2011年8月30日火曜日

民主党の政権交代劇--そして誰も責任を取らない、何も変わらない

民主党の政権交代劇--そして誰も責任を取らない、何も変わらない


 民主党の新代表選挙が行われ、菅内閣の主要閣僚の一人が新首相となり、その下で新内閣が組閣されようとしている。 支持率が二割に満たない政権与党による政権のタライ回しが、また、くり返されようとしているのだ。

 ほんの3、4年前、私たちは自公政権時代の末期に、自民党を軸に形成されてきた戦後政治の末路、その末期症状を目撃し、「少しは何かが変わるかもしれない」と期待しながら、2年前の政権交代を実現した。
 しかし結局、この2年間ではっきりしたことは、「民主党に自民党政治と官僚主導を変える能力はなかった」ということではないだろうか。 民主党を支持する読者(もしもそういう人がいれば、の話だが)には大変申し訳ないが、「民主党の命脈は尽きた」、というのが私個人の実感である。

 野田新政権の迷走とそれによる政局の混乱は、今の時点でもう目に見えている。支持率の低迷により、新政権が自ら進んで解散・総選挙に持ち込もうとするはずはなく、そうなれば「政局の安定」を口実とした「大連立」構想が、また浮上するに違いない。
 しかし、そもそも支持率2割に満たない政権与党と2割前後の野党第一党が野合したところで、「二大政党制」を語るには、あまりに肌寒いものがある。保守派の一部には「大連立」を望む声がずっとあるが、そんなことをすれば民主党に引きずられる形で自民党自体が轟沈しかねない。それほど民主党に対する「国民」の失望と怒りは根深いものがあることを民主党も自民党も知るべきだろう。

 だから、「ねじれ国会」の打開策としてこれからさまざま取り沙汰されるであろう野田新政権による「大連立」構想にせよ、みんなの党や公明党の取り込み策にせよ、功を奏することはないだろう。その結果、民主党が自ら政権の座から降りない限り、「政局」の混迷と混乱は続くことになる。しかし、民主党にその意思はなく、あくまで権力にしがみつこうするだろう。そして、そのことが日本の政治の混迷と混乱をいっそう深めることになるだろう。

 また、自民党と公明党が一緒になって政権の座に返り咲いたとしても、何も新しい展望、明るい未来は見えそうにない。民主党の命脈が尽きたということは、戦後の議会政治、政党政治の命脈が尽きたということでもあるはずだが、既成メディアはそこに踏み込もうとしない。その結果、誰も責任を取らず、何も変わらない「政治」に対する失望というよりは諦め、怒りというよりは、ただただ情けなくなるような思いが、私たちの意識を支配しつつある。この8月、いろんな人の話を聞いて感じたことを要約するなら、そういうことになる。

 おそらく私たちは、民主党や自民党、既存の政党をどうするこうするではなく、向こう20年、30年先を見据えた「日本の議会政治や政党政治のシステムをどうするか?」という話を、真剣に始めねばならない時代を迎えている。その議論を、今の政治のシステムから得られる既得権を守ろうとするすべての勢力が一緒になって押さえ込もうとしているのではないか・・・。 8月が終わり、2週間後には「3・11」から丸半年を迎えるが、新政権をめぐるメディアの報道振りを見るにつけ、そのように思えてならない。

 私事と雑事、新刊の刊行、それに伴うアレヤコレヤ、次の仕事の準備などに追われ、この間じっくり物事を考え、文章を書くことができなかった。それでも私なりに考えてきたことはある。書きなぐりの文章を少しずつ書き足すようなことしかできないが、今書けることを記録しておこう。


 「3・11」から5ヶ月半余り。この間、はっきりしたことが二つある。一つは、これだけの原発災害を引き起こしても、政治家も官僚も結局誰も責任を取ろうとはしなかったこと、もう一つは、「3・11」直後にはあれだけ「そんなことはありえない」と言われていた「チェルノブイリの空間的再現」が福島で起こっていることだ。

 前者については、今、これを論じる気力も暇も私にはない。
 「3・11」直後から、「きっとそうなるに違いない」という思いが、今回の事態をめぐる国・東電・自治体の責任問題を論じる私自身の原動力にもなってきた。しかし、結局のところ「私たち」は、これだけの災難に直面しても、business as usualの政治を変えることができなかった。「国策・民営」の原子力行政とその無責任体制を、機構としても構造としても抜本的に変革する絶好の機会を逃してしまったのである。民主党の代表選挙において原発問題がアジェンダにもならなかったこと、そして「検査が終わった原発は再稼動すべき」と語る人物が新首相に選任され、新内閣を組閣するということは、そういうことだと私自身は考えている。

「チェルノブイリの空間的再現」、ふたたび
 だが、新政権や政局の動きがどうあれ、後者の問題を見過ごすことはできない。拡大する「チェルノブイリの空間的再現」は、福島県民や近隣の住民のみの問題ではなく、私たち自身の問題でもあるからだ。
 「菅政権とはいったい何だったのか?」という、実に憂鬱なる問題に対する答えも見出せないまま、私たちは福島における「チェルノブイリの再現」に対する新政権の政策の分析、その批判を通じ、新政権と民主党の政治責任と行政責任を問い続けねばならないだろう。「3・11」から時間が経つにつれ、私たち自身が忘れがちになるが、被災・被曝者がかかえる問題は根本的なレベルで何も解決していないし、今現在福島や東北の避難所に入っている私の友人たちを含め、支援活動は継続されているからである。 

民主党政権と世論のねじれ
 新聞社によって世論調査の結果に違いはあるが、原発の即時停止と段階的廃止を合わせるなら、6割から7割強が脱原発のスタンスを取る世論と、原発推進路線をとる民主党および新政権との間には、原発をめぐる意識のねじれがある。政権与党と野党第一党の原発政策が一般市民の意識と乖離するという状況が、少なくとも今後数年間にわたって続くのである。

 しかし、世論調査の多数派が脱原発だからと言って、脱原発派は安心してはいられない。というのも、8月に入って以降、明らかにその傾向が強まっていると思える、望ましくない兆候があるからだ。
 その一つは、地震・津波・原発事故の再来に関する全般的な危機意識が大幅に後退していること、二点目は、その危機意識にもかなりの地域差があり、それがより広がっていること、最後に、人と食の放射能汚染をめぐる人々の意識、それらを報じるメディアの内容が、原発そのものに対する是非、国の原子力政策をどうするかという問題と切断されて意識されたり、報道されるようになってきていること、などである。

 9月には今年最大規模の脱原発集会が予定されている。しかし、風は追い風から逆風になりかけていることを、私たちは冷静になって自覚する必要がありそうだ。
 一つの場所にできるだけ多くの者たちが集まり、一つの意思を示すことには、たしかに意義がある。けれども、この半年近くの総括として、その積み重ねだけでは国と自治体の既定の方針を変えることはできないことも知っておくべきかもしれない。
 鎌田慧氏は、「これまでの脱原発運動は、結局のところ社会の意識を変えることができなかった」といったようなことを語ったと記憶するが、その根拠がどこにあるのかを議論し、運動のあり方自体を変えてゆくことが、私たちの次の課題になると思うのである。