2008年11月21日金曜日

おわりに――民主政の原理と安保

おわりに――民主政の原理と安保

 以上みてきた安保の永続化は、いまある日本の政治制度に原因がある。より正確にいえば、「あってはならないこと」が法的に正当化され、制度化されていることに原因がある。ここでは二つのことを指摘しておきたい。いずれも日本国憲法がいう「国民主権」の制限/限界性にかかわる問題である。

 その一つは、日本国憲法が「国権の最高機関」たる国会よりも内閣(および内閣総理大臣)の側に圧倒的な外交権限を与えていることである。

 たとえば、安保条約は国会で「承認」され批准されたが、内閣は国の安保政策に関わる外国との交換文書を国会承認はもちろん、事前審議も抜きに自由に交わすことができる。これらは憲法第七三条二項が規定する「内閣の事務」の中の「外交関係を処理すること」の範疇で処理されている。また、内閣総理大臣は「外交関係について国会に報告」することを「職務」とするが(第七二条)、これについてもそれ以上の「職務」規定はない。明らかな憲法違反にならない限り、内閣および内閣総理大臣はフリーハンドで(誰にも邪魔されず、好き勝手に)「安全保障」政策を決定できる仕組みになっている。

 一般に、外交や安全保障が「国の専権事項」といわれているのは、右の憲法第七三条二項を根拠とする、この「フリ-ハンド」を意味している。その結果、政府与党およびこれと癒着した外務官僚(どちらがどちらに癒着しているのかは定かではないが)による独断専行的な「外交・安全保障」政策がまかり通ることになる。まさにその典型的事例が安保の永続的「自動延長」なのであるが、皮肉なことに日本国憲法がそれを許しているのである。

 ただし、ここで注意しなければならないことがある。それは、たしかに憲法には右に示した条文があるにはあるが、国の「安全保障」の「処理」権限がどこに存在するのかは何も定めていないことだ。なぜなら、憲法は日本が「戦争放棄」し、「武力行使」をしない国家であることを定めており、日本の国家および「国民」の「安全」を外交以外の手段によって「保障」することを想定していないからである。

 内閣と官僚が「専権」とすべきは外交・安全保障政策に関連する行政(事務)であり、憲法は外交や安全保障が「国の専権事項」とする政治家や官僚がよく口にする主張を何も根拠づけてはいないのである。安保の永続化を断ち切るためには、国と自治体、与党と野党、国会と内閣、政府と主権者のそれぞれの次元において、外交と安全保障が「国の専権事項」だとするデマゴギーと不断にたたかい続けることが欠かせない。

 安保を継続するか否かの国家の意思の源泉は、「国民」の意思にある。であるなら日本政府は安保の「自動延長」に関する主権者の意思を一度は問うべきである。それは必然的に安保に期限をつけるか否かの判断を自治体、すべての政党、マスコミ、主権者それぞれに迫り、さらには安保終了の判断基準をめぐる論議をそれぞれのレベルでおこさずにはいないだろう。そのためにはまず、政府としてその判断基準を一度は示し、主権者にその信と総意を問うべきなのでる。この四○年近く、日本政府はそれを検討することさえなく、安保の「自動延長」を続けてきた。その長い過程を経て、今日の安保体制は安保条約の規定からも逸脱し、自立化を遂げているのである。

 政党の意思と主権者の意思

 代表(間接)民主制の原理を基礎とする憲法理念からいえば、右にみた安保再期限化の議論のイニシアティブは議会政党がとるべきである。日本国憲法は、その前文において次のように言明している。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し・・・、ここに主権が国民に存することを宣言」する。そして「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と。

 けれども現状では、既成政党にそのイニシアティブを期待することには無理がありそうだ。長年連立政権を組んできた自民党と公明党はその意思を持たないからこそ安保を自動延長してきたのだし、先述したように民主、共産、社民党などの主要野党も選挙で安保を問うことをしなくなったからである。

 ここでぼくらはもう一つの問題に突き当たる。すなわち、安保の永続化をめぐる主権者の意思と政党の意思との間に横たわるズレと緊張関係の問題である。現実政治の下では、主権者の意思が政府の意思を突き動かすためには、政党の意思を突き動かさねばならない。そのために何ができるかという問題である。

 これには二つのアプローチがある。一つは、間接民主制(代議制民主主義)の論理に従い、既成政党の対米・安保政策の見直しを求めて関与を強めることである。どの政党(党員・支持者)も、安保が永遠に続くことを認めることはないだろう。いずれは既成政党も党の内と外からの世論に押されて安保の再期限化を選挙のマニフェストに記すときがくるはずである。けれども、政党が綱領を変更するにはかなりの時間を要することになる。それをただ待っているわけにはいかない。

 そこで考えられうるもう一つのアプローチは、主権者の意思を必ずしも反映しない間接民主制の限界を直接民主制の導入によって乗り越えることである。たとえば、「安保を国民投票にかけよ」という古くからある議論は、このアプローチに基づく主張である。事実、この主張は一九六〇年に頂点を迎えた「安保闘争」の時代から憲法学者や国会議員らによって、度々なされてきた。

 たとえば、岸内閣が安保条約を強行採決するほぼ一カ月前、一九六〇年五月一七日の衆議院・日米安全保障条約等特別委員会において、椎熊三郎(自民党)は当時立命館大学総長だった末川博の次のような見解を紹介している。

 「安保改定は国の運命を決する大問題であるから慎重に審議を尽くし、場合によっては国会を解散し、または国民投票をして国民の総意を問うべきである」。この末川発言は「学識経験のあるりっぱな方々の意見を案件判断の参考」(椎熊)とすべく、その前々日に大阪で行われた公聴会でのものである。

 あるいは、一九六八年八月の参議院・外務委員会での議論を取り出すこともできる。この委員会において森元治郎(社会党・当時)は、「衆議院、参議院の国会の選挙を通じて、安保条約に対して国民はわが自民党を支持しているなどと佐藤[首相]さんはよく言うけれども、これは雲をつかむような話です。そうではなくて、具体的に一つの案件を取り上げて、そして国民の一人一人が、外交問題でもあるいは財政問題でもいい、それに国民の意思を投じて、国政に直接参加する道という意味で国民投票制度というのがあればいい」と述べ、政府を問いただしている。
 これに対し、三木武夫(外務大臣・当時)はこう答弁した。

 「このレフェレンダムの制度は憲法改正を伴います。憲法改正を伴う。したがってやはりこれは、各国が国民投票によってその国民の意思を聞くという制度は、民主政治のもとにおいては国民の端的な意思を聞く制度としては、非常によりよく国民の意思を聞き得る、早く短期間に正確に聞けるということで非常に検討に値いする制度だと思いますけれども、憲法改正を伴いますので、これはどうでしょう、与野党なんかで一緒に検討してみるのは」。

 自民党内部から、しかも首相経験者がこのような発言をしたにもかかわらず、日本政府も自民党も安保の国民投票をまともに検討したことがない。三木発言から四〇年以上を経てもなお、この実施の可能性が「与野党なんかで一緒に検討」されたことは一度もなかった。その責任は自民党のみならず、旧日本社会党その他の議会政党も同様に負っているといえるだろう。

 安保の国民投票の可能性は真剣に検討されるべき事柄である。また、安保を含む「国政の重要課題」をめぐる国民投票は、政府与党の政策決定に対する規定力においてどれだけ制限が課せられようとも、積極的に実施されるべきだとも考えている。なぜなら、主権者の総意が政治が反映しない状況が構造化されている現状にあっては、「直接民主制」を保障する諸制度が「間接民主制」の限界を補うようにする以外、方法はないからである。

 もっと具体的にいえば、自民党や民主党をはじめ既成政党やその支持者が「国民投票法に安保も入れよ」と要求し、全国運動を展開すれば可能性はかなりの程度高まるだろうし、そうでなければ無党派市民組織がイニシアティブを取ってもよいだろう。現にそのような機運も少しずつではあれ、高まりつつある。

 ただ、ぼくはここで「安保の国民投票」を結語としたいのではない。未だ実現されていないそれを、むしろ安保再期限化と解消論の出発点にしたいと考えている。なぜなら、民主政の基本原理に何ら抵触しない国民投票をはじめとする「直接民主制」の導入は、主権者が「正当に選挙された国会における代表者を通じて」(日本国憲法前文)安保に対する意思表明ができず、その結果「国政」に対して「厳粛な信託」を賦与することができず、その「行使」する「権力」に対しても納得できないとき、自らの「主権」を行使する有効な政治的手段の一つであることはまちがいないからである。

 けれども、なぜ安保がこれまで主権者の主体的な意思と選択を介さずに永続化されてきたのか、そしてなぜ日本国憲法下の「戦後政治」と「戦後民主主義」によってそれが可能となったのか、その歴史的経緯や根拠を押さえないまま、ただ国民投票を主張したとしても、それを否定する勢力に包囲され、挫かれてしまうだろう。

 ぼくらが対峙しなければならないのは、「国の専権事項」に対する主権者の直接介入に対する政・官一体となった抵抗ばかりではない。党の意思を主権者の意思が乗り越えて流動化することを恐れ、主権者を党の票田として囲い込もうとする政党の自己保身、政財界に巣くう安保利権など、六○年近くにわたり「既得権」という名の利害によって築き上げられてきた〈安保の壁〉である。

 この〈壁〉に触れるとき、ぼくらは、現実にはそうではないにもかかわらず、安保が何か条約以上のものでもあるかのような幻惑に襲われることになる。そしてこの日本の中で、安保がまるで日本国憲法や天皇制のように、ほんとうに永遠に続くかのような〈体制〉と化していることに気付くのである。

(未完)