グローバル軍産学複合体の中の東京大学、そして日本の大学(1)
東京大学のホームページに「東京大学憲章」が掲載されている。その前文には、
「東京大学は、この新しい世紀に際して、世界の公共性に奉仕する大学として、文字どおり「世界の東京大学」となることが、日本国民からの付託に応えて日本社会に寄与する道であるとの確信に立ち、国籍、民族、言語等のあらゆる境を超えた人類普遍の真理と真実を追究し、世界の平和と人類の福祉、人類と自然の共存、安全な環境の創造、諸地域の均衡のとれた持続的な発展、科学・技術の進歩、および文化の批判的継承と創造に、その教育・研究を通じて貢献することを、あらためて決意する」、
「第二次世界大戦後の1949年、日本国憲法の下での教育改革に際し、それまでの歴史から学び、負の遺産を清算して平和的、民主的な国家社会の形成に寄与する新制大学として再出発を期し」、
「その自治と自律を希求するとともに、世界に向かって自らを開き、その研究成果を積極的に社会に還元しつつ、同時に社会の要請に応える研究活動を創造して、大学と社会の双方向的な連携を推進する」とある。
その東京大学が、今年2月24日、世界最大の軍事産業、ボーイング社と「航空宇宙に関する最新テクノロジー」、具体的には「ロボット工学、モデリング・シミュレーション関連のテクノロジー」分野の共同研究を行う「覚書」を取り交わした。東大の理解によれば、世界最大の軍事産業との共同研究が「人類普遍の真理と真実を追究」し、「世界の平和と人類の福祉」に「貢献」し、「その研究成果を積極的に社会に還元」することになるそうだ。それが、東大が言う大学(研究)の「自治と自律」の定義であるらしい。
はたして、東大はボーイング社と共同研究を推進することを通じて、東大自身が過去の「歴史から学び、負の遺産を清算して平和的、民主的な」大学となることができるのだろうか? いわんや、「平和的、民主的な国家社会の形成に寄与する」ことが?
それより何より、なぜ東京大学がボーイング社と個別に「共同研究」ができるようになったのか? それを私たちのような普通の納税者、日本の「有名大学」でこの間何が起こってきたのかなんて構っている暇さえない一般市民が解明するためには、
①「産官学連携」が、実態としては「国際産官学連携」としてあり、「民生技術」の開発研究も当然行っているグローバル軍事産業との「連携」を可能にしたこと、そして、
②それを通じて、東大を始めとした旧帝大系七大学や偏差値上位大学を、米国を拠点にしたグローバル軍産学複合体やヨーロッパのそれへの組み込みをはかり、そこで
③大学の「自己資金」の拡大を戦略化したスキームであることを理解しておく必要がある。
以下、私は「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」の一環としてこの問題を考えてみようと思うのだが、その前提的情報をブログ読者と共有すべく、これまでの「参考資料」に加え、以下のものを新たな「参考資料」として紹介しておきたいと思う。
①「大学国際戦略本部事業」進捗状況報告書(公表用)
6年前の国立大学の「法人化」によって、日本の国公立大学と一部の私立大学は「国際戦略」を持つようになったが、これは一言で言えば、海外の「戦略的頭脳の囲い込み」と「国際産官学連携」のための「事業」である。旧帝大七大学と、「少子化」の今後の進展度合いに応じて、もしかしたら本当に「第二東大」として、東京医科歯科大を含めて統合するかもしれない東工大・一橋・東外大、これに北陸の新潟、関西の神戸、山陰の鳥取、中国の広島、九州の長崎、私立として早慶、北海道-東京-九州にキャンパスを持つ東海大、最後に公立から、「先端情報科学研究(コンピュータ理工学)」に特化した会津大が加わっている(四国の大学が一つもない!)。
②東大の「Proprius21」
「proprius21」とは、東大によれば、「『目に見える成果の創出をめざす新しい価値創造型産学連携共同研究』に繋げることを目標」にした、東大のための産学連携戦略のことである。
「従来の産学共同研究では、研究のゴールとそのアプローチや社会への還元についての議論が十分になされないまま、「お付き合い的に」研究に着手すること自体が第一目標になるケースがありました。そのため研究テーマが矮小化する、成果の目標が共有できていない、実用化の出口が無い等の問題があったこと」を総括し、
「共同研究を開始するに当たって、目に見える成果を創出するために研究課題に最適な企業のパートナー(研究者)を学内で探索しながら研究テーマを絞り込み(個別活動)事前に共同研究の実施計画を立案する(スロット活動)こと」、なぜなら、
「企業が大学と共同研究を実施する目的は、将来の社会環境を見極め評価し、その環境の中で企業の競争力を維持発展させることにあると思います。その為には、お互いに共同研究の出口、即ち成果に対する認識を共有する」ことが目的になるからである。これを東大は「新しい産学連携モデル」と呼んでいる。
この「新しい産学連携モデル」によって、東大は米国防省の軍事技術の研究開発の「下請け企業」、サン・マイクロシステムズ(Sun Microsystems)と「計算機による処理能力が著しく向上する中で、処理内容を記述するプログラミング言語の能力向上に関する研究」を行ってきた。これに「情報理工学系研究科の研究グループ」が携わったという。(この「処理内容を記述するプログラミング言語の能力向上に関する研究」とは、まさにDARPA(米国高等防衛研究所)からサンが受注した研究であるわけだが、その説明については次回の更新時に触れることにしたい)。
⇒TRANSFORMATIONAL CONVERGENCE TECHNOLOGY OFFICE(DARPA)
ともあれ、世界最大の軍事産業であるボーイングが、あるいはサン・マイクロシステムズが「企業の競争力を維持発展させ」、「実用化の出口」が見える「研究」とはどのような研究なのか。これを私たちは、国立大学法人東京大学に尋ねる必要があるだろう。
③米軍マネー、日本の研究現場へ 軍事応用視野に助成
2010年9月8日(朝日新聞)
大学や研究所など日本の研究現場に米軍から提供される研究資金が近年、増加傾向にあることがわかった。研究に直接助成したり、補助金付きコンテストへの参加を募るなど、提供には様々な形がある。背景には、世界の高度な民生技術を確保し、軍事に応用する米軍の戦略がある。軍服姿の米軍幹部がヘリコプター型の小型無人ロボットを手に取り、開発者の野波健蔵・千葉大副学長(工学部教授)が隣で身ぶりを交えて説明する。そんな様子が動画投稿サイトで公開されている。
米国防総省が資金提供し、インド国立航空宇宙研究所と米陸軍が2008年3月にインドで開いた無人航空ロボット技術の国際大会の一場面だ。千葉大チームは「1キロ先の銀行に人質がとらわれ、地上部隊と連係して救出作戦に当たる」というシナリオのもと、自作ロボットで障害物や地雷原、人質やテロリストの把握などの「任務」に挑んだ。入賞はならなかったが、その性能は注目を集めた。参加は、組織委員会に日本の宇宙航空研究開発機構の研究者がおり、出場を誘われたからだという。
09年には野波副学長を代表とし、米国出身の同大特任教授、学生らとつくる「チバ・チーム」が米豪両軍が主催する軍事ロボットコンテスト「MAGIC2010」(優勝賞金75万ドル、約6300万円)にエントリーした。同チームにはすでに研究開発費5万ドルが与えられた。今年、最終予選でベスト6となり、11月に豪州で行われる本選への切符を手にした。このコンテストでは、市街地で非戦闘員と戦闘員を識別する自動制御の軍事ロボットの能力を競う。レーザーポインターを武器に見立てて照射して敵を「無力化」する。副学長は「学生はこうしたコンペでは燃える。動機付けとして非常にいいと考えた」と参加の理由を語る。
米軍の研究開発予算は2010年度で800億ドル(約7兆円)。この一部が世界に提供されている。軍事技術コンテストを開催し、世界から参加を募るのもその一つだ。有望な研究者らに対する研究費や渡航費、学会などの会議の開催費などの名目で助成するものもある。日本、韓国、中国、豪州などアジアと太平洋地域向けに資金を提供する空軍の下部組織「アジア宇宙航空研究開発事務所」(AOARD)によると、空軍から日本への助成件数は10年間で2.5倍に増えた。助成総額は明らかではないが、関係者が明らかにした助成1件の平均額から単純計算すると、10年でざっと10倍に増えている。 経済産業省は、軍事応用されかねない技術の国外提供に枠を定め、外為法で規制している。
■米国―急速な技術革新、独自開発に限界
東京・六本木の米軍施設「赤坂プレスセンター」(通称ハーディー・バラックス)のビルの中に、陸、海、空軍の各研究開発事務所が入るフロアがある。主にアジアの研究者に資金提供したり、研究者や研究内容の情報を収集している。スタッフは合わせて数十人。軍人より文民の方が多い。「プログラムマネジャー」などの肩書を与えられて国内の情報収集に協力している日本人の研究者もいる。AOARDを通じた日本への資金提供には、(1)研究開発費(研究助成)(2)会議運営費(会議助成)(3)米国などへの渡航費(旅行助成)――の3種類ある。
世界の学術研究の成果(論文数)に米国が占める割合は、80年代以降下がり続ける一方、アジアの伸びは著しい。米空軍が世界に提供する研究費のうち、アジア向けは今、欧州向けと並んで4割を占める。
AOARDは92年に開設された。前年の湾岸戦争では、巡航ミサイルなど多数の新兵器が投入され、以後、軍事技術のあり方は急速に変わった。拓殖大の佐藤丙午教授(安全保障論)によると、兵器のハイテク化に伴って高額化する研究開発費を米軍が単独でまかなうのはますます難しくなっているという。「冷戦後の流れから考えれば、日本への助成額の増加は当然の流れ」と話す。
■日本―魅力的な研究費、根強い抵抗感も
東北学院大(宮城県)の十合(とうごう)晋一名誉教授は03年、研究室でAOARDの関係者の訪問を受けた。関係者は軍の研究資金について説明し、提供を申し出た。研究テーマは超小型ガスタービン技術の基礎研究。小型発電機に使え、自走型ロボットや超小型航空機の電源への応用が期待される。
教授は経済産業省に問い合わせて武器輸出の規制に抵触しないことを確かめ、3回にわたって総額約20万ドルを受け取り、成果を報告書にまとめて提出した。「義務は報告書の提出と、論文に資金提供者名を明記することだけ。特許などの知的財産は研究者が保有できる好条件だった」と振り返る。米軍の研究費は使い道が自由なのが特徴だ。1年で1万8千ドルの資金提供を受けたある日本人は、文献研究による20ページほどのリポートを提出しただけ。研究成果ばかりでなく、人脈作りを重視していることをうかがわせる。
提供を受けるのは、プロジェクト研究を率いるノーベル賞級の学者から、少額の旅費にも事欠く若手の博士研究員(ポスドク)まで幅広い。ある国立大の30代の助教は、自分が発表する国際学会に参加する渡航費の助成を、米空軍と米科学財団から受けた。国の助成に応募したが認められなかったためだ。助教は来年度には任期が切れる不安定な身分。研究者であり続けるには成果が必要だ。「いまはどんな助成チャンスでもすがりたい」と話す。一方で、結果的に軍事技術開発につながりかねない研究をすることへの抵抗感も、日本の科学者の間で根強い。「MAGIC2010」に出場したチバ・チーム代表の野波副学長は「本選への参加は取りやめた」と話し、「スポンサーは軍。私の良心があるので悩んだ」と理由を語った。(松尾一郎、小宮山亮磨)
④関連サイト
米軍の研究助成、増加~日本技術の軍事応用も視野(9月8日)
アカデミアと軍事(1)米軍基地経由で研究費(9月10日)
アカデミアと軍事(2)「米軍マネー」迷う学会(9月17日)
アカデミアと軍事(3)研究現場訪ね、助成判断(9月24日)
アカデミアと軍事(4)民生との境、増す矛盾(10月1日)
アカデミアと軍事(5)完 手探り続く研究モラル(10月15日)
「米軍マネー」確認できず 一般紙報道受け調査(2010.11.01)(京都大学新聞)
⑤ボーイング社と「ロボット工学」分野においても共同研究をする東大の研究者、そして千葉大副学長に読んでもらいたい千葉大学の「ロボット憲章」
現代社会において、先端的なロボットの研究開発に携わる者の責任は極めて重大である。
千葉大学では、地球生態系の維持・保全を基底に据えて、人間の尊厳、人類の福祉、恒久平和と繁栄、そして、安全安心な社会に資するロボット研究開発と教育をこそ率先して推進する立場から、ここに「千葉大学ロボット憲章」(知能ロボット技術の教育と研究開発に関する千葉大学憲章)を制定する。
第1条 (倫理規定)
本ロボット憲章は、千葉大学におけるロボットの教育と研究開発に携わるすべての者の倫理を規定する。
第2条 (民生目的)
千葉大学におけるロボット教育・研究開発者は、平和目的の民生用ロボットに関する教育・研究開発のみを行う。
第3条 (非倫理的利用防止)
千葉大学におけるロボット教育・研究開発者は、非倫理的・非合法的な利用を防止する技術をロボットに組み込むこととする。
第4条 (教育・研究開発者の貢献)
千葉大学におけるロボット教育・研究開発者は、アシモフのロボット工学三原則(注)ばかりでなく、本憲章のすべての条項を遵守しなければならない。
第5条 (永久的遵守)
千葉大学におけるロボット教育・研究開発者は、大学を離れてもこの憲章の精神を守り尊重することを誓う。
(注)アイザック・アシモフのロボット工学三原則
第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第2条 ロボットは人間から与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第3条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。
(つづく)
2010年11月25日木曜日
2010年11月23日火曜日
1960年代の日本の大学の軍事研究
1960年代の日本の大学の軍事研究
1967年5月23日、衆院本会議における、旧社会党の松本七郎の発言である。
「私は、日本社会党を代表して、日米安保条約に関連する最近の緊急事態等について質問を行なわんとするものであります。(中略)。まず第一に指摘したいのは、日本の大学、研究所、学会などが、米国陸軍極東開発局から広範な財政援助を受け委託研究に従事している事実であります。
政府提出の資料によりますると、東京大学の宇宙航空研究所や科学技術庁の航空宇宙研究所を含めまして、その大部分が国立や公立の機関で、これが外国軍のひもつき研究をやっているのであります。これは日本の教育のあり方、学問の自由という基本的な観点から申しましても、きわめてゆゆしい問題であります。佐藤総理は、外国からの援助はあり得るなどと言って、ユネスコや一般の国際機関からの財政援助と同じように見ておられるようです。しかし、この委託研究には、米国陸軍から一つ一つ研究テーマや条件をつけているのでありまして、この一事をもってしても、決して純粋にして自由な科学研究のための援助ではなく、米国陸軍の特殊の意図と利用価値から出たものであることは明々白々であります。
この財政援助と委託研究問題できわめて特徴的なことは、総計九十六件、三億八千七百万円のうち、生物・医学関係が圧倒的に多く、金額において全体の八四・三%を占め、また、援助の大部分がベトナム戦争の拡大と歩調を合わせて、一九六五年、六六年、六七年に集中していることであります。このことは、今日、アメリカがベトナム戦争で生物・化学兵器を使用している実情と考え合わせてみますると、決して偶然の一致ではないのであります。
現在、米国陸軍は、多額の予算をもって生物・化学兵器の開発に力を入れており、メリーランド州のフレデリックにある米国陸軍の生物戦争研究センターでは、全米科学アカデミー、微生物学会、大学、研究所などのあらゆる科学者を総動員して研究開発に当たっている現状であります。これに対して、ノーベル賞受賞者十七名を含めてアメリカの指導的科学者二十三名が、いわゆるCB戦争、つまり、生物・化学戦争に道を開くものだとして、米国政府に抗議、警告を行なっているほどであります。(拍手)また、日本におきましても、たとえば、国立予防衛生研究所の和気細菌第四室長は、研究のテーマだけを見れば一見非軍事的であっても、その成果が容易に軍事目的に転用され得ると喝破しておられるのであります。
このように、米国陸軍による援助問題は、総理や政府の首脳の楽観とは正反対に、疑いもなくアメリカの生物・化学兵器の研究開発の一環であり、また同時に、現にベトナムで進行しているCB戦と密接な関係を持っているきわめて重大な事件なのであります。佐藤首相並びに関係閣僚の真剣な反省と誠意ある答弁を求めるものであります。
また、この問題と関連いたしまして私たちがきわめて奇怪に感じますのは、アメリカ陸軍の援助が一九五九年から十年近くも続けられており、その対象も非常に広範囲にわたっているにかかわらず、総理をはじめ関係閣僚が全くつんぼさじき(原文のママ)に置かれていたという事実であります。所管の文部大臣すら、聞いていないとか、連絡を受けていないという状態では、主権国家として黙視できない重大問題であります。ここに安保条約のもとにおける日本の従属性が象徴的に浮き彫りにされております。本件の処理にいたしましても、堂々と米国陸軍と交渉し、抗議する態度はみじんも見当たらないのであります。(中略)。
次に、軍用地図作製の問題であります。建設省国土地理院が、旧日本陸軍の参謀本部でさえもつくらなかったような精密な特殊軍用地図を五カ年計画で作製しているにもかかわらず、これまた、総理をはじめ建設大臣も防衛庁長官も何一つ知らない。新聞を見て初めて知ったというありさまであります。しかも、毎日新聞の調査によりますと、この特殊地図は、米軍独自の道路番号やグリッドゾーンが記入されており、砲撃が完全に目標に的中するように仕組まれています。また、ミサイル発射に役立つ地磁気の偏差度が明示されている。上陸用舟艇のために海面には等深線が記入されているなど、疑いもなく軍用の特殊地図なのであります。
このように、外国のために日本を完全まる裸にしたも同然の軍用地図作製について、政府首脳が何も知らされていない。これは、安保条約のもとにおいてさえ、決して正常とは言えない姿であります。政府は、当初、これに対して、安保体制のもとでは当然のことだとうそぶいていたのでありまするが、あとになると、昭和三十五年二月の当時の藤山外相とマッカーサー大使の間にかわされました交換公文にその根拠を求めて、佐藤総理は、一々こまかなことまで知らないといって、米軍の行動をあくまで擁護し合理化しようとしております。(中略)。
しかも、この交換公文をつくる前に、すでに米国の陸軍極東地図局長アーサー・T・ストックランド中佐と国土地理院の武藤院長との間には地図作製の覚え書きが取りかわされております。これは、明らかに米軍の一方的覚え書きによって軍用地図の作製が決定され、日本は交換公文という形式で追認させられたにすぎないという事情を物語るものであります。五カ年間にもわたって軍用地図の作製が行なわれてきたにもかかわらず、政府首脳には何ら知らされず、国土地理院の内部においても、この覚え書きの内容は幹部クラスにも知らされていないといわれています。実際の作業及び内容は極秘のうちに進められたものと思われます。
このように、政府首脳が何も知らなかったということは、怠慢からなのか、それとも、作業そのものが極秘であったのか、その辺の事情を明らかにするとともに、国土地理院の覚え書きを公表して、本院を通じて国民の疑惑を解明すべきであると思います。
こういう趣旨から、実は本日の衆議院の決算委員会におきましては、この覚え書きを国会に提出すべきであるという決議がなされておるのです。しかるに政府は、これに対する答弁で、国際儀礼上できないと言っております。これははなはだしい主権の侵害を受けながら、なお国際儀礼を守る必要がどこにあるのでしょうか。国際儀礼というのは、相互の主権尊重という原則が守られて初めて通用する儀礼であります。この際、私は、政府が積極的にこれを本院に提出して公表すべきことを重ねて要求します。
なお、軍用地図の作製は、昭和四十年三月に完成し、それに伴いまして交換公文も覚え書きもすでに効力を失っておるにかかわらず、国土地理院は、現在もなお、座間にある米陸軍司令部と連絡を持って各種の調査資料を提供しているといわれておりますが、この実情並びに法的根拠もここに明らかにしていただきたい。
第三は、兵器の輸出問題であります。
佐藤総理は、外国輸出を目的にした兵器の製造は行なわないと言いながら、同時に、自衛隊のためにつくる武器であるが、余力があれば、貿易管理令の運営上差しつかえない範囲で出してもよいなどと、これまた欺瞞的答弁をしているのであります。まず、防衛産業に余力のあるのは当然のことでありまして、それだからこそ、経団連の防衛生産委員会をはじめ、軍需産業資本は、第三次防衛力整備五カ年計画を軸とする兵器の国産化の推進とともに、兵器産業を輸出産業として育成することを強く要求しているのであります。
また注目すべきは、特需扱いと貿易管理令との関係であります。アメリカのベトナム侵略戦争遂行のために、各種の武器、軍需物資が製造され、それが特需という名のもとに米軍に輸出されている。しかも、この特需というのは、国内取引であって、通関手続を要しない。したがって、貿易管理令の規制を受けないことになっているわけです。米軍が日本の産業に何を注文し、何をつくらせるかは全く米軍の自由であって、日本政府は指一本も触れることができない。したがって、日本政府の知っていることといえば、税関を通るピストルが何丁輸出したくらいのことでありまして、特需のルートを通じて何を輸出しているかは全く知らないのが現状であります。国民の目をかすめて、そうしてベトナム戦争に協力しているこの実態を政府は何と考えるのか、日本の軍需産業資本は、特需にいまやウの目タカの目でこれをあさり、外国向けの武器を製造し、輸出をしているのであります。」
これに対する内閣総理大臣、佐藤榮作(後のノーベル平和賞の受賞者)の答弁。
「社会党と私どもとの間には、日米安保条約についての基本的な考え方の相違がございます。しかし、日米安保条約の体制のもとに日本は安全を確保し、また繁栄の道をたどっております。国民はよく承知しておりますので、この日米安保体制を国民はまた守ろうとしております。このことをまず最初に申し上げておきます。(中略)。
そこで、お尋ねになりました点について、二、三お答えをいたしたいと思います。
まず第一は、学界に対する米軍の資金援助の問題であります。本来、学術の研究というものは、研究者の良識、また、自由な判断によりまして研究が続けられるものでありまして、政府はこれに積極的な干渉をするような考えは毛頭持っておりません。しかし、御指摘になりましたように、外国の政府や、あるいは特に軍隊だとか、こういうところから資金の援助を受けますと、いろいろ誤解を受けることもあるだろうと思います。したがいまして、そういう意味で、これは一般の民間からの資金の受け入れとは相違いたしておりまして、十分慎重に扱わなければならぬ問題だと思います。そういう意味で、今後の問題については、政府はこの処置について検討するつもりでございます。
次は、兵器輸出の問題でございます。ただいまも松本君は、防衛産業に余力のあるのは当然だ、こういうことを言っておられます。この余力があるところで輸出をするということ、これがしかも輸出貿易管理令の許しを得てやるということ、これは何ら不都合ではないと思う。(中略)。佐藤内閣は、私はまた、死の商人たる歩みをするものではございません。これははっきり申し上げておきます。」
参院・予算委員会(1967年5月19日)
剱木亨弘(文部大臣) 大体その資料でごらんいただければわかると思いますが、一九五九年から今日までずっと続きまして、件数としては約九十六件、金額といたしましては三億八千七百万円、こういう状況になっておるようでございます。それで、きょうお手元にお配りしました資料で一応なおお断わりしておかなければなりませんと思いますのは、ここで各機関の名称だけを出しておるのでございまして、しかし事実は、医学部とございますれば医学部の中の特定の教授にこれが渡っておるわけでございます。(中略)。
なお、この全部の、研究なり、旅費とか、あるいは品物によるものがございますが、この援助の形式は、米国陸軍当局のほうからこれを公募するとか、あるいは補助してやるから出しなさいというような勧誘をいたしたのではなくて、実際上のこういう制度があるということを、あるいは国際会議でございますとか、友人関係でございますとか、こういうのを知りまして、そして学者のほうで自分のいままで研究をいたしておりますデータについて申請書を出し、その申請書におきましては、その所属する長のサインを求めまして、たとえば医学部でございますと医学部長あるいは学長のサイン、これを添えまして申請をし、そしてその申請をいたしました者について許可をいたし、許可あったものについて援助が行なわれたというのでございます。
それから、その発表につきましては、必ず公表をすることにいたしておりますし、なお、経理及び研究成果につきまして中間報告及び最終報告を米軍のほうに出すということになっておるのでございます。
・・・・・・・・・・・
天城勲(文部官僚) この六件の中には病院が三カ所ございますが、そのほか民間会社といたしまして、先ほど申したような、確認はいたしておりませんが、株式会社松下電器産業東京研究所と東海電極が入っております。株式会社松下電器産業東京研究所でございますが、赤外線可視装置、一九六五年で、これは向こうの資料でございますので、十万六千ドルでございます。それから東海電極製造、これが強力高率炭素フィラメント、そういうテーマでございますが、三万二千ドル、一九六六年でございます。
小柳勇 希有ガス力学第五回国際シンポジウム出席旅費というのが東大の宇宙研、大阪大学の基礎工学部、航空宇宙技術研究所、同じ一九六六年のこの会議に行っておられまして、四百六ドル、九百五十四ドル、九百五十四ドル、こういう学会出席旅費を出してございます。(中略)。
次の問題、京浜地区の大気汚染に基づく呼吸器疾患、こういうテーマがございまして、東大の医学部、こういうのが研究をやっておられます・・・(中略)。
もう一つ。次は慶応大学の医学部の研究ですが、日本の一般市民に対する大気汚染の影響・・・。
次はこの、ペルーにおける日食記録のためのペルー地球物理学研究所との共同研究、これに京都大学の理学部の出張旅費として二千五百ドルを出されておりますが、ペルー地球物理学共同研究にいつもこういうふうに日本の学者が、研究員が補助をもらって行っているのかどうか。(中略)。
この資料には載ってないんですけれども、ことしから研究契約がなされた「太平洋地域特に東南アジアにおける肺吸虫の分類及び生態に関する研究」というのがあります。これを学者がなぜこういう契約を受け得ることを知ったかといいますと、米軍担当官とパーテーで会って研究の話をしたら、こういう金があるぞとおっしゃった。東南アジアの調査旅費に使用できるから非常に便利だから契約したと言っている。この問題について、文部大臣御存じあるかどうか。(中略)。その学者に聞きますと、りっぱな最高の研究である、こういうものがどこかで総合されるわけです。総合されますと、それが私どもがいま問題にしております米国陸軍省から補助金が出て、それがどこかで総合される。文部大臣すらわからないりっぱな研究テーマというものが、(中略)、米国陸軍の援助を受けて、どこかで総合されるわけです。
剱木亨弘 私はこの大体を取り調べました私どもの感じといたしましては、いまもちょっと小柳先生申されましたが、いろいろこういう制度があって、これで申請すると、その研究内容がよければ金が出るということを聞きまして、やはりこの研究費を請求をいたしまして、より自由なる研究の充実を期したと思うのでございまして、その研究の申請をいたしました本人が、これはアメリカの軍とか、そういう総合されて何かそれに利用されるであろうという予測のもとにやったものではないということだけは、私はっきり言えると思います。ただしかし、これは外国の政府機関の金でございます。この何にも正式の文部省なり外務省に話がなく、直接にこの研究者に渡ってまいりました問題、しかも、それが向こうの陸軍の関係の部局からこの金が出た。
そういたしますと、いま申されましたように、その結論を総合して何かに利用されるのじゃないかというような疑いを受けるおそれが十分にあると思います。でございますので、私といたしましては、このあり方についてやはり大学当局において再検討してまいりたい、少なくとも、これは正式に受け入れ、その他につきましては公のものにすべきではなかろうかと思っておるのでございます。ただ、ここで申し添えたいと存じますけれども、いままで文部省としましては、学者が研究をいたします場合において、全く自主的に 私どもとしては、研究内容その他に対しては、何らの関与をいたしたことはございません。ですから、こういうことによって学者の研究内容にまでタッチをいたそうとは思いませんけれども、しかしこういう問題は、十分やはり疑いを受けるという面におきまして、大学当局におきましても考慮いたすべき問題だと、今日ただいま感じておるわけであります。
亀田得治 大臣いまちょっと誤解を受けやすいことを言われたわけですが、学者が米軍から金を受ける場合、少なくとも公のものにしていかなければならぬという意味のことをちょっと言われたわけですが、これは従来のように、特別会計にも入れないで直接受け取る、そういうことは困る。そうじゃなしに、ちゃんと特別会計に入れてそこから受け取るということなら認めていいのじゃないかというふうな何かこう印象を受けたのですが、そのことが一つ。公のものにしなければならぬというのは、いわゆる特別会計のワクの中へ一たん入れよ、そういう意味で言われておるのか、その点が一つ。
それからもう一つは、それとまた若干違ったことも言われておるわけなんです。こういう寄付は思わしくないという意味のことも、その前で言われておるわけです。もし思わしくないということであれば、そのあとの手続上のことなどは、これはもう問題外のことになるわけですね。だからその思わしくないということの意味ですね。これはたとえば、京都大学の奥田総長の、この問題が新聞等で論議されるようになってからの談話でありますが、やはり軍事を目的としておるこのような寄付は受けるべきではない、こういうことをはっきり談話で申しておられます。
剱木亨弘 この一般の寄付がございまして、たとえば国内の人とか、いろいろな委託研究等でございまして、大学の教授に研究費の寄付がありました場合、これは特別会計の中にそういうものは入れてやるべきだと考えております。でございますから、このものは実はそれには入っていないということを先ほど申し上げました。ですから、それに入っておれば、公のものとして私どもは調べることができるのでございますが、直接的に渡されて研究して、私どもに何らの報告がなしに今日までまいっておりますので、この点は私どもが知り得なかったのでございます。
ただ、私は外国でございましても、たとえばロックフェラー財団とか、そういったような民間の財団等から研究費を受けるという問題と、それからこの場合は政府機関でございます。政府機関が――日本のやはり大学も国立の政府機関の一つでございます、これに直接的に金の授受があるという問題につきまして、基本的にそういうことが直接に行なわれていいかどうか。これは少なくとも、私は政府機関におきまして話を通じて、それがいいか悪いかを政府が判断をして、これを受け入れるかどうかを決定すべき問題であるのではなかろうか。そういう意味におきまして、またこれが軍から出ておるとかいうこと以外に、政府間の問題でございますので、これを政府というものを抜いて直接的にいっていいのかどうか。この問題につきましては、私どもやはり考え直さなければならぬ問題があるのじゃないか、こう思っておるわけでございます。
亀田得治 それは重大なことだ。研究内容がよくわからぬと、大臣先ほどからおっしゃっておるわけですね。そういう状態の中で、ずっと年度が継続しておるものは認めるような意味のことを言われると、これは私は非常に軽率だと思うんですね。それが、それじゃあ軍事に結びついておったらどうするんですか。明確にしなければならぬでしょう、その点は少なくとも。だからいまおっしゃったことは、これはちょっと行き過ぎているんじゃないですか、この点は。内容がわかっておるなら、別ですよ。
たとえば、京都大学のウイルス研究所ですね。これは三口出ていますね。これはどういう研究ですか。これはしろうと考えで考えても、最近はやりの生物化学兵器、こういうものに結びついていくんじゃないかというふうな感じもするわけなんですが、これは継続の中に入っているんじゃないですか。これは済んでいるやつですか。
だから、いまおっしゃったことは、これはちょっとこの場で訂正してもらいませんと、最初は非常に良心的に軍事に結びついちゃいかぬという立場で研究しておるということでしたから、多少安心感を持ったんですが、途中で手続のことなどをおっしゃるものですから、これはあるいは逆に考えているんじゃないかということでお聞きしてみた。そしたら継続のやつはいいという、そういう軽い考えでは、非常にこれだけ注目されている以上いかぬと思う。
学者自身の中で、これは受けるべきじゃない、こういう意見が相当出ているわけですからね。ことに京都大学の総長は、そういう意見を公に出している。そこの研究がウイルス研究、だからいまの発言はちょっと問題じゃないですか。
小柳勇 この法的な根拠は何でしょうか、外務大臣。いま文部大臣は独断で、これは全部学者のほうが知らないで金の援助を受けたとおっしゃいますけれども、米軍の担当官が募集に行っている事実もある。また大学に募集広告がいって、これを知って応募した学者もあるわけです。それから民間の会社に行って研究さしておる。それからあとでまた資料要求いたしますが、陸軍付属病院の四〇六部隊が別に直接学者に研究費を出しておる。こういうことの法的根拠は何でしょうか。(中略)。米国陸軍だけでなくて、どこの国の陸軍であろうが海軍であろうが、日本の学者に研究を依頼すれば、学者がOKすればできる、こういうことでございますか。
三木武夫(外務大臣) これは世界的に見れば、研究費というものに対してはいろいろな――まあ金ということになれば、一番アメリカが多いでしょう。しかし、ないわけでもないでしょうが、しかし、そういうことで私は、いま文部大臣もお答えになったように、政府機関、これがやはりいろいろな寄付を受け入れるというときには、ただ研究団体の自分の意思だけが寄付を受け入れるということは、ちょっと私はまずいと思う。その場合には、文部省も政府も知らぬということは、いま言った、そんならどこの国でも寄付をくれると言ったら何でも受けるのかという御疑問も出てまいりますので、これは政府のほうとして、何らかのこれに対して、受ける場合に、政府に対して報告、承認を求めるとか、何らかの多少の規制が私は要ると思う。これは研究をいたしたいと考えております。
小柳勇 外務大臣、米軍司令官は日本の政府には全部報告してある、日本政府は承知しておると言うが、文部省ではこの間も御存じなかった。外務省に報告があっておったのでしょうか。
藤田進 ちょっと関連して。最近内之浦の衛星発射等に関連する大学の会計等を見ましても、しかし、少なくとも国立大学、あるいま公立において、私学といえども、年度間の大学の予算決算というものは当然ある。ですから、東大等の場合も出ておりますが、こういう場合には、国として文教関係予算の中で、特に当該学校の年度予算というものがあり、これには受託研究費は幾ら見るか、当然なくちゃあならぬと思うんです。これは国内の処理として、会計経理上のね。
ところが、まま研究所、あるいは指導教授といったようなプライベートの形で外部との金銭の授受というものが行なわれ、そうして研究者の勘で適当にこれが経費を配分をしていく、表に出てこない。それから、特にやがて民間の法人に就職をさせようという場合には、表向きでなくて、相当年額、金が直接受け入れられていることが、特定のところがどこということはここで申し上げるつもりはありませんが、いわば大学の会計経理の処理については、そういうものが、どうも通常の方式から考えると、異様な感じを受けるものがあるようにも思うわけであります。この辺が国立大学についてはどうなっているのか、文部省からいまの問題も関連して、一向に知らないはずのものではないと私は思うのです。会計経理、予算決算から見ても、そういうことはあり得ないはずである。御説明をいただきたい。
剱木亨弘 契約につきましては幾つかの条件が取りつけられておるようでございます。ただその目的、特に目的の中で軍事目的に関すると思われる条件は、事前、事後を通じまして全くつけられていないと私ども考えておりますが、援助を受けました研究者が、この一定の条件に対しまして義務を負っておる点はございます。たとえば、定められました期間内に研究を終了することを原則とする。それから研究責任者の指揮のもとに実施すること、こういう条件でございます。
補助金受領者が、当該研究実施の能力がない場合、双方の合意のもとに補助金の全部または一部を取り消すことができる、それから、研究成果に関する報告書等について、まず研究成果に関し概括的な中間報告を提出すること。研究成果の公表は全く制限されないこと。ただし公表の場合は米陸軍の援助と協力による旨を記載するとともに、当該出版物を提供すること。それから特許及び著作権につきましては、発明の実施権は研究者が所有するが、同時に米国政府にも実施権が無料で与えられる。研究成果の公表刊行に関連する権利はもちろん研究者が所有するが、同時に米国政府もデータ及び技術的情報を出版し、翻訳し、複製し、配布し、及び使用する権利が与えられる。以上のような条件がついているのが普通のようでございます。
(つづく)
1967年5月23日、衆院本会議における、旧社会党の松本七郎の発言である。
「私は、日本社会党を代表して、日米安保条約に関連する最近の緊急事態等について質問を行なわんとするものであります。(中略)。まず第一に指摘したいのは、日本の大学、研究所、学会などが、米国陸軍極東開発局から広範な財政援助を受け委託研究に従事している事実であります。
政府提出の資料によりますると、東京大学の宇宙航空研究所や科学技術庁の航空宇宙研究所を含めまして、その大部分が国立や公立の機関で、これが外国軍のひもつき研究をやっているのであります。これは日本の教育のあり方、学問の自由という基本的な観点から申しましても、きわめてゆゆしい問題であります。佐藤総理は、外国からの援助はあり得るなどと言って、ユネスコや一般の国際機関からの財政援助と同じように見ておられるようです。しかし、この委託研究には、米国陸軍から一つ一つ研究テーマや条件をつけているのでありまして、この一事をもってしても、決して純粋にして自由な科学研究のための援助ではなく、米国陸軍の特殊の意図と利用価値から出たものであることは明々白々であります。
この財政援助と委託研究問題できわめて特徴的なことは、総計九十六件、三億八千七百万円のうち、生物・医学関係が圧倒的に多く、金額において全体の八四・三%を占め、また、援助の大部分がベトナム戦争の拡大と歩調を合わせて、一九六五年、六六年、六七年に集中していることであります。このことは、今日、アメリカがベトナム戦争で生物・化学兵器を使用している実情と考え合わせてみますると、決して偶然の一致ではないのであります。
現在、米国陸軍は、多額の予算をもって生物・化学兵器の開発に力を入れており、メリーランド州のフレデリックにある米国陸軍の生物戦争研究センターでは、全米科学アカデミー、微生物学会、大学、研究所などのあらゆる科学者を総動員して研究開発に当たっている現状であります。これに対して、ノーベル賞受賞者十七名を含めてアメリカの指導的科学者二十三名が、いわゆるCB戦争、つまり、生物・化学戦争に道を開くものだとして、米国政府に抗議、警告を行なっているほどであります。(拍手)また、日本におきましても、たとえば、国立予防衛生研究所の和気細菌第四室長は、研究のテーマだけを見れば一見非軍事的であっても、その成果が容易に軍事目的に転用され得ると喝破しておられるのであります。
このように、米国陸軍による援助問題は、総理や政府の首脳の楽観とは正反対に、疑いもなくアメリカの生物・化学兵器の研究開発の一環であり、また同時に、現にベトナムで進行しているCB戦と密接な関係を持っているきわめて重大な事件なのであります。佐藤首相並びに関係閣僚の真剣な反省と誠意ある答弁を求めるものであります。
また、この問題と関連いたしまして私たちがきわめて奇怪に感じますのは、アメリカ陸軍の援助が一九五九年から十年近くも続けられており、その対象も非常に広範囲にわたっているにかかわらず、総理をはじめ関係閣僚が全くつんぼさじき(原文のママ)に置かれていたという事実であります。所管の文部大臣すら、聞いていないとか、連絡を受けていないという状態では、主権国家として黙視できない重大問題であります。ここに安保条約のもとにおける日本の従属性が象徴的に浮き彫りにされております。本件の処理にいたしましても、堂々と米国陸軍と交渉し、抗議する態度はみじんも見当たらないのであります。(中略)。
次に、軍用地図作製の問題であります。建設省国土地理院が、旧日本陸軍の参謀本部でさえもつくらなかったような精密な特殊軍用地図を五カ年計画で作製しているにもかかわらず、これまた、総理をはじめ建設大臣も防衛庁長官も何一つ知らない。新聞を見て初めて知ったというありさまであります。しかも、毎日新聞の調査によりますと、この特殊地図は、米軍独自の道路番号やグリッドゾーンが記入されており、砲撃が完全に目標に的中するように仕組まれています。また、ミサイル発射に役立つ地磁気の偏差度が明示されている。上陸用舟艇のために海面には等深線が記入されているなど、疑いもなく軍用の特殊地図なのであります。
このように、外国のために日本を完全まる裸にしたも同然の軍用地図作製について、政府首脳が何も知らされていない。これは、安保条約のもとにおいてさえ、決して正常とは言えない姿であります。政府は、当初、これに対して、安保体制のもとでは当然のことだとうそぶいていたのでありまするが、あとになると、昭和三十五年二月の当時の藤山外相とマッカーサー大使の間にかわされました交換公文にその根拠を求めて、佐藤総理は、一々こまかなことまで知らないといって、米軍の行動をあくまで擁護し合理化しようとしております。(中略)。
しかも、この交換公文をつくる前に、すでに米国の陸軍極東地図局長アーサー・T・ストックランド中佐と国土地理院の武藤院長との間には地図作製の覚え書きが取りかわされております。これは、明らかに米軍の一方的覚え書きによって軍用地図の作製が決定され、日本は交換公文という形式で追認させられたにすぎないという事情を物語るものであります。五カ年間にもわたって軍用地図の作製が行なわれてきたにもかかわらず、政府首脳には何ら知らされず、国土地理院の内部においても、この覚え書きの内容は幹部クラスにも知らされていないといわれています。実際の作業及び内容は極秘のうちに進められたものと思われます。
このように、政府首脳が何も知らなかったということは、怠慢からなのか、それとも、作業そのものが極秘であったのか、その辺の事情を明らかにするとともに、国土地理院の覚え書きを公表して、本院を通じて国民の疑惑を解明すべきであると思います。
こういう趣旨から、実は本日の衆議院の決算委員会におきましては、この覚え書きを国会に提出すべきであるという決議がなされておるのです。しかるに政府は、これに対する答弁で、国際儀礼上できないと言っております。これははなはだしい主権の侵害を受けながら、なお国際儀礼を守る必要がどこにあるのでしょうか。国際儀礼というのは、相互の主権尊重という原則が守られて初めて通用する儀礼であります。この際、私は、政府が積極的にこれを本院に提出して公表すべきことを重ねて要求します。
なお、軍用地図の作製は、昭和四十年三月に完成し、それに伴いまして交換公文も覚え書きもすでに効力を失っておるにかかわらず、国土地理院は、現在もなお、座間にある米陸軍司令部と連絡を持って各種の調査資料を提供しているといわれておりますが、この実情並びに法的根拠もここに明らかにしていただきたい。
第三は、兵器の輸出問題であります。
佐藤総理は、外国輸出を目的にした兵器の製造は行なわないと言いながら、同時に、自衛隊のためにつくる武器であるが、余力があれば、貿易管理令の運営上差しつかえない範囲で出してもよいなどと、これまた欺瞞的答弁をしているのであります。まず、防衛産業に余力のあるのは当然のことでありまして、それだからこそ、経団連の防衛生産委員会をはじめ、軍需産業資本は、第三次防衛力整備五カ年計画を軸とする兵器の国産化の推進とともに、兵器産業を輸出産業として育成することを強く要求しているのであります。
また注目すべきは、特需扱いと貿易管理令との関係であります。アメリカのベトナム侵略戦争遂行のために、各種の武器、軍需物資が製造され、それが特需という名のもとに米軍に輸出されている。しかも、この特需というのは、国内取引であって、通関手続を要しない。したがって、貿易管理令の規制を受けないことになっているわけです。米軍が日本の産業に何を注文し、何をつくらせるかは全く米軍の自由であって、日本政府は指一本も触れることができない。したがって、日本政府の知っていることといえば、税関を通るピストルが何丁輸出したくらいのことでありまして、特需のルートを通じて何を輸出しているかは全く知らないのが現状であります。国民の目をかすめて、そうしてベトナム戦争に協力しているこの実態を政府は何と考えるのか、日本の軍需産業資本は、特需にいまやウの目タカの目でこれをあさり、外国向けの武器を製造し、輸出をしているのであります。」
これに対する内閣総理大臣、佐藤榮作(後のノーベル平和賞の受賞者)の答弁。
「社会党と私どもとの間には、日米安保条約についての基本的な考え方の相違がございます。しかし、日米安保条約の体制のもとに日本は安全を確保し、また繁栄の道をたどっております。国民はよく承知しておりますので、この日米安保体制を国民はまた守ろうとしております。このことをまず最初に申し上げておきます。(中略)。
そこで、お尋ねになりました点について、二、三お答えをいたしたいと思います。
まず第一は、学界に対する米軍の資金援助の問題であります。本来、学術の研究というものは、研究者の良識、また、自由な判断によりまして研究が続けられるものでありまして、政府はこれに積極的な干渉をするような考えは毛頭持っておりません。しかし、御指摘になりましたように、外国の政府や、あるいは特に軍隊だとか、こういうところから資金の援助を受けますと、いろいろ誤解を受けることもあるだろうと思います。したがいまして、そういう意味で、これは一般の民間からの資金の受け入れとは相違いたしておりまして、十分慎重に扱わなければならぬ問題だと思います。そういう意味で、今後の問題については、政府はこの処置について検討するつもりでございます。
次は、兵器輸出の問題でございます。ただいまも松本君は、防衛産業に余力のあるのは当然だ、こういうことを言っておられます。この余力があるところで輸出をするということ、これがしかも輸出貿易管理令の許しを得てやるということ、これは何ら不都合ではないと思う。(中略)。佐藤内閣は、私はまた、死の商人たる歩みをするものではございません。これははっきり申し上げておきます。」
参院・予算委員会(1967年5月19日)
剱木亨弘(文部大臣) 大体その資料でごらんいただければわかると思いますが、一九五九年から今日までずっと続きまして、件数としては約九十六件、金額といたしましては三億八千七百万円、こういう状況になっておるようでございます。それで、きょうお手元にお配りしました資料で一応なおお断わりしておかなければなりませんと思いますのは、ここで各機関の名称だけを出しておるのでございまして、しかし事実は、医学部とございますれば医学部の中の特定の教授にこれが渡っておるわけでございます。(中略)。
なお、この全部の、研究なり、旅費とか、あるいは品物によるものがございますが、この援助の形式は、米国陸軍当局のほうからこれを公募するとか、あるいは補助してやるから出しなさいというような勧誘をいたしたのではなくて、実際上のこういう制度があるということを、あるいは国際会議でございますとか、友人関係でございますとか、こういうのを知りまして、そして学者のほうで自分のいままで研究をいたしておりますデータについて申請書を出し、その申請書におきましては、その所属する長のサインを求めまして、たとえば医学部でございますと医学部長あるいは学長のサイン、これを添えまして申請をし、そしてその申請をいたしました者について許可をいたし、許可あったものについて援助が行なわれたというのでございます。
それから、その発表につきましては、必ず公表をすることにいたしておりますし、なお、経理及び研究成果につきまして中間報告及び最終報告を米軍のほうに出すということになっておるのでございます。
・・・・・・・・・・・
天城勲(文部官僚) この六件の中には病院が三カ所ございますが、そのほか民間会社といたしまして、先ほど申したような、確認はいたしておりませんが、株式会社松下電器産業東京研究所と東海電極が入っております。株式会社松下電器産業東京研究所でございますが、赤外線可視装置、一九六五年で、これは向こうの資料でございますので、十万六千ドルでございます。それから東海電極製造、これが強力高率炭素フィラメント、そういうテーマでございますが、三万二千ドル、一九六六年でございます。
小柳勇 希有ガス力学第五回国際シンポジウム出席旅費というのが東大の宇宙研、大阪大学の基礎工学部、航空宇宙技術研究所、同じ一九六六年のこの会議に行っておられまして、四百六ドル、九百五十四ドル、九百五十四ドル、こういう学会出席旅費を出してございます。(中略)。
次の問題、京浜地区の大気汚染に基づく呼吸器疾患、こういうテーマがございまして、東大の医学部、こういうのが研究をやっておられます・・・(中略)。
もう一つ。次は慶応大学の医学部の研究ですが、日本の一般市民に対する大気汚染の影響・・・。
次はこの、ペルーにおける日食記録のためのペルー地球物理学研究所との共同研究、これに京都大学の理学部の出張旅費として二千五百ドルを出されておりますが、ペルー地球物理学共同研究にいつもこういうふうに日本の学者が、研究員が補助をもらって行っているのかどうか。(中略)。
この資料には載ってないんですけれども、ことしから研究契約がなされた「太平洋地域特に東南アジアにおける肺吸虫の分類及び生態に関する研究」というのがあります。これを学者がなぜこういう契約を受け得ることを知ったかといいますと、米軍担当官とパーテーで会って研究の話をしたら、こういう金があるぞとおっしゃった。東南アジアの調査旅費に使用できるから非常に便利だから契約したと言っている。この問題について、文部大臣御存じあるかどうか。(中略)。その学者に聞きますと、りっぱな最高の研究である、こういうものがどこかで総合されるわけです。総合されますと、それが私どもがいま問題にしております米国陸軍省から補助金が出て、それがどこかで総合される。文部大臣すらわからないりっぱな研究テーマというものが、(中略)、米国陸軍の援助を受けて、どこかで総合されるわけです。
剱木亨弘 私はこの大体を取り調べました私どもの感じといたしましては、いまもちょっと小柳先生申されましたが、いろいろこういう制度があって、これで申請すると、その研究内容がよければ金が出るということを聞きまして、やはりこの研究費を請求をいたしまして、より自由なる研究の充実を期したと思うのでございまして、その研究の申請をいたしました本人が、これはアメリカの軍とか、そういう総合されて何かそれに利用されるであろうという予測のもとにやったものではないということだけは、私はっきり言えると思います。ただしかし、これは外国の政府機関の金でございます。この何にも正式の文部省なり外務省に話がなく、直接にこの研究者に渡ってまいりました問題、しかも、それが向こうの陸軍の関係の部局からこの金が出た。
そういたしますと、いま申されましたように、その結論を総合して何かに利用されるのじゃないかというような疑いを受けるおそれが十分にあると思います。でございますので、私といたしましては、このあり方についてやはり大学当局において再検討してまいりたい、少なくとも、これは正式に受け入れ、その他につきましては公のものにすべきではなかろうかと思っておるのでございます。ただ、ここで申し添えたいと存じますけれども、いままで文部省としましては、学者が研究をいたします場合において、全く自主的に 私どもとしては、研究内容その他に対しては、何らの関与をいたしたことはございません。ですから、こういうことによって学者の研究内容にまでタッチをいたそうとは思いませんけれども、しかしこういう問題は、十分やはり疑いを受けるという面におきまして、大学当局におきましても考慮いたすべき問題だと、今日ただいま感じておるわけであります。
亀田得治 大臣いまちょっと誤解を受けやすいことを言われたわけですが、学者が米軍から金を受ける場合、少なくとも公のものにしていかなければならぬという意味のことをちょっと言われたわけですが、これは従来のように、特別会計にも入れないで直接受け取る、そういうことは困る。そうじゃなしに、ちゃんと特別会計に入れてそこから受け取るということなら認めていいのじゃないかというふうな何かこう印象を受けたのですが、そのことが一つ。公のものにしなければならぬというのは、いわゆる特別会計のワクの中へ一たん入れよ、そういう意味で言われておるのか、その点が一つ。
それからもう一つは、それとまた若干違ったことも言われておるわけなんです。こういう寄付は思わしくないという意味のことも、その前で言われておるわけです。もし思わしくないということであれば、そのあとの手続上のことなどは、これはもう問題外のことになるわけですね。だからその思わしくないということの意味ですね。これはたとえば、京都大学の奥田総長の、この問題が新聞等で論議されるようになってからの談話でありますが、やはり軍事を目的としておるこのような寄付は受けるべきではない、こういうことをはっきり談話で申しておられます。
剱木亨弘 この一般の寄付がございまして、たとえば国内の人とか、いろいろな委託研究等でございまして、大学の教授に研究費の寄付がありました場合、これは特別会計の中にそういうものは入れてやるべきだと考えております。でございますから、このものは実はそれには入っていないということを先ほど申し上げました。ですから、それに入っておれば、公のものとして私どもは調べることができるのでございますが、直接的に渡されて研究して、私どもに何らの報告がなしに今日までまいっておりますので、この点は私どもが知り得なかったのでございます。
ただ、私は外国でございましても、たとえばロックフェラー財団とか、そういったような民間の財団等から研究費を受けるという問題と、それからこの場合は政府機関でございます。政府機関が――日本のやはり大学も国立の政府機関の一つでございます、これに直接的に金の授受があるという問題につきまして、基本的にそういうことが直接に行なわれていいかどうか。これは少なくとも、私は政府機関におきまして話を通じて、それがいいか悪いかを政府が判断をして、これを受け入れるかどうかを決定すべき問題であるのではなかろうか。そういう意味におきまして、またこれが軍から出ておるとかいうこと以外に、政府間の問題でございますので、これを政府というものを抜いて直接的にいっていいのかどうか。この問題につきましては、私どもやはり考え直さなければならぬ問題があるのじゃないか、こう思っておるわけでございます。
亀田得治 それは重大なことだ。研究内容がよくわからぬと、大臣先ほどからおっしゃっておるわけですね。そういう状態の中で、ずっと年度が継続しておるものは認めるような意味のことを言われると、これは私は非常に軽率だと思うんですね。それが、それじゃあ軍事に結びついておったらどうするんですか。明確にしなければならぬでしょう、その点は少なくとも。だからいまおっしゃったことは、これはちょっと行き過ぎているんじゃないですか、この点は。内容がわかっておるなら、別ですよ。
たとえば、京都大学のウイルス研究所ですね。これは三口出ていますね。これはどういう研究ですか。これはしろうと考えで考えても、最近はやりの生物化学兵器、こういうものに結びついていくんじゃないかというふうな感じもするわけなんですが、これは継続の中に入っているんじゃないですか。これは済んでいるやつですか。
だから、いまおっしゃったことは、これはちょっとこの場で訂正してもらいませんと、最初は非常に良心的に軍事に結びついちゃいかぬという立場で研究しておるということでしたから、多少安心感を持ったんですが、途中で手続のことなどをおっしゃるものですから、これはあるいは逆に考えているんじゃないかということでお聞きしてみた。そしたら継続のやつはいいという、そういう軽い考えでは、非常にこれだけ注目されている以上いかぬと思う。
学者自身の中で、これは受けるべきじゃない、こういう意見が相当出ているわけですからね。ことに京都大学の総長は、そういう意見を公に出している。そこの研究がウイルス研究、だからいまの発言はちょっと問題じゃないですか。
小柳勇 この法的な根拠は何でしょうか、外務大臣。いま文部大臣は独断で、これは全部学者のほうが知らないで金の援助を受けたとおっしゃいますけれども、米軍の担当官が募集に行っている事実もある。また大学に募集広告がいって、これを知って応募した学者もあるわけです。それから民間の会社に行って研究さしておる。それからあとでまた資料要求いたしますが、陸軍付属病院の四〇六部隊が別に直接学者に研究費を出しておる。こういうことの法的根拠は何でしょうか。(中略)。米国陸軍だけでなくて、どこの国の陸軍であろうが海軍であろうが、日本の学者に研究を依頼すれば、学者がOKすればできる、こういうことでございますか。
三木武夫(外務大臣) これは世界的に見れば、研究費というものに対してはいろいろな――まあ金ということになれば、一番アメリカが多いでしょう。しかし、ないわけでもないでしょうが、しかし、そういうことで私は、いま文部大臣もお答えになったように、政府機関、これがやはりいろいろな寄付を受け入れるというときには、ただ研究団体の自分の意思だけが寄付を受け入れるということは、ちょっと私はまずいと思う。その場合には、文部省も政府も知らぬということは、いま言った、そんならどこの国でも寄付をくれると言ったら何でも受けるのかという御疑問も出てまいりますので、これは政府のほうとして、何らかのこれに対して、受ける場合に、政府に対して報告、承認を求めるとか、何らかの多少の規制が私は要ると思う。これは研究をいたしたいと考えております。
小柳勇 外務大臣、米軍司令官は日本の政府には全部報告してある、日本政府は承知しておると言うが、文部省ではこの間も御存じなかった。外務省に報告があっておったのでしょうか。
藤田進 ちょっと関連して。最近内之浦の衛星発射等に関連する大学の会計等を見ましても、しかし、少なくとも国立大学、あるいま公立において、私学といえども、年度間の大学の予算決算というものは当然ある。ですから、東大等の場合も出ておりますが、こういう場合には、国として文教関係予算の中で、特に当該学校の年度予算というものがあり、これには受託研究費は幾ら見るか、当然なくちゃあならぬと思うんです。これは国内の処理として、会計経理上のね。
ところが、まま研究所、あるいは指導教授といったようなプライベートの形で外部との金銭の授受というものが行なわれ、そうして研究者の勘で適当にこれが経費を配分をしていく、表に出てこない。それから、特にやがて民間の法人に就職をさせようという場合には、表向きでなくて、相当年額、金が直接受け入れられていることが、特定のところがどこということはここで申し上げるつもりはありませんが、いわば大学の会計経理の処理については、そういうものが、どうも通常の方式から考えると、異様な感じを受けるものがあるようにも思うわけであります。この辺が国立大学についてはどうなっているのか、文部省からいまの問題も関連して、一向に知らないはずのものではないと私は思うのです。会計経理、予算決算から見ても、そういうことはあり得ないはずである。御説明をいただきたい。
剱木亨弘 契約につきましては幾つかの条件が取りつけられておるようでございます。ただその目的、特に目的の中で軍事目的に関すると思われる条件は、事前、事後を通じまして全くつけられていないと私ども考えておりますが、援助を受けました研究者が、この一定の条件に対しまして義務を負っておる点はございます。たとえば、定められました期間内に研究を終了することを原則とする。それから研究責任者の指揮のもとに実施すること、こういう条件でございます。
補助金受領者が、当該研究実施の能力がない場合、双方の合意のもとに補助金の全部または一部を取り消すことができる、それから、研究成果に関する報告書等について、まず研究成果に関し概括的な中間報告を提出すること。研究成果の公表は全く制限されないこと。ただし公表の場合は米陸軍の援助と協力による旨を記載するとともに、当該出版物を提供すること。それから特許及び著作権につきましては、発明の実施権は研究者が所有するが、同時に米国政府にも実施権が無料で与えられる。研究成果の公表刊行に関連する権利はもちろん研究者が所有するが、同時に米国政府もデータ及び技術的情報を出版し、翻訳し、複製し、配布し、及び使用する権利が与えられる。以上のような条件がついているのが普通のようでございます。
(つづく)
2010年11月21日日曜日
武器輸出三原則緩和と軍産学複合体・資料(1)
武器輸出三原則緩和と軍産学複合体・資料(1)
毎日新聞(11月17日)によると、民主党の外交・安全保障調査会(中川正春会長)は、17日の役員会で、政府が12月に改定する「防衛計画の大綱」(防衛大綱)に向けた提言案の「たたき台」を示した。その中で、
①すべての国への武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」を緩和し、輸出禁止対象国を拡大し、国際共同開発に道を開くこと、
②自衛隊の全国均衡配備の根拠となってきた「基盤的防衛力構想」から「脱却」し、「南西諸島防衛」を想定した機動的な運用をはかること、を提言するという。
武器輸出(禁止)三原則については、すでに「米国との武器技術供与や共同開発」が例外になっているが、民主党の見直し案では、
(1)平和構築・人道目的に関する「武器」、
(2)「殺傷能力の低い武器」、
(3)共同開発・生産の対象を、米国からさらに北大西洋条約機構(NATO)加盟国、韓国、オーストラリアなどに拡大するというものだ。
また、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊が参加する場合の「武器使用基準の緩和」なども求めている。
私が大学とNGOの問題を、軍産学(NGO)複合体の問題として、また「理系」と「文系」、さらには大学と「市民社会」を超えた問題として論じてきたのは、このような動きが民主党政権になって一段と加速化しているからである。
日本の大学(院)研究に関して言えば、例えばロボット工学、脳科学分野を始めとして、米国の軍産学複合体を形成する大学群と、旧帝大系七大学を中心とする大学群との「共同研究」が拡大している現実、またその「共同研究」の実態があまりにも社会的に知られていない、という問題がある。
つまり、私が三年前の『大学を解体せよ』の中で触れたように、米国の「全世界即時攻撃」計画と「核戦争の危険性」をはらんだ「日米共同研究」に、知ってか知らずか、独法系研究機関と直結した旧帝大系を中軸とする理工系大学院研究が「貢献」するシステムが、すでに構築されているのである。
出典 Global Issues
Arms Trade—a major cause of suffering
Arms Control
① 1988年から2009年の世界の軍事支出総額の変遷と2009年度の国別割合
(「核なき世界」をめざすとするオバマ政権の登場以降、世界の軍事支出総額が冷戦時代よりも増えている。
国別割合は米国の46,5%を筆頭に、その他の国連安保理常任理事国(順に中、仏、英、ロ)で全体の65%を、その次の10カ国が20,75%を占めている。上位15カ国で世界の軍事支出の86%を占めていることがわかる。
なお、日本はドイツと共に安保理常任理事国に続き、世界第7位(2008年度))
② 2001年から2011年度の米国の軍事支出総額の変遷(ブッシュ共和党政権からオバマ民主党政権に政権交代しても変わることのない超核軍事大国米国の現実)
③ 世界の軍事支出に占める大陸ごとの割合
(北米とロシアを含めた欧州で全体の71%、これに中国と日本を加えると80%近くを占める。一方、アフリカ大陸とラテンアメリカ大陸の合計は全体の6%に過ぎないことがわかる)
④ 米国の軍事援助の国別割合
(イラク、アフガニスタン、イスラエル、エジプト、その他と続く)
⑤ 国連安保理常任理事国(米、英、仏、ロ、中)の武器輸出の世界的フロー
(「国際の平和と安全」を守るべき安保理常任理事国が世界の武器生産の大半を占め、それがアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、中東へと流出し、「民族紛争」の物理的原因をつくっていることがわかる)
毎日新聞(11月17日)によると、民主党の外交・安全保障調査会(中川正春会長)は、17日の役員会で、政府が12月に改定する「防衛計画の大綱」(防衛大綱)に向けた提言案の「たたき台」を示した。その中で、
①すべての国への武器輸出を禁じた「武器輸出三原則」を緩和し、輸出禁止対象国を拡大し、国際共同開発に道を開くこと、
②自衛隊の全国均衡配備の根拠となってきた「基盤的防衛力構想」から「脱却」し、「南西諸島防衛」を想定した機動的な運用をはかること、を提言するという。
武器輸出(禁止)三原則については、すでに「米国との武器技術供与や共同開発」が例外になっているが、民主党の見直し案では、
(1)平和構築・人道目的に関する「武器」、
(2)「殺傷能力の低い武器」、
(3)共同開発・生産の対象を、米国からさらに北大西洋条約機構(NATO)加盟国、韓国、オーストラリアなどに拡大するというものだ。
また、国連平和維持活動(PKO)に自衛隊が参加する場合の「武器使用基準の緩和」なども求めている。
私が大学とNGOの問題を、軍産学(NGO)複合体の問題として、また「理系」と「文系」、さらには大学と「市民社会」を超えた問題として論じてきたのは、このような動きが民主党政権になって一段と加速化しているからである。
日本の大学(院)研究に関して言えば、例えばロボット工学、脳科学分野を始めとして、米国の軍産学複合体を形成する大学群と、旧帝大系七大学を中心とする大学群との「共同研究」が拡大している現実、またその「共同研究」の実態があまりにも社会的に知られていない、という問題がある。
つまり、私が三年前の『大学を解体せよ』の中で触れたように、米国の「全世界即時攻撃」計画と「核戦争の危険性」をはらんだ「日米共同研究」に、知ってか知らずか、独法系研究機関と直結した旧帝大系を中軸とする理工系大学院研究が「貢献」するシステムが、すでに構築されているのである。
出典 Global Issues
Arms Trade—a major cause of suffering
Arms Control
① 1988年から2009年の世界の軍事支出総額の変遷と2009年度の国別割合
(「核なき世界」をめざすとするオバマ政権の登場以降、世界の軍事支出総額が冷戦時代よりも増えている。
国別割合は米国の46,5%を筆頭に、その他の国連安保理常任理事国(順に中、仏、英、ロ)で全体の65%を、その次の10カ国が20,75%を占めている。上位15カ国で世界の軍事支出の86%を占めていることがわかる。
なお、日本はドイツと共に安保理常任理事国に続き、世界第7位(2008年度))
② 2001年から2011年度の米国の軍事支出総額の変遷(ブッシュ共和党政権からオバマ民主党政権に政権交代しても変わることのない超核軍事大国米国の現実)
③ 世界の軍事支出に占める大陸ごとの割合
(北米とロシアを含めた欧州で全体の71%、これに中国と日本を加えると80%近くを占める。一方、アフリカ大陸とラテンアメリカ大陸の合計は全体の6%に過ぎないことがわかる)
④ 米国の軍事援助の国別割合
(イラク、アフガニスタン、イスラエル、エジプト、その他と続く)
⑤ 国連安保理常任理事国(米、英、仏、ロ、中)の武器輸出の世界的フロー
(「国際の平和と安全」を守るべき安保理常任理事国が世界の武器生産の大半を占め、それがアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、中東へと流出し、「民族紛争」の物理的原因をつくっていることがわかる)
2010年11月16日火曜日
国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
⇒「大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について」より
「オール・ジャパン」という虚構の言説
「9.11」(2001年)後の米国の「自衛権」の発動と、NATOの「集団的自衛権」の発動によるアフガニスタン空爆に始まる対テロ戦争勃発とタリバーン政権の転覆に伴って、その後の対テロ戦争の遂行と平行した日本の「人道復興支援」のために「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」が結成された。 コソボにおいて1999年4月に始まったNATOの空爆をきっかけにその設立が構想されたJPFは、アフガニスタンにおける対テロ戦争の開始によって誕生したのである。
JPFとは何か? JPFによれば、それは、
①「NGO、経済界、政府(注・外務省のこと)が対等なパートナーシップの下、三者一体となり、それぞれの特性・資源を生かし協力・連携して、難民発生時・自然災害時の緊急援助をより効率的かつ迅速におこなうためのシステム」であり、
②「メディア、民間財団、学識経験者らの参加・協力も呼びかけ、関係アクターが一体となり国際緊急援助に取り組むシステム」であり、
③「21世紀にむけて日本の「シビル・ソサエティ(市民社会)」の発展を促進する具体的な試み」であるという。
実際、「経済界も日本経団連1%クラブが中心となり、「ジャパン・プラットフォーム」を支援することを表明」した。この「プラットフォーム」はこのような人々によって運営され、このようなNGOが参加している。
上のことから確認できるのは、第一にJPFとは、「産官学連携」と同じく、日本の国家(外交)戦略を担い、「国益」を体現する「NGO」(「市民社会」)を育成するために、官(=外務省)主導でその「プラットフォーム」が形成されたことである。そして第二に、これも「産官学連携」と同様に、その資金フローの「恩恵」を受けるのは、日本のNGOの中のごくごく一部、極めて少数の政官財によって承認されたNGOに過ぎないことである。
JPFの「NGOユニット」を一瞥してわかるのは、JPFが欧米に拠点を持つ巨大な国際開発・人道・チャリティNGOの日本支部によって、その3分の1以上(半数近く)が占められていることだ。巨大な国際NGOの日本支部以外にも、「これってNGO?」と思うような「NGO」もいくつか見当たるが、これら国際NGOの日本支部の代表たちは、JPFを通じて得た資金を含めた日本国内の収益によって、日本の平均的NGOスタッフの年収の三倍以上の1200万円前後の年収を得ている(また、国際NGO内部のフタッフ間の年収格差の問題もある)。
もっと言えば--あまり一般には知られていないが--日本の血税と寄付がJPFを通じて「10万ドル、20万ドルは当たり前!」の国際NGOの本部スタッフの給与の一部にも「活用」されるという「資金フロー」がそこにはある。(一般に「チャリティ系」の「国際NGO」の場合、寄付総額の一割(以上)が「日本支部」の人件・維持費に消え、さらに一割(以上)が本部に「上納」される「システム」になっている。「一割」ですめば、まだ「良心的」な方だろうか。)
JPFは、「外務省ODA資金による基金の設置や、民間寄付の募集を通じて、財政的な基盤の弱い日本のNGOを資金的にサポートすることも目指しています」などと、まるで日本のNGOの救世主のようなカッコ良いことを、その「設立の背景」の中で述べている。しかし、設立後10年近くも経つというのに、実際にはそのような役割と機能をJPFは果していない。
例えば、日本には1987年に結成された国際協力分野で活動するNGO主体のネットワーク組織である「国際協力NGOセンター(JANIC)」がある。しかし、ピースウィンズを始めとするJPF構成団体も加盟しているこのJANICに集まる寄付総額は、「ハイチ復興緊急支援」において日本赤十字とほぼ同額の資金を集めた、すなわち、それだけ「資本フロー」があったJPFと比して雲泥の差がある。さらにJANIC自体が組織財政上、非常に厳しい状況に直面しているといった現実がある。
こうした日本的には規模の大きいNGOとそれ以外の「中小」のNGO間の「格差」はなぜ起こるのか。JANIC事務局長によれば、その背景には、
①「従来、政府や行政など「官」が税金を徴収し、その税を使って教育や福祉、ODAによる海外協力などを実施してき」たこと、
②「NPO法人は全国で40,947法人ありますが(2010年9月30日現在)、そのうち税額控除を受けられる認定NPO法人はわずか186法人(2010年11月1日現在、同)しか」ない、という現実がある。
つまり、JPFは①の構造に乗っかりながら、そのすべてが②の「税額控除を受けられる認定NPO法人」であるという、官と財の「認定」を受け、しかもその官財の国家・国際戦略を支持するベンチャー企業その他の中小企業からの寄付=「資金フロー」が形成されるという仕組みによって成立する「プラットフォーム」なのである。この「仕組み」を自明の理とし、NGOの「適者生存」を主張する人間のエリート主義とその差別主義の問題性は、もはや説明を要しないだろう。
「緊急・人道」プロジェクトに特化する国際NGOの「資金フロー」の問題、また国家(行政機構)による「NGOの認証」制度の問題性については、機会を改めて考えることにしたい。しかしJPFの問題点は、それらのみにあるのではない。問題は、「資金フロー」に強く規定される形で、この10年近く、JPFを構成するNGOが「人道復興支援」の名の下に米軍・NATO軍による対テロ戦争を「民」のレベルから「協力」=後方支援してきたJPFとしての活動を、NGOとして内部から変えてゆく力を発揮しなかった/できなかったばかりでなく、今後さらにその傾向を強めようとしていることにある。
例えば、ここに東京財団が、新米国安全保障センター(米国の軍産学複合体のシンクタンク。プロジェクト・メンバーに米軍の司令官が入っていることに注意)と行った「日米同盟の在り方に関する共同研究プロジェクト」の「報告書」、「「従来の約束」の刷新と「新しいフロンティア」の開拓:日米同盟と「自由で開かれた国際秩序」」がある(2010年10月27日)。
この「プロジェクト」は、プロジェクト・リーダーを船橋洋一(朝日新聞主筆)が務め、メンバーには、
添谷芳秀(慶応義塾大学教授、「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」メンバー)、
秋山信将(一橋大学大学院法学研究科および国際・公共政策大学院准教授)、
神保謙(慶応義塾大学総合政策学部准教授)、
中山俊宏(青山学院大学国際政治経済学部教授)等々の「東京財団学派」を中心とした人文・社会科学系の大学人が参加し、そのブレインとなっている。これに日本における「グローバル・シビリアン・パワー」を「代表」する者として大西健丞(ジャパン・プラットフォーム理事、ピースウィンズ・ジャパンおよびシヴィック・フォース・ジャパン代表理事)その他が参加した。
「「従来の約束」の刷新と「新しいフロンティア」の開拓:日米同盟と「自由で開かれた国際秩序」」は、菅民主党政権に対し、日本のNGOの育成のめぐって、次のような「提言」を行っている。
同盟の「新たなフロンティア」
・・・日米同盟の新たなフロンティアには、日本が「グローバル・シビリアン・パ ワー」としての強みを最大限に発揮しつつ日米同盟を活用すべき諸課題が広が っている。
まず、人道支援と災害救助である。2004年12月のスマトラ島 沖大地震の際には、米軍と自衛隊による災害および人道的危機への即時対応能力が示された。今後も、日米両国は相互運用性を高め、継続的な共同訓練や交流を進めるべきである。
その際、日米両国は民間セクターとの協力を拡大し、米軍と自衛隊はそれぞれ市民社会との対話を深めるべきである。とりわけ日本は、政府開発援助(ODA)との連携や市民セクターのノウハウを活用する「オール・ジャパン」体制での取り組みを図るべきである。
日米両国は、開発および援助においても世界で重要な役割を担っている。両国は、ODAや貿易・投資を通じて、経済成長だけではなく社会的安定に貢献し、破綻国家が化学・生物兵器や放射性および核物質の拡散や、国際テロ・犯罪組織の温床とならないよう貢献している。日米両国は、そのような協力と役割分担を調整するために、外交、防衛、開発援助の3省庁からなる「2+2+2」の創設を検討すべきである・・・。
・・・・・・・・
つまり、この「共同提言」において、これからのJPFは、日米安保軍が「災害および人道的危機」に対する「即時対応能力」と「相互運用性」を高めるのを、「市民社会」レベルでサポートする日本における「グローバル・シビリアン・パワー」として位置付けられているのである。
日本の「産官学連携」が軍産学複合体に発展することなどありえない、まして人文・社会科学系はいっさい無関係だと考えている人々は、自分のナイーブさ加減を、この日米「軍産学NGO複合体」の「共同提言」を読み、しっかり確認してもらいたい。
はたして、「日米同盟の新たなフロンティア」の開拓に「貢献」・奉仕するJPFの「NGOユニット」のような「NGO」の集合体を、私たちは〈NGO〉という名称によって定義することができる/すべきなのだろうか?
『国際貢献のウソ』
伊勢崎賢治は、『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書、2010)の中で「できない」「すべきではない」と断言している。私は、伊勢崎氏とは考え方が異なるところが多々あるが、この点についてはまったく同意見である。その理由を国家戦略(「軍民一体」)とNGOの「利益相反」という観点から考えてみよう。
三年前になるが、私は〈NGOと社会〉の会が主催した公開シンポジウムで、伊勢崎賢治氏やJPF代表理事と同席したことがある。
アフガニスタンにおける「軍民一体」(「民軍協力」?)の「人道復興支援」を問うたこのシンポジウムでのJPF代表理事の発言は、非常に歯切れが悪かった。また、もう一人参加した、ある国際NGOの人の発言は、正直言って何を話しているのか、何が言いたいのか、最後までさっぱり要領を得なかった。
JPF代表理事に関して言えば、どうしたことか、その後発表されたこのテーマをめぐる代表理事の論文を読む限り、未だに「歯切れ」が悪い。また、今春出版された『新しい国際協力論』(明石書店)という、学部教科書用に編集された本に収録された、ピースウィンズの海外事業部長、JPFの「事業統括」の経歴を持つ女性の「緊急人道支援から開発支援へ」という論文も、「イラク復興人道支援」や「アフガン復興人道支援」に対するJPFとしての総括的視点を何も述べていないという点において、強い違和感が残る作文になっている。
この女性は、「9.11テロ事件以降は、安全保障上の動機が強まり、緊急人道支援の軍事化、政治化の傾向も見られる」と、まるで他人事のように語っている。彼女が論じるべきは、米国、NATO諸国、そして日本政府による「緊急人道支援の軍事化、政治化」に対して、「非政府組織」=NGOとしてどのようなスタンスを取るべきか、その考察にあったのではなかったか。
「緊急人道支援から開発支援へ」と言うとき、「緊急人道支援」が「軍事化、政治化」しているのであるから、「開発支援」も当然、「軍事化、政治化」することになる。この人は、その現実を直視しようとしない。対テロ戦争の継続がイラク、アフガニスタン、パキスタンなどにおいて、数え切れない一般市民の虐殺と大量の難民を生み出してきた(いる)現実の只中において、JPFの「資金フロー」と「パトロン」の仕組みの中で自分(たち)の活動と生活が成り立っていた(いる)ことに頬かむりを決め込んでしまうのである。
国際NGOを「キャリア・ディベロプメント」の階梯の中に位置づけ、それを「ステップ」に大学に職場を求めてゆく人々が増えている。そうした人たちの上の世代には、「国際平和協力」の名の下に、米国で開発された「民軍協力」を日本に「応用」し、日本版「民軍協力」(自衛隊への協力)に日本の国際NGOを巻き込もうとする上杉勇司や山田満を始めとした一群の「平和構築」学者の存在がある(「実務派」上がりの伊勢崎賢治も、大きく言えば、そうした一群の大学人の中に入るのだが)。
産官学連携路線の下で、このような「スクール」を大学(院)に育成し、外務省・防衛省の「平和構築」戦略を担う「人材」養成が文科省の既定の方針としてあり、「国際協力」「開発」「NGO」論などの世界では、この方針に沿った「研究」以外には「助成」が下りず、科研費も取れない「仕組み」ができあがりつつある。この「仕組み」によって「鎖につながれた大学」がつくられ、、「見ざる、聞かざる、言わざる」の研究者が育成されることになる。
けれども、大学研究において本当に〈研究〉されるべきは、国家と国家連合による武力行使を正面から批判せず、むしろそれらを側面から支援し、一体化するような「平和構築」「開発」「NGO」論がこの10年あまりの間に、なぜかくも急激に大学の現場で台頭してきたのか、その生態進化学ではないだろうか。
戦争する国家、それを後方支援する国家、国際機関と「協働」し、国、経団連、巨大財団からの「資金フロー」と「パトロン」制度の形成によってプロジェクト展開費とスタッフの相対的高額所得を確保しようとする起業家的「NGO」論が大学研究・教育現場に蔓延したとして、それで日本の「市民社会」の成熟や、国家・官僚機構からの自立/自律にプラスになるようなことがあるとはとても思えない。
JPF代表理事やもう一人の国際NGOの人とは対照的に、伊勢崎氏の発言は単純明快だった。そして、今でも明快である。NGOは軍と「一体化」「協働」してはならない/できないと氏は明言したし、今でも明言しているからである(氏の主張に内包する矛盾については別の箇所で検討する)。
論点を明確にするために、国家とNGOの「利益相反」とは何かを先に定義しておこう。そのためには、「最先端融合科学」領域において産官学連携路線の最先端を突っ走る大阪大学の定義を参照するのが便利である。
「大阪大学利益相反管理委員会」によれば、「利益相反」の定義とはこうである。
「産学官連携の推進に伴い生ずる利益相反とは,大学の教職員等や大学自身が外部から得る経済的利益と大学における教育・研究上の責任が衝突する状況のこと」。
ではなぜ、このような「利益相反」が起こるのか? 阪大は次のように説明する。
「真理の探究を目的とした研究を行い,高等教育を行う大学と,営利の追求を目的とした活動を行う企業とは,その基本的な性格・役割を異にする」からである。
大学のことは後に述べるとして、この「利益相反」の概念をNGOに「応用」したらどうなるか?
⇒「惨事と軍隊(Disaster Militarism)」につづく
⇒「大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について」より
「オール・ジャパン」という虚構の言説
「9.11」(2001年)後の米国の「自衛権」の発動と、NATOの「集団的自衛権」の発動によるアフガニスタン空爆に始まる対テロ戦争勃発とタリバーン政権の転覆に伴って、その後の対テロ戦争の遂行と平行した日本の「人道復興支援」のために「ジャパン・プラットフォーム(JPF)」が結成された。 コソボにおいて1999年4月に始まったNATOの空爆をきっかけにその設立が構想されたJPFは、アフガニスタンにおける対テロ戦争の開始によって誕生したのである。
JPFとは何か? JPFによれば、それは、
①「NGO、経済界、政府(注・外務省のこと)が対等なパートナーシップの下、三者一体となり、それぞれの特性・資源を生かし協力・連携して、難民発生時・自然災害時の緊急援助をより効率的かつ迅速におこなうためのシステム」であり、
②「メディア、民間財団、学識経験者らの参加・協力も呼びかけ、関係アクターが一体となり国際緊急援助に取り組むシステム」であり、
③「21世紀にむけて日本の「シビル・ソサエティ(市民社会)」の発展を促進する具体的な試み」であるという。
実際、「経済界も日本経団連1%クラブが中心となり、「ジャパン・プラットフォーム」を支援することを表明」した。この「プラットフォーム」はこのような人々によって運営され、このようなNGOが参加している。
上のことから確認できるのは、第一にJPFとは、「産官学連携」と同じく、日本の国家(外交)戦略を担い、「国益」を体現する「NGO」(「市民社会」)を育成するために、官(=外務省)主導でその「プラットフォーム」が形成されたことである。そして第二に、これも「産官学連携」と同様に、その資金フローの「恩恵」を受けるのは、日本のNGOの中のごくごく一部、極めて少数の政官財によって承認されたNGOに過ぎないことである。
JPFの「NGOユニット」を一瞥してわかるのは、JPFが欧米に拠点を持つ巨大な国際開発・人道・チャリティNGOの日本支部によって、その3分の1以上(半数近く)が占められていることだ。巨大な国際NGOの日本支部以外にも、「これってNGO?」と思うような「NGO」もいくつか見当たるが、これら国際NGOの日本支部の代表たちは、JPFを通じて得た資金を含めた日本国内の収益によって、日本の平均的NGOスタッフの年収の三倍以上の1200万円前後の年収を得ている(また、国際NGO内部のフタッフ間の年収格差の問題もある)。
もっと言えば--あまり一般には知られていないが--日本の血税と寄付がJPFを通じて「10万ドル、20万ドルは当たり前!」の国際NGOの本部スタッフの給与の一部にも「活用」されるという「資金フロー」がそこにはある。(一般に「チャリティ系」の「国際NGO」の場合、寄付総額の一割(以上)が「日本支部」の人件・維持費に消え、さらに一割(以上)が本部に「上納」される「システム」になっている。「一割」ですめば、まだ「良心的」な方だろうか。)
JPFは、「外務省ODA資金による基金の設置や、民間寄付の募集を通じて、財政的な基盤の弱い日本のNGOを資金的にサポートすることも目指しています」などと、まるで日本のNGOの救世主のようなカッコ良いことを、その「設立の背景」の中で述べている。しかし、設立後10年近くも経つというのに、実際にはそのような役割と機能をJPFは果していない。
例えば、日本には1987年に結成された国際協力分野で活動するNGO主体のネットワーク組織である「国際協力NGOセンター(JANIC)」がある。しかし、ピースウィンズを始めとするJPF構成団体も加盟しているこのJANICに集まる寄付総額は、「ハイチ復興緊急支援」において日本赤十字とほぼ同額の資金を集めた、すなわち、それだけ「資本フロー」があったJPFと比して雲泥の差がある。さらにJANIC自体が組織財政上、非常に厳しい状況に直面しているといった現実がある。
こうした日本的には規模の大きいNGOとそれ以外の「中小」のNGO間の「格差」はなぜ起こるのか。JANIC事務局長によれば、その背景には、
①「従来、政府や行政など「官」が税金を徴収し、その税を使って教育や福祉、ODAによる海外協力などを実施してき」たこと、
②「NPO法人は全国で40,947法人ありますが(2010年9月30日現在)、そのうち税額控除を受けられる認定NPO法人はわずか186法人(2010年11月1日現在、同)しか」ない、という現実がある。
つまり、JPFは①の構造に乗っかりながら、そのすべてが②の「税額控除を受けられる認定NPO法人」であるという、官と財の「認定」を受け、しかもその官財の国家・国際戦略を支持するベンチャー企業その他の中小企業からの寄付=「資金フロー」が形成されるという仕組みによって成立する「プラットフォーム」なのである。この「仕組み」を自明の理とし、NGOの「適者生存」を主張する人間のエリート主義とその差別主義の問題性は、もはや説明を要しないだろう。
「緊急・人道」プロジェクトに特化する国際NGOの「資金フロー」の問題、また国家(行政機構)による「NGOの認証」制度の問題性については、機会を改めて考えることにしたい。しかしJPFの問題点は、それらのみにあるのではない。問題は、「資金フロー」に強く規定される形で、この10年近く、JPFを構成するNGOが「人道復興支援」の名の下に米軍・NATO軍による対テロ戦争を「民」のレベルから「協力」=後方支援してきたJPFとしての活動を、NGOとして内部から変えてゆく力を発揮しなかった/できなかったばかりでなく、今後さらにその傾向を強めようとしていることにある。
例えば、ここに東京財団が、新米国安全保障センター(米国の軍産学複合体のシンクタンク。プロジェクト・メンバーに米軍の司令官が入っていることに注意)と行った「日米同盟の在り方に関する共同研究プロジェクト」の「報告書」、「「従来の約束」の刷新と「新しいフロンティア」の開拓:日米同盟と「自由で開かれた国際秩序」」がある(2010年10月27日)。
この「プロジェクト」は、プロジェクト・リーダーを船橋洋一(朝日新聞主筆)が務め、メンバーには、
添谷芳秀(慶応義塾大学教授、「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」メンバー)、
秋山信将(一橋大学大学院法学研究科および国際・公共政策大学院准教授)、
神保謙(慶応義塾大学総合政策学部准教授)、
中山俊宏(青山学院大学国際政治経済学部教授)等々の「東京財団学派」を中心とした人文・社会科学系の大学人が参加し、そのブレインとなっている。これに日本における「グローバル・シビリアン・パワー」を「代表」する者として大西健丞(ジャパン・プラットフォーム理事、ピースウィンズ・ジャパンおよびシヴィック・フォース・ジャパン代表理事)その他が参加した。
「「従来の約束」の刷新と「新しいフロンティア」の開拓:日米同盟と「自由で開かれた国際秩序」」は、菅民主党政権に対し、日本のNGOの育成のめぐって、次のような「提言」を行っている。
同盟の「新たなフロンティア」
・・・日米同盟の新たなフロンティアには、日本が「グローバル・シビリアン・パ ワー」としての強みを最大限に発揮しつつ日米同盟を活用すべき諸課題が広が っている。
まず、人道支援と災害救助である。2004年12月のスマトラ島 沖大地震の際には、米軍と自衛隊による災害および人道的危機への即時対応能力が示された。今後も、日米両国は相互運用性を高め、継続的な共同訓練や交流を進めるべきである。
その際、日米両国は民間セクターとの協力を拡大し、米軍と自衛隊はそれぞれ市民社会との対話を深めるべきである。とりわけ日本は、政府開発援助(ODA)との連携や市民セクターのノウハウを活用する「オール・ジャパン」体制での取り組みを図るべきである。
日米両国は、開発および援助においても世界で重要な役割を担っている。両国は、ODAや貿易・投資を通じて、経済成長だけではなく社会的安定に貢献し、破綻国家が化学・生物兵器や放射性および核物質の拡散や、国際テロ・犯罪組織の温床とならないよう貢献している。日米両国は、そのような協力と役割分担を調整するために、外交、防衛、開発援助の3省庁からなる「2+2+2」の創設を検討すべきである・・・。
・・・・・・・・
つまり、この「共同提言」において、これからのJPFは、日米安保軍が「災害および人道的危機」に対する「即時対応能力」と「相互運用性」を高めるのを、「市民社会」レベルでサポートする日本における「グローバル・シビリアン・パワー」として位置付けられているのである。
日本の「産官学連携」が軍産学複合体に発展することなどありえない、まして人文・社会科学系はいっさい無関係だと考えている人々は、自分のナイーブさ加減を、この日米「軍産学NGO複合体」の「共同提言」を読み、しっかり確認してもらいたい。
はたして、「日米同盟の新たなフロンティア」の開拓に「貢献」・奉仕するJPFの「NGOユニット」のような「NGO」の集合体を、私たちは〈NGO〉という名称によって定義することができる/すべきなのだろうか?
『国際貢献のウソ』
伊勢崎賢治は、『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書、2010)の中で「できない」「すべきではない」と断言している。私は、伊勢崎氏とは考え方が異なるところが多々あるが、この点についてはまったく同意見である。その理由を国家戦略(「軍民一体」)とNGOの「利益相反」という観点から考えてみよう。
三年前になるが、私は〈NGOと社会〉の会が主催した公開シンポジウムで、伊勢崎賢治氏やJPF代表理事と同席したことがある。
アフガニスタンにおける「軍民一体」(「民軍協力」?)の「人道復興支援」を問うたこのシンポジウムでのJPF代表理事の発言は、非常に歯切れが悪かった。また、もう一人参加した、ある国際NGOの人の発言は、正直言って何を話しているのか、何が言いたいのか、最後までさっぱり要領を得なかった。
JPF代表理事に関して言えば、どうしたことか、その後発表されたこのテーマをめぐる代表理事の論文を読む限り、未だに「歯切れ」が悪い。また、今春出版された『新しい国際協力論』(明石書店)という、学部教科書用に編集された本に収録された、ピースウィンズの海外事業部長、JPFの「事業統括」の経歴を持つ女性の「緊急人道支援から開発支援へ」という論文も、「イラク復興人道支援」や「アフガン復興人道支援」に対するJPFとしての総括的視点を何も述べていないという点において、強い違和感が残る作文になっている。
この女性は、「9.11テロ事件以降は、安全保障上の動機が強まり、緊急人道支援の軍事化、政治化の傾向も見られる」と、まるで他人事のように語っている。彼女が論じるべきは、米国、NATO諸国、そして日本政府による「緊急人道支援の軍事化、政治化」に対して、「非政府組織」=NGOとしてどのようなスタンスを取るべきか、その考察にあったのではなかったか。
「緊急人道支援から開発支援へ」と言うとき、「緊急人道支援」が「軍事化、政治化」しているのであるから、「開発支援」も当然、「軍事化、政治化」することになる。この人は、その現実を直視しようとしない。対テロ戦争の継続がイラク、アフガニスタン、パキスタンなどにおいて、数え切れない一般市民の虐殺と大量の難民を生み出してきた(いる)現実の只中において、JPFの「資金フロー」と「パトロン」の仕組みの中で自分(たち)の活動と生活が成り立っていた(いる)ことに頬かむりを決め込んでしまうのである。
国際NGOを「キャリア・ディベロプメント」の階梯の中に位置づけ、それを「ステップ」に大学に職場を求めてゆく人々が増えている。そうした人たちの上の世代には、「国際平和協力」の名の下に、米国で開発された「民軍協力」を日本に「応用」し、日本版「民軍協力」(自衛隊への協力)に日本の国際NGOを巻き込もうとする上杉勇司や山田満を始めとした一群の「平和構築」学者の存在がある(「実務派」上がりの伊勢崎賢治も、大きく言えば、そうした一群の大学人の中に入るのだが)。
産官学連携路線の下で、このような「スクール」を大学(院)に育成し、外務省・防衛省の「平和構築」戦略を担う「人材」養成が文科省の既定の方針としてあり、「国際協力」「開発」「NGO」論などの世界では、この方針に沿った「研究」以外には「助成」が下りず、科研費も取れない「仕組み」ができあがりつつある。この「仕組み」によって「鎖につながれた大学」がつくられ、、「見ざる、聞かざる、言わざる」の研究者が育成されることになる。
けれども、大学研究において本当に〈研究〉されるべきは、国家と国家連合による武力行使を正面から批判せず、むしろそれらを側面から支援し、一体化するような「平和構築」「開発」「NGO」論がこの10年あまりの間に、なぜかくも急激に大学の現場で台頭してきたのか、その生態進化学ではないだろうか。
戦争する国家、それを後方支援する国家、国際機関と「協働」し、国、経団連、巨大財団からの「資金フロー」と「パトロン」制度の形成によってプロジェクト展開費とスタッフの相対的高額所得を確保しようとする起業家的「NGO」論が大学研究・教育現場に蔓延したとして、それで日本の「市民社会」の成熟や、国家・官僚機構からの自立/自律にプラスになるようなことがあるとはとても思えない。
JPF代表理事やもう一人の国際NGOの人とは対照的に、伊勢崎氏の発言は単純明快だった。そして、今でも明快である。NGOは軍と「一体化」「協働」してはならない/できないと氏は明言したし、今でも明言しているからである(氏の主張に内包する矛盾については別の箇所で検討する)。
論点を明確にするために、国家とNGOの「利益相反」とは何かを先に定義しておこう。そのためには、「最先端融合科学」領域において産官学連携路線の最先端を突っ走る大阪大学の定義を参照するのが便利である。
「大阪大学利益相反管理委員会」によれば、「利益相反」の定義とはこうである。
「産学官連携の推進に伴い生ずる利益相反とは,大学の教職員等や大学自身が外部から得る経済的利益と大学における教育・研究上の責任が衝突する状況のこと」。
ではなぜ、このような「利益相反」が起こるのか? 阪大は次のように説明する。
「真理の探究を目的とした研究を行い,高等教育を行う大学と,営利の追求を目的とした活動を行う企業とは,その基本的な性格・役割を異にする」からである。
大学のことは後に述べるとして、この「利益相反」の概念をNGOに「応用」したらどうなるか?
⇒「惨事と軍隊(Disaster Militarism)」につづく
2010年11月12日金曜日
大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について
大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について
先週のことになるが、ある国際NGOの日本支部の人間が「日本の中小のNGOは淘汰されるべきだ」とツイッターで語っていたと、ある人から聞いた。私は、この発言は見過ごすことのできない忌々(ゆゆ)しき発言だと思う。
国連機関や政府機関の「助成」を受け、さらにはグローバル企業や巨大財団からの寄付を受け、本部常勤スタッフの年間所得が「10万ドル、20万ドルは当たり前!」の世界で生きている巨大な国際NGOが、ある国の「中小(弱小)NGOは淘汰されるべきだ」と言う。
これは国際NGOの鼻持ちならない、そして度し難いエリート主義の本音が、ツイッターという社会的責任性が即座には問われない媒体を通して、つい口から零れ落ちたものであると同時に、そのエリート主義と不可分一体としてある「社会ダーウィニズム」の思想を表現するものである、と私は考えている。「NGOの淘汰」を主張するこの人物は、一人の人間として自分が何様であるかを、まったく見失っているのである。
しかし、企業の世界に目を転じてみると、「資本力や経営力のない企業は淘汰されるべき」という「社会ダーウィニズム」の論理は、むしろ自明の理とされている。そして、この論理がさらに国立大学の「法人化」以降、大学業界の世界でも「自明の理」であるかのようにされてきた。こうした背景と時流から言えば、国際NGOで働く常勤スタッフが「NGOの淘汰」論を展開するようになったとしても、何ら驚くことではないということもできる。
「大学の淘汰」論とは、「このままゆけば大学は自然淘汰される」という客観的状況分析をそのまま述べる、というものではなく、むしろ淘汰を政策的に促進することによって、大学崩壊のドミノ現象を未然に防止する、という発想からなされてきた。こうした大学淘汰論を主張する人々は、NGO淘汰論を主張する国際NGOの常勤スタッフと同様に、自分の何様たるかを見失っていると言わざるをえない。
例えば、誰が言い出したのかは定かではないが、「少子高齢化」の加速度的進展によって統計学的に大学の経営危機が明らかになりつつあった1980年代の末期頃には「東大の私学化」や「大学院大学化」はすでに主張されていた。その発想においては、その他の旧帝大六大学や「その他雑多」な国立大学は切り捨てられるものとしてあったのである。「まともな検討対象」になっていたのは、せいぜい京大くらいのものだったろうか。
この時期、つまり20年前に、すでに後の「法人化」の青写真は完成していた。すなわち、東大の機構改革とカリキュラム再編成に基づく一般「教養課程」の廃絶、大学教授の大学院教授化⇒大学院研究・教育中心主義⇒学部教育の解体である。1990年代を通して、東大に続き京大その他の旧帝大、さらに医学部をもつその他の国公私立の「総合大学」がこれに続いた。いわゆる、「大学院教育の実質化」というやつである。
旧科学技術庁の下で、1990年代半ばに第一期「科学技術基本計画」が策定される。旧文部省と科技庁官僚(技官)は、シュムペンター張りの「創造的破壊」論とドラッカー張りの「組織経営」論を合体させ、バブル崩壊後の長期経済低迷期に突入した日本経済の活路を戦後日本の「イノベーション」⇒「上からの構造改革」に見出そうとした旧通産官僚の戦略構想に便乗するかたちで、「科学技術基本計画」を実現する「上からの大学構造改革」構想をまとめることになる。それが橋本行政改革とセットで打ち出された前世紀末期の国立大学の独立行政法人化だったのである。
けれども、この「法人化」構想とは、あくまでも旧帝大を中心とし、しかも医・理・工の大学院博士課程を持つ「総合大学」の「改革」を戦略目標に据えたものであったから、その煽りや皺寄せをそれ以外の「中小(弱小)」の大学(昔の「駅弁大学」や学生の入学金と授業料に大学経営を依存する私立大学)がモロに受け、国からの税配分と私学助成金が大幅に縮小傾向を辿る中で経営破綻状況に陥るのは--「続・大学を解体せよ」の前半部で述べたように--必然的事態だったのである。忘れてならないのは、官僚や大学経営者にとってみれば、こうなるのは実は20年以上前から目に見えていた、ということだ。彼(彼女)らは、星の数ほどある(900校弱?)短大を含む日本の国公私立大学を上から淘汰するために、大学の「自立化」(=大学予算・補助金・助成カット)を主張してきたのだから。
現在、こうした全国的な大学の経営危機を反映して、さまざまな論理を駆使して展開されている「大学の淘汰」論は、それが特に大学人から発せられる場合には、自己をも含めて現在の事態を招いたその責任主体がどこにあるのか、そのことを明確にせずに主張されているものが多いという意味で、悪質な議論だと私は思う。それは、国の大学行政と大学当局による大学運営の犠牲になっている者たちの当事者性と、その責任の一端を自ら担ってきた(いる)自らの当事者性を、ともに忘れた自己保身丸出しの議論だと言うべきではないだろうか。
話は元に戻るが、冒頭の「NGOの淘汰」論も、なぜ日本には「中小のNGO」が圧倒的に多いのか(というより、それが国際的にも主流であるが)、常勤スタップの一人さえまともに雇えない現実をもたらしてきた政府・官僚機構の「対NGO政策」の歴史性とその問題点を踏まえない議論である。そこには、「中小のNGO」から自分たちが「足を引っ張られる」ことを忌避したり、批判されることを恐れる意識が見え隠れする。さらに、「淘汰の対象」と自分が考えるNGOの活動を蔑視・軽視する差別的観念の表出であることの自覚もない。
本音を公的な場では決して語らない、そんなエリート主義剥き出しのNGOがいくら増えたところで、世界も日本も何も良くなることはないだろう。
ではなぜ、大学と国際NGOの世界で「社会ダーウィニズム」が台頭しているのか?
一言でその経済的要因を述べるなら、〈市場の狭隘化〉である。NGOで言えば、NGOという組織の存立に関わる会員という「市場」とその会員から期待できる会費と寄付の「市場」がデフレスパイラルの中で狭隘化し、官僚機構によるNGOに対する規制と相まってその開拓が非常に厳しくなっていること、大学で言えば、少子化に伴う学生の国内「市場」の狭隘化、そして留学生争奪戦が国内大学間のみならず、日本の大学と欧米・オーストラリアなど大学との間でもいっそう熾烈になってきていることが指摘できる(拙著『大学を解体せよ』の「第四章 大学の国際戦略」を参照のこと)。しかし、こうした「経済的要因」が本質的な問題でないことは、追々明らかになるだろう。
一見、大学と国際NGOの動向は、それぞれ違う世界(業界)の、相互に無関係な現象であるかのように思いがちになる。しかし、いずれもポスト冷戦時代の国際政治経済の変化に対応を迫られ、自己調節をはかりながら、それによって国家からの自律性をより喪失する、という点では見事な共通点を持っている。
つまり、大学業界における「産官学連携」⇒軍産学複合体形成に向けた軌跡も、NGOの世界における「産官NGO連携」⇒「軍民一体化」に向けた軌跡も、その規模の大きさの違いを別にすれば、前世紀末期から今世紀の対テロ戦争への突入という同じ時期に起こり、しかも同じ論理によって正当化されてきたのである。この過程において、大学とNGO、二つの業界を支配してきたものこそ「オール・ジャパン」の形成という言説だったのである。
⇒国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
「批評する工房のパレット」内参考ページ
⇒「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」
先週のことになるが、ある国際NGOの日本支部の人間が「日本の中小のNGOは淘汰されるべきだ」とツイッターで語っていたと、ある人から聞いた。私は、この発言は見過ごすことのできない忌々(ゆゆ)しき発言だと思う。
国連機関や政府機関の「助成」を受け、さらにはグローバル企業や巨大財団からの寄付を受け、本部常勤スタッフの年間所得が「10万ドル、20万ドルは当たり前!」の世界で生きている巨大な国際NGOが、ある国の「中小(弱小)NGOは淘汰されるべきだ」と言う。
これは国際NGOの鼻持ちならない、そして度し難いエリート主義の本音が、ツイッターという社会的責任性が即座には問われない媒体を通して、つい口から零れ落ちたものであると同時に、そのエリート主義と不可分一体としてある「社会ダーウィニズム」の思想を表現するものである、と私は考えている。「NGOの淘汰」を主張するこの人物は、一人の人間として自分が何様であるかを、まったく見失っているのである。
しかし、企業の世界に目を転じてみると、「資本力や経営力のない企業は淘汰されるべき」という「社会ダーウィニズム」の論理は、むしろ自明の理とされている。そして、この論理がさらに国立大学の「法人化」以降、大学業界の世界でも「自明の理」であるかのようにされてきた。こうした背景と時流から言えば、国際NGOで働く常勤スタッフが「NGOの淘汰」論を展開するようになったとしても、何ら驚くことではないということもできる。
「大学の淘汰」論とは、「このままゆけば大学は自然淘汰される」という客観的状況分析をそのまま述べる、というものではなく、むしろ淘汰を政策的に促進することによって、大学崩壊のドミノ現象を未然に防止する、という発想からなされてきた。こうした大学淘汰論を主張する人々は、NGO淘汰論を主張する国際NGOの常勤スタッフと同様に、自分の何様たるかを見失っていると言わざるをえない。
例えば、誰が言い出したのかは定かではないが、「少子高齢化」の加速度的進展によって統計学的に大学の経営危機が明らかになりつつあった1980年代の末期頃には「東大の私学化」や「大学院大学化」はすでに主張されていた。その発想においては、その他の旧帝大六大学や「その他雑多」な国立大学は切り捨てられるものとしてあったのである。「まともな検討対象」になっていたのは、せいぜい京大くらいのものだったろうか。
この時期、つまり20年前に、すでに後の「法人化」の青写真は完成していた。すなわち、東大の機構改革とカリキュラム再編成に基づく一般「教養課程」の廃絶、大学教授の大学院教授化⇒大学院研究・教育中心主義⇒学部教育の解体である。1990年代を通して、東大に続き京大その他の旧帝大、さらに医学部をもつその他の国公私立の「総合大学」がこれに続いた。いわゆる、「大学院教育の実質化」というやつである。
旧科学技術庁の下で、1990年代半ばに第一期「科学技術基本計画」が策定される。旧文部省と科技庁官僚(技官)は、シュムペンター張りの「創造的破壊」論とドラッカー張りの「組織経営」論を合体させ、バブル崩壊後の長期経済低迷期に突入した日本経済の活路を戦後日本の「イノベーション」⇒「上からの構造改革」に見出そうとした旧通産官僚の戦略構想に便乗するかたちで、「科学技術基本計画」を実現する「上からの大学構造改革」構想をまとめることになる。それが橋本行政改革とセットで打ち出された前世紀末期の国立大学の独立行政法人化だったのである。
けれども、この「法人化」構想とは、あくまでも旧帝大を中心とし、しかも医・理・工の大学院博士課程を持つ「総合大学」の「改革」を戦略目標に据えたものであったから、その煽りや皺寄せをそれ以外の「中小(弱小)」の大学(昔の「駅弁大学」や学生の入学金と授業料に大学経営を依存する私立大学)がモロに受け、国からの税配分と私学助成金が大幅に縮小傾向を辿る中で経営破綻状況に陥るのは--「続・大学を解体せよ」の前半部で述べたように--必然的事態だったのである。忘れてならないのは、官僚や大学経営者にとってみれば、こうなるのは実は20年以上前から目に見えていた、ということだ。彼(彼女)らは、星の数ほどある(900校弱?)短大を含む日本の国公私立大学を上から淘汰するために、大学の「自立化」(=大学予算・補助金・助成カット)を主張してきたのだから。
現在、こうした全国的な大学の経営危機を反映して、さまざまな論理を駆使して展開されている「大学の淘汰」論は、それが特に大学人から発せられる場合には、自己をも含めて現在の事態を招いたその責任主体がどこにあるのか、そのことを明確にせずに主張されているものが多いという意味で、悪質な議論だと私は思う。それは、国の大学行政と大学当局による大学運営の犠牲になっている者たちの当事者性と、その責任の一端を自ら担ってきた(いる)自らの当事者性を、ともに忘れた自己保身丸出しの議論だと言うべきではないだろうか。
話は元に戻るが、冒頭の「NGOの淘汰」論も、なぜ日本には「中小のNGO」が圧倒的に多いのか(というより、それが国際的にも主流であるが)、常勤スタップの一人さえまともに雇えない現実をもたらしてきた政府・官僚機構の「対NGO政策」の歴史性とその問題点を踏まえない議論である。そこには、「中小のNGO」から自分たちが「足を引っ張られる」ことを忌避したり、批判されることを恐れる意識が見え隠れする。さらに、「淘汰の対象」と自分が考えるNGOの活動を蔑視・軽視する差別的観念の表出であることの自覚もない。
本音を公的な場では決して語らない、そんなエリート主義剥き出しのNGOがいくら増えたところで、世界も日本も何も良くなることはないだろう。
ではなぜ、大学と国際NGOの世界で「社会ダーウィニズム」が台頭しているのか?
一言でその経済的要因を述べるなら、〈市場の狭隘化〉である。NGOで言えば、NGOという組織の存立に関わる会員という「市場」とその会員から期待できる会費と寄付の「市場」がデフレスパイラルの中で狭隘化し、官僚機構によるNGOに対する規制と相まってその開拓が非常に厳しくなっていること、大学で言えば、少子化に伴う学生の国内「市場」の狭隘化、そして留学生争奪戦が国内大学間のみならず、日本の大学と欧米・オーストラリアなど大学との間でもいっそう熾烈になってきていることが指摘できる(拙著『大学を解体せよ』の「第四章 大学の国際戦略」を参照のこと)。しかし、こうした「経済的要因」が本質的な問題でないことは、追々明らかになるだろう。
一見、大学と国際NGOの動向は、それぞれ違う世界(業界)の、相互に無関係な現象であるかのように思いがちになる。しかし、いずれもポスト冷戦時代の国際政治経済の変化に対応を迫られ、自己調節をはかりながら、それによって国家からの自律性をより喪失する、という点では見事な共通点を持っている。
つまり、大学業界における「産官学連携」⇒軍産学複合体形成に向けた軌跡も、NGOの世界における「産官NGO連携」⇒「軍民一体化」に向けた軌跡も、その規模の大きさの違いを別にすれば、前世紀末期から今世紀の対テロ戦争への突入という同じ時期に起こり、しかも同じ論理によって正当化されてきたのである。この過程において、大学とNGO、二つの業界を支配してきたものこそ「オール・ジャパン」の形成という言説だったのである。
⇒国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
「批評する工房のパレット」内参考ページ
⇒「続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために」
2010年11月9日火曜日
12/11シンポジウム 「平和構築」は平和を創造するか?~「平和構築」とNGOの役割~
12/11シンポジウム
「平和構築」は平和を創造するか?~「平和構築」とNGOの役割~
日本政府や国連が推進する「平和構築」。
総理大臣の諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」*も、今年8月発表の報告書の中で「平和創造国家」日本を目指すべきだとし、「国際平和協力活動の現場でも、NGOとの民軍協力を具体的に積み上げ、オール・ジャパンの平和構築能力を高めていくべき」と提言しています(提言は「新防衛計画大綱」に盛り込まれる予定)。
さらに報告書はPKO参加5原則についても、停戦合意、受け入れ同意、中立性の三つの原則は「平和創造国家として日本が応分の貢献を行う上での障碍となる」と述べ、「PKO活動に参加している他国の活動に対する後方支援もまた、「武力の行使との一体化」とは無関係であり、自衛隊の任務として当然認められるべきである」と提言しています。
しかし、アフガニスタンでは「平和構築」を掲げた人道支援、「復興」・開発活動の一方で、対テロ戦争を継続するという根本的に矛盾した状況が続いています。「平和構築」の名の下、実際には何が起きているのでしょうか?
シンポジウムでは、国家と国際機関による「平和構築」の問題点、そしてその中でNGOが直面している課題と果たしている/負わされている役割について、アフガニスタンやパレスチナの例を取り上げて考えます。また、バングラデシュで軍隊による弾圧の下、権利と尊厳を求め続けている先住民族の視点を通じて、平和維持の任務を負ったPKO派遣兵士による人権侵害を取り上げながら、「平和構築」と軍隊の関係についても考えます。
*「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/shin-ampobouei2010/
【日時】12月11日(土) 午後2時~5時(開場午後1時半)
【場所】明治学院大学白金校舎 2号館2102教室
東京都港区白金台1-2-37(東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線「白金台」
または「白金高輪」徒歩7分、都営浅草線「高輪台」徒歩7分)
地図:http://www.meijigakuin.ac.jp/access/shirokane.pdf
【スピーカー】
役重 善洋(パレスチナの平和を考える会)
下澤 嶽(ジュマ・ネット)
長谷部 貴俊(日本国際ボランティアセンター[JVC]アフガニスタン現地代表)
【コメンテーター】
平山 恵(明治学院大学国際平和研究所)
佐伯 奈津子(インドネシア民主化支援ネットワーク)
【主催】
明治学院大学国際平和研究所(PRIME)、<NGOと社会>の会、ジュマ・ネット
【参加費】無料
【お申込み・お問合せ】 準備のため、できるだけ事前にお申込み下さい。当日参加も可能です。メールまたはFAXにて、件名に「12/11国際シンポ申込み」とご記入の上、お名前、ご所属(または学籍番号)、連絡先をお伝え下さい。
明治学院大学国際平和研究所(PRIME)
E-mail: prime@prime.meijigakuin.ac.jp
TEL:03-5421-5652 FAX: 03-5421-5653
「平和構築」は平和を創造するか?~「平和構築」とNGOの役割~
日本政府や国連が推進する「平和構築」。
総理大臣の諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」*も、今年8月発表の報告書の中で「平和創造国家」日本を目指すべきだとし、「国際平和協力活動の現場でも、NGOとの民軍協力を具体的に積み上げ、オール・ジャパンの平和構築能力を高めていくべき」と提言しています(提言は「新防衛計画大綱」に盛り込まれる予定)。
さらに報告書はPKO参加5原則についても、停戦合意、受け入れ同意、中立性の三つの原則は「平和創造国家として日本が応分の貢献を行う上での障碍となる」と述べ、「PKO活動に参加している他国の活動に対する後方支援もまた、「武力の行使との一体化」とは無関係であり、自衛隊の任務として当然認められるべきである」と提言しています。
しかし、アフガニスタンでは「平和構築」を掲げた人道支援、「復興」・開発活動の一方で、対テロ戦争を継続するという根本的に矛盾した状況が続いています。「平和構築」の名の下、実際には何が起きているのでしょうか?
シンポジウムでは、国家と国際機関による「平和構築」の問題点、そしてその中でNGOが直面している課題と果たしている/負わされている役割について、アフガニスタンやパレスチナの例を取り上げて考えます。また、バングラデシュで軍隊による弾圧の下、権利と尊厳を求め続けている先住民族の視点を通じて、平和維持の任務を負ったPKO派遣兵士による人権侵害を取り上げながら、「平和構築」と軍隊の関係についても考えます。
*「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/shin-ampobouei2010/
【日時】12月11日(土) 午後2時~5時(開場午後1時半)
【場所】明治学院大学白金校舎 2号館2102教室
東京都港区白金台1-2-37(東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線「白金台」
または「白金高輪」徒歩7分、都営浅草線「高輪台」徒歩7分)
地図:http://www.meijigakuin.ac.jp/access/shirokane.pdf
【スピーカー】
役重 善洋(パレスチナの平和を考える会)
下澤 嶽(ジュマ・ネット)
長谷部 貴俊(日本国際ボランティアセンター[JVC]アフガニスタン現地代表)
【コメンテーター】
平山 恵(明治学院大学国際平和研究所)
佐伯 奈津子(インドネシア民主化支援ネットワーク)
【主催】
明治学院大学国際平和研究所(PRIME)、<NGOと社会>の会、ジュマ・ネット
【参加費】無料
【お申込み・お問合せ】 準備のため、できるだけ事前にお申込み下さい。当日参加も可能です。メールまたはFAXにて、件名に「12/11国際シンポ申込み」とご記入の上、お名前、ご所属(または学籍番号)、連絡先をお伝え下さい。
明治学院大学国際平和研究所(PRIME)
E-mail: prime@prime.meijigakuin.ac.jp
TEL:03-5421-5652 FAX: 03-5421-5653
2010年11月6日土曜日
対テロ戦争と自衛隊のアフガニスタン「派遣」--民主党のアフガン政策を批判する
対テロ戦争と自衛隊のアフガニスタン「派遣」--民主党のアフガン政策を批判する
11/21/2010 更新
11月18日、リスボン(ポルトガル)で行われたNATOサミットに対し、アフガニスタンからのNATO軍の即時撤退を求めて「ダイ・イン」を行う人々(PressTVのPeace activists stage anti-NATO protestより)。 ポルトガル政府は総計42名を逮捕。ロイターのAlertNetは、厳戒態勢の中、約1万人が抗議行動に参加したと報道。。なお、抗議行動のビデオ・クリップはindymedia.portugalで観ることができる。
リスボンでの行動に呼応する形で、各地でオバマ政権のアフガン政策を批判し、米軍・NATO軍の即時撤退を要求する抗議行動が波状的に展開された。一例を挙げると、イギリスのロンドンでは、11月29日、リスボンと同じく1万人にのぼる人々がハイド・パークに集い、トラファルガー・スクウェアまでデモ行進をした。
一方、オバマ政権はアフガニスタンにおける無人爆撃機による空爆を激化させ(空爆は今年、すでに1000回を超えている)、初の戦車部隊の投入を決定した。
・・・・・・・
読売新聞(11/5付)によると、菅政権は11月5日、「自衛隊の医官と看護官ら約10人を年内にもアフガニスタンに派遣する検討を始めた」という。「米国の要請に応えたアフガン復興の人的支援策の一環として、現地の医療機関で教育訓練の講師として活動させる方針だ。自衛官のアフガン派遣は、駐在武官を除けば初めてとなる」。
自衛隊のアフガン「派遣」問題は、7月の参院選挙後、にわかにその具体化に向けた動きが活発化した。読売新聞は、「今回の派遣は急ぐ必要があるため、法改正や新法制定は行わず、防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する方向だ。憲法違反とされる「武力行使との一体化」という批判を避けるため、アフガンに展開している国際治安支援部隊(ISAF)とは別個に活動する」と報じているが(2010年11月6日付)、「駐在武官を除けば初めてとなる」自衛隊のアフガン「派遣」をめぐる、こうした政策決定に向けたやり方のどこに問題があるのかについては何も報道しない。
読売新聞の記事を読むだけでも、菅政権、というよりは外務・防衛官僚による今回の自衛隊のアフガン「派遣」の方針決定が、いかに問題が多い決定であるかがうかがえる。
まず第一に、「現地の医療機関で教育訓練の講師」をするのに、なぜ自衛隊の「医官と看護官」が「派遣」されねばならないのか。何も理由がわからない。
「アフガン復興の人的支援策」とは、自衛隊の、自衛隊による「策」のことなのか。「民間」の医師や看護士を派遣できないのは、アフガニスタンの現地情勢が「安全」ではないからだろうか。それなら、そんな「安全」ではない国に、「「医官と看護官」であれなぜ血税を使って自衛隊を「派遣」するのか。それは武装した自衛隊を次に派兵するための「先遣隊」なのか?
野党はこれらについて国会でしっかり追及すべきであるし、ジャーナリズムもその内容を報道すべきである。
第二に、なぜ「米国の要請を受けて」この方針決定がなされねばならないのか。これはブッシュが始めた対テロ戦争と一体化する自公政権の安保・外交政策を「日本としての主体性なき、対米追随路線」と口をきわめて批判し、それからの転換を公言してきた民主党自身の従来の主張を自ら裏切るものではないのか。
「現地の医療機関」の運営主体は、アフガニスタン政府であるはずだ。だとしたら、日本の対アフガン支援は米国(米軍)の要請ではなく、アフガニスタン政府、あるいはアフガニスタンで医療活動を展開する国連ミッションからの「要請」を受け、その内容を公表してから検討に入るべきである。日米同盟と日米安保との関係を基軸に、日本のアフガン支援の内容を決定する、ということ自体が本末転倒しているのである。
弟三に、「今回の派遣は急ぐ必要があるため、法改正や新法制定は行わず、防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する」というのは、まったくの欺瞞であり、詭弁である。
「駐在武官を除けば初めてとなる」自衛隊のアフガン「派遣」を「急ぐ必要」なんてあろうはずがないし、むしろ急いではならないのである。「防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する」ことが許されるのであれば、たとえ他国の軍隊や多国籍軍が武力行使をしている国や地域であっても、自衛隊はどこにでも「派遣」できることになるではないか。
さらに言えば、もしもそのような「措置」が「法改正や新法制定」を行わずして実行できるのであれば、いったい「憲法九条二項を改廃せよ」「憲法九条を守れ」といった改憲や護憲を言い争うことの意味は、どこにあるのというのだろう。
第四に、読売新聞は、今回の方針決定が「憲法違反とされる「武力行使との一体化」という批判を避けるため、アフガンに展開している国際治安支援部隊(ISAF)とは別個に活動する」と、あたかも自衛隊が国際治安支援軍(ISAF)とは「別個に活動する」、だから「憲法違反」ではないかのように報じているが、これもまったくの欺瞞であり、詭弁である。
まず私たちは、ISAFを国際治安支援「部隊」と翻訳する欺瞞自体を改め、これを「治安維持」のみならずタリバーンを始めとした武装勢力との戦闘行為を行い、多数の一般市民の虐殺を行ってきたNATO軍を中軸とした「国際対テロ戦争支援軍」であることを確認する必要がある。そして、ISAFの主要任務とされる「地域復興チーム」(PRT)の「治安維持」活動を主に担っているのが米軍であることを次に確認しておかねばならないだろう。
つまり、菅政権と外務・防衛官僚は、アフガニスタンに地上「派遣」される自衛隊が、米軍やISAFの直接的な指揮下に入らないことをもって他国の軍隊の武力行使と「一体化」しない口実としているが、自衛隊が米軍やNATO軍の作戦展開と連携・調整しながら活動展開することは明白であり、直接的に武力行使と「一体化」しない→合憲という解釈そのものが欺瞞であり、詭弁だということである。
今回の方針決定は、普天間問題の「解決」を引き延ばさざるをえなくなり、その結果、オバマとの新たな日米共同宣言を発表することができなくなった菅政権が、その代替として日本の「対米協力」をアピールするために打ち出した、熟慮のかけらもみられない、きわめて拙速な愚策だと言わねばならない。これにストップをかける運動と議論を巻き起こすことが求められている。
11/21/2010 更新
11月18日、リスボン(ポルトガル)で行われたNATOサミットに対し、アフガニスタンからのNATO軍の即時撤退を求めて「ダイ・イン」を行う人々(PressTVのPeace activists stage anti-NATO protestより)。 ポルトガル政府は総計42名を逮捕。ロイターのAlertNetは、厳戒態勢の中、約1万人が抗議行動に参加したと報道。。なお、抗議行動のビデオ・クリップはindymedia.portugalで観ることができる。
リスボンでの行動に呼応する形で、各地でオバマ政権のアフガン政策を批判し、米軍・NATO軍の即時撤退を要求する抗議行動が波状的に展開された。一例を挙げると、イギリスのロンドンでは、11月29日、リスボンと同じく1万人にのぼる人々がハイド・パークに集い、トラファルガー・スクウェアまでデモ行進をした。
一方、オバマ政権はアフガニスタンにおける無人爆撃機による空爆を激化させ(空爆は今年、すでに1000回を超えている)、初の戦車部隊の投入を決定した。
・・・・・・・
読売新聞(11/5付)によると、菅政権は11月5日、「自衛隊の医官と看護官ら約10人を年内にもアフガニスタンに派遣する検討を始めた」という。「米国の要請に応えたアフガン復興の人的支援策の一環として、現地の医療機関で教育訓練の講師として活動させる方針だ。自衛官のアフガン派遣は、駐在武官を除けば初めてとなる」。
自衛隊のアフガン「派遣」問題は、7月の参院選挙後、にわかにその具体化に向けた動きが活発化した。読売新聞は、「今回の派遣は急ぐ必要があるため、法改正や新法制定は行わず、防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する方向だ。憲法違反とされる「武力行使との一体化」という批判を避けるため、アフガンに展開している国際治安支援部隊(ISAF)とは別個に活動する」と報じているが(2010年11月6日付)、「駐在武官を除けば初めてとなる」自衛隊のアフガン「派遣」をめぐる、こうした政策決定に向けたやり方のどこに問題があるのかについては何も報道しない。
読売新聞の記事を読むだけでも、菅政権、というよりは外務・防衛官僚による今回の自衛隊のアフガン「派遣」の方針決定が、いかに問題が多い決定であるかがうかがえる。
まず第一に、「現地の医療機関で教育訓練の講師」をするのに、なぜ自衛隊の「医官と看護官」が「派遣」されねばならないのか。何も理由がわからない。
「アフガン復興の人的支援策」とは、自衛隊の、自衛隊による「策」のことなのか。「民間」の医師や看護士を派遣できないのは、アフガニスタンの現地情勢が「安全」ではないからだろうか。それなら、そんな「安全」ではない国に、「「医官と看護官」であれなぜ血税を使って自衛隊を「派遣」するのか。それは武装した自衛隊を次に派兵するための「先遣隊」なのか?
野党はこれらについて国会でしっかり追及すべきであるし、ジャーナリズムもその内容を報道すべきである。
第二に、なぜ「米国の要請を受けて」この方針決定がなされねばならないのか。これはブッシュが始めた対テロ戦争と一体化する自公政権の安保・外交政策を「日本としての主体性なき、対米追随路線」と口をきわめて批判し、それからの転換を公言してきた民主党自身の従来の主張を自ら裏切るものではないのか。
「現地の医療機関」の運営主体は、アフガニスタン政府であるはずだ。だとしたら、日本の対アフガン支援は米国(米軍)の要請ではなく、アフガニスタン政府、あるいはアフガニスタンで医療活動を展開する国連ミッションからの「要請」を受け、その内容を公表してから検討に入るべきである。日米同盟と日米安保との関係を基軸に、日本のアフガン支援の内容を決定する、ということ自体が本末転倒しているのである。
弟三に、「今回の派遣は急ぐ必要があるため、法改正や新法制定は行わず、防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する」というのは、まったくの欺瞞であり、詭弁である。
「駐在武官を除けば初めてとなる」自衛隊のアフガン「派遣」を「急ぐ必要」なんてあろうはずがないし、むしろ急いではならないのである。「防衛省設置法で自衛官の任務と定める「教育訓練」として実施する」ことが許されるのであれば、たとえ他国の軍隊や多国籍軍が武力行使をしている国や地域であっても、自衛隊はどこにでも「派遣」できることになるではないか。
さらに言えば、もしもそのような「措置」が「法改正や新法制定」を行わずして実行できるのであれば、いったい「憲法九条二項を改廃せよ」「憲法九条を守れ」といった改憲や護憲を言い争うことの意味は、どこにあるのというのだろう。
第四に、読売新聞は、今回の方針決定が「憲法違反とされる「武力行使との一体化」という批判を避けるため、アフガンに展開している国際治安支援部隊(ISAF)とは別個に活動する」と、あたかも自衛隊が国際治安支援軍(ISAF)とは「別個に活動する」、だから「憲法違反」ではないかのように報じているが、これもまったくの欺瞞であり、詭弁である。
まず私たちは、ISAFを国際治安支援「部隊」と翻訳する欺瞞自体を改め、これを「治安維持」のみならずタリバーンを始めとした武装勢力との戦闘行為を行い、多数の一般市民の虐殺を行ってきたNATO軍を中軸とした「国際対テロ戦争支援軍」であることを確認する必要がある。そして、ISAFの主要任務とされる「地域復興チーム」(PRT)の「治安維持」活動を主に担っているのが米軍であることを次に確認しておかねばならないだろう。
つまり、菅政権と外務・防衛官僚は、アフガニスタンに地上「派遣」される自衛隊が、米軍やISAFの直接的な指揮下に入らないことをもって他国の軍隊の武力行使と「一体化」しない口実としているが、自衛隊が米軍やNATO軍の作戦展開と連携・調整しながら活動展開することは明白であり、直接的に武力行使と「一体化」しない→合憲という解釈そのものが欺瞞であり、詭弁だということである。
今回の方針決定は、普天間問題の「解決」を引き延ばさざるをえなくなり、その結果、オバマとの新たな日米共同宣言を発表することができなくなった菅政権が、その代替として日本の「対米協力」をアピールするために打ち出した、熟慮のかけらもみられない、きわめて拙速な愚策だと言わねばならない。これにストップをかける運動と議論を巻き起こすことが求められている。
2010年11月2日火曜日
続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために
続・大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために
1
三年前に『大学を解体せよ』(現代書館)を出版した。この本にも関連する、とても気になる新聞報道が昨日、今日(2010年11月1日、2日)と二つあった。いずれも朝日新聞の記事である。
一つは、国立大学協会(会長=浜田純一・東大総長)が、11月1日、高知市内で総会を開き、2011年度の予算編成で削減のおそれがある運営費交付金などを確保するよう、政府に要望する決議をまとめたことだ。
運営費交付金は、国立大学の予算の半分以上を占める大学がほとんどで、しかも近年金額が減少傾向にある。医学部や理工系大学院のない大学は、とくに厳しい財政状況に直面している。来年度の予算編成では、1兆円超の特別枠を各省庁が競うため、さらに減額される可能性がある、ということで国立大学の経営陣が危機感を強めたのだ。朝日新聞によれば、国大協の決議には予算削減によって「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などと書かれているという。
もう一つは、今日付けの記事、「国立研究機関構想に蓮舫氏「焼け太り」 文科省を批判」である。
朝日新聞によると、「研究開発の独立行政法人(独法)を統合する「国立研究開発機関」構想に、蓮舫行政刷新相が「待った」をかけている」という。
なぜか? この「構想」が「省庁の縦割りを廃し、効率的な研究を可能にすることを理由に文部科学省などが検討している」からであるが、「独法の人員や予算などを見直す基準を策定中の行政刷新会議はこれを「文科省の焼け太り作戦だ」と反発している」のである。
「国立研究開発機関構想」とは、「理化学研究所や宇宙航空研究開発機構など38法人を再編し、新組織へ移行させるというもの」。「関係する9府省の副大臣らでつくる「研究開発に関する検討チーム」が4月に策定した中間報告に盛り込まれた。海江田万里・科学技術政策相も設置法案を来年の通常国会に提出する考えを示している」。
周知のように、行政刷新会議は、4月と5月に研究開発関連の独法などを対象とした「事業仕分け第2弾」を実施した。そして、「年度内に独法全体の体制を見直す基準を策定する予定」になっている。だから同会議関係者は、上の「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」と批判しているのである。
なぜか? 「研究開発に関する検討チーム」が策定した「中間報告」が「資金の繰り越しなど予算執行を柔軟にする」としたことについて、「38法人の業務内容や人件費の総額を減らす指摘もなく、青天井の予算獲得を狙っているのではないか」と行政刷新会議は警戒しているのである。
朝日新聞は、10月24日に首相公邸であった閣僚勉強会の席上、蓮舫氏が「科学技術予算の効率的な戦略が必要だ。文科省ではなく、総理を長とした内閣で予算編成を行うべきだ」と提案し、「文科省主導の流れを牽制」したことを伝えている。そして、2日夕に開かれた検討チームの会合に、「仕分け人でもある寺田学首相補佐官を送り込み、設置法案の提出阻止を狙っている」という。
2
まず、前者の問題、国立大学の運営費交付金の増額問題について言えば、これを増額したところで今の日本の大学、もっと言えば大学を頂点とする教育制度がかかえる問題群の何らの解決にもつながらない。
にもかかわらず、国立大学の経営陣が、増額しなければ「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などという論理をもってそれを正当化していることが、問題の本質を見えなくさせているのである。
また、後者の問題については、「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」という分析や「構想」に対する批判は正しい。しかし、蓮舫氏の敗北は目に見えている。民主党には「総理を長とした内閣で予算編成を行う」能力も度量もないからだ。
民主党によるこの一年間の政権運営をみてはっきりしたことは、「官僚主導から政治主導へ」をスローガンにしてきた民主党は、官僚機構のサボタージュ・巻き返しによって、再び自公政権時と変わらぬ「官僚主導」の政権運営に舞い戻ってしまったことである。
その根拠はとても単純なことで、もしも民主党が「総理を長とした内閣で予算編成を行う」ことを本気で追求するのであれば、財務省の抜本的構造・機構改革を含む、現官僚機構に与えている法的権限を法改正を通じて解体するのでなければ不可能であり、民主党はそこまで踏み込むことを放棄してしまったからである。
国立大学の運営費交付金問題、また日本の科学技術政策と大学制度との関係の問題は、先にも述べたように『大学を解体せよ』(現代書館)のメインテーマだったと言ってよい問題である。『大学を解体せよ』は、文部科学省の支配/統治からの自治と自律を戦略的に思考しない日本の大学経営・運営のあり方やその制度的欠陥を、大学教育「サーヴィス」に税金を払っている納税者、子どもを大学に進学させている「保護者」、つまりは「消費者」の視点から考えようとするものだった。けれども、出版から四年近くを経て、事態はさらに悪化しているようにみえる。
ところで、拙著の中で予想した通り『大学を解体せよ』は大学研究者・教育者の中で黙殺されてきた。この書を評価していただいたのは、『週刊読書人」(2007年4月27日号)に「画期的な大学論--「自律的な社会の構築」に向けて」を書いていただいた桑田禮彰さんほか、ごく限られた人々しかいない。また最近、とある大学の法学部の教授から、拙著を評価する手紙をいただいたが、現在の日本のアカデミズムの世界では大学の「制度改革」さえ死語と化し、大学のみならずそれを支える大学人もサバイバル・ゲームにやっきになっている観がある。
私自身、大学を職場とする友人・知人が多い。だから、「大学解体」を主張することは、決して心地よいことではない。しかし、いったいどのようにすれば、現代教育の歪みと矛盾の象徴たる既存の大学制度を解体することができるのか・・・。これを構想することは、戦後の官僚制国家日本からの「市民社会」の自律(オートノミー)を考える上でも、避けて通ることのできない重大問題である。
未だに旧帝大七大学と旧国立「一期」大学、そして早慶をはじめとする一部私立大学を中軸に改革さえ放棄した再編成が進行する大学制度を放置して、国立大学への血税の配分を今より大きくしたところで、これまでがそうであったように、その恩恵を受けるのはごく一部の偏差値上位大学のみである。
参考サイト
・「運営費交付金から見る国立大学ランキング」(国立大学職員日記より)
・国公私立大学を通じた大学教育改革の支援
3
自治なき大学は自壊する
はるか昔、私が都内のとある国立大学の学生だった頃、とても驚いたことがある。それは一言で言えば、国立大学はもとより、日本の大学にはおよそ「自治」や「学問の自由 アカデミック・フリーダム」など存在しない、ということだった。
国立大学は、当時の文部省という行政組織の「延長」組織として位置付けられ、学部学科新設・学生定員・施設建設など、大学運営の根幹に関わるすべてのことが文部省「大学局」の「指導」を仰がなければ何も決定できなかったからである。逆に、文部省が大学運営上の「方針」として決定したことを、大学の教授会で覆すなどということは、ありえないことと考えられていた。
このことは、国立大学の総長・学長以下、教授・助教授・講師などの教員や職員は国家公務員(公立大学は地方公務員)と事実上、同じであるということを意味し、事実、私が学生証を持っていた大学の教授たちも--今と比較すれば、「自由度」はかなりあったとは思うが--そのような意識を持っていた。日本の学者の多くから「インテリゲンチャ」と言うよりは、公務員・サラリーマンと言った印象を受けるのも、ここに原因があるのではないかと私は考えていたほどである。
私立大学の教員・職員の場合は、学校法人という組織を媒介して政府・文部省との関係性が規定されることになるが、学校法人が文部省の管轄下に置かれ、その「指導」の下で運営されていたのであるから、間接的な形態にはなるが、自治など存在しないことは国公立大学と同様である。
もちろんタテマエとしては、大学には「自治」があり、「学問の自由」も「保障」されている、ということになっていた。しかし、予算をはじめとする大学運営に関して文部省に最終的な「承認」を得る/文部省が最終的な「決定権」を握っている、という状況において、タテマエとしての「大学の自治」など見かけ倒しもはなはだしい。 言うまでもなく、そんな日本の大学に「学生の自治」などあろうはずもない。〈私たち〉はいったい何をやっていたのだろう?、と今更ながらに「忸怩たる思い」がする。
ともあれ〈私たち〉は、ある研究棟の新設問題に端を発した問題を通して、こうした「国立大学」とその教授たちの意識のあり方の実態を知ることになるのだが、当時も今も、この構造は何も変わっていない。いや、大学人自身が何も変えようとしてこなかった結果が、六年前の国立大学の「法人化」以降に噴出してきた、この間の「大学問題」と言われているものとして現象しているに過ぎないのである。
だから、国立大学の「法人化」とその前後に行われた公立大学の再編・統合・「法人化」、さらには私立大学の「制度改革」から5年、6年を経た今日、大学関係者はこの間の「法人化」とそれと平行して行われた「制度改革」とは何だったのか、その総括を学生・「保護者」・納税者の前にまず明らかにすることが先決ではないか、と私自身は考えている。
4
私は、大学の財政事情がどこも「火の車」であることを知っているし、一般論としては、知人の中にもその唱道者がいる「大学教育の無償化」論に反対しない。しかし、大学とは何の関係もない市民一般、納税者の観点から言えば、現行の大学制度を温存させたまま、一握りの偏差値上位大学に血税の配当を増額させたところで、先述したように今日の日本の大学制度が抱え込んでしまった「病」が改善する展望は見えてこない。
おそらく、その「展望」は、近視眼的に、「さしあたっての大学の財政危機をどう打開するか」といった「策」を練ることからは開けてこないだろう。「大学の危機」が、旧文部省から文科省へと継承された六〇有余年にわたる「戦後教育」と一体となった「大学行政」なるものの必然的帰結であってみれば、その「戦後教育」と「大学行政」の矛盾がどこにあったのかを解明し、今後数十年をかけてそこからの転換めぐる社会的な認識の共有をはかるという遠大な作業が不可欠であるからだ。
その長期にわたる作業の中では、現代日本の社会的実情にマッチしない、いま私たちが「大学」と呼んでいる社会的組織体の再定義、またその機構的あり方や機能の解体的再構築をめぐる議論が欠かすことのできないアジェンダとなるはずである。国立大学協会の「提言」や「国立研究開発機関構想」がそうした「議論」を一般市民に何も提起するものになっていないことが問題なのである。
第一の「アジェンダ」として設定されるべきは、政府-文部科学省が設定する国家戦略(国策)からの大学研究と教育と〈自律化〉である。
私は『大学を解体せよ』の中で、橋本行政改革⇒「中央省庁改革」を通じ、旧科学技術庁と旧文部省が統合しできあがった文科省による「科学技術」偏重主義と、それと一体化した大学「研究」への「能力主義・効率主義」を導入した大学行政、さらにその「司令塔」たる内閣府に設置された総合科学技術会議がとりまとめる、5年サイクルの「科学技術基本計画」に沿った「大学再編」の実態を分析した。
そこでのキーワードこそ、日本の経済戦略を大学教育・研究が積極的に担い、促進するための「産官学連携」と「知的財産」(の開発と蓄積)、そしてそれを可能にするための国公立大学の「法人化」と私大「改革」であった。表現をかえると、
①「科学」が「科学技術」と等値され、その「科学技術」がさらに「産業技術」に等値され、
②「大学の社会貢献」の名の下に、「産官学連携」による「産業技術」の「研究開発」と「国際競争力に打ち勝つ日本経済の再生」に貢献する「人材」の形成を通じた、
③〈大学の自己資金の拡大〉が大学(院)研究と教育の基本理念とされるにいたったのだ。
私のようなまったくの素人の目にも、こうした政府の大学政策の一大転換がもたらす矛盾は明らかに思えた。しかし調べてみて分かったことは、大学研究者内部からこの問題を真正面に据えて分析し、批判的に論じた文献が一つとして見当たらない、ということだった。
「国立大学協会」を始めとする大学関係者は、まずこの「路線」が、
①人文教育・研究の破壊と学部教育の空洞化、
②国家行政からの大学の自律性の一層の弱体化をもたらし、
③〈大学運営における行政に対する依存性と従属性をさらに強める〉という、最悪の結果を招いたことを真剣に総括すべきではないだろうか。
5
総合科学技術会議とは、経済財政諮問会議と同様に、内閣府設置法(1999年)の第 18 条によって設置されたものだ。その「所掌事務」と組織形態を同法(第 26 条から第 36 条)が規定しているが、その役割とは「科学技術基本計画」の策定と、これに関連する「省庁間の調整」ということになっている。国立大学の「法人化」を強行した小泉(自公)政権は、この総合科学技術会議-文科省体制によって戦後大学制度の最後的解体に乗り出したのである。
「小泉革命」によって戦後日本の大学制度は最後的に解体=死んだ。「脳死」したのにまだ身体(機構)は「生きている」と「大学」という名前をかたり、大学ボッタクリシステムを温存させ、血税と「国民」の所得を貪っている。国立大学を始めとした大学経営者たちは、そんな死んだ大学の延命と自己保身にヤッキとなり、さらに血税を貪り尽くそうというのだから、それならばいっそのこと擬制の大学システム全体を文字通り創造的かつ社会的に解体したほうが、よほど「公共の利益」になるではないか。そうして出来上がったのが、『大学を解体せよ』だったのである。
問題の根源は、「戦略的先端科学技術」フィールド中心主義・人文フィールド解体主義の「小泉大学革命」路線が、総合科学技術会議を「司令塔」としながらも、国策としての科学技術政策の遂行においては文部科学省を筆頭に、官僚機構総体に多大の権限と役割を付与したまま、官製版大学解体策に乗り出してしまったことにある。
『大学を解体せよ』の中でも指摘した通り、文科省設置法第4条は、「科学技術に関する基本的な政策の企画および立案並びに推進に関すること」、「科学技術に関する研究および開発に関する計画の作成および推進」、「科学技術に関する関係行政機関の事務の調整に関すること」を同省の「所掌事務」として規定している。
また、同省内に設置された「科学技術・学術審議会」の「所掌事務」は、「科学技術の総合的な振興に関する重要事項」の調査審議となっており、これでは内閣府に設置された「司令塔」としての総合科学技術会議は、内閣府付きの文部官僚・科学技術政策部門の統括官が、同省の省益と戦略に基づいて巧みに操作できることになる。
さらに、日本には総合科学技術会議とは別に、日本学術会議という御用「学術」組織も存在し、ここにも血税が流用されるシステムになっている。つまり、
1、総合科学技術会議、
2、日本学術会議、
3、科学技術庁時代の「所掌事務」を丸ごと抱え込み、旧文部省と合体した文部科学省、さらには、
4、独自にそれぞれの「研究開発」を行うその他省庁、最後に、
5、文科省を筆頭とする省庁の直接的な延長組織としての独立行政法人系「研究機関」といったように、
「科学技術の魑魅魍魎」が犇く「知の伏魔殿」ともいうべき構造が、日本の官僚機構とその延長組織を支配しているのである。日本の大学制度とは、まさにその「構造」の行政的延長制度なのだ。
では、こうした「科学技術の魑魅魍魎」が犇く「知の伏魔殿」、国家行政機構からの大学の自立性/自律性を少しでも確保するためには、何をどうすればよいのか?
その中心に据えられるべきは、総合科学技術会議の解体・改組、そして文科省の「所掌事務」の抜本的再検討⇒文科省の「聖域なき構造改革」⇒解体的行財政改革、そして「省庁縦割り」の「科学技術研究」の全面的「事業仕分け」である。大学人が、
1、そのための「戦略」を練り、「戦略」に基づく「提言」を「市民社会」=納税者に提示し、
2、「提言」を実現すべく、大学人自らが活動家となって運動を展開しつつ、その一方で、
3、官僚機構⇒大学(理事会・事務局)⇒独立行政法人系研究機構の「持続可能な循環型天下りシステム」を解体し、
4、総長・学長・理事以下の教職員が、既得権防衛主義の自己保身を排し、学生と「保護者」第一主義に則り、公務員労働者が直面している以上の給与カットと特権の廃絶に踏み込む意思があるなら、
①学費値上げをすることも、
②増税をすることもなく、
③「大学教育の無償化」さえ実現し、さらには
④今よりはるかにまっとうな大学経営と運営がまちがいなくできるはずである。
大学人自身による、これらを実現するための「議論」とその公開こそが、今、求められている。
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米国の軍産学複合体と日本の産官学連携
最初に、『大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために』の目次を紹介しておこう。
はじめに――大学のない社会を構想する力
子どもを自立させない社会、社会を自立させない国家/浄化と隔離、セーフティネットの教育学/子どもも社会も自立させない知識偏重教育
Ⅰ 知識社会と大学
第一章 知識社会の教育社会学
大学の不経済学/知識社会のサバイバル/大学教育の過剰投資/社会的コスト回避の思想
第二章 大学革命?
It’s a revolution, baby!/大学のサービス産業化/国家戦略を担う大学
第三章 先端産業技術と大学
小泉革命と大学革命/文部科学省って何?/総合科学技術会議って何?/総合科学技術会議の政治学
Ⅱ グローバリゼーションと大学
第四章 大学の国際戦略
進出、それとも侵略?/海外拠点・留学生・eラーニング――戦略的頭脳流入のためのグローバル戦略/大学植民地主義
第五章 世界貿易機関(WTO)と大学自由化
国境を越える大学――トランスバーシティ(transversity)の時代/IMF‐WTO体制――GATSと教育自由化交渉
第六章 大学資本論
帝国主義としての大学/『科学革命と大学』/大学の魂と資本の魂
Ⅲ 大学を社会に解体する
第七章 大学解体要綱
大学解体のためのシナリオ
一、バベルの塔を象牙の塔に
二、研究と教育の分離、そして教育の社会化
三、カリキュラムとシラバスのオープンソース化
四、大学教育と教授の質とは何か
五、大学知を社会に還す
エピローグ――ヒューマノイドは着歌の「君が代」を斉唱するか
ロボット科学と対テロ戦争/ロボット倫理と大学倫理
おわりに
・・・・・・・・
目次を一瞥して理解してもらえるように、要するにこの書は、例えば今夏出版された『アカデミック・キャピタリズムを超えて―アメリカの大学と科学研究の現在』(上山隆大著、エヌティティ出版)のような書の対極に位置するところから「法人化」の二年後に書かれ、三年前に出版された本である。
東大教授、植田和男(経済学)によれば、上山の書は「自然科学分野を中心に」「強い米国経済、政治外交の源」たる「米国の大学の底力」、「強さの秘密」を解明するものであるらしい。そして、「カーネギーやロックフェラーだったり、政府の軍事研究資金、また、最近では多様な私企業からの寄付」を受け、「発見者が自らの貢献を明らかにするために特許を取ることが増えた。それにつれて、研究成果が有用なものであるほど莫大(ばくだい)な富を発見者にもたらし、公的な支援をも受けている大学のあり方として適切かどうかが問われている」、その米国の大学の現状に問題ありとするかのような振りをしながら、結局は「よし」とし、しかもその「将来に楽観的」であるらしい。
植田はそんな書を「良書」だと批評する。そして米国の大学に比して、「政府からの資金に厚く守られてきて、急に外部資金も自己調達するようにと宣言され、あたふたしている日本の大学との差にはため息が出るばかりである」と言う。これが、日本の大学で最も「政府からの資金に厚く守られてき」た東京旧帝国大学の教授、今「あたふたしている」大学教授の「知」の現実であるらしい。「ため息」をつかねばならないのは、いったい誰なのか?
一方、読売新聞の書評欄に掲載された科学哲学者の野家啓一の批評は、能天気な植田の批評とは一線を画している。野家の批評のタイトルが、「進む「大学の商業化」」になっていること、またその結語を「研究資金の確保のみならず、「新たな知識生産への刺激」を受けるためにも社会全体に広くパトロンを求めることを提言」する上山の書を、「大学改革のあり方に一石を投じる問題提起の書」という表現で締め括っていることにも明らかなように、その評価は抑制的である。
『大学を解体せよ』のテーマとの関連において、上の書評からうかがえる産官学連携・知財開発-特許化推進のエージェント、上山の本の問題点を考えてみよう。
まず、米国の大学の「産官学連携」ならぬ「軍産学複合体」の現実を知るためには、私が『大学を解体せよ』を出版した年の夏、米国で出版されたヘンリー・ジルーのThe University in Chains: Confronting the Military-Industrial-Academic Complex (『鎖につながれた大学--軍産学複合体に抗して』)を読むべきである。この書のバックグラウンドを理解するために、Military-Industrial Complex や The New Military Industrial Congress Complex もお薦めである。
ネット上で公開されている、あまたの上山の書の書評を読む限り、上山は、大学研究・教育に携わる者として、戦後米国の「自然科学分野」の大学(院)研究が、文字通り、軍産複合体増殖の「知の供給源」としてMilitary-Industrial-Academic Complexを形成し、発展してきたことの問題性を捉えきれていない、と言わざるをえない。上山の書を肯定的に評価する者たちも同様である。野家の批評が幾分抑制的であるのは、そこに関係があるのだろう。
上山は、税金と「受益者」負担に依存する日本の大学の「資金」構造をいかに変革するか、つまり、大学と大学研究者(研究室)の「自己資金」=利益=儲けを得るルートをいかに多様化し、拡大するのかという課題意識の下で、シリコンバレーなどの米国のMilitary-Industrial-Academic Complexの「フィールドワーク」を行う。
そして、トランスナショナル企業や巨大財団はもちろん、ペンタゴンやグローバル軍事産業からの委託研究、共同研究、寄付であったとしても、そのようにして獲得された米国の主要大学の「自己資金」構造の「多様性」の中に米国の大学の「強み」を見、そこに産官学連携路線の下での日本の「研究型大学(院)」の未来のモデルを思い描くのである。
米国の大学や「自然科学分野」の研究者は、「自らの貢献を明らかにするために特許を取る」のではなく、「研究成果が有用なものであるほど莫大(ばくだい)な富を発見者(と大学)にもたら」すから特許を取ることを十分過ぎるほど知りながら・・・。
しかし上のことは、大学「経営学=マネジメント」論から産官学連携路線=「大学研究の市場化」を推進する上山の専門から言えば、ごく自然な発想である。上山の課題意識の中では、例えば、軍産学複合体の下で開発された軍事技術が新兵器や大量破壊兵器の生産に「応用」され、それで武装した米軍が世界中で何をしているのか、米国の大学研究者がそのことに加担している云々などという問題は、「政治的」で「イデオロギー」的な問題であって価値判断の対象から除外されてしまうのだ。上山は、上山がいう「コントロール」=規制がきかないところで米国の軍産学複合体が成立していることに、どうも無自覚であるらしい。おそらくここに「アカデミック・キャピタリズム」を「超えて」という、聞こえの良いタイトルを冠しながら、決して「超える」ことのできないこの書の限界がある、と言ってよいだろう。
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強調しておかねばならないのは、軍産学複合体は先端科学技術分野のみではなく、人文・社会科学分野でも米国のアカデミズムを蝕んできたことだ。対テロ戦争の勃発以降、とりわけ問題になってきたのは、米軍のHuman Terrain System(HTS)に対する人文・社会科学者たちの主体的・能動的・積極的な貢献である。(その一例としては、ダートマス大のThe Laboratory for Human Terrain がある)
説明は後回しにして、私がこの問題を初めて知った"Army Enlists Anthropology in War Zones" (「戦場に徴用される文化人類学」)と題されたNYTimesの2007年の記事を紹介しておこう。アフガニスタンの対テロ戦争に徴用され、米軍の作戦展開に奉仕する米国の文化人類学者や社会科学者たちの様子を取材したものだ。
このHTS戦略下の軍産学複合体に対し、ZERO ANTHROPOLOGY のマキシミリアン・フォルテは、Mapping the Terrain of War Corporatism: The Human Terrain System within the Military-Industrial-Academic Complex という論文を書いている。
国家(官僚機構)、産業(資本)、大学(知)のトライアングルの関係から言えば、資本主義体制下の大学が、官僚機構による大学行政を通じて国家戦略と産業戦略に奉仕すべく位置づけられてしまうのは必然であり、それが大学の宿命でもあるだろう。だから大学研究や教育の、ある要素/側面が国家戦略や産業戦略と一体化すること、そのことのみをもって「大学無用」論や「大学解体」論を主張しても意味がないし、虚しいだけである。
しかし、上のトライアングルが「鉄のトライアングル」と化し、そのことに対する批判をいろんな「大学利権」に既得権、自らの職業・立場の安定と安全を考慮するあまりに、大学研究・教育者がしない/できない状況になっているとしたら、どうだろう?
大学(院)研究と軍産複合体の研究開発の「利益相反」は、後に述べるように、軍事に転用されるテクノロジーと産業部門の「イノベーション」に転用されるテクノロジーの境界線が「融合」しているところで派生する。
現在の大学院の「最先端融合科学」研究が、軍事と産業の「両用技術」開発を担っている/担わされてきたところに根本的な問題があるのだ。この傾向は、いわゆる「武器輸出(禁止)三原則」の「規制緩和」⇒撤廃に向けた動きと連動し、今後さらに進展するだろう。具体例を列挙すれば、このようなことだ。
WIRED VISIONは、米国の軍産学複合体の「最先端融合科学」研究による、さまざまな新兵器開発をスクープしてきた。今年に入ってから、しかもその中のごく一部を取りあげるだけでも、以下のようなものがある。
・ネバダ核地域を警備する自律型ロボット
・超音波で脳を制御:米軍の研究
・米軍の外骨格スーツ『HULC』
・「瞬かない目」:サッカー場大の軍用飛行船、建造中
・ゴキブリを軍事利用:米軍の計画
・嘘を見抜く「直観」を利用するシステム:米情報機関が開発へ
こうした「研究開発」が、・米国の「全世界即時攻撃」計画と、「核戦争の危険性」の下で行われ、実際にそれが対テロ戦争に実戦利用された場合には、・米国無人機の空爆は戦争犯罪か:議会公聴会の議論 という国際法上の問題を生み出してきた(いる)のである。
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断言してもよいが、産官学連携路線は、必ずや日本における軍産学複合体へと「発展」する。理・工・医の「融合先端科学技術」分野に先導されるかたちで、人文・社会科学系が続くのである。戦前の日本の(旧帝国)大学制度は、戦後の米国の軍産学複合体のミニチュア版のような日本型「軍産学複合体」の「頭脳」を担っていたのであるから、それは「発展」というより退行である。その退行は、かなりの速度ですでに進行しているのである。
占領統治終了後の大学制度は、「戦犯」追放と「民主化」が定着する間もなく、「赤狩り」の嵐が吹き荒れ、結局は官僚機構がそうであったように戦前の旧帝大体制を実態的に支え、生き残った「中堅」どころの学者連中がそっくりそのまま古巣に戻ってくるという体制から出発する。そしてすぐに日本は、「民主化」の「逆コース」(本来のコース?)の再軍備を開始する。1951年には旧安保条約を、1954年には日米相互防衛援助協定を結び、その次には自衛隊ができ、戦前の核兵器開発研究の蓄積をベースに原子力開発を開始し、1960年に安保を「改定」する。
東大で行った「自主講座」を基にして1970年代半ばに出版された、宇井純と生越忠による『大学解体論』(亜紀書房、1975)。この書は、1960年代までの日米安保体制の下で、慶応、東大、京大の医学部、そしてその他の大学が米軍からの資金援助を受けた研究プロジェクトを行っていたことを暴き、旧帝国大学を中軸とする大学制度の解体を主張した。
しかし、「公害原論」を自主講座で行った宇井の主張は、「大学解体論」もろとも、アカデミズム主流からは完全に黙殺された。当時、とある公立高校の理数科の生徒だった〈私たち〉が「自主講座」に熱い視線を注いでいたことを思い出すが、このブログの読者で『大学解体論』を知らない人は、街や大学の図書館で借り出し、ぜひ読んでみてほしい。実にリベラルかつモデレートで、まっとうな正論を述べていたことがわかるはずだ。
あるいは、中山茂の名前をここで挙げてもよい。中山の一連の科学/科学技術批判論も、戦前の天皇制国家主導の上からの「軍産学複合体」の現実とその末路を自ら体験したが故に、大学研究において「アカデミック・フリーダム」の理念を守るというパトスに立脚した仕事だったのかもしれない。その中山の「弟子」として、『テクノトピアをこえて 科学技術立国批判』(1982、社会評論社)、『科学文明の暴走過程』(1991、 海鳴社)等々を著した吉岡斉なども、中山と同じく「軍事と産業からのアカデミズムの自律/自立」というモメントは立論の前提としてあったのではなかったろうか。さらには、高木仁三郎等々の仕事を指摘することもできるだろう。
詳しくは立ち入ることができないが、大学研究・教育(サービス)のグローバル化と自由化という「縦軸」と、「安保の再定義」の再定義⇒対テロ戦争⇒「世界の中の日米同盟」路線⇒日米共同研究の新段階への突入という「横軸」が交差する歴史過程と軌を一にして起こった「法人化」⇒産官学連携路線の下で、「学問のための学問」論の幻想を暴く「学問」ばかりでなく、今大学で行われている「学問」そのものを根本的に問う「学問」までもが大学の現場から姿を消そうとしているのかもしれない。
早い話、日本版「鎖につながれた大学――軍産学複合体に抗して」が、なぜ今、日本のアカデミズムの内部から出てこないのか? このことが日本の大学研究のリアリティを何よりも物語っている、と言えるのかもしれない。
「象牙の塔」ならぬバベル(混乱)の塔の中で起こっている事態は、普通の市民・納税者・「保護者」が想像する以上に深刻そうである。
参考サイト
イノベーション創出に向けた新たな科学技術基本計画の策定を求める ((社)日本経済団体連合会 2010年10月19日)
新たな防衛計画の大綱に向けた提言 (同上、2010年7月20日)
国家戦略としての宇宙開発利用の推進に向けた提言 (同上、2010年4月12日)
わが国の防衛産業政策の確立に向けた提言(同上、2009年7月14日)
弾道ミサイル防衛技術に関する日米技術協力 (2009年11月10日 pdf)
「批評する工房のパレット」内関連ページ
⇒「大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について」
⇒「国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
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三年前に『大学を解体せよ』(現代書館)を出版した。この本にも関連する、とても気になる新聞報道が昨日、今日(2010年11月1日、2日)と二つあった。いずれも朝日新聞の記事である。
一つは、国立大学協会(会長=浜田純一・東大総長)が、11月1日、高知市内で総会を開き、2011年度の予算編成で削減のおそれがある運営費交付金などを確保するよう、政府に要望する決議をまとめたことだ。
運営費交付金は、国立大学の予算の半分以上を占める大学がほとんどで、しかも近年金額が減少傾向にある。医学部や理工系大学院のない大学は、とくに厳しい財政状況に直面している。来年度の予算編成では、1兆円超の特別枠を各省庁が競うため、さらに減額される可能性がある、ということで国立大学の経営陣が危機感を強めたのだ。朝日新聞によれば、国大協の決議には予算削減によって「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などと書かれているという。
もう一つは、今日付けの記事、「国立研究機関構想に蓮舫氏「焼け太り」 文科省を批判」である。
朝日新聞によると、「研究開発の独立行政法人(独法)を統合する「国立研究開発機関」構想に、蓮舫行政刷新相が「待った」をかけている」という。
なぜか? この「構想」が「省庁の縦割りを廃し、効率的な研究を可能にすることを理由に文部科学省などが検討している」からであるが、「独法の人員や予算などを見直す基準を策定中の行政刷新会議はこれを「文科省の焼け太り作戦だ」と反発している」のである。
「国立研究開発機関構想」とは、「理化学研究所や宇宙航空研究開発機構など38法人を再編し、新組織へ移行させるというもの」。「関係する9府省の副大臣らでつくる「研究開発に関する検討チーム」が4月に策定した中間報告に盛り込まれた。海江田万里・科学技術政策相も設置法案を来年の通常国会に提出する考えを示している」。
周知のように、行政刷新会議は、4月と5月に研究開発関連の独法などを対象とした「事業仕分け第2弾」を実施した。そして、「年度内に独法全体の体制を見直す基準を策定する予定」になっている。だから同会議関係者は、上の「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」と批判しているのである。
なぜか? 「研究開発に関する検討チーム」が策定した「中間報告」が「資金の繰り越しなど予算執行を柔軟にする」としたことについて、「38法人の業務内容や人件費の総額を減らす指摘もなく、青天井の予算獲得を狙っているのではないか」と行政刷新会議は警戒しているのである。
朝日新聞は、10月24日に首相公邸であった閣僚勉強会の席上、蓮舫氏が「科学技術予算の効率的な戦略が必要だ。文科省ではなく、総理を長とした内閣で予算編成を行うべきだ」と提案し、「文科省主導の流れを牽制」したことを伝えている。そして、2日夕に開かれた検討チームの会合に、「仕分け人でもある寺田学首相補佐官を送り込み、設置法案の提出阻止を狙っている」という。
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まず、前者の問題、国立大学の運営費交付金の増額問題について言えば、これを増額したところで今の日本の大学、もっと言えば大学を頂点とする教育制度がかかえる問題群の何らの解決にもつながらない。
にもかかわらず、国立大学の経営陣が、増額しなければ「我が国の高等教育・研究の基盤は根底から崩壊する」「国際的な競争力を失わせ、国力を衰微させていく」などという論理をもってそれを正当化していることが、問題の本質を見えなくさせているのである。
また、後者の問題については、「構想」が「独法改革のプロセスを無視している」という分析や「構想」に対する批判は正しい。しかし、蓮舫氏の敗北は目に見えている。民主党には「総理を長とした内閣で予算編成を行う」能力も度量もないからだ。
民主党によるこの一年間の政権運営をみてはっきりしたことは、「官僚主導から政治主導へ」をスローガンにしてきた民主党は、官僚機構のサボタージュ・巻き返しによって、再び自公政権時と変わらぬ「官僚主導」の政権運営に舞い戻ってしまったことである。
その根拠はとても単純なことで、もしも民主党が「総理を長とした内閣で予算編成を行う」ことを本気で追求するのであれば、財務省の抜本的構造・機構改革を含む、現官僚機構に与えている法的権限を法改正を通じて解体するのでなければ不可能であり、民主党はそこまで踏み込むことを放棄してしまったからである。
国立大学の運営費交付金問題、また日本の科学技術政策と大学制度との関係の問題は、先にも述べたように『大学を解体せよ』(現代書館)のメインテーマだったと言ってよい問題である。『大学を解体せよ』は、文部科学省の支配/統治からの自治と自律を戦略的に思考しない日本の大学経営・運営のあり方やその制度的欠陥を、大学教育「サーヴィス」に税金を払っている納税者、子どもを大学に進学させている「保護者」、つまりは「消費者」の視点から考えようとするものだった。けれども、出版から四年近くを経て、事態はさらに悪化しているようにみえる。
ところで、拙著の中で予想した通り『大学を解体せよ』は大学研究者・教育者の中で黙殺されてきた。この書を評価していただいたのは、『週刊読書人」(2007年4月27日号)に「画期的な大学論--「自律的な社会の構築」に向けて」を書いていただいた桑田禮彰さんほか、ごく限られた人々しかいない。また最近、とある大学の法学部の教授から、拙著を評価する手紙をいただいたが、現在の日本のアカデミズムの世界では大学の「制度改革」さえ死語と化し、大学のみならずそれを支える大学人もサバイバル・ゲームにやっきになっている観がある。
私自身、大学を職場とする友人・知人が多い。だから、「大学解体」を主張することは、決して心地よいことではない。しかし、いったいどのようにすれば、現代教育の歪みと矛盾の象徴たる既存の大学制度を解体することができるのか・・・。これを構想することは、戦後の官僚制国家日本からの「市民社会」の自律(オートノミー)を考える上でも、避けて通ることのできない重大問題である。
未だに旧帝大七大学と旧国立「一期」大学、そして早慶をはじめとする一部私立大学を中軸に改革さえ放棄した再編成が進行する大学制度を放置して、国立大学への血税の配分を今より大きくしたところで、これまでがそうであったように、その恩恵を受けるのはごく一部の偏差値上位大学のみである。
参考サイト
・「運営費交付金から見る国立大学ランキング」(国立大学職員日記より)
・国公私立大学を通じた大学教育改革の支援
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自治なき大学は自壊する
はるか昔、私が都内のとある国立大学の学生だった頃、とても驚いたことがある。それは一言で言えば、国立大学はもとより、日本の大学にはおよそ「自治」や「学問の自由 アカデミック・フリーダム」など存在しない、ということだった。
国立大学は、当時の文部省という行政組織の「延長」組織として位置付けられ、学部学科新設・学生定員・施設建設など、大学運営の根幹に関わるすべてのことが文部省「大学局」の「指導」を仰がなければ何も決定できなかったからである。逆に、文部省が大学運営上の「方針」として決定したことを、大学の教授会で覆すなどということは、ありえないことと考えられていた。
このことは、国立大学の総長・学長以下、教授・助教授・講師などの教員や職員は国家公務員(公立大学は地方公務員)と事実上、同じであるということを意味し、事実、私が学生証を持っていた大学の教授たちも--今と比較すれば、「自由度」はかなりあったとは思うが--そのような意識を持っていた。日本の学者の多くから「インテリゲンチャ」と言うよりは、公務員・サラリーマンと言った印象を受けるのも、ここに原因があるのではないかと私は考えていたほどである。
私立大学の教員・職員の場合は、学校法人という組織を媒介して政府・文部省との関係性が規定されることになるが、学校法人が文部省の管轄下に置かれ、その「指導」の下で運営されていたのであるから、間接的な形態にはなるが、自治など存在しないことは国公立大学と同様である。
もちろんタテマエとしては、大学には「自治」があり、「学問の自由」も「保障」されている、ということになっていた。しかし、予算をはじめとする大学運営に関して文部省に最終的な「承認」を得る/文部省が最終的な「決定権」を握っている、という状況において、タテマエとしての「大学の自治」など見かけ倒しもはなはだしい。 言うまでもなく、そんな日本の大学に「学生の自治」などあろうはずもない。〈私たち〉はいったい何をやっていたのだろう?、と今更ながらに「忸怩たる思い」がする。
ともあれ〈私たち〉は、ある研究棟の新設問題に端を発した問題を通して、こうした「国立大学」とその教授たちの意識のあり方の実態を知ることになるのだが、当時も今も、この構造は何も変わっていない。いや、大学人自身が何も変えようとしてこなかった結果が、六年前の国立大学の「法人化」以降に噴出してきた、この間の「大学問題」と言われているものとして現象しているに過ぎないのである。
だから、国立大学の「法人化」とその前後に行われた公立大学の再編・統合・「法人化」、さらには私立大学の「制度改革」から5年、6年を経た今日、大学関係者はこの間の「法人化」とそれと平行して行われた「制度改革」とは何だったのか、その総括を学生・「保護者」・納税者の前にまず明らかにすることが先決ではないか、と私自身は考えている。
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私は、大学の財政事情がどこも「火の車」であることを知っているし、一般論としては、知人の中にもその唱道者がいる「大学教育の無償化」論に反対しない。しかし、大学とは何の関係もない市民一般、納税者の観点から言えば、現行の大学制度を温存させたまま、一握りの偏差値上位大学に血税の配当を増額させたところで、先述したように今日の日本の大学制度が抱え込んでしまった「病」が改善する展望は見えてこない。
おそらく、その「展望」は、近視眼的に、「さしあたっての大学の財政危機をどう打開するか」といった「策」を練ることからは開けてこないだろう。「大学の危機」が、旧文部省から文科省へと継承された六〇有余年にわたる「戦後教育」と一体となった「大学行政」なるものの必然的帰結であってみれば、その「戦後教育」と「大学行政」の矛盾がどこにあったのかを解明し、今後数十年をかけてそこからの転換めぐる社会的な認識の共有をはかるという遠大な作業が不可欠であるからだ。
その長期にわたる作業の中では、現代日本の社会的実情にマッチしない、いま私たちが「大学」と呼んでいる社会的組織体の再定義、またその機構的あり方や機能の解体的再構築をめぐる議論が欠かすことのできないアジェンダとなるはずである。国立大学協会の「提言」や「国立研究開発機関構想」がそうした「議論」を一般市民に何も提起するものになっていないことが問題なのである。
第一の「アジェンダ」として設定されるべきは、政府-文部科学省が設定する国家戦略(国策)からの大学研究と教育と〈自律化〉である。
私は『大学を解体せよ』の中で、橋本行政改革⇒「中央省庁改革」を通じ、旧科学技術庁と旧文部省が統合しできあがった文科省による「科学技術」偏重主義と、それと一体化した大学「研究」への「能力主義・効率主義」を導入した大学行政、さらにその「司令塔」たる内閣府に設置された総合科学技術会議がとりまとめる、5年サイクルの「科学技術基本計画」に沿った「大学再編」の実態を分析した。
そこでのキーワードこそ、日本の経済戦略を大学教育・研究が積極的に担い、促進するための「産官学連携」と「知的財産」(の開発と蓄積)、そしてそれを可能にするための国公立大学の「法人化」と私大「改革」であった。表現をかえると、
①「科学」が「科学技術」と等値され、その「科学技術」がさらに「産業技術」に等値され、
②「大学の社会貢献」の名の下に、「産官学連携」による「産業技術」の「研究開発」と「国際競争力に打ち勝つ日本経済の再生」に貢献する「人材」の形成を通じた、
③〈大学の自己資金の拡大〉が大学(院)研究と教育の基本理念とされるにいたったのだ。
私のようなまったくの素人の目にも、こうした政府の大学政策の一大転換がもたらす矛盾は明らかに思えた。しかし調べてみて分かったことは、大学研究者内部からこの問題を真正面に据えて分析し、批判的に論じた文献が一つとして見当たらない、ということだった。
「国立大学協会」を始めとする大学関係者は、まずこの「路線」が、
①人文教育・研究の破壊と学部教育の空洞化、
②国家行政からの大学の自律性の一層の弱体化をもたらし、
③〈大学運営における行政に対する依存性と従属性をさらに強める〉という、最悪の結果を招いたことを真剣に総括すべきではないだろうか。
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総合科学技術会議とは、経済財政諮問会議と同様に、内閣府設置法(1999年)の第 18 条によって設置されたものだ。その「所掌事務」と組織形態を同法(第 26 条から第 36 条)が規定しているが、その役割とは「科学技術基本計画」の策定と、これに関連する「省庁間の調整」ということになっている。国立大学の「法人化」を強行した小泉(自公)政権は、この総合科学技術会議-文科省体制によって戦後大学制度の最後的解体に乗り出したのである。
「小泉革命」によって戦後日本の大学制度は最後的に解体=死んだ。「脳死」したのにまだ身体(機構)は「生きている」と「大学」という名前をかたり、大学ボッタクリシステムを温存させ、血税と「国民」の所得を貪っている。国立大学を始めとした大学経営者たちは、そんな死んだ大学の延命と自己保身にヤッキとなり、さらに血税を貪り尽くそうというのだから、それならばいっそのこと擬制の大学システム全体を文字通り創造的かつ社会的に解体したほうが、よほど「公共の利益」になるではないか。そうして出来上がったのが、『大学を解体せよ』だったのである。
問題の根源は、「戦略的先端科学技術」フィールド中心主義・人文フィールド解体主義の「小泉大学革命」路線が、総合科学技術会議を「司令塔」としながらも、国策としての科学技術政策の遂行においては文部科学省を筆頭に、官僚機構総体に多大の権限と役割を付与したまま、官製版大学解体策に乗り出してしまったことにある。
『大学を解体せよ』の中でも指摘した通り、文科省設置法第4条は、「科学技術に関する基本的な政策の企画および立案並びに推進に関すること」、「科学技術に関する研究および開発に関する計画の作成および推進」、「科学技術に関する関係行政機関の事務の調整に関すること」を同省の「所掌事務」として規定している。
また、同省内に設置された「科学技術・学術審議会」の「所掌事務」は、「科学技術の総合的な振興に関する重要事項」の調査審議となっており、これでは内閣府に設置された「司令塔」としての総合科学技術会議は、内閣府付きの文部官僚・科学技術政策部門の統括官が、同省の省益と戦略に基づいて巧みに操作できることになる。
さらに、日本には総合科学技術会議とは別に、日本学術会議という御用「学術」組織も存在し、ここにも血税が流用されるシステムになっている。つまり、
1、総合科学技術会議、
2、日本学術会議、
3、科学技術庁時代の「所掌事務」を丸ごと抱え込み、旧文部省と合体した文部科学省、さらには、
4、独自にそれぞれの「研究開発」を行うその他省庁、最後に、
5、文科省を筆頭とする省庁の直接的な延長組織としての独立行政法人系「研究機関」といったように、
「科学技術の魑魅魍魎」が犇く「知の伏魔殿」ともいうべき構造が、日本の官僚機構とその延長組織を支配しているのである。日本の大学制度とは、まさにその「構造」の行政的延長制度なのだ。
では、こうした「科学技術の魑魅魍魎」が犇く「知の伏魔殿」、国家行政機構からの大学の自立性/自律性を少しでも確保するためには、何をどうすればよいのか?
その中心に据えられるべきは、総合科学技術会議の解体・改組、そして文科省の「所掌事務」の抜本的再検討⇒文科省の「聖域なき構造改革」⇒解体的行財政改革、そして「省庁縦割り」の「科学技術研究」の全面的「事業仕分け」である。大学人が、
1、そのための「戦略」を練り、「戦略」に基づく「提言」を「市民社会」=納税者に提示し、
2、「提言」を実現すべく、大学人自らが活動家となって運動を展開しつつ、その一方で、
3、官僚機構⇒大学(理事会・事務局)⇒独立行政法人系研究機構の「持続可能な循環型天下りシステム」を解体し、
4、総長・学長・理事以下の教職員が、既得権防衛主義の自己保身を排し、学生と「保護者」第一主義に則り、公務員労働者が直面している以上の給与カットと特権の廃絶に踏み込む意思があるなら、
①学費値上げをすることも、
②増税をすることもなく、
③「大学教育の無償化」さえ実現し、さらには
④今よりはるかにまっとうな大学経営と運営がまちがいなくできるはずである。
大学人自身による、これらを実現するための「議論」とその公開こそが、今、求められている。
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米国の軍産学複合体と日本の産官学連携
最初に、『大学を解体せよ--人間の未来を奪われないために』の目次を紹介しておこう。
はじめに――大学のない社会を構想する力
子どもを自立させない社会、社会を自立させない国家/浄化と隔離、セーフティネットの教育学/子どもも社会も自立させない知識偏重教育
Ⅰ 知識社会と大学
第一章 知識社会の教育社会学
大学の不経済学/知識社会のサバイバル/大学教育の過剰投資/社会的コスト回避の思想
第二章 大学革命?
It’s a revolution, baby!/大学のサービス産業化/国家戦略を担う大学
第三章 先端産業技術と大学
小泉革命と大学革命/文部科学省って何?/総合科学技術会議って何?/総合科学技術会議の政治学
Ⅱ グローバリゼーションと大学
第四章 大学の国際戦略
進出、それとも侵略?/海外拠点・留学生・eラーニング――戦略的頭脳流入のためのグローバル戦略/大学植民地主義
第五章 世界貿易機関(WTO)と大学自由化
国境を越える大学――トランスバーシティ(transversity)の時代/IMF‐WTO体制――GATSと教育自由化交渉
第六章 大学資本論
帝国主義としての大学/『科学革命と大学』/大学の魂と資本の魂
Ⅲ 大学を社会に解体する
第七章 大学解体要綱
大学解体のためのシナリオ
一、バベルの塔を象牙の塔に
二、研究と教育の分離、そして教育の社会化
三、カリキュラムとシラバスのオープンソース化
四、大学教育と教授の質とは何か
五、大学知を社会に還す
エピローグ――ヒューマノイドは着歌の「君が代」を斉唱するか
ロボット科学と対テロ戦争/ロボット倫理と大学倫理
おわりに
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目次を一瞥して理解してもらえるように、要するにこの書は、例えば今夏出版された『アカデミック・キャピタリズムを超えて―アメリカの大学と科学研究の現在』(上山隆大著、エヌティティ出版)のような書の対極に位置するところから「法人化」の二年後に書かれ、三年前に出版された本である。
東大教授、植田和男(経済学)によれば、上山の書は「自然科学分野を中心に」「強い米国経済、政治外交の源」たる「米国の大学の底力」、「強さの秘密」を解明するものであるらしい。そして、「カーネギーやロックフェラーだったり、政府の軍事研究資金、また、最近では多様な私企業からの寄付」を受け、「発見者が自らの貢献を明らかにするために特許を取ることが増えた。それにつれて、研究成果が有用なものであるほど莫大(ばくだい)な富を発見者にもたらし、公的な支援をも受けている大学のあり方として適切かどうかが問われている」、その米国の大学の現状に問題ありとするかのような振りをしながら、結局は「よし」とし、しかもその「将来に楽観的」であるらしい。
植田はそんな書を「良書」だと批評する。そして米国の大学に比して、「政府からの資金に厚く守られてきて、急に外部資金も自己調達するようにと宣言され、あたふたしている日本の大学との差にはため息が出るばかりである」と言う。これが、日本の大学で最も「政府からの資金に厚く守られてき」た東京旧帝国大学の教授、今「あたふたしている」大学教授の「知」の現実であるらしい。「ため息」をつかねばならないのは、いったい誰なのか?
一方、読売新聞の書評欄に掲載された科学哲学者の野家啓一の批評は、能天気な植田の批評とは一線を画している。野家の批評のタイトルが、「進む「大学の商業化」」になっていること、またその結語を「研究資金の確保のみならず、「新たな知識生産への刺激」を受けるためにも社会全体に広くパトロンを求めることを提言」する上山の書を、「大学改革のあり方に一石を投じる問題提起の書」という表現で締め括っていることにも明らかなように、その評価は抑制的である。
『大学を解体せよ』のテーマとの関連において、上の書評からうかがえる産官学連携・知財開発-特許化推進のエージェント、上山の本の問題点を考えてみよう。
まず、米国の大学の「産官学連携」ならぬ「軍産学複合体」の現実を知るためには、私が『大学を解体せよ』を出版した年の夏、米国で出版されたヘンリー・ジルーのThe University in Chains: Confronting the Military-Industrial-Academic Complex (『鎖につながれた大学--軍産学複合体に抗して』)を読むべきである。この書のバックグラウンドを理解するために、Military-Industrial Complex や The New Military Industrial Congress Complex もお薦めである。
ネット上で公開されている、あまたの上山の書の書評を読む限り、上山は、大学研究・教育に携わる者として、戦後米国の「自然科学分野」の大学(院)研究が、文字通り、軍産複合体増殖の「知の供給源」としてMilitary-Industrial-Academic Complexを形成し、発展してきたことの問題性を捉えきれていない、と言わざるをえない。上山の書を肯定的に評価する者たちも同様である。野家の批評が幾分抑制的であるのは、そこに関係があるのだろう。
上山は、税金と「受益者」負担に依存する日本の大学の「資金」構造をいかに変革するか、つまり、大学と大学研究者(研究室)の「自己資金」=利益=儲けを得るルートをいかに多様化し、拡大するのかという課題意識の下で、シリコンバレーなどの米国のMilitary-Industrial-Academic Complexの「フィールドワーク」を行う。
そして、トランスナショナル企業や巨大財団はもちろん、ペンタゴンやグローバル軍事産業からの委託研究、共同研究、寄付であったとしても、そのようにして獲得された米国の主要大学の「自己資金」構造の「多様性」の中に米国の大学の「強み」を見、そこに産官学連携路線の下での日本の「研究型大学(院)」の未来のモデルを思い描くのである。
米国の大学や「自然科学分野」の研究者は、「自らの貢献を明らかにするために特許を取る」のではなく、「研究成果が有用なものであるほど莫大(ばくだい)な富を発見者(と大学)にもたら」すから特許を取ることを十分過ぎるほど知りながら・・・。
しかし上のことは、大学「経営学=マネジメント」論から産官学連携路線=「大学研究の市場化」を推進する上山の専門から言えば、ごく自然な発想である。上山の課題意識の中では、例えば、軍産学複合体の下で開発された軍事技術が新兵器や大量破壊兵器の生産に「応用」され、それで武装した米軍が世界中で何をしているのか、米国の大学研究者がそのことに加担している云々などという問題は、「政治的」で「イデオロギー」的な問題であって価値判断の対象から除外されてしまうのだ。上山は、上山がいう「コントロール」=規制がきかないところで米国の軍産学複合体が成立していることに、どうも無自覚であるらしい。おそらくここに「アカデミック・キャピタリズム」を「超えて」という、聞こえの良いタイトルを冠しながら、決して「超える」ことのできないこの書の限界がある、と言ってよいだろう。
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強調しておかねばならないのは、軍産学複合体は先端科学技術分野のみではなく、人文・社会科学分野でも米国のアカデミズムを蝕んできたことだ。対テロ戦争の勃発以降、とりわけ問題になってきたのは、米軍のHuman Terrain System(HTS)に対する人文・社会科学者たちの主体的・能動的・積極的な貢献である。(その一例としては、ダートマス大のThe Laboratory for Human Terrain がある)
説明は後回しにして、私がこの問題を初めて知った"Army Enlists Anthropology in War Zones" (「戦場に徴用される文化人類学」)と題されたNYTimesの2007年の記事を紹介しておこう。アフガニスタンの対テロ戦争に徴用され、米軍の作戦展開に奉仕する米国の文化人類学者や社会科学者たちの様子を取材したものだ。
このHTS戦略下の軍産学複合体に対し、ZERO ANTHROPOLOGY のマキシミリアン・フォルテは、Mapping the Terrain of War Corporatism: The Human Terrain System within the Military-Industrial-Academic Complex という論文を書いている。
国家(官僚機構)、産業(資本)、大学(知)のトライアングルの関係から言えば、資本主義体制下の大学が、官僚機構による大学行政を通じて国家戦略と産業戦略に奉仕すべく位置づけられてしまうのは必然であり、それが大学の宿命でもあるだろう。だから大学研究や教育の、ある要素/側面が国家戦略や産業戦略と一体化すること、そのことのみをもって「大学無用」論や「大学解体」論を主張しても意味がないし、虚しいだけである。
しかし、上のトライアングルが「鉄のトライアングル」と化し、そのことに対する批判をいろんな「大学利権」に既得権、自らの職業・立場の安定と安全を考慮するあまりに、大学研究・教育者がしない/できない状況になっているとしたら、どうだろう?
大学(院)研究と軍産複合体の研究開発の「利益相反」は、後に述べるように、軍事に転用されるテクノロジーと産業部門の「イノベーション」に転用されるテクノロジーの境界線が「融合」しているところで派生する。
現在の大学院の「最先端融合科学」研究が、軍事と産業の「両用技術」開発を担っている/担わされてきたところに根本的な問題があるのだ。この傾向は、いわゆる「武器輸出(禁止)三原則」の「規制緩和」⇒撤廃に向けた動きと連動し、今後さらに進展するだろう。具体例を列挙すれば、このようなことだ。
WIRED VISIONは、米国の軍産学複合体の「最先端融合科学」研究による、さまざまな新兵器開発をスクープしてきた。今年に入ってから、しかもその中のごく一部を取りあげるだけでも、以下のようなものがある。
・ネバダ核地域を警備する自律型ロボット
・超音波で脳を制御:米軍の研究
・米軍の外骨格スーツ『HULC』
・「瞬かない目」:サッカー場大の軍用飛行船、建造中
・ゴキブリを軍事利用:米軍の計画
・嘘を見抜く「直観」を利用するシステム:米情報機関が開発へ
こうした「研究開発」が、・米国の「全世界即時攻撃」計画と、「核戦争の危険性」の下で行われ、実際にそれが対テロ戦争に実戦利用された場合には、・米国無人機の空爆は戦争犯罪か:議会公聴会の議論 という国際法上の問題を生み出してきた(いる)のである。
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断言してもよいが、産官学連携路線は、必ずや日本における軍産学複合体へと「発展」する。理・工・医の「融合先端科学技術」分野に先導されるかたちで、人文・社会科学系が続くのである。戦前の日本の(旧帝国)大学制度は、戦後の米国の軍産学複合体のミニチュア版のような日本型「軍産学複合体」の「頭脳」を担っていたのであるから、それは「発展」というより退行である。その退行は、かなりの速度ですでに進行しているのである。
占領統治終了後の大学制度は、「戦犯」追放と「民主化」が定着する間もなく、「赤狩り」の嵐が吹き荒れ、結局は官僚機構がそうであったように戦前の旧帝大体制を実態的に支え、生き残った「中堅」どころの学者連中がそっくりそのまま古巣に戻ってくるという体制から出発する。そしてすぐに日本は、「民主化」の「逆コース」(本来のコース?)の再軍備を開始する。1951年には旧安保条約を、1954年には日米相互防衛援助協定を結び、その次には自衛隊ができ、戦前の核兵器開発研究の蓄積をベースに原子力開発を開始し、1960年に安保を「改定」する。
東大で行った「自主講座」を基にして1970年代半ばに出版された、宇井純と生越忠による『大学解体論』(亜紀書房、1975)。この書は、1960年代までの日米安保体制の下で、慶応、東大、京大の医学部、そしてその他の大学が米軍からの資金援助を受けた研究プロジェクトを行っていたことを暴き、旧帝国大学を中軸とする大学制度の解体を主張した。
しかし、「公害原論」を自主講座で行った宇井の主張は、「大学解体論」もろとも、アカデミズム主流からは完全に黙殺された。当時、とある公立高校の理数科の生徒だった〈私たち〉が「自主講座」に熱い視線を注いでいたことを思い出すが、このブログの読者で『大学解体論』を知らない人は、街や大学の図書館で借り出し、ぜひ読んでみてほしい。実にリベラルかつモデレートで、まっとうな正論を述べていたことがわかるはずだ。
あるいは、中山茂の名前をここで挙げてもよい。中山の一連の科学/科学技術批判論も、戦前の天皇制国家主導の上からの「軍産学複合体」の現実とその末路を自ら体験したが故に、大学研究において「アカデミック・フリーダム」の理念を守るというパトスに立脚した仕事だったのかもしれない。その中山の「弟子」として、『テクノトピアをこえて 科学技術立国批判』(1982、社会評論社)、『科学文明の暴走過程』(1991、 海鳴社)等々を著した吉岡斉なども、中山と同じく「軍事と産業からのアカデミズムの自律/自立」というモメントは立論の前提としてあったのではなかったろうか。さらには、高木仁三郎等々の仕事を指摘することもできるだろう。
詳しくは立ち入ることができないが、大学研究・教育(サービス)のグローバル化と自由化という「縦軸」と、「安保の再定義」の再定義⇒対テロ戦争⇒「世界の中の日米同盟」路線⇒日米共同研究の新段階への突入という「横軸」が交差する歴史過程と軌を一にして起こった「法人化」⇒産官学連携路線の下で、「学問のための学問」論の幻想を暴く「学問」ばかりでなく、今大学で行われている「学問」そのものを根本的に問う「学問」までもが大学の現場から姿を消そうとしているのかもしれない。
早い話、日本版「鎖につながれた大学――軍産学複合体に抗して」が、なぜ今、日本のアカデミズムの内部から出てこないのか? このことが日本の大学研究のリアリティを何よりも物語っている、と言えるのかもしれない。
「象牙の塔」ならぬバベル(混乱)の塔の中で起こっている事態は、普通の市民・納税者・「保護者」が想像する以上に深刻そうである。
参考サイト
イノベーション創出に向けた新たな科学技術基本計画の策定を求める ((社)日本経済団体連合会 2010年10月19日)
新たな防衛計画の大綱に向けた提言 (同上、2010年7月20日)
国家戦略としての宇宙開発利用の推進に向けた提言 (同上、2010年4月12日)
わが国の防衛産業政策の確立に向けた提言(同上、2009年7月14日)
弾道ミサイル防衛技術に関する日米技術協力 (2009年11月10日 pdf)
「批評する工房のパレット」内関連ページ
⇒「大学とNGOの「社会ダーウィニズム」について」
⇒「国家(戦略)とNGOの「利益相反」--JPFという「プラットフォーム」がいったん解体されねばならない理由
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