2011年8月16日火曜日

原発推進機関としての「原子力安全庁」にNO!

原発推進機関としての「原子力安全庁」にNO!


 敗戦記念日の昨日、環境省の「外局」として、原子力安全庁(仮称)の設置が閣議決定された。

 広島と長崎の「原爆の日」、「3・11」から丸5ヶ月目を迎えた8月11日、そして敗戦記念日の昨日と、この10日間は「核と戦争」の問題を、フクシマと脱原発の問題に引き付けて考え直すことが余儀なくされた10日間だった。少なくとも、私たちの多くにとってはそうであったはずだが、日本政府というか民主党政権にとってはそうではなかったようだ。その証左が、敗戦記念日に来年4月の設置が決定された、原子力安全庁という名の新たな原発推進機関の存在である。

 脱原発/段階的廃炉を主張する者として、原子力安全庁の設置をどのように考えればよいのだろう。
 脱原発を公的に表明した一部新聞メディア、あるいは社民党のように、衣替えした新たな原発推進行政機関の設置を、経産省から「分離・独立」したという一点において、「基本的に歓迎」しながら、しかし「独立性」の徹底化に向け、さらに政府に「注文」をつける、というスタンスを取るべきだろうか。 それとも、設置に反対の立場から別の道を模索すべきだろうか。
 難しい問題だ。

 私自身は、後者の立場を選択したい。前者を含むマスコミの主張を検討しながら、その理由を述べてみたい。 原子力安全庁をどのように捉えるべきか、思案中の人々の参考になれば、と思う。

 最初に、社の方針として、原発の安全性の確保をはかりながら、その推進を打ち出してきた読売新聞の今日付の社説、「原子力安全庁 安全確保へ規制担う組織築け」を読んでみよう。読売新聞の分析および論点は、以下の諸点である。

 原子力規制行政への信頼は、福島第一原発の事故で失墜。電力の安定供給には定期検査で停止中の原発の再稼働が急務、しかし規制行政への不信が、関係自治体の同意取り付けを困難に。こうした中で、
 原発を安全に稼働させるうえで必要な規制を担うことが、安全庁の重要な使命。環境省を選んだのは、電力業界とのしがらみがなく、既存の地方組織を関係自治体との折衝に利用できるため。しかし、
 環境省は、発電時に温室効果ガスを出さない原発を推してきた。それで規制が緩む、と見られるようなことがあってはならない。

 安全庁には、保安院や原子力安全委などからスタッフ500人前後が移り、関連する独立行政法人、研究機関も合わせると1000人を超える大規模な異動となる。人事の独立性維持のため、異動後に元の組織に戻さない「ノーリターンルール」や独自採用の制度も導入。原子力に関する高度な専門知識と判断力を備えた人材が、職務に専心できる環境を築くべし。
 規制に加え、安全庁は、原子力事故が起きた時の初動対応や、原子力施設を狙った核テロなどへの対応も担うことに。文部科学省が担当してきた放射線の測定や監視業務も引き継ぐ。 事故の悪化を食い止められず放射線測定などで不信を増幅した福島第一原発事故の反省を踏まえ、こうした業務を遂行できるよう必要な法整備をすべし。
 政府の事故調査・検証委員会の検証結果も取り込み、「頼りになる安全庁」を。

 この読売の社説を、この間脱原発を主張し、安全庁設置に対し基本的に「歓迎」を立場を表明する毎日新聞の社説、「原子力規制組織 人材結集し徹底改革を」と比較対照してみよう。

 原子力の安全規制改革は生半可な取り組みではできない。独立性や専門性、危機管理力を兼ね備えた組織を作るには、国全体で意識を変革する覚悟が必要。徹底した改革に全力をあげるべき。
 新組織を環境省におくことのメリットとして、経産省の影響力を排除しやすいとの見方があるが、環境省には原発の安全基準や耐震設計などに詳しい原子力の専門家はほとんどいない。当面、保安院や原子力安全委などの人員が横滑りで新組織を構成することに。専門知識を持つ人の多くが、いわゆる「原子力ムラ」に属している現実の中で、「中立性」と「専門性」をいかに両立させるか。職員数も予算規模も少ない環境省にとっては難題。
 そうした実情を十分に踏まえた上で、本当に安全を担保できる人材を確保し、新たな人材も育成していく仕組みが必要。柔軟な姿勢で、あらゆるところから人材を集め、プロ集団を組織し、強い権限を持たせるべき。

 独立性を保つには、原発推進を支えてきた組織との人事交流も制約すべき。経産省からの独立だけでなく、政治からの独立も重要
 新組織には、安全研究を担ってきた原子力安全基盤機構や、文部科学省が所管してきた放射線モニタリングの司令塔機能、放射性物質の拡散予測システム(SPEEDI)なども統合。日本原子力研究開発機構など、各組織に分散している安全規制の人材をさらに統合すべき。
 現在、「原子力安全庁」という仮称で呼ばれているが、組織の性格を明確にするためにも「原子力監視庁」といった名称にしたほうがよい。

 さらにもう一つ紹介しておこう。安全庁への「懐疑派」、東京新聞の今日付の記事、「「原子力安全庁」新設 閣議決定ありき 権限議論不十分」は、このように語っている。
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 政府は十五日の閣議で、原子力規制機関に関する組織改革基本方針を決定した。経済産業省原子力安全・保安院と内閣府原子力安全委員会を統合した「原子力安全庁」を環境省の外局として、二〇一二年四月に新設する。ただ、菅政権の退陣前に方向を定めようと結論を急いだあまり、肝心の権限や名称で詰めを欠き、原発に対する環境省の立ち位置にも疑問が残る。
 「『原子力安全庁』は仮称。規制を一元的に担う役割からすれば、『規制』を役所の名前にすべきだ」。枝野幸男官房長官は十五日の記者会見で、こう異を唱え、法案策定段階で名称が変わる可能性に言及した。 閣議決定したのに、なお閣内から異論が上がるのは、安全庁をめぐる議論が十分でなく“閣議決定ありき”の実態を物語る。
 基本方針では、これまで原発を推進してきた経産省から、原発の規制に携わる原子力安全・保安院を分離し、原子力安全委員会とともに統合することで、組織上は推進と規制の分離が実現している。

 だが、安全庁にどのような権限を持たせるかは今後の課題に残された。中央官庁では後発の環境省の外局が、経産省を向こうに規制の実を挙げるには、調査や勧告などでどの程度の権限が与えられるかが焦点だ。こうした権限がなければ、今までの保安院のように原発にお墨付きを与えるだけの組織になりかねない。
 一方で、原発規制に関する環境省のスタンスに懐疑的な見方もある。同省は地球温暖化対策で、原発は二酸化炭素(CO2)を排出しないとして「一層の活用を図り、基幹電源として官民協力で着実に推進する」(二〇一〇年版環境白書)としてきた。
 この点について、細野豪志原発事故担当相は「環境省は自然エネルギーを推進してきたので、原子力にはもともと厳しい考え方を持っている(???)」と説明するが、環境省は一一年版白書でも「原子力も含めたエネルギー政策全体の議論が必要」と位置付けている。 規制に重点を置くのか、それとも今後も積極利用を図るのか原子力政策の根幹に関する議論が生煮えだった面は否めない。 (三浦耕喜)
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 さて、読者は原子力安全庁をどのように分析し、評価するだろうか。


「減原発」さえ不透明な民主党政権のエネルギー・原子力行政

 「原子力安全庁」なる新行政組織が原発推進機関になる、その根拠はとても単純なことだ。政府としても、内閣としても、与党民主党としても、脱原発はおろか「減原発」さえ不透明であり、〈フクシマ〉をめぐるアレヤコレヤの「事態」が「一定の収束」を迎えた暁には、政・官・財・学の原発推進派は、「安全」な原発の海外輸出と国内新規増設に具体的道筋をつけることを狙っているからである。今はとにかく脱原発の「嵐」が過ぎ去るのをじっと待つ、ガマンのしどころ、といったところだろうか。事実、新設される「原子力安全庁」には、現原子力安全・保安院に替わり、未来における原発の新規増設の許認可権限が与えられようとしていることを見落とすべきではないだろう。

 「3・11」以後、これまでの日本の原子力行政をめぐる諸問題に関し、菅内閣は「白紙から見直す」という言葉を乱発してきたが、それは政府としての問題点を点検し直す、と言った程度の意味であり、「断念」でも「白紙撤回」でもなかった。
 裏返して言えば、2040年でも50年でも、いや半世紀後でもよい、それがいつになるのであれ、福島第一原発のメルトスルーを引き起こしてしまった国家的総括としての脱原発を、政府、内閣、与党としての基本方針として確定しないまま、安全・保安院に変わる「規制」行政組織を作ったところで、新組織は必然的に原発推進機関になってしまう/ならざるをえなくなる、ということだ。

 原発推進派の読売の社説の執筆者は、そのことを十分承知しているし、見抜いてもいる。脱原発派の毎日、東京新聞の社説に比し、読売の社説の主張の方が分かりやすく、スッキリしたものになっているのも、そのせいだと理解すべきだろう。 菅内閣はとっとと退陣し、国家と政治の信頼を取り戻し、決めるべきこと、やるべきことを早急に実行し、「安全」が確認された停止中原発をできるだけ早く再稼働せよ、そして一時中断を余儀なくされた原発の海外輸出や再処理の話も当初の「既定の方針」通りに進めるべし・・・。
 これが読売新聞社としての方針である。私(たち)とは正反対の立場ではあるが、論理は通っている。「原発の不安全」を説くだけでは、なかなか崩すことが困難な、手ごわい論調である。

 このような読売流論調に対し、どういう「論調」を脱原発派が対置できるか。「原子力安全庁」設置の閣議決定を経た今、そのことが私(たち)に問われているわけである。

 読売の社説に対し、安全庁への懐疑を示しつつ、にもかかわらず基本的に経産省からの分離・独立を「歓迎」し、さらに政府に「注文」を付けるという毎日の社説は、「注文」内容の実現可能性が未知数であるだけに、読む者を懐疑的にさせる。また、菅首相の「原発に依存しない社会をめざす」論を支持した、同じく脱原発派の東京新聞の記事は、安全庁に懐疑的であるのは理解できるが、賛成なのか反対なのか、立場が分からない。

 毎日の社説を一読し、読者が懐疑的になってしまうのは、経産省と同じ官僚機構たる環境省の「外局」、すなわち一国家行政組織に、その「専門性」と国策(国家戦略)からの「中立性」とが「両立」しうるかのように社説が論じている点にある。この社説の筆者が言うように、もしも国策からの「中立性」と、さらには「政治からの独立」をも確保せよというのであるなら、そもそもの初めから国の行政機構そのものから独立した、いわゆる「第三者機関」でなければならないはずだが、社説はこの点を曖昧にしてしまう。その結果、「分かったようで、何だかよく分からない」、そんな印象が否めない社説になってしまっている。 とても残念だ。

 もちろん、原子力安全庁はまだ名称の変更もありうる、それ自体が何だかよく分からない組織ではある。報道によれば、準備室を月内にも設置し、来年の通常国会に関連法案を提出する方針とされ、原発の安全規制の組織改革についても、その詳細は来年に持ち越されることになる。はっきりしていることは、「組織改革の第1段階で安全庁を発足させ、第2段階として東京電力福島第1原発事故の検証結果や原子力政策の見直しを踏まえ」、来年末をめどに組織の機能と体制の「強化案」を決定する(産経)、その程度のことだ。

 だから、楽観的に考えるなら、注文や対案を政府に突きつけてゆくなら、原案よりはマシな、「政治から独立」した「中立性」を保った組織になりうる余地がある、と解釈する人がいたとしても不思議ではない。
 しかし、現実も日本の官僚機構もそう甘くない。官僚機構から独立した第三者機関ではなく、環境省という中央行政機構の延長機関、外局と位置付けらた時点で国策からの「中立性」と「政治からの独立」は「アウト」だと私は言いたい。

 楽観主義者が正しいか、それとも私のような「悲観主義者」の分析通りになるか。結果は、そう遠くない未来に明らかになるはずである。

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 国としての脱原発の方針決定なき原発の「安全規制」機関は、経産省・環境省如何を問わず、その「外局」である限り、必ずや停止中原発の再稼働容認になる。今は想像することが若干困難ではあるが、将来的な新規増設を国が決定した場合には、それにお墨付きを与える機関となる。
 現原子力安全・保安院が、いつ、どのような位置づけの下で、どのような「国家的使命」を負わされながら創設されたか、そしてその結果が「3・11」であったことを想起するなら、このことは明らかではないか。と、私は考えるのだが、どうも脱原発派の人々の中には、そう考えない人が結構いるようだ。 
 
 私の分析と主張が誤っていると思う人は、北海道の泊原発3号機の「営業運転再開」を、つい先ほど(8/16日夜)高橋はるみ知事が、事実上容認した現実をどのように捉えるべきか、じっくり考えてみてはどうだろう。(⇒「泊原発が危ない!」)

⇒「泊3号機の「営業運転再開」は、停止中原発の再稼働の不吉な序曲」へつづく