることを狙っているからである。今はとにかく脱原発の「嵐」が過ぎ去るのをじっと待つ、ガマンのしどころ、といったところだろうか。事実、新設される「原子力安全庁」には、現原子力安全・保安院に替わり、未来における原発の新規増設の許認可権限が与えられようとしていることを見落とすべきではないだろう。
「3・11」以後、これまでの日本の原子力行政をめぐる諸問題に関し、菅内閣は「白紙から見直す」という言葉を乱発してきたが、それは政府としての問題点を点検し直す、と言った程度の意味であり、「断念」でも「白紙撤回」でもなかった。
裏返して言えば、2040年でも50年でも、いや半世紀後でもよい、それがいつになるのであれ、福島第一原発のメルトスルーを引き起こしてしまった国家的総括としての脱原発を、政府、内閣、与党としての基本方針として確定しないまま、安全・保安院に変わる「規制」行政組織を作ったところで、新組織は必然的に原発推進機関になってしまう/ならざるをえなくなる、ということだ。
原発推進派の読売の社説の執筆者は、そのことを十分承知しているし、見抜いてもいる。脱原発派の毎日、東京新聞の社説に比し、読売の社説の主張の方が分かりやすく、スッキリしたものになっているのも、そのせいだと理解すべきだろう。 菅内閣はとっとと退陣し、国家と政治の信頼を取り戻し、決めるべきこと、やるべきことを早急に実行し、「安全」が確認された停止中原発をできるだけ早く再稼働せよ、そして一時中断を余儀なくされた原発の海外輸出や再処理の話も当初の「既定の方針」通りに進めるべし・・・。
これが読売新聞社としての方針である。私(たち)とは正反対の立場ではあるが、論理は通っている。「原発の不安全」を説くだけでは、なかなか崩すことが困難な、手ごわい論調である。
このような読売流論調に対し、どういう「論調」を脱原発派が対置できるか。「原子力安全庁」設置の閣議決定を経た今、そのことが私(たち)に問われているわけである。
読売の社説に対し、安全庁への懐疑を示しつつ、にもかかわらず基本的に経産省からの分離・独立を「歓迎」し、さらに政府に「注文」を付けるという毎日の社説は、「注文」内容の実現可能性が未知数であるだけに、読む者を懐疑的にさせる。また、菅首相の「原発に依存しない社会をめざす」論を支持した、同じく脱原発派の東京新聞の記事は、安全庁に懐疑的であるのは理解できるが、賛成なのか反対なのか、立場が分からない。
毎日の社説を一読し、読者が懐疑的になってしまうのは、経産省と同じ官僚機構たる環境省の「外局」、すなわち一国家行政組織に、その「専門性」と国策(国家戦略)からの「中立性」とが「両立」しうるかのように社説が論じている点にある。この社説の筆者が言うように、もしも国策からの「中立性」と、さらには「政治からの独立」をも確保せよというのであるなら、そもそもの初めから国の行政機構そのものから独立した、いわゆる「第三者機関」でなければならないはずだが、社説はこの点を曖昧にしてしまう。その結果、「分かったようで、何だかよく分からない」、そんな印象が否めない社説になってしまっている。 とても残念だ。
もちろん、原子力安全庁はまだ名称の変更もありうる、それ自体が何だかよく分からない組織ではある。報道によれば、準備室を月内にも設置し、来年の通常国会に関連法案を提出する方針とされ、原発の安全規制の組織改革についても、その詳細は来年に持ち越されることになる。はっきりしていることは、「組織改革の第1段階で安全庁を発足させ、第2段階として東京電力福島第1原発事故の検証結果や原子力政策の見直しを踏まえ」、来年末をめどに組織の機能と体制の「強化案」を決定する(産経)、その程度のことだ。
だから、楽観的に考えるなら、注文や対案を政府に突きつけてゆくなら、原案よりはマシな、「政治から独立」した「中立性」を保った組織になりうる余地がある、と解釈する人がいたとしても不思議ではない。
しかし、現実も日本の官僚機構もそう甘くない。官僚機構から独立した第三者機関ではなく、環境省という中央行政機構の延長機関、外局と位置付けらた時点で国策からの「中立性」と「政治からの独立」は「アウト」だと私は言いたい。
楽観主義者が正しいか、それとも私のような「悲観主義者」の分析通りになるか。結果は、そう遠くない未来に明らかになるはずである。
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国としての脱原発の方針決定なき原発の「安全規制」機関は、経産省・環境省如何を問わず、その「外局」である限り、必ずや停止中原発の再稼働容認になる。今は想像することが若干困難ではあるが、将来的な新規増設を国が決定した場合には、それにお墨付きを与える機関となる。
現原子力安全・保安院が、いつ、どのような位置づけの下で、どのような「国家的使命」を負わされながら創設されたか、そしてその結果が「3・11」であったことを想起するなら、このことは明らかではないか。と、私は考えるのだが、どうも脱原発派の人々の中には、そう考えない人が結構いるようだ。
私の分析と主張が誤っていると思う人は、北海道の泊原発3号機の「営業運転再開」を、つい先ほど(8/16日夜)高橋はるみ知事が、事実上容認した現実をどのように捉えるべきか、じっくり考えてみてはどうだろう。(⇒「泊原発が危ない!」)
⇒「泊3号機の「営業運転再開」は、停止中原発の再稼働の不吉な序曲」へつづく
2011年8月2日火曜日
福島第一原発: 計測不能の放射線量を計測!
福島第一原発: 計測不能の放射線量を計測!
福島第一原発で、毎時10シーベルトを超える、計測不能の放射線量が計測された。場所は、1~2号機主排気筒の地面近くにある屋外配管の表面だという。「3・11」以後、第一原発で計測された放射線量の最高値だ。事故発生直後に格納容器から排気(ベント)した際に、放射性物質が漏れて配管内に「付着」した可能性が指摘されている。
これまでの最高値は1号機原子炉建屋1階の毎時4シーベルトだったわけだが、毎時10シーベルト以上を計れる計測機が第一原発にはないため(どこにあるのか?)、実際の数値は不明だという。
因みに、毎時10シーベルトは原子炉の圧力容器内部と同じ放射線レベル。1時間浴び続けると失命の恐れも。東電によると、今回計測した作業員は現場にいた時間が短く、被曝した放射線量は最大4ミリシーベルトに「とどまった」らしいが、その根拠は私たちには分からない。
東電は、配管の周囲を立ち入り禁止とし、鉄板などで遮蔽するらしい。確実に言えることは、その作業を担う作業員の被曝線量が大幅に増加し、さらにはいまだにその定義が不明な「冷温停止」に向けた今後の「工程」作業の遅延をもたらすであろう、ということである。
この間、首相始め閣僚たちは、「冷却作業は順調に進んでいる」とくり返し語ってきた。しかしそれがあまりに能天気過ぎる、科学的根拠に裏打ちされない、ただの政治的ステートメントに過ぎなかったことが明らかになったのである。
・福島第1原発:計測限界の10シーベルト 作業に影響懸念
東京電力福島第1原発1、2号機につながる配管表面から計測限界に相当する毎時10シーベルト(1万ミリシーベルト)以上の高い放射線量が計測されたことで、敷地内にまだ高線量の地点が残っている可能性が浮かび上がった。 これほどの高線量について、東電は「ベントの影響が考えられる」と説明する。ベントは2、3号機でも実施されており、この配管以外でも、作業員の安全確保のために速やかな計測が求められる。
一方、10シーベルトはあくまで1時間当たりの測定値だが、これまで敷地内で計測された放射線量に比べても倍以上になる。茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の事故で死亡した作業員2人の被ばく量は6~20シーベルトだった。 東電は現場の立ち入りを制限し、「作業への影響はない」としているが、他にも高線量の地点が相次げば作業への影響が懸念される。 NPO法人「原子力資料情報室」の伴英幸共同代表は「事故後4カ月以上もたって確認されたのでは遅すぎる。ベントが原因ならば、原子炉格納容器内なども極めて高濃度の放射性物質に汚染されている可能性が高い。今後、必要となった場合の格納容器の補修などがかなり難しくなるのでは」と指摘する。【毎日・奥山智己、河内敏康】
・高濃度汚染水、隣の建屋に漏れ出る 福島第一原発
東京電力は1日、福島第一原発の高濃度の放射能汚染水を貯水している集中廃棄物処理施設の建屋から別の建屋に汚染水が流れ込んでいたと発表した。流れ込んだ先の建屋は漏水防止工事をしており、外部へ漏れている可能性は低いとしている。 東電によると、集中廃棄物処理施設のうち放射線量の高い機器などを保管しておくサイトバンカー建屋に約700トンが流れ込んでいた。放射性物質の濃度は1立方センチあたりセシウム137が2万2千ベクレル。 サイトバンカー建屋は隣接するプロセス主建屋とはホースでつながっている。プロセス主建屋は2、3号機のタービン建屋の放射能汚染水を移してためている。その水がホースを通じて流れ込んだ可能性もあるとしている。 (朝日)
福島第一原発の淡水化装置から水漏れ 運転を一時停止
東京電力は31日、福島第一原子力発電所の敷地内にたまった高濃度の放射能汚染水を浄化する処理施設の淡水化装置で水漏れが見つかったと発表した。このため淡水化装置を午前11時20分ごろ一時止めたが、午後3時ごろ再稼働させた。 装置の停止中も原子炉への注水は続けていた。漏れた水量は50リットル程度という。原因として配管の損傷・劣化を挙げたが、同日午前3時54分に発生した福島県沖を震源とする地震との関連は薄いと見ている。 (朝日)
・敦賀原発増設、絶対に必要…敦賀市長が強調
日本原子力発電敦賀原発1、2号機が立地する福井県敦賀市の河瀬一治市長は1日の定例記者会見で、同原発3、4号機の増設について「絶対に必要」との考えを強調した。
河瀬市長は、国内のエネルギー供給量の大幅減を防ぐ必要があると指摘。さらに「日本のエネルギー確保や敦賀の経済のために増設は絶対に必要」とした。3、4号機については「安全審査が終わり次第、早く着工すべきだ」と話した。(読売)
福島第一原発で、毎時10シーベルトを超える、計測不能の放射線量が計測された。場所は、1~2号機主排気筒の地面近くにある屋外配管の表面だという。「3・11」以後、第一原発で計測された放射線量の最高値だ。事故発生直後に格納容器から排気(ベント)した際に、放射性物質が漏れて配管内に「付着」した可能性が指摘されている。
これまでの最高値は1号機原子炉建屋1階の毎時4シーベルトだったわけだが、毎時10シーベルト以上を計れる計測機が第一原発にはないため(どこにあるのか?)、実際の数値は不明だという。
因みに、毎時10シーベルトは原子炉の圧力容器内部と同じ放射線レベル。1時間浴び続けると失命の恐れも。東電によると、今回計測した作業員は現場にいた時間が短く、被曝した放射線量は最大4ミリシーベルトに「とどまった」らしいが、その根拠は私たちには分からない。
東電は、配管の周囲を立ち入り禁止とし、鉄板などで遮蔽するらしい。確実に言えることは、その作業を担う作業員の被曝線量が大幅に増加し、さらにはいまだにその定義が不明な「冷温停止」に向けた今後の「工程」作業の遅延をもたらすであろう、ということである。
この間、首相始め閣僚たちは、「冷却作業は順調に進んでいる」とくり返し語ってきた。しかしそれがあまりに能天気過ぎる、科学的根拠に裏打ちされない、ただの政治的ステートメントに過ぎなかったことが明らかになったのである。
・福島第1原発:計測限界の10シーベルト 作業に影響懸念
東京電力福島第1原発1、2号機につながる配管表面から計測限界に相当する毎時10シーベルト(1万ミリシーベルト)以上の高い放射線量が計測されたことで、敷地内にまだ高線量の地点が残っている可能性が浮かび上がった。 これほどの高線量について、東電は「ベントの影響が考えられる」と説明する。ベントは2、3号機でも実施されており、この配管以外でも、作業員の安全確保のために速やかな計測が求められる。
一方、10シーベルトはあくまで1時間当たりの測定値だが、これまで敷地内で計測された放射線量に比べても倍以上になる。茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の事故で死亡した作業員2人の被ばく量は6~20シーベルトだった。 東電は現場の立ち入りを制限し、「作業への影響はない」としているが、他にも高線量の地点が相次げば作業への影響が懸念される。 NPO法人「原子力資料情報室」の伴英幸共同代表は「事故後4カ月以上もたって確認されたのでは遅すぎる。ベントが原因ならば、原子炉格納容器内なども極めて高濃度の放射性物質に汚染されている可能性が高い。今後、必要となった場合の格納容器の補修などがかなり難しくなるのでは」と指摘する。【毎日・奥山智己、河内敏康】
・高濃度汚染水、隣の建屋に漏れ出る 福島第一原発
東京電力は1日、福島第一原発の高濃度の放射能汚染水を貯水している集中廃棄物処理施設の建屋から別の建屋に汚染水が流れ込んでいたと発表した。流れ込んだ先の建屋は漏水防止工事をしており、外部へ漏れている可能性は低いとしている。 東電によると、集中廃棄物処理施設のうち放射線量の高い機器などを保管しておくサイトバンカー建屋に約700トンが流れ込んでいた。放射性物質の濃度は1立方センチあたりセシウム137が2万2千ベクレル。 サイトバンカー建屋は隣接するプロセス主建屋とはホースでつながっている。プロセス主建屋は2、3号機のタービン建屋の放射能汚染水を移してためている。その水がホースを通じて流れ込んだ可能性もあるとしている。 (朝日)
福島第一原発の淡水化装置から水漏れ 運転を一時停止
東京電力は31日、福島第一原子力発電所の敷地内にたまった高濃度の放射能汚染水を浄化する処理施設の淡水化装置で水漏れが見つかったと発表した。このため淡水化装置を午前11時20分ごろ一時止めたが、午後3時ごろ再稼働させた。 装置の停止中も原子炉への注水は続けていた。漏れた水量は50リットル程度という。原因として配管の損傷・劣化を挙げたが、同日午前3時54分に発生した福島県沖を震源とする地震との関連は薄いと見ている。 (朝日)
・敦賀原発増設、絶対に必要…敦賀市長が強調
日本原子力発電敦賀原発1、2号機が立地する福井県敦賀市の河瀬一治市長は1日の定例記者会見で、同原発3、4号機の増設について「絶対に必要」との考えを強調した。
河瀬市長は、国内のエネルギー供給量の大幅減を防ぐ必要があると指摘。さらに「日本のエネルギー確保や敦賀の経済のために増設は絶対に必要」とした。3、4号機については「安全審査が終わり次第、早く着工すべきだ」と話した。(読売)
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