2011年9月10日土曜日

RevolutionとDevolution

 1、野田民主党政権の支持率は、菅政権初期の水準にほぼ持ち返したようだ。メディアによって数値のバラツキはあるが5割から6割台を維持している。

 民主党の支持率も3割前後にまで回復した。自民党や小政党、一部無党派の支持率が流れた格好になっている。

 しかし、誤解のないようにしたいと思うのだが、野田政権は、菅前首相の「脱原発依存社会」(減原発?)宣言の幕引き政権である。もっと言えば、「脱官僚・政治主導」「脱自民」を掲げ、二年前に始まった民主党の自作自演の舞台劇の幕引き政権でもある。

 このことを忘れてしまうと、原発・安保問題にせよ何にせよ、私たちは新政権との距離のとり方を誤ることになるだろう。

2、シビウの国立劇場横の壁に面白い落書きがあった。いや、「落書き」というには洗練された、しかし「アート」というのは、少し素人臭さが漂う、そんな作品である。

 Revolutionをonにするか、それともoffにするか? どちらに「スイッチ」を入れるかは「人民」、つまりは「あなた」次第、と上の落書きは訴えているように私には読めた。

 22年前に、「共産主義」の仮面をかむった独裁者を処刑し、その一族を政治権力の座から追放したルーマニア。しかし、「革命」の後の「民主化」のプロセスは遅々として進まない。

 「共産主義」の次にやってきたのは、新自由主義とEU統合。問題なのは、「共産主義」の過去はもちろん、「資本主義」の現在と未来、わけても共産主義と決別した社会民主主義にも、ルーマニアの中産階級や労働者の多くが希望を持てなくなっている、というところにある。

 国によって事情は違うし、今どういう暮らしをしているかによって、人の意見もさまざまだろう。けれども、「何かが変わるかも、変えられるかもしれない」と思えた過去には戻れず、「やっぱり何も変わらなかった、政治とはそういうもの」という思いが社会に蔓延しているという意味では、ルーマニアをはじめとした旧東欧諸国の人々と私たちとの間に、大きな違いがあるとも思えない。

 「革命」などとはとてもいえない、単なる政権交代に過ぎなかったわけだけれども、二年前に自ら語った「改革」路線さえoffにしようという民主党野田政権。
 変革をonの状態にし続けるのもしないのも、結局は、私たち次第なのだ。

3、変革の道筋は、revolutionではなく、devolution.  一般に「分権」という日本語で訳される。
 が、私自身は、政治権力の(暴力的)奪取を通じ、中央集権化された国家体制が構築されてきた近代の歴史過程を、逆の方向に向かってやり直すこと、つまりは近代国家の権力的解体⇒地域的な「民衆の権力」を創造するためのインスピレーションを受ける語として、devolutionを捉えている。

devolution とdiversity(多様性)

 ⇒TVで放送されていたルーマニアの民族音楽のコンサートの模様。ギターを持つ女性の弾き方に注目。

 シビウで撮った上の「落書き」の中に、「多様性」を意味するdiversitateという言葉がある。
 revolutionではなく、devolutionによって国家の中央官僚機構から政治権力を地方/地域へと「分権」し、地方/地域の「自治」と「主権」を国家が承認すること、させること。

 それはつまり、近代国民=国家内部に存在する政治・経済・社会・文化的な〈多様性〉を国家が、政府・中央官僚機構や議会政党が承認することを意味することになる。

 だから、実はdevolutionは、多様性や多元性(多元主義)の受容と一体となった政治的概念なのである。

 民族・文化的に多様な国家、ルーマニアという国家において多様性を考える場合に避けて通れないのが、ロマの存在、その政治的・文化的権利の国民=国家としての承認なのだ。短いルーマニア滞在中にも、私は何度もロマに対する差別的言辞を耳にしたが、それほどまでにこの国、ひいてはヨーロッパ社会においてロマに対する差別と社会的排除は激しく、厳しいものがある、ということである。

 このdevolution。くどいようだが、revolutionではなく、devolutionが、脱原発運動が志向すべき最も重要な政治的概念ではないか、と私個人は考えている。ぜひ、一緒に考えていただきたい。